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第十一夜 一日だけの拝み屋

東口の階段を上がった瞬間、昼の明るさよりも先に、洗い立ての匂いと昨夜の油の名残が鼻に残った。空気は軽いのか重いのか決めきれず、光は一度だけ強く跳ねてから、すぐ水平に均される。駅前広場の石はまだところどころ濡れていて、いけふくろうの台座から伸びる影は、サンシャインの方向へ細長い矢印になっていた。

鞄の中の図書館本は、背表紙が角ばっている。返却期限という文字が、紙ではなく肩に載っている感覚。今日は寄り道をしない——そう決めていたのに、台座の陰で配布の束を抱えた女子高生と目が合って、足は止まった。


「拝み屋のかたですよね」


反射で口が動く。


「違います」


言いながら、声が石張りの上で思ったよりも平らに広がっていくのを見て、言い切ったことを少し後悔する。彼女は一瞬だけ唇を結び、すぐに言葉を継いだ。前髪の隙間から覗く目は赤く、寝不足の気配と、形にできない不安の色が混ざっている。


「でも、ここで会えるって言われて。今日じゃないと駄目って」


「誰に」


「バイトの先輩の友だちの、そのまた知り合いです。名前は……聞けませんでした」


情報の薄さに、肩がほんの少し固くなる。けれど、彼女の腕に抱えられた紙束の角が皮膚に沈んでいる様子と、呼吸の浅さは、作り物ではないと告げている。


「症状は」


「昨日から胸が重いです。笑顔を作ると、重さが増える感じで。頭痛と吐き気も、少し」


「病院は」


「行くつもりでした。でも、まずここで“拝み屋さんに”って」


彼女はそこで言葉を切り、目だけで「本当に、違うんですか」と尋ねてきた。駅前の水たまりに雲が流れ込み、広告の色が歪んで揺れる。僕は返却期限のことをもう一度だけ思い出し、鞄の中から単語帳を取り出した。裏表紙に三行、弱い字でルールを書く。状況を言葉にする。短い間を置く。最後に礼で区切る。脇に小さく、「祓う=払う=支払う(対価=手間・間・礼)」。


自分の行動に理由をつけないと動けないタイプだ。つけ終われば動ける。


「拝み屋ではありません」


「……そうですよね」


「でも、できる範囲で手順は試せます。今日は、たまたま時間があります」


「助かります。ほんとうに」


「名前は」


「水無瀬ひとえ。高校二年です」


「綿貫凛太。一年です。ここに来いと言った人とは連絡が取れますか」


「番号は知りません。『ここにいれば来る』って」


「来なくても、やれることはあります。症状は“笑顔で重くなる”で合っていますね」


「はい。笑うたびに、胸の中で何かが引っ張る感じが強くなって」


「配布はいつから」


「昨日の午前からです。『笑顔でお願いします』って」


「笑顔が合図になっている可能性がある。いま、笑顔は作れますか」


「怖いですけど……やります」


彼女は口角だけを上げて、すぐ緩めた。わずかに肩が上がるのを確認する。周囲では、バスから降りた人たちが列を作り、アーケードの向こうからは開店準備の匂いが流れてくる。どこかの店員が看板を立て、布巾でガラスを磨く。光はガラスに広がって、歩道に移された文字は読み取れないまま、ただ明るい。


「ここは待ち合わせの広場です。見えない順番ができています。まずそれを整えます」


「どうやって」


「所作だけで十分です。札は使いません。受け渡しをゆっくりやって、短く間を入れる。あなたを“先”に置きます」


「料金は……」


「要りません。手間だけください。こちらの所作に合わせて動いてください」


「わかりました」


束の上から一枚を持ち上げるふりをし、彼女の視線を正面から受け取る。わざとゆっくり、短い間。礼は外には出さず、内側で区切りに使う。肩の高さが段階的に落ち、呼吸に深さが戻る。広場のざわめきは同じ音量のはずなのに、自分の耳に届く圧だけが半歩ぶん遠のいた。


