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第十二夜 指切りはいらない ― 蝉の恋、七日に満ちる ~とある奇妙な物語へのオマージュ~

001


ピエロのオルゴールは、渡しそびれたままポケットの底で重くなっていた。薄い金属の箱は体温を吸い、沈黙だけを増やしていく。昼の公園は、木陰と陽だまりが等間隔に落ちて、ベンチの背もたれには前の人の体温がかすかに残っている。風は乾いているが、草の匂いは湿っていた。振られた直後の心は、日差しのように丁寧で、影のように雑だ。何をしても、何もしていない気がする。


 黒い布が視界の端で止まった。喪服の少女が立っていた。背丈は小学生、顔には泣き腫らしたあとの赤みだけが残っている。袖口の白い縁取りが、彼女の肌より冷たそうに見えた。こちらを見るまなざしは、助けを求めるというより、ただ観測している。世界のほうが彼女を見ている、という順序が逆転したときの目だ。


 声を出す前に、理由を探した。見知らぬ他人にかける言葉は、いつも遅い。けれど、ここで遅れると、今日が全部遅れる気がした。


「どうしたの」


 自分でも驚くほど小さな声だった。少女は、目を落とさずに答えた。


「お母さんが死んじゃったの」


 言葉が、空気の上をそのまま滑っていった。慰めは、いつも正しくない場所に落ちる。ポケットの中のオルゴールが、唯一の具体だった。手の中の重さは、沈黙の代わりに回る手段だ。


「これを、あげる」


 蓋を開けると、短い旋律が、風に運ばれて薄く伸びた。彼女は両手で受け取り、旋律が止まる前に蓋を閉じた。


「お礼に、ウサギのぬいぐるみをあげる。来週、この公園で」


 約束の形を作ろうと、僕は指を差し出した。指先には、今朝まで別の手の温度の記憶が残っている。少女は首を横に振って、僕の手を包んだ。


「必要ない、あなたを信じるわ」


 子どもの手は、温かい。温度に理由はいらない。彼女は踵を返し、喪服のまま軽い足取りで、陽だまりと木陰を均等に踏んでいった。黒い布が揺れるたびに、風向きがひとつ決まる。


 翌週の約束は、翌週の予定のどこにも書き込まれないままだった。書き込む前に別の予定が入り、予定は予定のまま膨らんで、肝心な中心が抜けた。駅前の映画館で待ち合わせをして、席に座る前にポップコーンの匂いに酔い、音が大きすぎる予告編で自分の心拍を見失いかけたとき、通りの屋台が並ぶ角で白いものが跳ねるのが見えた。ウサギ。綿の白は、黒い喪服に対になる色だ。忘れていた約束が、視覚の明るさで脳に刺さる。遅れるという言葉はいつも間に合っていない。僕は同行の彼女にうまく説明できないまま、別の方向へ歩いた。笑顔は、こういうときに役に立たない。


 公園の緑は、先週より濃かった。ベンチの影は短く、噴水の水は風で斜めに折れている。喪服の少女の代わりに、十八歳ぐらいの女性が立っていた。黒は黒のままだが、喪服ではなくなっている。形は同じで、意味が変わっている。目の縁の赤みは消え、頬には日差しの色が載っていた。髪は肩で切れていて、風の強さの分だけ揺れる。少女と同じ高さの視線を持ったまま、体だけが伸びたみたいだった。


 姉、だと最初は思った。似ている、というより、同じ線を違う速度でなぞった顔だったから。近づくと、彼女は鞄からウサギのぬいぐるみを出した。毛並みの白は屋台のそれより少しくすんでいて、抱かれていた時間がある。鼻の刺繍は少し歪んでいる。縫った手の癖が残る歪みだ。


