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第一夜 しじまベル

001


 正確に言うなら、あれは事件ではない。僕の三年の梅雨明けにおける、音のない騒音だ。いや、騒音という語はうるささを前提にしているから、語の選び方としては間違っている。けれど、静けさが必要以上に主張してくるとき、人はそれをうるさいと呼ぶ。そういう意味ではやっぱり騒音だったのだと思う――僕にとっての、あの日の静けさは。


 七月の朝、登校路の途中。浅野川にかかる小さな橋のたもとで、僕はそれを見た。首元のチョーカーから吊られた銀の鈴。揺れているのに、鳴らない鈴。鳴らないくせに、鳴っているような顔をしている鈴。そこに立っていたのは、うちの学年では名前だけがやたらと通っている女子、静間しずまりん――と、僕の記憶は言っている。僕は彼女と一度も話したことがなかった。というか、彼女は誰とも話していない。いつだってノートを開き、ペン先が言語の代行をしている。


 その朝も、彼女は喋らなかった。代わりに、スケッチブックを僕に突き出す。そこには細い字で三行だけ。


 〈話すと鳴る〉

 〈鳴ると消える〉

 〈助けてくれる?〉


 僕はスケッチブックから視線を上げ、揺れているのに鳴らない鈴をもう一度確認する。何も言わない僕に、彼女はペンを走らせる。


 〈消えるのは、音。声。名前。順番に〉


 彼女は唇を開く素振りをして――開かない。ちいさな顎がかすかに震え、チョーカーのリングが光る。風が渡る。制服の袖が鳴る。鳴る? 袖の音は鳴らない。ただ揺れるだけだ。僕はああ、と納得する。納得したふりをする。つまり、彼女の言っていることはこうだ。彼女が一言でも漏らすと、この世界から音が一つ、支払のように消える。その支払はまず、彼女の声から引き落とされる。次に、彼女の名前の音価が引き落とされる。最後に、もっと大きな何か――たとえば、朝のチャイムとか、雨の気配とか――が、まとめて消えていく。そういう理屈。理屈? 理屈ではない。理屈のふりをした怪異、というやつだ。


「……」


 僕は何か言わなければならなかった。こういうとき、人間は賢く振る舞うか、優しく振る舞うか、面白く振る舞うか、の三択を迫られる。僕の場合は幸い、面白くはないし賢くもないので、消去法で優しさが残る。消去法で残る優しさほど頼りないものはないけれど、何もないよりはましだ。


「いいよ」


 言って、僕は自分で驚いた。たぶん一番驚いたのは彼女だ。スケッチブックのページが一枚めくられ、素早い筆致で文字が増える。


 〈無償で?〉


「青春のボランティア精神というやつだ」

 そう答えてから、僕は自分の台詞の気持ち悪さに一秒遅れで顔をしかめる。言い直したい。撤回したい。編集したい。だが現実は文章編集機能を搭載していない。代わりに、彼女のペンが止まり、目が笑う。声がない笑顔は、思ったよりも静かだった。


 〈ありがとう〉


 鈴が揺れる。鳴らない。鳴らないことを、僕らは確かめ合う。確かめ合ったからといって、何かが良くなるわけではないのだけれど、確認という儀式は人間の信心だ。僕は彼女にもう一つ質問した。


「その鈴、なんて呼んでる?」


 彼女は少しだけ考え、ペン先で書く。


 〈無音鈴ミュートベル


「中二病味のネーミングだな」


 〈名付けたのは、あなた〉


「は?」


 彼女は別ページを見せる。たくさんの字。昨日、隣のクラスの男子が、この鈴を「無音鈴」と呼んだ瞬間から、鳴っていた音が鳴らなくなった、という報告書めいた文章。隣のクラスの男子――それはどう考えても、昨日、メガネを忘れて黒板の文字も人の顔も等しく解像度が崩壊している僕ではないか。そういえば、廊下の角で誰かと肩がぶつかった。謝りながら、首元の鈴に目が行って、冗談半分のラベリングを口走った気がする。あれが、きっかけ?


