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騙して恋

自分でも、「このタイトルはどうか?」と思ってはいます

 ――性差。

 世間では男女の違いについて様々な議論が交わされている。非常に漠然としていて曖昧ではあるが(そして、例外も多々あるが)、それでも傾向として、性差が存在している点は否めない事実だろう。

 性差は環境、文化の影響を受けるので、ある文化圏での女性、或いは男性の行動に特性が観られるからといって、それが人類全体にとっての普遍的な女性、或いは男性の行動だと短絡的に思ってはいけない。しかし、ならばそれらが完全に無視できるのかと言えばそれも違っていると思う。

 日本人女性には、“推し活”に非常にコストをかける特性があると言われている。アイドル、またはアニメや漫画やゲームのキャラクターを応援する事に非常に熱心に取り組み、中には人生を捧げていると言っても過言ではない人までいるのだ。

 もちろん、男性の中にだってそういう人はいる。しかし、かけているコストの大きさでは女性の方が勝っていると言われている。

 例えば、とある小説投稿サイトでは、女性の割合は約30%ほどなのだが、ポイントランキングで上位に入っているのは女性向け作品の方が多い。つまりは、女性はそれだけ熱心に自分の好きな作品に対してポイントを入れているという事だ。

 そして、或いはこのような特性は“ホストに嵌る女性”にも関係があるのかもしれない。

 男性でも特定の女性に執着し、信じられない金額を貢いでしまう人はいるが、モテないタイプというパターンしかあまり耳にしない。対して女性の場合は、魅力的な容姿を持ち、実際に多くの男性からモテる人までも何故か特定の男性に貢いでしまう事があるようだ。

 もちろん、正確なデータではなく、単なる印象に過ぎないので間違っているかもしれない。しかし、ここでは、取り敢えずこれを正しいとした上で論を進めたいと思う。

 “ある種の女性は、特定の男性に執着をし、時には「精神的に依存している」と言ってしまっても過言ではない状態にまで至ってしまう”

 原因は分からない。

 人類はその進化の過程で、少なくとも一度はハーレム制を経験していると言われているから、その名残なのかもしれないし、“子育てをする”という特性を持つ為に、必要とされる事で快感や安心感を得る傾向が女性に強い所為なのかもしれない。

 ただ、いずれにしろ、それは恐らくは社会的に判断してあまり好ましいとは言い難いだろう。何故なら、そういったタイプの女性を利用し、私利私欲の為に犠牲にしてしまう男性がいるからだ。

 きっと、そういった男性に対して憤りを覚える人も多いだろう。

 “女性を騙して金を貢がせる”

 そこには何も生産性がない。そのような男性が増えれば社会全体が不安定になってしまう。絶対に得をしてはいけない人種だ。真っ当に社会に対して労働力を提供するよう働きかけるべきだ。そのように考える人は多いはずだ。

 ――そして、野戸大介という男も、そういった男達に対して憤りを覚えているタイプの一人だった。

 

 事の起こりは、大学の同窓会だった。

 三城俊という男が野戸大介と喧嘩をしていた。ホテルにある屋外会場。上品で大人びた雰囲気があるから、その喧嘩の声はひと際目立っていた。

 三城はいわゆるホストで、その職業を自らのプライドにもしていた。“自身の魅力でたくさんの女性を虜にして金を遣わせている”という事実に酔っているのかもしれなかった。彼はそれを恥とも何とも思っておらず、むしろ自慢していた。

 それが、恐らくは野戸大介には気に食わなかったのだろう。

 「お前の仕事は最低だぞ? 三城?!」

 公衆の面前で彼はそう言い放った。

 「仕事っていうのはな、社会に対して何かしら貢献をして、その見返りにお金をもらうってのが真っ当な姿なんだ。そうじゃなれば、社会自体が成り立たない。何十億稼ごうが、社会貢献をしていなければただの寄生虫なんだよ。職業に貴賤はないって言うがな、お前のは職業とすら言えない」

 三城は歯を食いしばってそれに反論しようとしたようだった。だが、何も思い付かなかったのか、それとも周囲の白い目に気が付いたのか黙ってしまった。

 彼が勤めるホストの店は、価値観が一般社会とは大きくかけ離れている。彼はそれに無自覚だったのだろう。“女性にいくら貢がせたのかをステータスとする”そんなものが通じると本気で思ってしまっていたのだ。だからこそ、この同窓会の場でも同じ様に振舞ってしまった。野戸は更に言った。

 「女性はカモじゃないんだ。相手に尽くさせるのを目指すのじゃなくて互恵関係を目指すべきなんだよ。こっちも助けてもらうが、こっちも相手を助ける。そういうもんだろう?」

 公衆の面前で恥をかかされた三城は顔を真っ赤にしてその場を去った。その時、野戸は少しばかり酔っていたようだった。それで言い過ぎてしまったという面はあったのかもしれない。彼は正論をぶつけるのではなく、もっと理知的に相手のプライドにも配慮して諭すべきだった…… そういう意見もあるだろう。

 いずれにしろ、それで三城は酷く野戸大介に対して怒りを覚えたのだった。

 ――そして彼は、プライドの回復の為に野戸に対する復讐を計画したのだった。

 

 桐島真知は男が好きだった。

 彼女は見栄えが良く、高校時代に嫉妬の所為で一部の周りの女性達から嫌がらせを受けていた。が、少々気の強い彼女は、女性達から嫌がらせを受けると、それに反発をしてますます派手な格好をした。頭を金髪に染め、露出度を高くする。もちろん、それは更なる対立を生んでしまったのだが、その一方で男性達からは好評だった。男達は誰一人として、彼女を否定しなかった(少なくとも彼女自身はそう思っていた)のである。

 そうして男性からの人気が高まると、彼女は別の女性達のグループからは積極的に受け入れられるようになっていった。そのグループの女性達は揃って男性を好む性質のようだったのだ。特に容姿に優れたアイドルのような男性を。宗教的だと評する人もいたが。

 彼女が男好きになったのには、或いはそのような経緯が関係していたのかもしれない。

 そして、彼女の男好きは社会人になって以降も続き、いつの間にかホストクラブにも通うようになっていたのである。

 

 「……それはムカつく奴ね」

 

 桐島が頷いたのを見て、三城俊は満足気な表情を浮かべた。彼女は嬉しそうに続ける。

 「そいつは俊君の価値を少しも分かっていないのよ」

 ホストクラブ。何故か、彼女は今日は特別サービスを受けていて個室だった。どうしたのかと思っていると、彼女は“野戸とかいうかムカつく奴”の話を聞かされたのだ。いかにも高級そうなワインを一口飲むと、彼女は甘えるように彼にしだれかかった。