「少し軽くなりました。ほんの少しですけど」


「積みます。次に、原因を切り分けます。昨日から今日にかけて、心当たりは」


「配布の場所が変わりました。人の多い通りに移ってから、重くなった気がします」


「では通りの端へ。水が残っている場所を探します」


歩き出す。アーケードの影は長く、看板の影と人の影が交差して、足元に薄い層ができる。そこを踏むと、靴底がわずかに軽い。湿ったタイルの匂い、換気の風、どこかで流れる冷房の空気。彼女の歩幅は僕より小さいが、呼吸はすぐにそろった。


「さっきは疑って、ごめんなさい。違うって言われたのに」


「正しい反応です。僕があなたでも、同じように確認します」


「本当に、拝み屋じゃないんですか」


「本当に、ではありません。図書館の本で、方法を見ました。今日は、それを使います」


「それでも、頼っていいですか」


「頼られている時点で、もう始まっています」


通りの端に水たまりが残っていた。浅いのに、映像は深い。雲が分解され、ネオンの色が伸び、ひとえの笑顔の形だけがそこに留まっている。本人が表情を緩めても、像は抜けない。水面の縁には、紙屑が密度の高い場所を作り、風に応じてわずかずつ移動する。


「残像は、順序の固定です。一度、反転させます。名前を逆順で心の中で読み、短く保って、戻す。それから、影を落として位置を浅くします」


「私の名前、逆に読むんですか」


「声には出しません。こちらでやります」


彼女の本名を頭の中で逆順に並べ、ひと呼吸ぶん保ち、正順に戻す。ハンカチの角をつまみ、光の上に小さな影を落とす。水面の緊張が少し緩み、波紋が均質に近づく。礼で区切る。ガラスに映る彼女の顎の線が、無理のない角度に戻る。頬の色も、少し戻った。


「軽いです。さっきより、はっきり」


「次は非常階段です。段が増えると感じたのは何度目」


「三度目です。数えるたびに増えて、怖くなって」


「構造上、段数は固定です。増えて見えるなら、順序が上書きされています。歩き方を変えます。等間隔を避け、足を置く位置と時間をずらす。偽物の段は、反力が違います」


「難しくないですか」


「僕が先にやります。真似してください。無理なら止まる。止まったら、また間を置く」


「……綿貫くん」


「はい」


「さっき、違うって言ってたのに」


言葉を探して、やめる。ここで理由を言語化すると、自分に嘘が混ざる気がした。彼女が必死だったこと。容姿にほだされたこと。否定して背を向けたときに残るであろう後味のしつこさ。どれも正直で、どれもきれいではないが、僕をここまで連れてきた力だ。


「返却期限、まだ間に合いますか」


「終わらせてから行けば、間に合います」


「お願いします」


非常階段は商業棟の裏側に張り付いている。踏面の端の黒ずみは、使われてきた時間の濃さだ。上に行くほど風が冷たくなり、金属の匂いが混ざる。彼女は深呼吸をひとつ。僕は歩幅を一定にせず、段に体重を置く時間を変えていく。足裏に伝わる反力のわずかな違いを拾い、偽物の段を避ける。最初ぎこちなかった彼女の足取りは、二、三段で安定した。増えていたはずの段は、数え直すと固定に戻る。


踊り場で水をひと口。喉の奥が冷えて、頭の熱が下がる。ガラス越しに見える空は薄く、風は屋上への通路から下りてくる。ここまでは、手順どおりだった——と、思ったところで、予定外がこの先に待っているのを、背中の温度で知る。

それでも今は、彼女の肩が自分の高さに追いついたことを確認し、もう一段だけ上がる準備をする。返却期限は、まだ頭の隅で点滅している。月曜の時間割は、遠くのほうで静かに並んでいる。どちらも、今日を終わらせる理由になる。