「来週、また」


 彼女は短く言い、僕は指を伸ばした。指切りの形は、たぶん子どもの安心にしか効かない。それでも、大人の不安にも、形のある予告は効く。そう信じたかった。


 けれど彼女は、先週と同じ動きで僕の手を握った。


「必要ない、あなたを信じるわ」


 声の高さが違う。同じ言葉でも、今度のそれは、喉の奥行きが深かった。握られた手の温度は、先週のそれと同じだった。彼女は軽く身体をひねると、芝生に絡むような足取りで去っていく。スカートの裾が空気の層を切り取り、陽の粒がそこだけ曇る。スキップという子どもの動作は、年齢を選ばない。足の裏が覚えている。


 次の週は、約束を忘れなかった。忘れられないほうが、怖いと理解したからだ。公園は同じ公園だったが、彼女は同じではなかった。二十代に見えた。黒は黒のまま、喪服から黒いワンピースへ、さらに日常の衣服へと、意味が遠のいている。肌の色は、前回より白く見えた。座るときの膝の角度が、子どものそれではなくなっていた。唇に乗る色は、表情に合わせて濃さを変えた。音の届き方が、僕に近い。


 どこかへ行くことにした。決めないと、何も始まらない。彼女は店を選ばなかった。僕が選んだ店に、彼女は自然に入った。椅子に座ると、背筋はまっすぐで、手はテーブルの縁を探らない。メニューは長く見ない。頼んだ料理はよく食べ、飲み物はよく残した。話すときの目は、近過ぎず、遠過ぎない。


「これが、最後の食事になるかもしれないじゃない」


 食器の触れ合う音に紛れて、彼女は無邪気に言った。唐突に見えるけれど、彼女の言葉には必ず理由が遅れて追いつくと、すでに知り始めていた。最後、という言葉を、冗談の単語棚から現実のものに降ろすとき、人の声は少し高くなる。高くなって、すぐ戻る。戻るのが、上手い。


 食事は、食事として終わった。デザートの冷たさは、喉より先に胸の中の温度を奪った。支払いのとき、彼女は財布を出さなかった。出さない理由は、翌日に持ち越される。別れ際、僕はやはり指を伸ばした。形のある予告は、責任の形にもなる。彼女は指を見て、顔を上げ、笑わなかった。


「来週じゃ遅いわ。明日会えない?」


 返事は、用意されていなかった。用意されていない言葉のほうが、正しいこともある。頷くと、彼女はわずかに息を吐いた。その吐息は、今を肯定するためだけに出る種類の音だった。


 帰り道、ウサギのぬいぐるみの手が、鞄の中でこちらを向いていた。縫い目は、最初に見たより少しだけ粗く見えた。糸の端は、誰かの指の湿り気を覚えている。家に帰ると、オルゴールの蓋を開けてみた。旋律は短く、最後には必ず止まる。止まることが約束されている音は、安心でもあり、残酷でもある。明日は来る、と信じるためには、止まる音を何度も回す必要がある。ゼンマイを巻く手は、いつか痛くなる。痛みは合図で、証拠ではない。


 夜の静けさは、昼のざわめきより騒がしい。彼女が明日と言った明日が、同じ速さでこちらに来るとは限らない。速いほうが、遅れることもある。遅いほうが、先に着くこともある。眠る前に、僕は手のひらを見た。握られたときの温度は、まだ残っていた。温度は、理由より長持ちする。


 明日、という単語を、予定帳に書かなかった。書く前に、明日が来るのを確かめたかったからだ。書くと、嘘になることがある。書かないと、忘れることがある。どちらも、正しい。どちらも、間違っている。僕は電気を消した。暗闇は、目を閉じたほうが明るい。


 待ち合わせの場所は、あの公園でも、別の場所でもよかった。彼女にとって、約束の座標は、地図上の点ではない。人の手の温度で決まる。翌日、彼女は昨日よりも少しだけ年上に見えた。昨日の彼女を、今日の彼女の中に探す作業は、見つけることより、見失わないことのほうが難しい。黒いワンピースは、喪服の名残を完全には捨てていない。彼女は笑わなかった。笑わない代わりに、よく歩いた。歩くとき、腕は身体の近くを通る。手を伸ばせば触れられる距離だが、伸ばさない。伸ばさないことが、触れることより近いときがある。