 「そんな奴よりも、俊君の方が男として絶対に優れているわ」

 「そう思うか?」

 「ええ」と彼女。「そんな奴、天罰が下れば良いと思う」

 彼は微笑む。

 「実は僕もそう思っていてさ……。何とか罰を与えてやれないかってね。それで君を思い出したんだよ」

 「私?」

 彼女は首を傾げる。

 「ああ、これは君にしかできない。何しろ、僕のファンの中じゃ、君が一番美しくて賢いからね。

 やってくれるかな?」

 その称賛の言葉に彼女はとても気を良くしたようだった。

 「分かったわ。私にできる事なら何でもする。何をすれば良いの?」

 彼はそれを聞くとニヤリと笑った。

 「嬉しいよ、真知。君はやっぱり最高の女だ」

 それからやや前かがみの体勢になると彼は続けた。

 「その野戸って奴はさ、どうもあまり女慣れしていないみたいなんだよ。だから君みたいな良い女がすり寄ってくれば、きっとあっさりと落ちると思うんだ。

 その上でどちらかが男性として優れているのかを奴に思い知らせて欲しいんだ。言っている意味、分かるよね?」

 桐島真知はそれを聞くと楽しそうに笑った。

 「それは面白そうね」

 つまり、“騙してこい”というのだ。

 さんざんのぼせ上らせておいて裏切る。そういう計画だろう。

 彼女はとてもやる気になっていた。三城に頼られた事が嬉しかったし、彼を馬鹿にした事……、いいや、自分のしている事を否定した事も許せない。たっぷりと吠え面をかかせてやるべきだろう。

 

 ――はじめ、野戸大介は彼女はたかりか何かなのだと思っていた。

 会社の飲み会で、突然に社外の人間、しかも綺麗な女性から話しかけられたからだ。だが、どうもそれにしてはおかしい。別におごってくれとも言わないし、どれくらい収入があるかという話もして来ない。ただただ世間話をするだけだ。しかも、自分の気を引こうとしているようにしか思えない。

 あまりに不思議だった彼は、堪え切れずに直に疑問を口にした。

 「あの…… 君はどういう目的で話しかけて来たんだ? 断っておくけど、僕はその手の商売には興味ないよ?」

 それを聞くなり彼女は吹き出した。

 「アハハハ。何それ? 私、そーいう商売の人に見える? 違うわよ。普通の会社員。事務職。ま、派手な格好をしているから勘違いをするのも分かるけどね」

 「すまない。そういうつもりはなかったのだけど、こういう経験は初めてのものだから……

 その…… じゃ、なんで?」

 「あら? 気に入った男がいたから話しかけた…… じゃ、理由にならない?」

 「そーいうものなのか?」

 「そーいうものなのよ」

 彼女は彼の様子に機嫌良さそうにしていた。面白がっているようだ。からかわれているだけのようにも思えるが、それにしては少々手が込み過ぎている。

 彼女はそれから急に真面目な顔になると名刺を渡して来た。

 「私、桐島真知っていうの。ほら、ちゃんと会社員でしょ?」

 彼女が名刺を出して来た時はやはりそっち系の営業かと思ったのだが、本当に普通の会社の名前が書かれてあるだけだった。

 彼に好意的な微笑みを向けながら彼女は言う。

 「ね。あなたの名前も教えてよ。できれば名刺もくれると嬉しいな」

 そう言われて、ほぼ反射的に彼は名刺を出していた。もっと警戒するべきかもしれないと思ったのは、彼女に名刺を渡してしまった後だった。

 「へぇ 野戸さんって言うんだ。これからよろしくね」

 「これから?」

 「あら? お友達にもなってくれないの? 別に良いでしょう、それくらい」

 おどけた様子の彼女は、なんだかとても楽しそうだった。

 一応連絡先の交換はしたが、野戸は本当に彼女が自分と“お友達”になるつもりだとは少しも思っていなかった。きっと酔って悪ふざけをしていただけだろう、と。しかし、その後、彼女は直ぐに彼に連絡をして来たのだった。

 

 「いい感じのカフェでしょう?」

 

 昼休みだった。野戸が軽い外回りの仕事があると告げると、桐島真知は昼食でもどうかと彼を誘って来た。偶然、彼女の職場の近くだったらしい。

 「いやぁ、俺はこういう感じの場所はよく分からなくて」

 彼は頭を掻く。

 どうにも場違いな気がしていたたまれなかった。ただ、それだけではなく、女慣れしていない彼は彼女と二人きりで会うのに少々緊張をしてもいたのだが。

 「そうなの? でも、よく通っていれば気にならなくなるわよ」

 そんな彼の心中を察しているのかいないのか彼女は屈託なく笑う。

 彼はてきとーにコーヒーを頼み、彼女はよく分からない種類の紅茶を頼んでいた。偏見かもしれないが、紅茶の種類がスラスラと言える類の人種は“意識高い系”だと彼は勝手に思っていた。彼女が言うには、この店の茶葉は格別なのだそうだ。香りが特に良い。まったく分からなかったが、少なくともコーヒーは美味しかった。

 「ねぇ」

 今している仕事の話などを終えると、彼女は不意に彼の手に触れて来た。唐突なスキンシップ。少しビックリしてしまう。

 「野戸君ってとても男らしいわよね。よく言われない?」

 「いや、あまり言われないけど」

 「そう? でも多分、口に出して言わないだけで、皆そう思っていると思うわよ。特に女の子達は」

 そう言っている間、彼女は控えめなタッチで彼の手に触れ続けていた。気恥ずかしく想いながらも、その温もりは心地良かった。思わず何かを期待してしまいそうになる。しかし、その一方で彼は冷静に分析してもいた。

 あからさまなお世辞。それくらいは彼にも直ぐに分かった。下品に思われないくらいのスキンシップで距離を詰めつつ、相手を良い気分にさせる会話で盛り上げようとしている。なんだか……

 「夜の店の女のテクニックみたいだな」

 思わずそう呟いてしまった。それを聞くと彼女は驚いた顔をした。

 

 “――まずい”

 

