第1話「エレナの結婚式編」
第1話「エレナの結婚式編」
青が深い眠りから覚めて半年が過ぎた…
何も変わらない日常………だった。
日々の何気ない風景が、いつもと変わらないように感じる。
その中で青は静かに生きていた。
周囲の人々も日常を送り、戦いの記憶は徐々に薄れていった。
だが、青の心にはどこか物足りなさが残っていた。
それは、かつての仲間たちと過ごした日々の熱狂からの余韻に、未だに引きずられているからかもしれない。
そんな静かな日々の中で、エレナの変化は明らかだった。
エレナの「時渡の眼」……
エレナは、あの日戦いの日からその能力が変わっていくのを感じていた。
彼女が持つ「時渡の眼」は、2秒先を視る力。
その力は、最初こそ断片的であったが、次第に鮮明に、そして圧倒的な力を持つようになってきた。
エレナが視る未来は、ただの予知ではない。
そのビジョンは時間を越えて、さまざまな可能性を映し出す。
ある日、エレナがふと立ち止まる。
穏やかな風が吹く中、目の前に広がる風景が歪み始めた。
その瞬間、彼女の視界が曇り、目の前に浮かび上がるのは、遠い未来の断片だ。
そのビジョンの中には、激しい戦闘の光景や、何かを守るために命を賭ける姿があった。
「…この力が…未来を視せている?」
エレナは心の中でつぶやく。
この力がもたらすものに対する不安と、それでも自分を守ろうとする気持ちが交錯する。
彼女はそのビジョンに巻き込まれぬように、深呼吸をして視線を落とした。
だが、未来視が消えることはなかった。
彼女の「時渡の眼」は、今まで以上に強く、そして彼女自身を圧倒しつつあった。
その力が彼女をどこへ導くのか、エレナ自身にもまだわからない。
エレナはその不安に取り込まれないよう、ゆっくりと目を閉じた。
そして、しばらく静かに深呼吸をした後、静かな声で自分に言い聞かせる。
「未来がどうであれ、私は…進まなければならない。」
その瞬間、彼女の「時渡の眼」が再び輝き出すのを感じていた。
「ママーーー」
「そろそろ時間だよー」
「ドレス決めにいくんでしょー」
今日は結婚式に着るドレスをリィナと一緒に選びに行く日。
「はぁーい」
「リィナ―ちょっとまってー」
エレナは何事もないようにいつもの笑顔でリィナの元へ駆け寄った…
「ママ―どれにするー?」
「やっぱり白もよいけど、トライデントカラーの青もよいね」
「ん~…あおにしようかなっ」
「パパの名前も青だしw」
「ちょっと着てみるね!!」
エレナは鏡の前でドレスを整えながら、ふと顔を上げた。その瞬間、視界が一瞬かすんだ。
未来がぼやけ、見えたのは…
何かが崩れる音。
そして、誰かの血の匂いが漂うような気がした。
手が震え、息を呑むが、すぐにそのビジョンは消えた。
気のせいだ…とエレナは思い込もうとしたが、胸の奥に冷たいものが残っていた。
その時、リィナの明るい声がエレナを現実に引き戻す。
「ママ、ドレス決まった?」
リィナはドレス選びを楽しんでいる様子で、エレナの元に駆け寄ってきた。
エレナはぎこちなく微笑み、リィナを見つめる。
「うん、決めたよ!」
「リィナ、どうかな?」
リィナはエレナの姿をじっと見つめてから、にっこりと笑って言った。
「すっごく綺麗! ママ、すごく素敵だよ!」
その言葉にエレナは心を少しだけ落ち着けた。未来視の残像がまだ心に残るが、今はリィナと過ごす幸せな時間を大切にしたいと思った。
「ありがとう、リィナ…」
そして、エレナはまた、未来視を感じたことを頭の中で打ち消す。
「ママ……」
「どうした?」
「なんかあった??」
リィナはエレナの不安を直感的に感じ取っていた。
「ごめんごめん!!」
「マリッジブルーってやつかなーー」
「よし!!」
「これに決めた!!!」
(今は…今を精一杯楽しもう…)
「リィナ~帰りにパンケーキ食べちゃう??」
「たべるぅぅぅぅぅぅぅぅ」
リィナと手をつないで店を出たエレナは、夕暮れの空を見上げる。
淡い茜色がゆっくりと空を染めていた。
…今を、精一杯楽しもう…
そう心に刻んだはずなのに、胸の奥のざわめきはまだ消えていなかった。