「僕のせい?」


 〈ちがう。名付けは鍵。施錠でもあり解錠でもある。開けられるなら、閉められる〉


「それっぽいことを言えば全てが説得力を帯びる――高校生あるあるだな」


 〈あなたが開けたなら、あなたが閉めて〉


 なるほど、責任転嫁――いや、責任の所在の明確化である。僕は深呼吸をしてから、彼女の鈴に指先を伸ばす。触れた。冷たい。硬い。揺れる。鳴らない。ここで呪文の一つでも唱えられたら格好がつくのだが、残念ながら僕はそういう職業の人間ではない。職業の人間――つまり、こういうときに現れて「やあやあ高校生」と言って良いところだけ持っていく、あのタイプの大人。知っている。うちの街にもいるらしい。怪異解体相談なんちゃら、と長い看板が出ている古本屋が浅野川の向こうにある。噂は噂だ。けれど、噂はいつだって必要に迫られて作られる。


「紹介、しようか」


 僕が言うと、彼女は首を横に振る。


 〈まず、あなた〉


「なぜ」


 〈開けたのが、あなた〉


「それは論理の飛躍だ」


〈青春は、論理よりも飛ぶ〉



 うまいこと言ってる顔をしていた。声がないのに、うまいことを言った顔ができるのはずるい。僕は負けを認める。勝負をした覚えもないのに負けを認めるのは、不本意ではあるが、彼女のまっすぐさの前では、敗北という語もそこまで悪くない。


「わかった。じゃあ――まずは実験だ」


 僕は鞄からスマホを取り出し、アラームを鳴らす。鳴らない。いや、正確に言えば、画面上では鳴っている。揺れている。既視感のある現象。次に、わざと階段を踏み外す。足音は出ない。危なかった。青春は、バカをするとすぐに骨折する。気を付けよう。最後に、彼女に身振りだけで質問を投げる。名前。彼女はスケッチブックを持ち上げ、ゆっくりと書く。けれど、その筆跡は途中で薄くなり、最後の一画が消える。


 〈静間 り〉


 名前の音が、削られている。これはよくない。人の名前から音が欠けるのは、かなりよくない。よくなさの段位で言えば、上から二段目くらいに位置するよくなさだ。最上段はもちろん、存在そのものが記載漏れになること。つまり、彼女と彼女の席の間の椅子が、ある日当然のように余るという、あの悪夢。そこに至る前に止めたい。止められるのか。止めるのは、きっと僕だ。僕が開けたなら。


「り――ん」


 僕は口にした。彼女の名前の、失われかけている音。鈴の音と同じ音。呼ぶことは、戻すことの最短経路だと、誰かが言っていた(誰も言っていない)。僕が呼ぶ。彼女の目が見開かれる。鈴が、揺れる。鳴らない。鳴らないが、たしかにそこに音がある――ような、勘違い。勘違いでもいい。勘違いは、信仰の入口だ。


「りん。静間りん。――君の名前は、静間りんだ」


 僕は三度、名を呼ぶ。三度というのは人間の安心の定数だ。彼女は息を吸い、そして、ほんの一音だけを漏らした。か細い、欠片みたいな、ひどく短い音。鈴が震え――


 ちり。


 世界の端で、紙が破けるような音がした。そこだけ空気が薄くなった気がした。僕のポケットの中で、鍵束がかすかに跳ねる。浅野川の水面が一瞬だけざわつく(風は吹いていない)。


 〈いまの、きこえた?〉


「うん。鳴った」


 〈鳴ったね〉


「鳴ったね」


 二度言う。二度も言えば、いくらか信じられる。三度言えば、事実になる。僕らは三度目を喉に引っかけたまま、しばらく黙っていた。静けさは、少しだけおとなしくなっていた。静けさにも、空気を読むという能力があるらしい。