 桐島真知は危機感を覚えた。野戸大介に警戒をされてしまった。この男、思った以上に勘が良い。

 咄嗟に言い訳を考える。

 「ちょっとね。実はキャバクラで働いていた事があって、そのクセって言うか……」

 そう言いながら、彼女は野戸の表情が急速に曇っていくのを見て取っていた。“これはダメだ、騙せていない”。そう思うと作戦を切り替える。

 「分かったわ。正直に言うわ。今でも働いている。でも、分かるでしょう? 都内で女の給料じゃ生活が大変なのよ。夜の仕事もやらないと生きていけないの」

 本当はホストにつぎ込んでいるのが最も大きい原因なのだが、それは言わなかった。

 「でも、誓って言うけど、あなたと会っているのは夜の仕事とは関係がないわよ。本当にあなたに私を好きになって欲しかっただけなんだから」

 こちらは本当だった。ただ、目的は彼を騙すため、だが。

 半ば開き直っての発言だったのだが、その飾らない態度が怪我の功名で真実味を彼に感じさせたようだった。“女性が一人暮らしで苦労している”という話が彼の琴線に触れてもいたのかもしれない。

 「なるほど。その話は信頼するよ。確かに君は一度も僕を夜のお店に誘わなかったし、僕みたいなタイプをわざわざ狙う理由も分からないからな」

 野戸大介は夜の店を好むタイプには思えないし、金満家のようにもまったく見えない。極一般的な並の社会人だ。だから彼の言う事はよく分かった。

 「でも、だとすると少し悪い気がするな。一応断っておくけど、俺は仮面を被っているよ。君はその偽りの俺を気に入っているんだ。もっともこの世の中で仮面を被っていない人なんて一人もいないだろうけどさ。それでも本当の俺を見たら君は幻滅するかもしれない。だからこのままでは健全とはとても言えないと思うんだ」

 なんだかかなり生真面目な性格をしているらしい。

 そのセリフを聞いて彼女はそう思った。

 “本当の自分”なんてどうでも良いじゃないか。彼女はそんなものが存在する事すら考えた事もなかったのだ。

 「ふーん。そう。なら、本当のあなたを見せてくれたら良いのじゃない? それで私が気に入るかどうか確かめてみれば良い」

 もっとも、どんな“本当の野戸大介”を見せられても、彼女は“気に入った”と言うつもりでいたのだが。

 彼は軽く溜息を漏らすと返す。

 「そうか。なら、見せよう。断っておくけど、多分、幻滅すると思うよ。だから、その心の準備だけはしておいてくれ」

 それから彼女は次の休日に彼と待ち合わせの約束をしたのだった。

 

 桐島真知は後悔をしていた。

 安易にオーケーを出してしまったが、野戸大介の“本当の自分”とは果たして何なのか。冷静に考えてみれば、それが真っ当なものとは限らないのだ。変態的な趣味を持っているのかもしれないし、下手したら何かしら犯罪に関わるような事をしているのかもしれない。

 待ち合わせ場所は一般的な繁華街の駅前で別段変わった点はなかった。ただ、もしかしたら彼女の知らない怪しい店が何処かにあるのかもしれない。

 “実はSM趣味とか……、それくらいの覚悟はしておいた方がいいわよね。スカトロまでいったら流石にアウトだわ……”

 三城との約束を果たせなくなってしまうかもしれない。ただ、野戸の人には言えないような秘密を握れたなら、充分に復讐に利用できそうではあるが。

 「やあ、待たせたね」

 考え込んでいると不意に話しかけられた。野戸だ。“待たせた”と謝って来たが、ほぼ時間通りだった。

 「いいえ、平気よ」

 と彼女はやや緊張しながら返した。彼の服装はカジュアルな安い量販店のものだ。お洒落に気を遣っているとは言い難かったが、それでもセンスは悪くなかった。ちょっと可愛い気もしないではない。

 「今日は、何処に行くの?」

 恐る恐る尋ねると彼は何でもない事のように「ああ、映画だよ」と答えて来た。

 “映画?”

 取り敢えず、犯罪ではなさそうだ。ただまだ安心はできない。何故彼が“本当の自分”などと言ったのかが分からないからだ。ひょっとしたらとんでもない変態趣味の映画なのかもしれない。異常に猟奇的なホラーとか。彼女もホラーは好きな方だが、あまりにグロすぎるのは受け付けない。

 そう不安になっていた彼女は、映画館の前にまで来て拍子抜けをしてしまった。

 「アニメ?」

 それはアニメ映画だったのだ。ただ、世間で言われるようないわゆるオタク趣味なものとは少し違っていて、毛がフサフサとしている不思議で可愛い生き物を飼う事になったOLの日常系ほのぼのコメディだった。

 釈然としないまま映画館に入る。映画は普通の映画だった。この中で危ないクスリの取引か何かがあるのではないかと少し勘繰ったがそんな気配もなかった。彼は映画に熱中していた。映画は中の上くらいの出来だった。まぁ、悪くはない。

 途中、彼の横顔を見てみると、何故か涙をこぼしていた。不思議な生き物が主人公と一緒にお風呂に入りたがるというなんでもない可愛いシーンで、どうして彼が泣いているのかが分からなかった。

 そのまま何事もなく映画が終わると、彼女はこう彼に尋ねた。

 「あの…… どうして泣いていたの?」

 何がどう“本当の自分を見せる”なのかが分からなかったが、奇妙な点があるとすれば彼が涙をこぼした点くらいだったからだ。すると彼は照れた顔を見せ、

 「ああ、気付かれちゃっていたか。恥ずかしい。我慢したつもりだったのだけど」

 などと応えた。恥ずかしいかどうかは置いておいて、どうして泣いたのかを教えて欲しかった。

 頭を掻きながら彼は続けた。

 「何歳くらいからだったか、もう忘れちゃったのだけどさ。あまりに可愛いものを見ると涙が出るようになっちゃったのだよね。あのシーン、とても可愛かったから」

 「はあ」

 まぁ、ちょっとは分からなくはない。が、結局、何が彼の“本当の自分”なのかは分からなかった。だからそのままを訊いた。

 「で、何が“本当の自分”だったの? 私はあなたの何に幻滅すれば良いの?」

 それを聞くと、彼はキョトンとした顔を見せた。そしてこう返す。

 「いや、だって君は俺を“とても男らしい”って言っていただろう? 今日見た通り、俺は可愛いものを見て涙を流すような男だよ。ちっとも男らしくない」

 その返答を受けて、彼女は思わず吹き出してしまった。

 「アハハハハ! 何それ? そんなこと?心配して損しちゃった」

 「いや、“何それ”って。幻滅しただろう?」

 「そうね。確かに幻滅したかもしれない。けど、却ってもっと気に入っちゃったかもしれないわね」

 それからやや深めに一呼吸すると、その後で彼女はゆっくりとこう続けた。

 「だから改めて、これからもよろしくね、野戸君」

 彼はやや釈然としなさそうな顔をしてはいたが、それで彼女らは付き合う事になったのだった。

 