商業棟の裏手へ回る通路は、表の通りよりも匂いの層が薄い。厨房の排気と洗剤の残り香が断続的に交わり、金属の匂いがその上に乗る。通路は直線だが、照明はわずかに脈を打つように強弱があり、壁に貼られた避難経路図の線は、蛍光で塗られた部分だけがやけに新しい。床のタイルは半分だけ濡れていて、清掃用のスクイージーが引いた一本の線からこちら側が乾き、向こう側がまだ湿っている。乾き方が不自然に速い箇所があり、そこだけ色が少し浅い。こういう「線」はあとで役に立つ。頭のどこかに置いておく。


非常階段の扉は、押して開けるタイプ。取手の冷たさは想像より柔らかく、室内側の空気に重い匂いはない。鉄の手すりは胸の高さ、踏面は足の幅にやや余裕がある。段鼻の角は擦り減って、丸みがついている。上に行くほど温度が下がる設計だと、最初の一段で理解できる。


歩き方を変える。等間隔をやめ、足を置く位置と時間を微妙にずらす。踏んだときの反力のわずかな差で、偽物の段を見分ける。違和が出る段を避け、次に進む。最初はぎこちなかったひとえの足取りは、二、三段で呼吸と合い、肩の上下が安定してくる。僕は先を歩き、踊り場ごとに短い休止を入れる。休止は安全のためというより、今いる位置の確認のためだ。どの程度進んだかを数字に置き換えられる状態を保つ。数字に置き換えられるものは、戻りやすい。


壁のペンキは新旧が混在していて、古い層の上に新しい層が重なっている場所では光の返し方が違う。視界の端でちらつくこうした差は、集中が切れたときに足をとられる原因になる。見るべきものと見ないほうがよいものの選別を意識的に行う。手すりはあくまで補助。頼りすぎると、身体が「縦の」安心に傾いてしまう。ここで必要なのは「横の」安定だ。足を置く場所を常に一つ先で判断し、次の判断に身体を移動させる。視線は半歩先、意識は一歩先。


踊り場で、ひとえが壁にもたれずに深呼吸を一度だけする。声はほとんど出していないのに、呼吸と態勢の変化で、彼女が「まだ進める」と言っているのがわかる。ここまでに起きた変化は小さいが、連続している。少しずつ肩が下がり、顔の筋肉の余計な緊張が剥がれ、視線の固定が弱まる。剥がれて出てくる「普通」を安心と誤解しないように気を付ける。安心は、油断の前段階ではない。安心は、作業が進んだ証拠にすぎない。


階段を上りながら、昨日までの宣伝文句の断片が脳裏を横切る。笑顔、無限、ゼロ円、幸せ。短い言葉ほど長く残る。終わっていない表示は、空間の側に移る。階段は上下を強調する装置だから、「続き」の性質を取り込みやすい。だから、ここで終わらせる手続きを代理する必要がある。昨日までの期間を心の中で読み上げ、今日の日付を重ねる。手順を終える度に、内側で短く礼を入れて区切る。見た目には何も起きていないが、反力のばらつきは減り、数え直した段数は固定されていく。


金属の匂いが強くなり、肌の表面温度が下がる。上層の空気は乾いていて、汗の粘り気が薄くなる。呼吸は一定。心拍は濃度を保ったまま、回数だけがわずかに上がる。頭の中の「返却期限」という単語が、遠ざかったり戻ってきたりする。遠ざかるのは、いまの作業に集中できている証拠で、戻ってくるのは、今日という日を終わらせる動機の再確認だ。どちらも役に立つ。


踊り場の小窓の向こうに、屋上に続く階段が見える。光は薄い。空の色は均一ではない。建物の縁に沿って風が走り、空気の流れは一方向ではなく、渦のようにいくつかの方向へ分かれる。その境目では、温度が急に変わる。こういう境目は、判断を歪める。境目で足を止めない。境目をまたぐように、身体を前に出す。境界を跨ぐ所作は、それ自体が作業になる。


「大丈夫ですか」と小さく尋ねる。ひとえはうなずく。視線はまだ低めだが、足元にしか落ちていないわけではない。周辺視野で階段の形を捉え、次の段へ身体を運ぶ準備が見える。言葉は増やさない。この場では、言葉が多いほど、内側の配線に余計な信号が流れ、足の置き方に遅延が生じる。