002


 放課後、古本屋に寄る案を僕は捨てた。彼女が望んだのは「まず、あなた」だったからだ。正しいかどうかは知らない。間違っているかどうかも知らない。つまり、僕はそれについて一切知らない。けれど、知らないなりに約束は守る。約束を守ることでしか、僕は僕でいられない――と、かっこつけて言ってみたが、実際は単に、他に手がないだけだ。


 校門を出る。夕立の予告みたいな雲。蝉が鳴く……はずの時間帯に、鳴らない蝉。無音鈴の影響は、校内から半径どのくらいなのか。地図に描ける種類の影響なのか。描けないなら、どうやって確かめるのか。僕は考える。考えるふりをする。考えるふりをしている間だけ、勇気の残高が減らない。そんな気がする。


 並んで歩く。彼女は筆談で饒舌だ。


 〈人は、音で世界を縫っている〉

 〈ほどけるのが、こわい〉


「だったら、縫い直そう」


 〈針は?〉


「名前」


 〈糸は?〉


「僕らの会話」


 〈縫い目が曲がっても?〉


「曲がった縫い目の服を、青春は似合う」


 拙い即興に、彼女の肩が小さく震える。笑っているのだと思う。笑い声は出ていない。代わりに、鈴が一拍だけ、内緒話みたいに鳴る。ほんの、ちいさな、ちいさな音。聞こえたかどうかは、耳ではなく、心に尋ねる種類の音。僕は頷いた。彼女も頷いた。頷きの数だけ、世界は縫われる。そう信じることにした。


 僕はスマホのメモを開き、そこに新しい言葉を打ち込む。


 【封音手順案(仮)】

 1.名を呼ぶ(正確に、三回)

 2.呼び声の間、鈴に触れない(触れると、こちらの音が奪われる)

 3.彼女が一音だけ返す(返せなければ、僕が一音貸す)

4.貸し借りを三日繰り返す

 5.四日目に、もう一度だけ、鳴らす


 雑だ。雑だけれど、雑であることはときどき救いになる。きっちりと作られた計画は、壊れるために存在している。雑な計画は、壊れても形を保つ。そういうことにしておこう。


「四日、僕にくれる?」


 彼女はスケッチブックを抱え直し、ゆっくりと首を縦に振った。鈴がひときわ大きく、――とは言わない。言えない。僕の耳は欲張りだ。もっと鳴れ、と言う。もっと聞かせろ、と言う。けれど、僕は僕の耳を黙らせる。急がない。焦らない。青春は、慌てなくても勝手に過ぎる。だったら、その前に、ひとつくらいは静けさを助けても罰は当たらないだろう。


 帰り道、空から最初の一滴が落ちる。雨の音が――


 鳴らない。


 僕は空を見上げ、彼女を見る。彼女も空を見上げ、僕を見る。目が合う。合ったことを確認するのに、言葉はいらない。けれど、言葉がないと不安になるのが人間だ。だから僕は、彼女の名を呼ぶ。


「りん」


 雨粒が舗道に触れる直前、鈴が小さく震えた。ちり。音になりかけの音。名前の残響が、雨に薄められずに残った。僕は、きっと笑っていた。彼女も、きっと笑っていた。僕らは四日の約束を、同時に心の中で指切りした。


 ――青春に、変な静けさはつきものだ。

 だったら、うるさく見守ろう。僕は、そう決めた。


003


 翌朝。チャイムは、正確に遅刻を告げない。校門を抜けると、同級生の笑い声が口パクの動画みたいに無音で弾む。靴箱の奥で誰かがドアを乱暴に閉める――はずが、空気しか揺れない。僕はメモを開き、昨日の手順の下に追記する。


 6.範囲を測る(教室→廊下→中庭→川沿い)

 7.音の種類を分ける(機械音/自然音/人声/名前)