 野戸大介は、桐島真知が想像をしていたようなタイプではなかった。三城から聞いていた話で、彼女は彼はもっと性格が悪いのかと思っていたのだが、少々真面目過ぎるきらいがある以外では、特に悪い点は見当たらない。もっとも、変わっていると言えば変わっているのかもしれなかったが。

 「キョンのジビエ肉が食える店があるらしいんだよ」

 そう言って彼は彼女をデートに誘った。しかも、その店は初めてで辿り着けるかどうかも分からないらしい。

 ちょっと面倒だ。

 もっとも、それは半分は彼女が悪い。何故なら、彼の趣味を尋ねてみたところ、彼が

 「珍食材探索ピクニック…… かな?」

 などという謎の単語を発したものだから、つい「私も行ってみたい」と彼女の方からお願いしてしまったからだ。

 ……今の時代、変わった食材が欲しかったのならネットで注文をすれば良い。だが、彼は敢えてそれをせず、変わった食材を食べられる店なり売ってる店なりを探し、そこまで実際に行ってみて食べるという事をするらしい。“食べる”だけが目的なのではなく、その店を探して歩くのも楽しいのだそうで、更に仮にその食材が不味かったとしても別に良いのだそうだ。因みにダチョウの卵は期待したほどではなく、殻ごと食べるウズラの卵は意外に美味しかったらしい。

 「――この店だ。間違いない」

 さんざん歩き回って野戸はその店を見つけた。キョンのジビエ肉が食べられる店だ。目的が目的だけに予約も何も入れていないが、流石に営業時間くらいは確認してあった。それほど客はいなくて、問題なく食事ができそうだった。

 もっとも、かなり迷ったのでお昼時は過ぎてしまっていたが。

 長距離を歩いてお腹を空かしていた所為もあったのかもしれないが、彼女はキョンの肉を美味しく感じた。台湾では高級食材というだけはある。シンプルに炭火で焼いたものも美味しかったが、彼女はカレーが一番気に入った(“カレーが美味しかっただけ”という説もあるが)。

 自分から「行きたい」と言った手前、断るわけにもいかないとイヤイヤ一緒に行ったのだが、意外に楽しかった。店を探して歩いていた時は多少苛立ったが、ようやく発見できた時の喜びのお陰か、終わってみればそれも含めて楽しかったような気がする。街中ではあるが彼が言うようにピクニックと考えるのなら、彼女があまり体験した事のない健康的な娯楽で、それが新鮮でもあった。

 「意外に楽しかったろ?」

 という彼の言葉に、彼女ははにかみながらも「まあ、そうね」と返していた。彼に気に入られようとして言った訳ではなく、本心だった。

 もちろん、彼女と彼はそんなデートばかりをしている訳ではない。普通に飲んだりもするし、買い物に行ったりもしていた。そうして、まるで普通のカップルのように、彼女と彼の距離は徐々に近付いていったのだった。その所為で、三城俊のホストクラブに彼女はあまり通えてはいなかったが、経過を報告すると彼は喜んでくれたので彼女はあまり焦ってはいなかった。彼の心は自分から離れてはいない。

 

 「上手くいっているわよ。彼、すっかりと私を信頼しているみたいなの。きっともう私を好きになっているわね」

 

 都内のカフェ。

 桐島真知は友人の立石望に向かってそう言った。立石は偶然、野戸大介や三城俊と同じ大学の出身で、野戸大介の情報を仕入れる為に少々頼ったので彼女も事情を知っている。

 「しかし、あんたも悪趣味よね。男を騙して惚れさせてからかってやろうだなんてさ」

 立石がそう呆れた声を上げると、頬を膨らませて桐島は返した。

 「あら? 悪いのは野戸の方がじゃない? 大勢の前で俊君に恥をかかせたのだもの。思い知らせてやらないと」

 立石は「まー、どーなのかしらねぇ?」などとそれに返す。三城俊の職業はあまり褒められたものじゃないと彼女も思っているのかもしれない。

 「でもさ、野戸君と一緒にいて疲れない? ずっと騙し続けなくちゃいけないのでしょう?」

 それに桐島は「ふふん」と返す。

 「全然。言ったでしょう? すっかりと彼に信頼されているって。むしろ一緒にいて安らぎを覚えるほどよ」

 その返答に立石は「え?」と反応をする。

 「彼といて安らぐの?」

 その疑問符を伴った声に、自分が思わず発してしまった言葉に気が付いたのか、桐島はやや慌てる。

 「もちろん、言葉の綾よ? それくらい完全に騙せているって話よ」

 彼女の態度を少し“おかしい”と感じたようではあったが、特に踏み込まず、立石は「なら、嘘だって知ったら物凄く傷つくのでしょうね、彼」と言った。責めているようにも聞こえたが、淡々とした口調だったのでそのつもりがあるかどうかは分からなかった。

 「ええ、もちろんよ。それが目的なんだもん。当たり前じゃない」

 桐島はそう返したが、強がっているように聞こえなくもなかった。“流石に多少は罪悪感を覚えているのかもしれない”と、それで立石は思ったようだったが、それ以外の感情があるとまでは疑っていないようだった。

 

 桐島真知はとても疲れていた。

 月末月初、彼女の事務仕事は極端に忙しくなる。各種業務の締めが集中しているからだ。夜遅くまで残業しているので、夜の店に出勤する事はできないしホストクラブにも行けない。ようやく仕事を片付け、家路に就く。疲れた身体を引きずって、なんとか電車に乗り込んだところで、仕事中に野戸大介からメッセージを受け取っててきとーに返していた事を思い出した。

 “どんな内容だったっけ?”