階段の最上段に近づくにつれ、壁に貼られた注意書きの数が増える。矢印、非常口、立入禁止、案内板。文字情報は安心を供給してくれるが、過剰になると迷いの材料にもなる。必要な情報だけ拾い、その他は視界の外に押し出す。視界の外に押し出す技術は、現場ではとても重要だ。見ないことは、怠慢ではない。見ないことは、精度を守るための作業だ。


最後の踊り場で止まり、ハンカチの角を指でつまむ。さきほど見た清掃の一本の線を思い出す。乾きの速い部分と遅い部分。線は境界であり、流れの向きを示す。ここで四角を作るときの位置決めの参考になる。床の目地と照明の反射で最も安定した四点を選び、手の内だけで確認する。まだ置かない。置くと作業が始まってしまう。ここでは、まだ置かない。


扉の向こうは、展示と飲食のフロアを経由して、展望に至る導線だ。ガラス面が多くなる。鏡のような壁は、対象の形に都合がよい。反射は、こちらの姿勢の歪みを増幅する。視線を床に落とし、足の置き場だけを見る。人が増える時間帯に入り、音の層が厚くなる。館内アナウンス、空調、食器の触れ合う小さな音、遠くの笑い声。これらは雑音ではない。目印の役割を果たす。音の層の中の一定のリズムに合わせると、身体の動きは乱れにくい。


通路に出ると、清掃用のワゴンが、通行の邪魔にならない位置で止められていた。バケツの縁にかけられたスクイージーのゴムは乾きかけていて、床に落ちた水滴の列は、途中で切れている。切れた箇所だけ、乾きが速い。自然ではない速さ。先ほど裏手で見た線と同じ種類の乾き方だ。ここにも「線」がある。頭のどこかがその情報を掴む。線は、後で誰かが使う。そういう確信だけが残る。


ひとえの歩幅は僕とほぼ同じになった。呼吸は浅すぎず深すぎず、体幹の揺れは小さい。視線の高さは、さっきより上がっている。ガラスの前では目を伏せ、壁側の通路では視線を前方に置く。自分で自分の安全を作ろうとしているのがわかる。ここまで来て、「助ける/助けられる」の関係は、最初よりも水平に近づいている。水平は、作業が持続するための姿勢だ。


展望フロアへ向かう前のエレベーターホールは、天井が高い。照明は直下型で、床に影が落ちにくい設計。鏡面は避けたいが、移動速度を優先する必要がある。徒歩で向かえば消耗が増え、判断が鈍る。エレベーターの壁面も鏡になっているが、視線を床の一点に固定すれば、乱れは最小限に抑えられる。乗り込む直前に、単語帳の裏表紙を指でなぞる。状況を言葉にする。短い間を置く。礼で区切る。三行は、ここでも有効だ。


箱の中は涼しい。耳の内側の圧が少し変わる。手に汗はあるが、カードの角は滑らない。ひとえは壁に寄りかからず、足を肩幅に開いて立つ。目は伏せ気味だが、閉じてはいない。扉が開くまでの静かな時間が、異様に長く感じられるのは、ここから先が作業の最終区間だからだ。最終区間では、今までの小さな差異が、急に別の大きさで現れる。焦ってはいけない。焦りは手順の精度を崩す。精度を崩すと、巻き戻しのためのエネルギーが余計にいる。今日は、余計なエネルギーを使う余裕はない。


扉が開いた。展望へ向かう導線は明るく、ガラス面は広い。床面は水平で、人の流れは二つに分かれている。立ち止まって景色を見ている人と、通り抜ける人。作業スペースは確保できるはずだ。視線を水平に戻し、上下のイメージを薄める。ここで、四角を置く。付箋を四点に置き、位置を固定する。彼女を内側、自分は外側。昨日までの期間を心の中で読み上げ、今日の日付を重ねる準備をする。礼を入れて終わらせるための呼吸に、胸の中を合わせる。