 ベンチに座ると、彼女は自分の足元を見た。靴は新しく、踵の減りはない。けれど、足取りには、もう昨日本人の軽さは残っていない。軽さは、軽やかさの条件であって、幸福の条件ではない。幸福は、重さを持てないと成立しない。重さを持つのは、いつも手だ。だから、僕は手を握る瞬間を先延ばしにした。先延ばしは、逃避ではない。時間を丁寧にする方法のひとつだ。


 彼女は名前を言わなかった。言わないことが、いちばんの名前である場合もある。名乗るのは、別れを予告する手段でもあるから。僕は自分の名前を言った。自分の側にしかできないことを確定するために。彼女は頷き、自分の名前を言った。ヒロコ。口に出すと、音が思っていたより短い。短い音は、呼吸に頼る。呼吸は、止めるより続けるほうが難しい。


 オルゴールの旋律を、ここでは鳴らさないほうがいいと感じた。音は、今を形にしてしまう。今を形にすると、次が怖くなる。彼女はウサギのぬいぐるみの耳を撫で、目の刺繍の歪みを直そうとした。直らない歪みは、直らないと確定することで、形の内側に戻る。外に出ているときだけ、脅威だ。


 夕方の光が傾いて、木漏れ日が地面に穴のような影を作った。穴は覗き込むと深くない。足を滑らせると深い。僕らは立ち上がった。歩幅は、昨日と同じにしない。明日に合わせるために、今日をずらす。手のひらは、まだ使わない。使わないことで、使うときが来る。使うときが来れば、たぶん、そのとき、僕のほうから手を出す必要はない。彼女は、きっと握ってくる。握る前に、信じると言うだろう。


 「必要ない、あなたを信じるわ」


 最初のその言葉を、僕はもう二度も聞いている。次に聞くとき、僕は信じられる側から、信じる側へ、静かに立ち位置を移すのだと思った。信じることは、約束よりも重い。重いものは、落ちる。落ちるものを、持ち上げ直す手が必要だ。手は、ここにある。


002


 翌日の約束は、約束というより、時間の並べ替えだった。放課後の空きは、放課後のままではもう足りない。昼休みを削り、朝の通学路を少しだけ遠回りにする。遠回りは、無駄ではない。必要な寄り道だけが、時間の輪郭をやわらかくする。彼女は“来週”という単語を使わなかった。“明日”か“今日”だった。明日と今日の差は、呼吸の回数でしかない。


 喫茶店では、砂糖の小袋を開ける音が静かに響いた。彼女はコーヒーに砂糖を入れず、代わりにスプーンでしばらく表面を撫でた。甘くしない撫で方は、意味を決めない保留の所作に見えた。僕は砂糖を一つだけ入れ、スプーンを立てずに横に置いた。金属同士が触れて出る高い音は、会話を分断する。分断は、ここでは向いていない。


 映画館では、暗闇に入る前に手の甲が触れた。触れてから離れるまでの距離が、昨日より短い。彼女は肘掛けを使わず、両手を膝に置いた。膝の角度は、足音の静かさと比例する。上映中、彼女は笑わなかった。泣かなかった。表情は、光の変化に合わせてわずかに動いた。感情は、見せるものではなく、残すものだと知っている人の顔だった。


 公園では、ベンチの端に並んで座った。間は、ひとり分。ひとり分の間は、不足でも過剰でもない。ウサギのぬいぐるみは彼女の鞄から顔を出し、いつも同じ方向を向いていた。縫い目の粗さは変わらない。糸の色は少し褪せた。褪せるのは、汚れではない。時間の通り道が可視化するだけだ。


