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第二夜 四日目のやわらぎ

名は鍵で、呼び声は糸だ。

ほどけた世界は、夕刻の縫い目でやっと結び直る。


001


 四日目は、朝から世界が慎重だった。

 慎重――という擬人化は、語り手の怠慢だと誰かに叱られそうだが、実際、窓の外の雲は脚音を忍ばせ、掲示板の紙は呼吸を止め、スマホのアラームは発音練習に失敗した外国人みたいな顔だけをしていた。

 つまり、今日が決算日であることを、世界の側も知っている――ふうを装っている。


 僕は登校して、まず自分の名前を骨の内側で三回唱えた。ゼロチェック。僕はまだ僕だ。少なくとも、母音の数は昨日と同じだ。欠け落ちた音がないことを確認してから、机に突っ伏して二時限分だけ眠る。起きたら昼。静間りんは窓際でノートをめくっていて、ページの端に「四」と書いてから、わざと一画足して「五」にして、それを斜線で消して笑っていた。声は出ない。けれど、今日の彼女の笑いは、昨日よりも濃い。


 【封音手順案(仮→本番)】

 1.名を呼ぶ(正確に三回)

 2.呼び声の間、鈴に触れない

 3.彼女が一音だけ返す(返せなければ、僕が一音貸す)

 4.貸し借りを三日繰り返す(完了)

 5.四日目、やわらぎ鈴の名で仕上げる(夕刻/川)


 ここまで来て撤回は卑怯だ。プロに投げる誘惑は、財布の薄さと同じくらい常につきまとうが、約束はもっと薄くても破ってはいけない。薄い約束は、薄い紙と同じで、破りやすく、しかし破った裂け目は一生目につく。


 放課後、僕らは校門で目を合わせて頷く。言葉は要らない。いや、要るのだが、要るけれど出ないのだから仕方がない。代わりに足音を揃える――足音は、まだ戻っていない。戻っていないのに、揃えるふりだけはできる。ふりというのは、たまに本物と同じ効力を持つ。青春の魔術の基本だ。


002


 浅野川の水位は、昨日よりほんの指二本ぶん高い。梅ノ橋の欄干に寄り、夕刻を待つ。雲の裂け目から落ちてくる光が薄くオレンジ色で、鈴の銀色に琥珀の膜を塗る。

 りんがスケッチブックを開く。


 〈怖い?〉


「少し。でも、怖がる順番は守るつもり。先に君が怖がるべきなら、僕はあとで怖がる」


 〈順番のルール、好き〉

 〈じゃあ先に、私が怖がる〉


 そう書いて、彼女は胸の前で鈴を包む。触れない。包むのは空気だ。僕も呼吸を整える。骨の内側に、音の椅子を並べるつもりで。


「始めよう」


 僕は彼女から半歩だけ距離を取り、目を閉じて――名を、呼ぶ。

 ひとつめは、川面に吸われないよう、浅く。

 ふたつめは、彼女の肩の高さに沿わせて。

 みっつめは、骨の内側で弾ませる。


「りん」


 鈴は、揺れる。雨は、落ちる。稲妻は、光る。

 音は――まだ来ない。

 けれど、さっきまでとは違う「まだ」だ。薄い膜のこちら側に、刃物の背で撫でられているような、輪郭の疼きがある。りんの喉仏がほんの少し上下して、唇が一音分だけほどける。


 「…ん。」


 声というより、文字の最後の点。句点の発音。

 それだけで、鈴が、内緒話のように鳴った。


 ちり。

 ――ちりん。


 増えた。厚みが。音の断片に、尻尾がついた。

 世界の端で、紙が破ける音に、糸が通り始める。僕は頷く。りんも頷く。頷きが三往復したところで、次の段に移る。


「やわらぎ鈴」


 僕は、名を与え直す。今度は声を使わない。骨伝導だけで、鍵穴の形をなぞる。鈴の縁が、薄く息を吸う気配を作る。りんはスケッチブックに素早く書く。


 〈返す〉


 返ってきたのは、僕の貸した「一音」そのものではなかった。

 くぐもった破裂音。胸骨の奥で弾ける微細なパーカッション。声帯の手前で生まれて、声帯を使わずにやさしく消える音。名前の外側に滲んだ、匿名の一音。

 世界はそれを、受け取る。

 最初に戻ったのは、雨だった。

 ぽ、と、ひとつ。

 そのぽが、次のぽを呼び、ぽぽ、と二重になる。三つ目のぽは、ぱ、に近い。四つ目は、ぱら、の未満。

 雨音のアルファベットが、音楽室のチューナーみたいに目に見える。僕は笑いそうになって、笑い声が出ないことを思い出して、それでも笑う。


 〈まだ〉と、りん。

 〈名前〉


 彼女は自分の胸の前で、そっと指先を重ねる。僕は深呼吸をしてから、あくまで慎重に――三度、呼ぶ。


「りん。静間りん。静間りん」


 名を呼ぶことは、名を編み直すことだ。

 名を呼び過ぎると、編み目が伸びる。

 少なすぎると、ほどける。

 今日は、ぴったりで行かなければならない。


 鈴が鳴る。今度は、ちりん、の後に、余韻が一拍分だけ伸びる。

 世界は、蝉を思い出す。

 みん。

 単音から始まる蝉時雨。群れの合唱になる前の、発声練習。

 校舎の向こうで、警報のスピーカーが咳払いを――しそこねる。まだ機械は戻らない。自然が先。生き物が先。機械は最後。世界はそういう順番が好きだ。


003


 ここで欲張れば、たぶん、すべてが逆流する。

 欲張りは、怪異の唯一の栄養だからだ。

 僕は一度だけ拳を握ってから、手のひらをひらく。貸し借りの帳尻を、ここで締める。


「次は、僕の番だ」


 僕は自分の名前から、ひとつだけ、音の端をちぎって差し出すことにする。名乗るのは危険だ。けれど、まだ誰にも正しく名乗ったことのない僕の名前から、貸し出す分くらいなら――骨の内側だけのやり取りなら――どうにかなる。