ここまでの全てが、次の一手のために整えられた。終わらせる作業は、いつも最後に密度が跳ね上がる。跳ね上がり方は予測できない。予測できなくても、手順の骨を外さなければ、戻る道は残る。足裏の感覚、手の汗の量、視野の広がり、彼女の肩の高さ、周囲の温度差、音の層の厚み。どれも正常範囲にある。ここが終点でいいはずだ。準備は終わっている。これからが、対峙になる。


展望のための空間は、見晴らしを最大化する設計が徹底している。床は水平、手すりは均一な高さ、ガラスは継ぎ目が目立たない。立ち止まる人と通り抜ける人の流れが自然に分かれ、空気はよく回る。付箋で四角を作り、彼女を内側、自分は外側に立たせる。昨日までの期間を心の中で読み、今日の日付を重ねる準備をする。ここまでの一連の作業が、終わらせるための土台になるはずだった。


最初の異常は、床の影の輪郭が「人の影」と別にもう一層できたことだった。照明の角度と合わない位置に、濃度の高い影が生まれる。濃いほうは、床に張り付くのではなく、網のように細かく広がり、手すりの方向へ移動する。視線を落とした時には、もう足首に冷たい圧がかかっていた。温度は低いが湿りはない。乾いたまま、体温だけを奪う。足は床に付いているのに、体重の重心が床より外へ引かれる。手すりまでの距離が縮むたび、前へ倒れる力が強くなる。


後退しようとしても、足首の固定が反応を遅らせる。呼吸は浅く、胸の上下が減っていく。視野は狭まり、色は均質化する。手すりの角が腹部に近づき、硬さが布越しに伝わる。落下の想像が脳の前面に現れ、身体はその想像に引きずられて固まる。左手で手すりを握り、右手で四角を崩そうと伸ばすが、網状の圧は四角の外側から掛かっていて、枠の効力が届かない。今回の形に対して、用意した枠は小さすぎる。判断が一手遅れたという事実が、握力をさらに弱くする。


鞄の中の本は、ここでは重すぎる。読む時間はない。これまで効いてきた「定義→間→礼」の手順が、急に距離を取られた位置に移った。彼女の状態だけは確認する。彼女は四角の内側で膝に手を置き、視線を下げて呼吸を整えている。安全は確保されている。問題は自分側だけだと確定する。


締め付けは足首から膝、腰へと上がる。圧の増加に連動して、耳の内側で血の音がはっきりする。焦点が合いにくくなり、ガラス面の遠景が平板化する。横方向へ重心を移せばいいと頭で理解しても、腰の筋肉は反応しない。手のひらの汗で摩擦が落ち、指先に感覚の遅れが出る。胸骨の中央に痛みが走る。呼気が充分に出ていかず、吸気が浅く跳ね返る。思考はまだ動くが、命令が身体に届くまでの遅延が大きい。


このままだと、返却はできない。図書館のカウンターに本が戻らない。月曜の時間割に穴が開く。現実的で、あまりに日常的な連想が最後の抑えとして働く。手すりに肩を当て、体重を背中側へずらす。前へ引く力とわずかな均衡を作るが、長くは保てない。視界の端で彼女の方へ手を少しだけ上げる。助けを求める動作としては不完全だが、可能な最大だ。


そこに、別の温度の手が入った。軽い布のズボンにサンダルの男が、半歩で間に入る。動きは少なく、効果は大きい。背中側、肩甲骨の下に手を当て、前に流れていた重心を外側へずらす。支えるというより、重力の向きを調整する所作。手の温度は人間の温度で、圧は必要最低限。位置は変えない。変えないことで、こちらの姿勢が崩れない。


同時に、男は反対の手で鞄からラベルのない小瓶を出した。瓶の口を親指で押さえ、床に短く一本、線を引く。水のはずの液体が、床に触れてから乾くまでの時間が異常に短い。室内の湿度と材質から逆算できる許容範囲を明らかに超えていて、乾きの境目が、網の結び目の位置に一致する。線の出現に合わせて、影の輪郭が解け、足首の圧が下へ落ちる。呼吸は深さを取り戻し、肺の内側に冷たい空気が入る。頭の中の飽和が緩み、視界の中心に立体感が戻る。