 翌日、その翌日も、会った。会う理由は増やさない。会う場所は減らさない。増やさず減らさず、ただ続ける。続けることは、耐えることとは違う。続けるために、余分を捨てる。捨てるたびに、残ったものが少し強くなる。強さは、声には出ない。歩幅に出る。


 休日の午前、街はまだ起ききっていない。シャッターの半分だけ開いた店先に、光の薄切りが置かれている。ブティックの前で彼女は立ち止まり、ガラスの向こうを見た。開店前の鏡は、誰のためでもない。誰のためでもない鏡は、いちばん正確だ。


 店内に入ると、店員は挨拶を控えめにした。布の匂いは新しく、金属のハンガーが擦れる音は細い。彼女は黒ではない服を、初めて手に取った。薄い灰色のワンピース。喪服から遠ざかる色。遠ざかることは、裏切りではない。別の場所に休むための動作だ。試着室のカーテンが動く。音は出ない。布は、秘密の重さを吸収するようにぶ厚い。


 鏡の前に立った彼女の時間が、一段だけ速くなった。鏡は、思い込みを薄くする。薄くなったところに、真ん中の線が出る。頬の下に薄い陰、目の下にごく細い皺、口角の休み方が昨日より深い。数値に直せない差だが、映像としては明らかだった。彼女は顔を傾け、角度を変え、笑おうとして、やめた。笑おうとした筋肉の記憶だけが鏡に残り、やめたほうの彼女は、鏡の中で年を取った。


 「似合う」と僕は言わなかった。似合うは、ここで使うと嘘になる。嘘は、今のためではなく、次のために慎重に使うべきだ。彼女はワンピースの裾をつまみ、指先の白さを見た。その白さは、血の退き方の白さだった。白は、きれいで、怖い。


 試着室に戻る足取りが、ほんの少し速くなった。カーテンの向こうで布が裏返る音がし、金具が弾む小さな音が続いた。彼女は黒に戻り、鏡の前に再び立った。黒は、彼女を守る。守るから、退路にもなる。表情は、戻らない。戻らないものを、戻らないまま持って出ることが必要なときがある。


 店を出てから、彼女は言葉を重ねなかった。重ねない沈黙は、非難ではない。非難は、音で作る。彼女の沈黙は、段取りの沈黙だった。段取りが終わる位置まで歩き、横断歩道の白を一列だけ踏んだところで、止まった。信号はまだ青だった。青の途中で止まるのは、勇気の形でもある。


 「今日は、ここまで」


 短い文。句読点の位置に迷いがない。迷いがない言葉は、事実のほうだ。感情は、言葉の外で揺れる。揺れ方は、手の温度に出る。握ればわかる。握らなければ、わからない。彼女は握らなかった。僕も、握らなかった。


 翌朝、雨が街を均一に叩いた。舗道の水は流れず、小さな湖をいくつも作り、信号の色は表面で歪んだ。雨は、事情を単純にする。濡れるか、避けるか。僕は避けなかった。彼女の家の前に立ち、呼び鈴のボタンを押す。音は家の中に消えた。返事は来ない。来ないことが、答えである可能性は高い。高いが、充分ではない。もう一度押す。もう一度、雨。玄関のポーチの屋根は小さく、風向きが変わると役に立たない。肩口から冷えていく。冷えると、手の震えは、自分のものではないように見える。


 長くは呼べない。呼び続けることは、たいてい、呼ばれないことの証明になるだけだ。けれど、証明も、必要なときがある。明日が来るための前提として。呼ぶのをやめ、帰ろうとした瞬間、玄関の鍵が内側から動いた。動く音は、雨の音の一部のように聞こえた。扉は開かない。鎖のかかった隙間が、そこに在るだけだ。隙間には、横顔が一つぶん、入らない。