 と、メッセージを見返してみて驚く。彼は『今晩、君のアパートに訪ねても良い?』と訊いていたからだ。彼女は『オーケー』と返していたが、AIが自動で出して来た候補からほぼ無意識に選んだだけで特に考えがあった訳ではなかった。

 「……まいったなぁ。流石に今日は相手したくないよ」

 数日忙しかったので、台所には洗い物が溜まっている。彼が来るのなら片付けなくてはならないし、余計なお金はかけたくないので何か作らなくちゃならない。簡単なつまみで済ませるにしても手間は手間である。それに今日は酒を飲むよりもさっさとお風呂に入って寝たい気分だった。

 が、アパートに辿り着いた彼女は目を見開いて驚く事になる。

 「これ? 料理?」

 野戸大介がアパートの部屋の中で料理を作って待ってくれていたからだ。ちょっと前、飲んで送ってもらった時に鍵の隠し場所を教えていたのを忘れていた。

 「ごめん。勝手に入って。メッセージの返事がなくて、遅かったから、疲れているだろうと思ってつい」

 見ると、いつの間にか彼から追加のメッセージが入っていた。料理を作って来た旨と勝手に入って準備をして良いかという質問。彼女は疲れていてそのメッセージに気が付いていなかったのだ。

 普段なら無断で入った彼を怒っていたかもしれない。が、その時の彼女は感動の方が勝った。何しろ、台所は綺麗にしてあって、おまけにこれから作らないといけないと思っていた料理の準備までしてあったのだ。思わず嬉しくて泣きそうになってしまった。

 「ありがとう!」

 素直に感謝の言葉が出た。

 それから、照れた様子で彼は説明をした。

 「月末月初は事務処理が大変になるのは知っているし、君は生活が苦しいって聞いていたからきっと自炊だろうって思っていた。ちょっと俺の方は暇だったからさ、家事を手伝ってあげた方が良いかな?って思ったんだよ」

 “訪ねて良いか?”とメッセージを送り、“オーケー”の返事があったのなら外で夕食を済ませて来るとは思わないだろう。それもきっと判断材料の一つになっている。

 彼女が夕食を食べ始めると、その様子を彼は仕合せそうに眺めていた。彼女が美味しそうに食べるのが嬉しいのかもしれない。

 「洗濯物も片付けておこうかと少し思ったのだけどさ、それは流石にまずいかと思って止めておいたよ」

 彼がそう言うのを聞いて彼女は思わず、

 「それもお願い!」

 と言ってしまっていた。家事が楽になるのは嬉しい。彼に下着類を見られるのを加味しても。そして、

 「終わったよ。夜だから、外には干さない方が良いよね?」

 彼女が食べている間で彼は本当に洗濯をし始めてくれたのだった。

 “夢みたい……”

 台所が綺麗に、洗濯物も片付き、後はお風呂に入って寝るだけである。本当に寝るだけである!

 「良かった。やっと元気な顔になった」

 夕食を食べ終え、家事から解放されて喜んでいる彼女に向けて、彼はそう笑いかけた。そして、彼女が疲れているのを慮ってか、肉体的な欲求も全くせず、「ゆっくり休んで」と労いの言葉を残しつつ、彼は帰っていったのだった。

 彼女は心の底から彼に感謝をしていた。

 

 「聞いてよ。彼ったら、家に来て家事までしてくれたのよ? 料理もちゃんと美味しかったし」

 

 嬉しそうな声で、桐島は三城俊に向かってそう話していた。彼から電話があったのだ。野戸の厚意がよほど嬉しかったのか、彼女は自然と声を弾ませていた。ただその声を三城は別の意味に捉えていたようだったが。

 「そうか。そんな奉仕をするまで、あいつは真知にゾッコンになっているのか。流石、僕のファンの中で一番のいい女だな」

 などと言って来たのだ。

 “奉仕?”

 その表現が彼女には何か引っかかる。と言うよりも、ちょっとばかりムカッとしていた。そして、どうして自分がそのように感じるのかが分からず、“あれ?”と戸惑いを覚えていたのだが。

 “何か変よ。落ち着きなさい。私が今話しているのは私の愛しの俊君なのよ? ムカッとするはずがないわ”

 それから彼はこう続ける。

 「それくらいまで惚れさせたならもう良いだろう。そろそろあいつに本当の事を分からせてやろうぜ」

 “え?”と彼女は驚いた。

 「えっと……、まだ早いのじゃないかしら? もっと惚れさせてからの方が面白いのじゃない?」

 “野戸に本当の事を告げる”。それはつまりは彼と別れる事を意味していた。彼女は少しばかりそれに抵抗を感じていたのだった。

 「アハハハハ。これ以上惚れさせたら、お前、あいつと結婚しなくちゃならなくなるぞ? もう充分だって」

 三城は彼女の声の変化に気付かずにそう返す。

 「それに、そろそろ真知にもっと会いたくなってさ。寂しいんだよ。早く店に来て欲しい」

 甘い言葉に隠してあるが、本心は彼女が来なくなった事で下がった売上げを気にしているのかもしれない。そこまで考えていた訳ではないようだったが、桐島はやはり彼の言葉に抵抗を感じていた。

 が、それでもこう返す。

 「分かったわ、俊君。彼に本当の事を話しましょう」

 そうまで三城に言われてしまっては、彼女に断り切れるはずがなかったのだ。彼女は“自分は俊君の虜なのだから”と言い聞かせるようにして堪えていた。

 「オーケー。じゃ、計画を決めようぜ。あいつとデートの約束をしてくれ。そこに僕も一緒に行く。そこであいつに君が本当は僕の女だって教えてやるんだ」

 それにも彼女は頷いた。何かモヤモヤしたものを抱えながら。

 

 デートの日。

 桐島真知と三城俊は、早めに待ち合わせ場所に来ていた。少し離れた場所で隠れている。敢えて遅れて野戸を待たせた方がより屈辱を与えられて面白いと考えたのである。久しぶりに会う三城はやはり彼女にとってかっこ良く思えた。もっとも、野戸にはそれとは違った別の魅力があるとも感じていたのだが。

 場所は駅前の人通りが多い銅像の前だった。これもたくさんの人間の前でふられる事で、野戸により惨めな想いをさせてやろうという三城の悪趣味な計画だ。

 やがて野戸がやって来た。約束の五分くらい前だ。真面目な彼らしく時間に正確だ。彼の姿を認めても、直ぐには彼女達は出て行かなかった。より長く待たせてやろうという魂胆である。

 野戸大介はいつも通りのカジュアルな服装だった。桐島に会えると思っているからだろうがとても嬉しそうな顔をしていた。

 三城が笑う。

 「アハハハハ。これから自分がどんな目に遭うかも知らないで」

 彼は野戸の様子を撮影していた。後でネットにアップして、大学の仲間達と共有するつもりでいるらしい。もちろん、同窓会で恥をかかせられた意趣返しの為に。

 十分が過ぎ、二十分が過ぎた。当初浮かれていた野戸の表情は徐々に曇って来た。途中、何かあったかと不安になったらしく、彼は桐島にメッセージを送って来た。三城の指示で彼女はそれを無視した。その所為でスマートフォンを頻繁に確認している。彼女は罪悪感を少し覚えていたが、その様を見て三城は可笑しそうに笑っていた。