 実験は簡単で、面倒くさい。まずは教室。席に座るなり、前の席のやつが椅子を引きずる。金属音は、出ない。先生のチョークが黒板に白い川を引く。軋み音は、出ない。出ないことが、出ている。出ていてほしくない種類の現象だ。休み時間、クラスメイトが僕の肩を叩く。痛覚はある。音だけが、ない。五十音表の「あ」段がごっそり消える夢を見たときの朝みたいに、気味が悪い。


 静間りんは、僕の視界の周辺にいる。中心に置くと、焦点が合いにくい。彼女はノートにさらさらと記す。


 〈今日は、まだ大丈夫〉

 〈私が声を出さなければ、広がりは遅い〉


「君が沈黙すると、世界が助かるっていう構図――だいぶ、嫌だな」


 〈嫌だけど、今はそう〉

 〈だから、測ろう〉


 測る。中庭で、風鈴を借りた。委員長気質の美術部の子が、にこやかに貸してくれた。僕とりんで紐をつまむ。風を待つ。ふくらんだ雲から差し込む光が金属の縁を撫でる。揺れる。鳴らない。風鈴というやつは、音が鳴らないと、ただの予告に過ぎない。予告されるのは、不在だ。僕はノートに×をつける。


 廊下の端の非常ベルの下まで歩く。テスト用の小さいボタンは教師以外触ってはいけない――ので、目でにらむ。にらまれたところで非常も緊急もない。代わりに、飼育小屋のうさぎを撫でる。鼻先がひくひくして、僕の手のひらに息が当たる。息はある。鳴き声は、ない。自然音はだめで、生き物の息は残る。雑だが、分類が立ち上がる。


 四限目の終わり、学年主任のマイクが「連絡事項」と口を開く。スピーカーは唸りもせず、担任が『聞こえる?』と口だけで笑う。クラスメイトの一人が机を叩く――叩いた本人だけが、自分の骨伝導で何かを確かめた顔をする。世界は、骨の内側にだけ、あと少し残っているらしい。


 昼休み、僕はりんを音楽室に連れていく。誰もいない時間帯、鍵は甘く閉まっている。ピアノの蓋を上げ、白鍵を押す。象牙色は沈黙のまま反撃しない。チューナーのスイッチを入れる。画面の針は動く。音階のアルファベットが目で聞こえる。僕らは顔を見合わせて笑う――無音の合奏だ。笑い声は出ない。けれど、笑っているという事実はある。世界は、事実の方を先に消さないでくれている。


 〈名前は?〉と、りん。


「君の? それは予備実験の最終項目に取ってある。危険だから」


 〈危険、好き〉


「やめろ」


 〈冗談〉


 冗談も無音だと、少しだけ上品に見える。ずるい。


 放課後、僕らは川沿いまで降りた。梅ノ橋のたもと、人の少ない時間帯。僕は小銭を取り出し、手のひらで転がす。硬貨の周囲のギザギザが汗を吸う。投げる。水面に落ちる。円が広がる。ぽちゃん、が、ない。僕の脳内でだけ、昔読んだ漫画の擬音が遅れて再生される。りんが手の中の鈴を見つめる。彼女のペンが動く。


 〈この子、昔は普通に鳴ってた〉

 〈母の形見〉


 言葉の温度が、紙越しに伝わる。僕は少し驚き、そして、勝手に慎重になる。


「じゃあますます、軽率な処置は避けよう。四日プランは四日プランのままで」


 〈うん〉


 彼女は頷く。黙る。鈴が小さく揺れる。鳴らないけれど、何かは確かに震えている。僕は、呼びたくなる衝動に名前をつける――衝動に名前をつけるのは危険だ。名前は鍵で、閉めることも開けることもできる。昨日、彼女が言った通りだ。


004


 二日目。校内での沈黙は、少しだけ範囲を縮めていた。理由はわからない。測り続けているうちに、法則が顔を出すと期待したが、怪異は期待ほど空気を読まない。気紛れに見えて、どこかで厳密――たぶん、僕らの外側にある厳密さだ。