 名は鍵。鍵には合鍵がある。合鍵は、貸し借りのたび、すこしずつ歯が摩耗する。

 摩耗は、優しさの副作用だ。なら、多少は摩耗してもいい。


 (……)

 僕は、音にならない音で、自分を名指す。

 りんの目がすこしだけ見開かれて、鈴は触れられぬまま、確かな半音を得る。

 ちり、の後ろに、ん、が尾を引く。

 世界は、風鈴を思い出す。

 川沿いの家の軒先で、ゆれる透明。ガラス同士が軽く触れる音。

 ちり――ん。

 音は、戻る。

 戻りながら、戻り過ぎないよう、慎重に歩く。

 僕らは見守る。

 見守ることしか、しない。

 それが、手順。


 やがて、校内放送が「テスト」と唇だけで言った後、ためらいがちに一音だけ鳴らした。

 ピー。

 長くは続かない。続かないから、希望の音量がちょうどいい。

 雨は、本格的に音楽を始める。

 ぱら、ぱらら、ぱららら。

 蝉も、合流する。

 みんみん、じじじ、じ――。

 音が戻るに従って、僕の胸の中の緊張が、逆に静かになる。うるささは、安心の別名だ。


 〈最後〉と、りん。

 〈やわらぎ、仕上げ〉


 僕は頷く。三度頷いてから、彼女の鈴に、やわらぎの名を通す。

 やわらぎ鈴。

 それは、母親の形見であること。日常の装身具であること。守りでも呪でもない、ただの鈴であること――ただ、彼女にとってだけ、必要な時にだけ、やわらぐこと。

 名付けは、祈りの別表記だ。


 鈴が、鳴った。

 ちりん、と、ひとつ。

 そして、だまる。

 世界は、黙して、聞く。

 消える音は、ない。

 戻り過ぎる音も、ない。

 針と糸は、縫い目の上で止まった。


004


「……終わった?」


 僕が口に出してみると、自分の声がちゃんと音になった。安心と不安が同時に胸に落ちる。音は戻ったが、確認は別の工程だ。

 りんはスケッチブックに、大きく、ゆっくりと書く。


 〈ありがとう〉


 それだけでは足りないと思ったのか、もう一行。

 〈返しきれないから、返し続ける〉


「返し続ける借り、って、もうそれ返ってるんじゃないか」


 〈論理よりも、飛ぶ〉


 彼女はいたずらっぽく目を細める。二人で橋を離れ、商店街へ向かう。途中の神社で、昨日は触らなかった大鈴に、礼だけしていく。今日は鳴らさない。鳴らせるけれど、鳴らさない。鳴らせるのに鳴らさない権利は、鳴らす権利より尊い――という気がする。高校生あるあるだ。


 道すがら、町内放送が「本日の避難情報は解除」と告げ、遠くの自転車が正しく軋み、信号機がピヨピヨと鳴き、喫茶店のドアベルが軽やかに迎えてくれる。

 音のある世界は、うるさい。

 うるさい世界は、やさしい。


 コーヒーを飲みながら、りんがスケッチブックを逆さにして、最後のページを僕に見せる。日記のような、覚え書きのような、祈りのような文字列。その端に、小さくメモがある。


 〈余波:教室チャイム、まだ死んだふり〉


「死んだふりって、いい表現だな」


 〈機械は、信心が薄いから〉


「機械に偏見を持つな」


 けれど、事実、翌朝の始業チャイムは一瞬だけ沈黙してから、思い直したように鳴った。鳴らし方を忘れていた子どもが、記憶を探り当てるときの遠慮がちな音量で。完全回復ではない。完璧は、物語の居場所ではないから、これでいい。


 その日の放課後、僕の机の中に封筒が入っていた。差出人不明。表に、几帳面な楷書で、こうある。


 【貸音清算 完了確認】

 【副作用:一音欠落(自覚薄)】

 【必要なら相談を――古本屋・黄昏堂】


 黄昏堂。噂の古本屋。怪異解体相談なんちゃらの看板を掲げている店。

 僕は封筒を閉じ、引き出しをそっと戻す。

 相談に行くかどうかは、いま決めない。いま決めるには、青春の在庫が多すぎる。

 りんに見せるかどうかも、いまは保留だ。借りは返し続けると言った。なら、僕の方も、少しだけ借りたままでいてみよう。貸し借りの均衡は、完璧よりも、揺れている方が落ち着くことがある。


 帰り道、彼女は鈴を指先でつまみ、わざと何もしない。

 何もしないのに、鈴は、夕暮れの風と仲良くして、ちいさく、ちいさく、ちいさく鳴る。

 ちりん。

 それは世界の音ではなく、僕ら二人の、合言葉みたいな音だ。

 聞こえるかどうかは、耳ではなく、心に尋ねる種類の音。

 僕は頷き、彼女も頷く。頷きは、言葉よりも早い。

 錯綜していた夜話は、ひとまず結ばれた――結び目は、わざとほどけやすくしておく。次にほどくために。次に結ぶために。


 ――静けさは、ときに騒音よりもうるさい。

 けれど、うるさくていい夜もある。

 僕は、そう信じることにした。次の断章が、僕らの知らない名前でドアをノックする、その夜のために。

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