未来視の残滓が、まだ視界の隅に滲んでいる……
夜の帳が降りた頃、レオは静かに扉をノックした。
「入るよ」
そう言って扉を開けた彼の顔は、いつもよりほんの少しだけ緊張しているように見えた。
「エレナ、準備は順調か?」
「うん、なんとかね」
「リィナが張り切って手伝ってくれて……」
「はは、目に浮かぶな」
部屋には、かつてのような穏やかな空気が流れる。
戦火をくぐり抜けてきたふたりが、ようやく迎える平和な時間。
言葉は少なくとも、互いの気配が心を安らげる。
「そうだレオ!!」
「帰りにおいしいワインを買ってきたの」
「前祝いに少し飲まない?」
「良いね~!!」
「グラス持ってくるよ」
窓辺に座り、ワイングラスを重ねる二人……
「乾杯」
「カンパイ」
二人だけの前夜祭が始まった。
「……なぁ、エレナ」
レオがふいに声を落とす。
「お前とこうして並んで笑える日が来るなんて、昔の俺じゃ想像もできなかった」
「ずっと、後悔ばかりだった……」
「あの時、守れなかったことも……全部」
エレナはそっと微笑む。
「もう、過去は過去の話じゃない」
「レオがいてくれたから、今こうしていられる」
「ありがとう…レオ」
レオは一度だけ目を伏せ、深く息を吐いてから、彼女の目を真っ直ぐに見つめる。
「……俺は、お前のすべてを受け止めたい」
「過去も未来も…」
「エレナが視たその先すらも」
「未来が視えるんだろ?」
「たとえ何が待っていても、エレナとリィナが一緒なら何も怖くはない」
その言葉に、エレナの胸が一瞬だけ強く締めつけられる。
未来視がもたらす不確かさ、それを知ったうえで向き合おうとする強さに、心が揺れる。
「なんで…………??」
「わかったの?」
「これから、夫になるんだよ?」
「それにずっと君を見てきた…」
「何があっても…俺はずっと、君の味方だ」
エレナは少しだけ目を見開いた。
でもレオは、続ける。
「いや、違うな」
「味方とか、仲間とか、そういうの超えててさ」
「……俺、ずっと…エレナが好きだったんだよ」
一瞬、風が止まったように感じた。
エレナは言葉を失ったまま、ただ静かにレオを見つめる。
「変な話だよな」
「結婚式の前日に、こんなこと言うとかさ」
「……でも、言わなかったら一生後悔しそうだったから」
それは告白というより、祈りのような言葉だった。
エレナは微笑んで、優しく答える。
「ありがとう、レオ」
「あなたがいてくれることが、どれだけ私の支えになっているか」
「…言葉じゃ言い表せないわ」
「でも、今はまだ………」
「わかってる」
レオは遮るように言う。
「何も言わなくていい…」
「言える時になったら話してほしい」
「ただ、俺の気持ちはずっと変わらないってだけ、覚えててくれればそれでいい」
ふたりの間に、静かで優しい沈黙が流れる。
そしてレオは、ふっと柔らかく笑った。
「結婚式、ちゃんと来るよな?」
「来なかったら、追いかけてでも引っ張ってくるでしょ?」
「まぁ…それもありだな」
二人は同時に笑った。
その笑い声が、夜の帳に溶けていく中エレナは少しだけ未来を信じてみようと思った。
「さぁて……明日は主役だ。ちゃんと寝とかないとな?」
「うん…おやすみ、レオ」
「おやすみ、エレナ」
扉が閉まると、エレナはしばらくその場に立ち尽くした。
レオの言葉が、まだ心に静かに響いていた。
空は、もう夜に溶け始めていた。
…何も言わなくても、伝わるものが、そこにはあった。
ーーー結婚式当日ーーー
エレナとレオの結婚式は、穏やかな空気に包まれていた。
祝福の歌声が風に乗り、草花は軽やかに揺れ、陽射しは柔らかく降り注ぐ。
白いドレスのエレナが微笑む隣で、紺色の礼装を着たレオは、深い愛情を込めて彼女を見つめていた。
神父は二人を見守りながら、穏やかな声で言う。
「今、ここに立つ二人は、永遠の誓いを交わすために集まりました」
エレナはゆっくりと目を閉じた。
エレナが静かに口を開く。
「どんな時も、あなたと共に歩んでいきます」
レオの顔がわずかに緩み、彼は優しく頷いた。
「俺も同じだ。どんな困難も、エレナと乗り越えていく」
その時だった。