 「ハハハ。滑稽だな」

 三十分が過ぎた。そろそろ三城も飽きて来たのか、それとも野戸が帰ってしまっては台無しだと思ったのか、「そろそろ行くか」と桐島に声をかけた。

 「ええ、そうね」

 と、彼女は返す。

 あまり乗り気ではなかったが、精一杯に協力的な振りをした。

 敢えてよく見えるように、野戸の真正面から彼女達は近付いていった。どんなタイミングで気が付くのか、三城はワクワクしているようだった。桐島が来ないかと辺りを探していた野戸は、やがて彼女の存在を見つけたようだった。顔を明るくする。しかし、直ぐに三城が傍にいるのに気が付いたのか、眉を大きくへの字に曲げた。

 「え?」

 と、だけ彼が言ったのが分かった。どうして三城が一緒にいるのか不可解に思っているのだろう。だが不気味な予感を覚えているのか、徐々に不安そうに顔を歪める。

 「えっと、桐島さん? なんでそいつが……?」

 そう彼が言うなり、三城は桐島と腕を組んだ。

 野戸は驚愕の表情を浮かべる。それは直ぐに怒りを伴ったものに変わった。

 「お前! 他人の彼女に何やってるんだよ?!」

 それを聞くなり三城は彼を鼻で笑った。

 「他人の彼女? 何を言っているんだ? それはこっちの台詞だよ、野戸」

 三城はそこで彼女を抱き寄せた。抵抗したい気持ちをぐっと堪えて三城のなすがままに彼女はさせる。見る間に野戸の顔は歪んでいった。

 “まさか!”

 彼がそう思っているのがありありと分かった。

 三城はそれを見て嬉しそうに笑った。スマートフォンで彼を撮影しながら、

 「そうだよ。ようやく気が付いたのか? 真知は僕のファンの一人だ。僕がお前にされた仕打ちを話したら大いに同情してくれてね。復讐に手を貸してくれるって言ったんだ」

 その言葉で野戸は深い絶望を味わったようだった。

 「本当なのか、桐島さん?」

 彼女は何も返さなかったが、代わりに三城が彼女を更に抱き寄せた。抵抗をしない。それが返事になっていた。

 彼は拳を握りしめ、歯を食いしばり、そして二人を睨みつけた。その目を見て、不意に彼女は胸に痛みを覚える。

 “あれ? これ、なんだろう?”

 彼は怒りを堪えているようだった。目に涙が溜まっていく。それを見て彼女は思い出す。彼は意外に泣き虫だった。裏切られた悔しさと、失恋の悲しみと。きっと様々なネガティブな感情が彼の中に渦巻いている。彼の目から涙が零れた瞬間、三城は大笑いをした。

 「アハハハハ! 見ろよ、真知! こいつ泣き出したぞ?! 流石にここまでの無様をさらしてくれるとは思わなかったよ!」

 彼女は何も返さなかった。胸の痛みが激しくなっていくのを感じていた。

 しばらく三城は涙を流す彼を撮影していたが、何も反応がないのをつまらなく思ったのか、「もう、良いか」と呟くと、「もう行こうぜ、真知」と彼女に呼びかけ、それから、「ああ、楽しかった」と彼に聞こえるように言った後でその場から去っていった。彼女の手を見せびらかすように確りと握りながら。

 

 「いやぁ、上手くいったな。後でさっきの動画はネットにアップするとして、取り敢えず店に行こうぜ。打ち上げだ」

 野戸のいる場所から離れると三城が上機嫌でそう言った。桐島は言い難そうにしながら返す。

 「ごめんなさい、俊君。今日はなんだか体調が悪いみたい。また今度にするわ」

 実際、彼女は胸の痛みが治まらくなっていたのだ。それに、何とも言えない苦しい感情が頭の中をグルグルと回ってもいた。

 「そうか?」と彼はそれにあっさりとした口調で返す。彼女の顔色が悪いと気付いたのかこう続けた。

 「復讐の為とはいえ、あんな奴とずっと一緒にいさせたんだもんな。体調も悪くなるか。悪かったな、無理をさせて」

 その労いの言葉は、彼女にはまったく嬉しくなかった。彼女の“愛しの俊君”からの言葉であるにも拘わらず。

 

 ――数日後、

 桐島真知は、ホストクラブに来ていた。もちろん、お目当ては三城俊だ。ただ、あまり楽しんでいるようには思えない。

 “楽しいはずだ”

 という義務……、否、願いのようなもので無理しているようにも思えた。嫌な気持ちがずっと消えない。あの日、野戸大介をこっぴどくふった時以来。

 “なんだろう? どうしたんだ、私は?”

 表面上は明るく振舞っているのだが、彼女はそれが馬鹿みたいに思えていた。ただ、それでも美味しいお酒やつまみを食べている内に徐々に嫌な気分は忘れていった。単に酒に酔っているだけだったとしても楽になれるのならそれで良い。そう彼女は思っていた。が、

 「見てみろよ。あの野戸のふられ動画をネットにアップしたんだ。無様に泣いているところをサムネイルにしたからかな? 皆、見ているぜ」

 そう三城があの時の動画を見せて来た所為で、嫌な気分と胸の痛みが一気にぶり返した。大学仲間限定のコミュニティだから観られる範囲は限られているが、それでも酷い行為であるのは言うまでもなかった。

 「あの……、俊君」

 流石に注意しようと思ったのだが、喉のところで止まってしまった。初めから聞かされていた事だし、その上で自分は協力したのだし。何を今更?といった感じだろう。ただその代わり、彼女は、

 「気分が悪くなったの。帰るわ」

 と言ってそのまま店を出て行った。三城は彼女の様子の変化の理由が分からず首を傾げていた。

 

 その次の休日だった。

 相変わらず、桐島は気分が優れず、ずっと嫌な気分を抱えたままだった。

 野戸大介の事が頭から離れない。

 ショックを受けた時の彼の表情。自分を睨む目。それから何も言わずに涙を流していた時の顔。雨は降っていなかったはずなのに、何故か雨を連想していた。

 彼と付き合っていた日々も思い出す。彼を騙す為の演技だったとはいえ、それなりに楽しかった。特に月末月初で仕事が多忙だろうと慮り、家事を手伝ってくれた彼の厚意は嬉しかった。あの時は本当に助かったのだ。

 “あれ……、もしかして、私、彼に会いたがっている?”