 「ごめんなさい」


 声は雨より細い。細い声は、遠くへ届かない代わりに、近くに深く入る。僕は返事を作りかけ、作らないことにした。返事は、相手にとっての作業だ。僕の作業は、ここにいることだ。


 「言わなきゃいけない。わたしは、速いの」


 速い、という形容は、通常は肯定の側にある。ここでは違う。ここでの速さは、消耗の別名だ。彼女は言葉を選び、選び直し、短く繋いだ。母親のこと。自分が生まれてから、年齢が追い越していく感覚。七日で十年の単位。蝉の話。地上に出て、歌って、終わる。ただ、それだけ。


 「だから、昨日を今日に伸ばすように、明日を前に引きたかったの。来週は、わたしのほうが遅いの」


 意味は、感覚に先行しない。感覚は、意味を必要としない。けれど、ここでは意味が必要だった。意味がなければ、今日の雨が、ただの天気になってしまうからだ。僕は扉の隙間に向かって、呼吸の速度を合わせた。彼女の呼吸が早くなれば早く、遅くなれば遅く。合わせることは、侵入ではない。共振だ。


 「別れよう。綺麗なままにしておきたい」


 綺麗、という言葉は、記憶の側の単語だ。現実は綺麗にならない。綺麗に見えるときは、必ずどこかで何かが眠っている。僕は眠らせたくなかった。眠らせないと、壊れるかもしれない。それでも、眠らせないことのほうが、いまは正しい。正しいことは、優しくない。


 「今までも、これからも、変わらず一緒にいる」


 扉に額をつける。冷たさが、額と文章をゆっくり接続する。彼女は黙り、そして、鎖が外れる音がした。外れたからといって、開くとは限らない。開いた。空気圧で、ふわりと。彼女はそこにいて、昨日より、少しだけ年上だった。頬の陰は深く、目の光は速い。速い光は、痛い。痛いけれど、直視できる。直視できるものだけが、これからの材料になる。


 僕は彼女を抱いた。抱くのは、約束を言い換える動作だ。手の置き方は、肩ではなく、背中。背骨の一本ずつに確認の圧を配る。強すぎない。弱すぎない。雨の音は、前より遠くに行った。遠くに行った雨は、やがてやむ。やむ前に、ここで呼吸を合わせる。呼吸が合えば、速度は同じにならなくても、向きは同じになる。向きが同じなら、速さは脅威ではない。


 その日から、時間はさらに実務的になった。会うことは、待つことではなくなった。待つ代わりに、並ぶ。買い物では、彼女は黒を選び、黒を選ばない日もあった。選ばない黒は、彼女の中に残っていた。夜、オルゴールは短く鳴り、必ず止まった。止まるたびに、巻き直した。巻き直す回数が増えるほど、ゼンマイは固くなる。固さは、抵抗ではない。積み重ねだ。


 彼女の歩く速度が落ちた日に、僕は歩幅を小さくした。小さくするのは、妥協ではない。調律だ。手を握ることが増えた。増えたからといって、当たり前にはしない。握るたびに、最初の温度を思い出す。思い出せなくなる前に、思い出す。思い出すことが、約束だったのかもしれない。


 そしてある午後、ガラスに映るふたりの姿は、遠目には祖母と孫のように見えた。近くで見れば、年齢は比喩でしかないとわかる。彼女は老いて、僕は若い。違いは、前提ではなく、条件だ。条件は、満たすためにある。満たせなければ、譲る。譲れば、空きができる。空きに、手を入れる。手の中には、まだ体温がある。体温は、理由より長持ちする。


 その先に何が来るかは、わかっている。わかっていて、書かない。書かないことは、逃げではない。書ける形になるまで、いまの形を丁寧にするための保留だ。蝉は、地上の七日を歌う。歌は、終わる。終わり方だけは、選べる。選ぶために、いま、彼女の歩幅に合わせて歩く。手を離さない。離す前に、握る。握る前に、信じると言う。言う前に、信じている。