レオの手を取った瞬間、エレナの視界がほんの一瞬、白く霞む。
光の中に、まだ形にならない何かが揺れていた…
誰かの声、影、涙…けれど、輪郭は曖昧で、すぐに霧のように消えていった。
…また、来るの…?でも今は…
エレナは小さく息をつき、もう一度、目の前のレオを見つめた。
温かい手のぬくもりが、確かに彼女をこの場所へ引き戻してくれる。
彼らの誓いは、深い絆を感じさせるものだった。
そして、神父は二人を見守りながら微笑んだ。
「では、この結婚を神の名のもとに、認めます」
レオは、エレナの瞳の奥にわずかな迷いがあることに気づいていた。
それでも、彼女が自分の手を握り返してくれた瞬間…それだけで十分だった。
この先、何があっても…
彼女の隣に立ち続けると、改めて胸に誓う。
それが、自分にできる唯一で、最も強い約束だった。
二人は誓いの言葉を交わし、式は静かに進んでいった。
ゲストたちの祝福の言葉が続く。
リィナは少し涙ぐみながら、エレナの手を握りしめる。
「ママ…おめでとう!」
「ママが幸せそうで、私も嬉しい~」
「レオ、ママを泣かせたらリィナちゃんがぶっ飛ばすからね!」
「ママの事…よろしくお願いします」
リィナの言葉には、純粋な喜びと心からの祝福が込められていた。
次にmacotoが立ち上がり、グラスを高く掲げて、酔いの回るままにスピーチを始める。
macotoはワイングラスを揺らしながら、ふらりと壇の前へ出た。
「まあぁ、ついにこの日が来たのねぇ〜!」
「エレナちゃんもレオも、お似合いすぎて見てらんないわぁ〜」
くるりと回ってウィンクする。
「レオ…」
「これからは、あんたがエレナちゃんを守る番よ!」
「しっかりしなさい」
「あたし達の大事な娘なんだからぁ!」
ジョシュもまた、静かに祝福の言葉を紡いだ。
「エレナちゃん、よかったな!」
「これからも一緒に、たくさん笑って、たくさん泣いて、乗り越えていけよ。」
「レオ!」
「トライデントの誇りにかけて二人を守り抜けよ!!」
その言葉は、ジョシュの深い優しさを感じさせ、誰もが彼の言葉に耳を傾けていた。
オディゴスは、エレナとレオに一礼して、重々しく、しかし心からの祝辞を述べた。
「お二人が共に歩む道が、平和で満ち足りたものでありますように……」
「私、オディゴス、心より祝福申し上げます。」
そして、青は静かに立ち上がり、二人に微笑んだ。
「エレナ、レオ…おめでとう」
「本当に、心から祝福するよ」
「君たちが幸せでいてくれることが、僕の一番の願いだ。」
「レオ……エレナとリィナをよろしく頼む!」
青の言葉には、重みがあり、また家族のような温かさが感じられた。
最後に、トライデント隊員たちは整列し、真摯に敬礼をした。
「うぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!!!」
「隊長!おめでとうございます!!!」
「お二人の幸せを祈ります!」
その言葉に、会場は一層盛り上がり、みんなが共に祝福の瞬間を共有していた。
二人の幸せをお祝いする夜の宴が始まる。
場所は……エレナの丘。
音楽が奏でられ、皆が笑い合い、楽しいひとときを過ごしていた。
けれど、エレナの心には、ふとした瞬間に一抹の不安が走る。
未来の不確かな影が、彼女を包み込むように現れる。
けれども、今はその思いを心の奥に閉じ込め、ただ幸せな瞬間を楽しむことにした。
色とりどりの灯火が風に揺れ、誰かが奏でる笛に合わせて、リィナと子どもたちが楽しそうに踊っている。
レオは笑いながら、手酌でワインを注ぎ、ジョシュたちは無邪気な飲み比べに興じていた。
その光景に囲まれながら、エレナは静かに笑みを浮かべる。
…と、その瞬間………
「光」
白く、鋭く。
誰かの背中が、血に染まって崩れる。
「はっっ…」
エレナは瞬きをして、目の前の笑顔の輪に引き戻される。
音楽。歓声。祝福の言葉。
けれど、また。
「光」
赤い炎。
崩れ落ちる瓦礫。
…誰かが叫んでいる。
今度は長い。
意識が遠のく…その前に、レオの声が聞こえた。
「エレナ?」
肩を軽く揺すられ、視界が現実に戻る。
「…大丈夫……だよ」