 そう思ってから慌てて打ち消す。きっとこれは彼が家事を代わりにやってくれた事が嬉しかっただけなんだ。言わばお手伝いさんに対する感謝と同じ様なもの。恋愛感情とは別のはず。私は俊君一筋だ。

 無理にそう思い込もうとする。

 だが、そんなタイミングで立石望からメッセージが入ったのだった。

 『桐島? ネットにアップされていた野戸君の動画。流石に、あれ、やり過ぎじゃない? 彼、落ち込んじゃっているみたいよ?』

 それに反応して彼女はほぼ条件反射的に返していた。

 『彼、どんな様子なの?』

 本心から、彼を心配していたのだ。

 『聞いた話だから、私も詳しくは知らないわよ。酷く落ち込んでるもんだから、心配して宮野って子が彼を慰めているみたいなのよね』

 “宮野?”

 知らない名だった。恐らくは同じ大学なのだろう。言い方からして女だ。彼女は半分安心したような半分嫉妬したような複雑な感情を味わった。

 『でも、その宮野って子にはちょっとした問題があってさ』

 だからそう立石が続けたのを受けて直ぐにこう返してしまったのだった。

 『詐欺ってこと?』

 『いや、違う。ただ、ある意味、もっと性質が悪いとも言えるわね』

 『どーいうこと?』

 『天然だと思うのだけどさ、その気がないのよ。よく落ち込んでいる男を慰めるらしいのだけど、男の方は勘違いをしてそーいうのじゃないって分かって失恋。二度落ち込むってわけ』

 『何それ? 酷い女ね。そーいう悪気なしに傷つける奴が一番ムカつくのよ』

 『いや、あんたが言うなよ』

 それから少し考えると、彼女はこう立石に頼んでいた。

 『その宮野って女の連絡先は分かる? 教えてよ』

 『いいけど。どうするの?』

 『一言、言ってやるだけよ。いたずらに関わって傷つけるなって』

 『“一言”ねぇ。あんまり無茶しないでよ』

 そう言いながらも立石は彼女にその宮野という女の連絡先を教えてくれた。

 

 こじんまりとした喫茶店。

 約束の五分前に行くと、その宮野愛という女は既に来ていて、桐島を待っていた。真面目な性格のようだ。長い黒髪で眼鏡。見た目もそんな雰囲気がある。

 怒りにまかせて注意をしたら、まるで自分がいじめているように見えるのじゃないかと彼女は少し心配になった。そういう得な外見をしている。

 ちょっと嫌いなタイプだ。

 「あなたが宮野さんね?」

 席に着く前に確認をする。まずはどんな反応を見せるのか知りたかった。すると彼女は立ち上がって礼をした。

 「どうも初めまして。宮野と言います。あなたは桐島さんですね?」

 自分の外見の特性を分かっているのか、いかにも優しそうに見える立ち振る舞いだった。胸が自分より大きくて目立っていた。“こーいう女に男は弱かったりもするのよね”と少し彼女は苛立つ。

 「そうよ」と言いながら、席に座った。

 「野戸さんから話は聞いています。素敵な女性だって」

 「そう」

 “野戸さん”

 ……気軽に呼んでるんじゃないわよ。

 と、彼女は心の中で文句を言ったが、彼女の中で彼の呼び方に正解がある訳ではなかった。

 「経緯は知っているだろうから省くわよ? 単刀直入に言うわね。もうこれ以上は、彼に関わらないで。余計な期待をさせて、その気がないなんて残酷だわ」

 その言葉に宮野は不思議そうに首を軽く傾げる。

 「でも、あなたは彼を傷つける為に騙していたのではなかったのですか?」

 一番言われたくない指摘をされて、彼女は思わずカチンとなった。

 「だから! やり過ぎたって後悔をしているのよ! そもそも私自身は彼に何の恨みもなかった訳だし……」

 「なるほど」

 そう言うと、宮野は何事かを考えているようだった。

 「なによ?」

 その間を不安に思った彼女は堪え切れずに訊いてしまった。

 「いえ、彼はあなたは利用されただけじゃないかって言っていたんです。自分をふった時もそんなにノリ気に見えなかたって。わたしは、その……、失礼ですが、疑っていたのですけど。すっかり騙された彼があなたを信頼し切ってしまっているだけじゃないかって」

 その宮野の説明に彼女はちょっと喜んでしまっていた。彼が自分を信頼してくれている事が嬉しかったのだ。

 「……でも、こうして彼の事を想ってわたしに忠告にまで来るのなら、彼の方が正しかったのかもしれませんね」

 それから宮野は黙って彼女を見据えた。

 「あの…… 本当に彼を心配しているのなら、もう一度会って謝ってみてはどうでしょうか? ネットに公開しているあの悪趣味な動画も削除して」

 「なっ!?」

 と、それを聞いて桐島は驚く。

 「嫌よ! どうして、そんな事を……」

 宮野はまた首を傾げた。

 「でも、後悔をしているのでしょう? なら、それが一番では?」

 彼女はそう問い詰められて口を一文字に結んで目を伏せた。

 「動画の削除は私のじゃないからできるかどうかは分からないけど、三城君に言ってみるわよ。法律違反になっちゃうかもしれないって言ったら消すかもしれない。そろそろ飽きる頃だし。

 でも、野戸君と会うの嫌」

 彼女は自分でもどうしてそんなに嫌なのかが分かっていなかった。実を言うと、野戸に会いたいという感情は彼女に中にあった。しかも、かなり強く。だけど、同時に彼女は彼に会うのがとても怖かったのだった。

 「何故です? すべて騙していたのなら、謝るべきでしょう?」

 ほぼ反射的に彼女はそれに返していた。

 「すべて嘘だったって訳じゃないわよ!」

 そう言ってしまった後で気が付く。謝罪してしまったら、彼との日々が全部嘘になってしまいそうで嫌だったのだ。それで彼との関係が完全に終わってしまいそうで。

 男の感情には鈍いのに、こういった事には敏感なのか、宮野は彼女の態度に違和感を覚えたようだった。

 「……もしかして、あなた、野戸さんの事が本気で好きになったのですか?」

 そう問いかける。

 桐島は直ぐにそれを否定した。

 「違うわよ!」

 顔を赤くしていた。

 自分は俊君が好きなんだ。野戸君は別に好きじゃない。罪悪感があるだけ。思ったよりもずっと良い人だったから。

 そんな彼女を宮野は黙って見つめる。

 「そうですか」

 と言って軽く目を瞑ると席を立つ。

 「でも、もしあなたが本気で彼に会いたいと思っているのなら、わたしなら彼に話を通してあげられると思います。これは単なる勘ですが、きっと彼も喜びますよ」

 そして、自分の分の代金を机に置くと、喫茶店を出て行ってしまった。

 

 “何なのよ、あいつは!”