003


 ぬいぐるみの縫い目は、ある日の夕方にほどけ始めた。鞄の中で糸の端が出ているのを見つけ、指先で押し戻そうとして、戻らないことがわかった。戻らないときは、確かめるしかない。腹の縫い目を少しだけほどくと、乾いた音がして、中から薄い紙と細い束が現れた。髪だった。細く、黒い。紙には短い文がいくつか、走り書きに近い癖で並んでいた。


 ——速さを怖れない方法は、速さを測らないこと。

 ——信頼は、証拠のいらない約束。

 ——触れると、遅くなることがある。手を放さないで。


 署名はない。けれど、文の呼吸は母親のものだと、誰でもわかる。折れ目の位置に、生活の気配が残っていた。畳まれて、持ち運ばれて、何度か読み直され、またしまわれた紙の温度。僕は紙をたたみ直し、髪束と一緒にもとの場所へ戻した。針は使わず、糸の端だけを絡め、仮の結び目を作った。仮は、終わりではない。続けるための形だ。


 街の角は季節を先取りし、影の濃さは僕らの歩幅に合わせて伸びた。ヒロコは黒を選ぶ日が減り、黒でない日の黒は、目の中に残った。鏡を見る時間は短くなった。短くなった時間は、外に出た。外は、歩く速度を選ばせない。信号の色、段差、手すり、ベンチの間隔。都市の設計は、老いる人のためにも若い人のためにも、等しく作られているわけではない。それでも、等しく見えるように整えられている。整えられているという事実が、いちばんの救済だ。


 ある日を境に、彼女の足取りは明らかに変わった。階段は避け、上り坂では僕の手のほうから先に出す。出し方は、過剰にしない。過剰は、侮辱に似るときがある。必要な圧だけを掌に乗せ、骨の位置で受ける。筋肉より骨のほうが、約束を守る。骨は嘘をつかない。嘘をつかないものに、手を預ける。


 オルゴールのゼンマイは、巻くときに小さく抗った。抗いは、壊れる前の合図だ。合図に気づくことと、気づいたことを騒がないことはセットだ。音は短くなり、それでも旋律は順序を崩さない。順序が崩れないかぎり、短さは欠損ではない。凝縮だ。凝縮は、終わりの準備に見えるけれど、実際は始まり直すための所作に近い。


 夕暮れの公園に戻った。最初の日と同じベンチは、塗り直され、表面のざらつきが均されたあとだった。雨をよく弾き、乾くのが早い。乾きの早さは、季節より管理の速度を示す。ベンチの向こうで、子どもが走り、誰かが呼び、犬が短く吠えた。音の層は厚いが、刺さらない。柔らかい重ね方を、今日の街は選んでいる。


 ヒロコは、もう一人で立ち上がるときに、肘掛けを使った。使うのは、恥ではない。道具に頼ることは、負けではない。負けという単語を、僕らはだんだん使わなくなった。勝ちもしないし、負けもしない。時間と、並ぶ。並ぶという動詞が、僕らの名詞になった。


 歩く。手をつなぐ。歩幅を、膝の角度に合わせる。足の裏の皮膚が拾う情報が増える。アスファルトの粗さ、タイルの継ぎ目、落ち葉の薄さ。段差の前では、一度止まる。止まることは敗北ではない。止まらずに崩れるより、止まって整え直すほうが、どの速度に対しても誠実だ。誠実という言葉は、こういう具体のためにある。


 ガラスに映る二人は、遠目には祖母と孫だった。近づけば、違う。近づかなければ、誰の人生も理解できない。理解できないなら、せめて、そばに立つ。そばに立てば、理解は二の次でよくなる。彼女の頬に触れる風は、夏と秋の境目だった。蝉は少なく、代わりに夕方の匂いが濃かった。蝉の季節はとっくに過ぎたのに、僕は蝉のことを考えた。考えるのは、いまのためではなく、いま以前のためだ。あの比喩は説明ではなく、彼女の自画像だった。自画像は、本人の外側に置かないと、掲げられない。