 昇降口で、名前を試す。りんの視線が「本当にやるの」と訊く。僕は頷く。彼女はペンで先に書く。


 〈一音だけ、返す〉


 慎重という言葉を三回唱えてから、僕は小さな声で、世界に聞こえないように、骨の内側でだけ、呼ぶ。


「りん」


 鈴は震えない。代わりに、彼女の喉が、息をこぼすだけの動きをする。返ってくるのは、一音の影――音符の抜け殻。僕はそれでも、成功だと判定する。音が戻ったのではない。けれど、失われた音がどこに行ったか、少しだけ指で触れた気がする。


 〈貸し借り、成立〉


 りんが書く。僕は笑う。ノートに新しい枠を引く。


 【貸音記録】

 day2 僕→彼女 一音貸し/返却期限:未定(四日目総決算)

 備考:息の形で返ってきた。形見の鈴は未反応。


 帰り際、校内放送が「本日は大雨警報の可能性があり――」と、口だけで働く。僕は空を見上げる。黒い雲が薄い雲を飲む。空の胃袋みたいに、ゆっくりと。りんが僕の袖をつまむ。指先が冷たい。鈴は、触れていないのに、わずかに揺れる。


 「古本屋に頼ろう」という誘惑が、僕の脳の裏口の呼び鈴を鳴らす。鳴っていないけれど、鳴っているふりをする呼び鈴だ。プロに投げれば、きっと解決は早い。たぶん費用はかかる。青春の財布は薄い。僕は財布の薄さよりも、約束の厚さを選ぶ。誰に見せるでもない選択だが、こういう選択は見られていないときの方が、効果がある(と信じたい)。


 三日目。予報通り、空は音のない雨で満ちた。傘の骨が開くパキン、が、ない。雨粒がアスファルトを叩くパラパラ、が、ない。傘越しに聞こえる自分の呼吸だけが、やけにうるさい。りんと並んで歩く。横断歩道のピヨピヨは沈黙して、代わりに黄信号が律儀に点滅を繰り返す。僕らはそれに合わせて歩幅を揃える――無音のメトロノーム。


 途中の神社に逃げ込む。濡れた石段。手水舎の龍の口から水が落ちる。落ちるだけで、音は落ちない。拝殿の鈴――縄の先の大きな鈴――は、触れればどうなるだろう。強い興味と、強い嫌な予感が、同時に鳴る。りんが先にスケッチブックを上げる。


 〈試す?〉


「やめよう。これは、君の鈴じゃない」


 〈正しい〉


 彼女は微笑む。声がない笑顔は、やっぱりずるい。僕は見栄を張って賽銭を入れる。硬貨は沈黙の水底へ。神さまは無音でも、見ている気がする。そういう種類の気配は、音に頼らない。頼らないものが、この世界にはまだ残っている。救いだ。


 社務所の軒下に立って、僕は別の実験を思いつく。


「名を――別名を、与える。名付け直し。『無音鈴』は開錠の名だとして。閉める名は、たとえば……」


 〈やわらぎ鈴〉と、りんが先に書く。字が少しだけ丸い。母親の形見に与えるには、優しい名だ。僕は頷き、言葉を整える。名付け直しは、鍵穴を削る作業だ。失敗すれば、どの鍵も入らなくなる。成功すれば、合鍵が一本増える。


「――やわらぎ鈴」


 僕は声に出さない。骨の内側でだけ、呼ぶ。りんが、鈴に触れないまま、胸の前で手を組む。雨が一滴、軒先をはじく。ちり。かすかな、紙片の裏返る音。さっきよりも、少しだけ厚みがある。僕は顔を上げる。彼女も顔を上げる。何かが、ほんの僅かだけ、戻った気がした。戻ったというより、向きを変えた。流れの方向が、川の曲がり角で少しだけ緩む、あの感じ。