男は必要以上の手数を出さない。線は一本だけ。声は低く、短い文を影に向けて置く。内容は、ここで終わること、ここから離れること、この場の優先の順序を提示すること——意味の説明より、終わり方の提示を優先した文列。影は床から離れ、空気に分散し、視覚から外れる。足首の自由が戻る。手すりから身体を離す。背中の手が外れる。指の跡の熱が消えて、自分の体重が自分に戻る。色と奥行きが戻り、音が層に分かれて聞こえる。


彼女は四角の内側で座り、呼吸を整えている。男は彼女を見て小さくうなずき、こちらへ視線を移す。声は穏やかだが、曖昧ではない。


「区切り方、いい。ここまでの手順、雑じゃない」


声が届いた瞬間、遅れていた震えが指先に出る。謝罪の言葉が先に出そうになるが、男は短く首を振った。


「謝る場所じゃない。自分でここまで運んだ。危険に対して、間に合わないことはある。いま間に合ったのは、たまたまじゃない。君がやっていたことが下敷きになっている」


言い方は評価になり過ぎないように制御されていて、同時に逃がしもしない。彼は小瓶の口を布で拭き、何も書いていないまま鞄に戻す。道具の説明はない。説明は、今のフェーズには不要だと分かる。


「図書館の本、読んでる。付箋の四角、期間の読み上げ、順序の反転。正しい。今日は相手の側が強かった。それだけ」


「逃げるべきでした」


「逃げてもいい。逃げて残るものは、別の手順で処理する。今日は残った。選択として、それも正しい」


短い沈黙。体内の配線が、現場の密度に追いつく。呼吸が一定に戻り、手の汗の量が減る。彼女の肩は低い位置で安定し、顔の筋肉に余計な力は入っていない。四角の内側の空気が、さっきより軽い。


「一度は否定しました。最後に肯定しました。彼女が必死で——それに、正直に言えば、かわいかったので」


理由を言葉にする。男は肩をわずかにすくめる。


「充分。人はそういう順序で動く。単語帳の裏の三行も、そのままでいい。状況を言葉にする。間を置く。礼で区切る。簡単に見えて、続けるのが難しい」


彼は彼女へ視線を戻し、立てるかを確認する。彼女はうなずいて立ち上がる。足元は安定している。表情は、仕事用でも、演技でもない、自分の範囲に収まった顔になっている。


「君の“免許”は今日だけ。明日は、それぞれの場所でそれぞれが自分の作業をする。返却期限は守るといい」


現実的で、救いのある指示。こちらはうなずき、鞄の内側でICカードの角の固さを指に確かめる。滑らない。図書館のカウンターに本を戻す自分の姿が、具体として描ける。今日の作業は、ここで締められる。


「名前は——」


本来は聞かないほうがいいと分かっていながら、口が動く。男は少しだけ考え、名乗らないという選択をそのまま顔に出す。


「ただの拝み屋。日曜でも、仕事はある。君は日曜だけでいい」


それで会話は終わる。男は歩き出し、雑踏へ自然に混ざっていく。付箋を回収し、四角を解く。床は同じ硬さで続き、手すりの向こうの空気も同じ量で続く。耳鳴りは弱まり、視線を水平に置けば、上下の価値付けは薄れる。


彼女は深く息を吸い、吐く。僕も同じことをする。単語帳の裏表紙を指でなぞる。状況を言葉にする。短い間を置く。礼で区切る。日曜の終わらせ方としては、これで足りる。今日は足りた。返却カウンターで本を置き、貸出記録がリセットされるまでの短い待ち時間も、もう怖くはない。窓の外の光は、午前と午後の境目を過ぎている。肩の重さは、自分のものだけに戻った。月曜の時間割が遠くから近づいてくる気配があり、整った生活の配列が見える範囲に戻ってくる。


ここまでが、僕の「一日だけの拝み屋」。続けるつもりはない。続けなくていい。けれど、単語帳の三行は、明日になっても消えないはずだ。


ー完ー

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