 オルゴールの蓋を開ける。音は、最初の日と同じ順序で、違う重さになって出た。ヒロコの指が、腕の中で小さく動いた。触れたところから、時間が遅くなる。紙の文にあった通りの現象が、現象としてだけ起きる。説明はいらない。説明は、あとでいい。いまは、音が最後まで行くことのほうが先だ。


 「きれいね」


 彼女が言った。声は細いが、遠くへは行かない。僕の胸のすぐ手前で、止まった。止まる場所を選べる声は、もう強さの定義から外れている。強いか弱いかではなく、近いか遠いかだ。近い。近いから、充分だ。


 ベンチから立ち、園路を半周する。手すりのある場所では手すりを使い、ない場所では僕の手を使う。僕の手は道具になり、道具はやがて形を変えて、習慣になる。習慣は、裏切らない。裏切るのは、期待だ。期待は、ほどほどにしておく。ほどほどの中に、すべてを入れる。全部を抱えたほどほどが、僕らの“最大”になった。


 帰り道、横断歩道の白は、昼間よりも明るい。街灯の位置が作る陰影は、足元をやさしく見せる。やさしい足元は、恐れを小さくする。恐れは消えない。消えないものは、小さくすればいい。小さくするには、手が要る。僕らには手がある。


 夜、彼女の部屋の窓辺に座り、オルゴールのゼンマイを巻く。巻き切る前に止めて、少し戻す。戻しすぎない。過不足の境は、今日すでに何度も練習している。音は短い。短いが、充分だ。充分という語は、どの時期にも存在する。多すぎるものは、いま欲しくない。


 ヒロコは眠り、呼吸が浅くなる瞬間の前に、僕の手を探した。探すという行為は、最後まで残る。見えるより、触れるほうが長く残る。触れられる間に触れておく。触れられなくなるときは、必ず来る。だから、今夜のこの瞬間を、使い切る。使い切ると、明日の分は減るわけではない。明日に回すより、今日を完了させるほうが、二人の速度に合っている。


 明くる日、雲は低く、風は止まっていた。外に出るのはやめて、室内の廊下を往復する。廊下は真っ直ぐで、段差はない。往復は一見無意味だが、足の裏と心臓に、弱い肯定を増やす。往復の回数は、数えない。数えると、足りないことが見える。足りないことを見ても、なにも改善しない。改善しない行為に時間を使わない。今日の時間は、今日だけのものだ。


 その翌日、彼女はほとんど眠っていた。眠りと目覚めの境に、彼女の時間は置かれている。境は危ういけれど、そこに置くのがいちばん安全だとわかるときもある。僕はオルゴールの蓋を開け、最後の一巻きを、そっと回した。音は出た。出て、進んで、ためらわず、止まった。止まり方が、美しかった。美しい止まり方は、音の側の礼儀だ。礼儀は、残された側への配慮でもある。


 窓の外の風が少しだけ動き、カーテンが、一枚のページのようにめくれた。めくれた先には、次の文がなかった。なかったけれど、文の余白には、前の文の余熱が残っていた。余白は冷えない。冷えないうちに、僕は彼女の手を、もう一度しっかり握った。温度は、まだそこにあった。


 夜が来た。夜は、昼の続きではなく、昼の裏打ちだ。裏打ちは、表より静かで、強い。僕は椅子を少しだけ引いて、窓のほうへ寄せた。風の具合で、オルゴールのケースの表面が冷える。冷えるのを確かめてから、蓋を閉じる。閉じるとき、最後に微かな響きが残る。残る音は、耳ではなく、指に入る。