 〈効いた?〉


「効いた、気がする。気がする、は、まだ仮説だ」


 〈でも、仮説は針〉


「糸は?」


 〈四日目〉


 彼女はそう書いて、指で四を作る。僕も真似する。二人の四が、八になる。意味はない。意味がないから、効くこともある。青春の呪術は、そういうところで成立する。


 帰り道、川面が重く光る。遠くで雷が閃く。雷鳴は、ない。稲妻だけが写真のように世界を焼き付け、次の瞬間、僕のスマホが震えた。通知音は鳴らない。画面には一行。


 【町内放送:土砂災害警戒 避難情報は各自確認を】


 音のない避難勧告ほど、頼りないものもない。頼りないからこそ、足は速くなる。僕らは早足になる。橋を渡る。浅野川は、無言で、でも確実に増水している。りんが、ふいに立ち止まる。鈴が、今度は触れていないのに、ほんの少しだけ――人差し指の爪ほどだけ――鳴った。


 ちり。


 鳴った。鳴ったのに、世界のどこからも、一音も消えなかった。僕は息を止め、何が消えていないのかを確かめる。信号機は目で時を刻む。水面は雨粒を飲み込む。誰かの自転車が軋む――いや、軋まない。そこまでは戻っていない。でも、何かが確かに、減速した。消失の速度が、ほんの一段、落ちた。


 〈やわらぎ〉と彼女が書く。

 〈合ってる〉


「四日目に、仕上げよう」


 〈四日目に、返す〉


 返す。何を? 一音だけじゃない。彼女の名の欠けていた半分。鈴から抜け落ちた、やわらぎの分だけの響き。僕の貸しも、僕の借りも、そこに混ぜて――糸に撚りをかけるみたいに、世界のほつれ目を縫い合わせる。


 家に帰って、僕は手帳を開く。ページの隅に、今日のまとめを書く。


 【今日のまとめ】

 ・機械音は沈黙のまま/人の息と骨の内側は残る

 ・神社の鈴は触らず/別名付与「やわらぎ鈴」仮効

 ・消失速度が落ちた(気がする→要再測)

 ・四日目、仕上げ(場所:川辺/時間:夕刻/証人:なし)


 ページを閉じる。雨は、音のないまま降り続ける。窓ガラスに当たる水滴の軌跡だけが、音のかわりに、部屋の中に模様を描く。スマホのカメラでそれを撮る。無音の動画が、保存される。無音の動画は、やけに落ち着く。世界は元から、静けさの上に置かれていたのかもしれない――なんて、それっぽいことを思う。高校生あるあるだ。


 四日目の朝、目が覚めたとき、僕は自分の名前を三回、骨の内側で唱えてみた。確認の儀式だ。名前は、鍵だ。鍵は、無くしてからでは遅い。僕は僕だった。少なくとも、今朝の時点では。鏡の中の僕が、少しだけ緊張している。画面の時計が進む。秒針の音は――やっぱり、ない。僕は笑う。笑い声はない。準備は、できている。


 放課後、川で。鈴を、やわらげる。名を、呼び戻す。貸し借りを、終わらせる。

 そのために、僕は傘と、メモと、勇気を持っていく。勇気は消費期限が短い。今日中に使い切らないと、明日には別の感情に置き換わってしまう。青春の在庫管理は難しい。だから、在庫一掃セールをやる。四日目だけの、閉店市だ。


 窓の外で、雲が一枚、薄くなる。遠くの雷が、光だけで約束する。

 音がない世界で、僕らは音の形を縫い直す。針は、名前。糸は、会話。曲がった縫い目は、青春が似合う。


 ――静けさは、ときに騒音よりもうるさい。

 でも、その騒音の正体がわかったなら。僕は、うるさく、やさしく、見守るだけだ。四日目の夕刻まで。

 そして、鳴らす。

 やわらぎ鈴を。

 りん、という名前を。

 僕という、貸し借りの帳尻を。


(第一話 了)

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