 

 次の日、彼女は突然の仕事が入って残業をした。宮野に言われた言葉が気になって集中ができず、仕事はあまり捗らなかった。その所為でやや遅くなってしまっていた。帰り。疲れた身体で電車に揺られている。これから帰宅して家事をこなさいといけないかと思うと辛かった。

 こーいう時は、疲れているだろう彼女を慮って家事をやってくれた野戸大介の事をいつも彼女は思い出す。

 そこで、不意に彼女のスマートフォンにメッセージが届いた。

 “まさか、野戸君?”

 そう思って見てみて驚く。三城俊からだったからだ。しかも、『これから家に行って良いか?』とそこには書かれてあったのだった。

 

 自宅に着くと、既に三城は部屋に入っていた。彼にも鍵の隠し場所を教えてあるのだ。少なからず期待していた。彼が料理を用意して待っていてくれる事を。が、その期待は脆くも崩れ去った。彼はリビングのソファに座り、勝手に冷蔵庫の缶ビールを飲み、つまみまで食べていたのだ。

 「あの…… 俊君。今日はどうしたの?」

 ビールを一口飲むと、悪びれる様子もなく「ああ、」と彼は返す。

 「ほら、最近、真知はなんだかあまり店に来てくれなくなったろう? だから、ケアしないとって思ってさ。お前は特別なんだって分かって欲しいんだよ」

 つまりは営業に来たのだ。

 「そう……」と返す。何か飲み物と食べ物を…… と思って既に彼がビールを飲んでつまみを食べている事を思い出した。ちょっと戸惑ったが、彼女はそれから、

 「じゃ、悪いけど、私、食事がまだだから簡単に作っちゃうね」

 そう言って冷蔵庫を開ける。すると、それを聞いて彼は、「お、悪いな」などと言うのだった。

 “はい?”

 と、彼女はそれを聞いて思う。どうやら当たり前に自分の分も作ってくれるものだと思っているらしかった。

 彼女は軽く混乱する。

 “えっと…… この人、ホストの営業に来たのよね? 客である私を喜ばすつもりなのよね?”

 彼が何を考えているのかが分からなかったのだ。

 「真知が作ってくれる料理、楽しみだなぁ。きっと美味しいんだろうな」

 冷蔵庫から食材を出す彼女を見て、そんな事を言っている。

 それで察した。彼は彼女が彼の為に料理を作れることを喜ぶと本気で思っているのだ。確かに時と場合によっては喜ぶかもしれない。でも、それは少なくとも、仕事で疲れて帰って来ている今じゃない。

 “それくらい分からないのか? この男は!”

 そう思っているタイミングで、彼は彼女に

 「得意料理で頼むよ。真知の料理を楽しみにして来たんだ」

 などと言って来た。

 “そんな食材、いきなり訪ねて来てあるはずないでしょーが!”

 彼女は心の中でツッコミを入れる。

 そして、

 “完全に目が覚めたわ。私が好きになるべき相手はこいつじゃない!”

 そう強く強く思ったのだった。

 

 ……いつかのカフェだった。野戸大介と初めて二人きりで会った。そこで桐島真知と彼はデートの約束をしたのだ。

 “本当の自分を知れば幻滅する”

 そのような事を彼が言ったのを彼女はよく覚えている。そのデートで、彼女は彼の事を本心から好きになったのかもしれない。その時は無自覚だったが。

 照れくさそうにしながら、桐島真知はやや緊張した面持ちで座っていた。後少しで彼がそこに来るはずだった。約束の時間よりも随分と早くに着いてしまったのだ。

 結局、彼女は宮野を頼った。宮野から野戸に連絡してもらい、今日の約束を取り付けた。

 五分前。

 もしも、まだ彼に彼女と付き合う気があり、怒っていないのならもう来てもいい頃だった。真面目な彼は、いつも待ち合わせの五分前には来ているようだったから。

 カラランッと、店のドアが開く音がする。静かな足音が近付いて来た。

 「お久しぶり」

 優しく穏やかな声。

 まだそれほど時間は経っていないのに懐かしく思える。

 野戸大介だ。

 「今日は隠し撮りなんかしていないよね?」

 辺りを見渡しながら、多少おどけた様子で彼は席に座った。彼女は嬉しくて薄っすらと涙を浮かべてしまった。

 「お久しぶり」

 とだけ言った。

 それからおずおずと彼女は口を開く。

 「まずは謝りたくて。あの日、裏切ってしまった事を」

 「裏切った事? 騙していた事じゃなくて?」

 「違うわ」

 と、それを彼女は強く否定した。

 「確かに三城君から“騙してこい”って言われて、私はあなたを騙そうとした。でも、そうはならなかった。だって、私は本当にあなたに恋をしてしまったから」

 真っ直ぐに彼を見る。

 「あの時はまだよく分かっていなかったの。でも、あなたを裏切った時から、ずっと私は胸が痛いの。何日経っても治らなくて。あなたに会いたいってずっと思ってて……」

 自分の想いが彼に伝わっているか不安だった。

 「だから、ごめんなさい。ずっと謝りたくて」

 その時、奇妙な事が起こった。彼女を見つめる野戸の瞳から涙がこぼれたのだ。

 え? なんで、泣いているの?

 奇妙に思ってデジャヴを覚える。こんな事が前にもあった。

 彼が言った。

 「あれ? ごめん。恥ずかしいな。堪えようと思ったのにできなかった。あまりに可愛いものを見ると、涙が自然と出ちゃうんだよ、俺は」

 その後で涙をぬぐうと、照れくさそうにしながら続けた。

 「そう言えばもう君は知っていたね。幻滅しちゃったかもしれないけど、こんな俺で良かったら、これからもどうかよろしく」

 彼女はそれを聞いて笑う。

 「大丈夫。確かに幻滅したかもしれないけど、却ってもっと気に入ったから」

 そして、そう仕合せそうに返したのだった。

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