004


 翌朝、公園へ行った。ベンチは同じ位置にあり、昨日よりも明るく見えた。ウサギの腹の仮の結び目はほどけていない。ほどけない結び目は、あとで本結びにする。針と糸は用意してある。手順は想像できる。糸を通し、端を斜めに刺し、布の肉を少しすくい、引きすぎず、緩めすぎず、最後に玉を作る。玉は裏側へ回す。表には出さない。見えないところに、いちばん確かなものを置く。


 ベンチに座ると、背もたれの塗膜越しに、木の硬さが伝わる。硬さは、重さの証拠だ。重さがあるから、座れる。座れるから、待てる。待てるから、思い出が生まれる。思い出は、うっすらとしか写らない。写らないから、消えにくい。消えにくいものは、ずっとは要らない。ずっとを求めると、いまが見えなくなる。


 誰かが横を通り過ぎた。露店でウサギを売っていた男かもしれない、と一瞬思い、やはり違うとわかった。似た人はいる。似た時間はない。似た時間に寄りかかると、足を取られる。足を取られないように、僕は足首を少しだけ締める。締めすぎない。


 喉の奥に言葉がひとつ、できていた。言うべきかどうか、一回だけ考え、言った。


「必要ない、信じてる」


 声は低く、遠くへ行かない。僕自身に届く距離で止まる。止まる場所は、最初の場所でもある。最初の場所に戻ったわけではない。最初の場所の意味が、上書きされたのだ。彼女が言った言葉を、僕が言い直す。言い直すことで、約束は交換され、信頼は、もう確かめなくてよくなる。


 しばらくして、風が強くなり、木の葉が二枚、膝の上に落ちた。片方は青く、片方は黄色い。季節は混ざっている。混ざり合う境目に、僕らは長く立っていた。長く、という形容詞は、いまではもう数値ではない。感覚だ。感覚は、嘘をつかない。嘘をつかない感覚に、僕は座り直し、ウサギの腹の結び目を一度撫でて、針と糸を取り出した。


 糸を通し、布をすくい、裏で玉を作る。小さな動作ひとつひとつが、今日という日の行に並ぶ。並んだ行は、読み返すことができる。読み返すために、丁寧に縫う。縫い目は表からは目立たず、裏からは確かだ。確かさは、目立たないところに宿る。縫い終えたところで、針山に針を戻す。針山は小さく、安定している。安定は、風の強さに負けない。


 ベンチから立ち上がる。足元の影は、朝より長い。長くなっても、歩幅は変えない。変えないことが、変わる条件を受け入れる所作になる。受け入れる所作は、悲しみではない。悲しみは、もっと直接的だ。直接的なものは、触れると切れる。切れるものは、包み紙を重ねて運ぶ。包む手つきは、最初にオルゴールを渡した日の手つきに似ている。


 帰り道、信号は青に変わり、横断歩道の白はさっきよりも白い。白すぎるものは、眩しくて見えない。見えないものは、いったん視線から外す。外して、近いものを見る。近いものは、手だ。手の中には、まだ体温がある。体温は、理由より長持ちする。理由が消えても、温度は残る。温度が残っているあいだに、やることをやる。やることは、たぶん、そんなに多くない。そんなに多くないことを、丁寧にやる。


 僕は家に戻り、オルゴールを机の上に置いた。蓋は閉じたままにする。開けないことが、開けることと同じ意味を持つときがある。単語帳の裏表紙に、三行だけ書いた。状況を言葉にする。短い間を置く。最後に礼で区切る。三行は変わらない。変わらなくていい。変わらないものが、ひとつあれば、変わるものと並べて置ける。


 窓の外で風が動き、カーテンがもう一度だけめくれた。今度は、余白が広かった。広い余白は、怖くない。書くべき文が、自然に浮かぶから。書く前に、深く息を吸い、吐く。息は見えない。見えないものを、信じる。信じる前に、言う。言ったあとで、黙る。黙ったまま、手の温度が落ち着くのを待つ。落ち着いたら、また歩く。歩幅は、もう決まっている。



ー完ー



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