そう応えた自分の声が、妙に遠く感じた。
再び、リィナの無邪気な笑い声。
マコトが酔って絡みつき、オディゴスが困ったように笑う。
だがその合間に。
「光」
砕けた剣。
ジョシュの叫び。
遠くで燃える、何か。
「またなの……」
エレナは立っているのが少しつらくなり、そっと丘の石に腰を下ろす。
「…ママ、顔、青いよ?」
リィナの声に、エレナは慌てて微笑みを作った。
「ちょっとだけ、疲れちゃったかな~」
「ありがとう。リィナ」
空は美しいほどに澄んでいた。
皆の笑顔も、どこまでも眩しい。
けれど。
その眩しさの裏に、何度も…何度も…何度も。
未来の断片が、容赦なく割り込んでくる。
まだ、見えない敵の影が。
確かに、そこにいた。
丘の石に座って空を見上げるエレナ…
そこに青が歩み寄ってきた。
エレナの隣に静かに腰を下ろした青は、少しだけ遠くを見ながら、優しく声をかけた。
「…いい式だったな」
エレナは頷き、小さな声で応えた。
「うん……夢みたいだった」
「レオの顔、すごく真剣だったよ」
「君の手を握ったときなんて、もう…泣きそうなかおしてたなー」
その言葉に、エレナは少し笑った。だがその笑みは、どこか遠い。
青はその微かな違和感を見逃さない。
「エレナ……」
「最近…何か…変化があるだろ…力に」
「…もしかして、何か視えたのか?」
「パパ……」
「やっぱり気づいて…」
エレナは視線を落とし、風に揺れる灯りを見つめる。
「うん……何度も…何度も…重なるみたいに…」
「見えない影が、近づいてくる…そんな感覚」
青は黙ってそれを聞き、ひと呼吸おいてから、そっと言葉を返す。
「エレナが笑ってくれていれば、皆も救われる」
「不安な時は…頼れよ」
「レオだけじゃなく、僕にも」
「パパ…ありがとう…」
そのとき、小さな足音が近づいてきた。
「ママ~!」
リィナが走ってきて、エレナの手をぎゅっと握る。
「さっきから、見てるのに気づかないんだもん!」
「…心配したんだから」
「ごめんね、ちょっと休んでたの」
リィナは青の顔を見て、にっこりと笑った。
「おじいぃちゃんねー……」
「泣いてたんだよーーーwww」
「リィナー!」
「内緒って言っじゃないかー」
青は肩をすくめながら笑い、リィナもクスクスと笑った。
「でも、ほんとに素敵だったよ、ママのドレス!」
「レオもかっこよかったし……」
「リィナ、ずっと忘れない!」
エレナはその言葉に、そっと目を細める。
「ありがとう、リィナ」
「ママも…今日を絶対、忘れないよ」
「ママ……」
「力が進化してるでしょ」
「ママの心の中が視えるんだ…」
「なんで言ってくれないの?」
「それは……」
「だーめ!!!!」
「私を誰だと思ってるの!」
「おじいぃちゃんの孫!ママの娘!!」
「リィナ……だぞ!!!!」
「ちゃんと話してよ…」
「みんなで乗り越えよう!!」
「そうだぞ!エレナ」
「僕たちは最強の家族なんだから!!」
「パパ…リィナ……」
「ありがとう!」
「まだぼんやりしか視えないんだ」
「だから…ちゃんと視えたらみんなに話す!!」
三人のそばを、夜風がそっと通り過ぎていった。
その温もりは、まるで静かな守りのように、エレナを包んでいた。
と、不意に。
草を踏みしめる微かな音。
それは、どこか懐かしくも張り詰めた空気を運んでくる。
エレナが顔を上げると、ゆっくりとこちらに歩み寄ってくる人影があった。
青が身構えてぎゅっと拳を握る…
白い服に身を包み、長く美しい白髪が風に揺れている。
まるで月の光を纏うような…その姿は、どこか神秘的で…どこか、見覚えがあるような…。
女性は微笑を浮かべながら、ゆっくりと近づいてきた。
「…よい夜ですね。風が…やさしい」
エレナも、青も、リィナも…言葉を失ったまま、その存在を見つめていた。
その女性は、まるで三人の心の中をすでに知っているかのように、柔らかく語りかける。
「エレナ…あなたの中で、力が目覚め始めています」
「それは…大きな選択の先にあるもの」
「けれど、決して一人で抱えてはいけません」
エレナは、ゆっくりと立ち上がった。
「あなたは……誰…?」
女性は小さく微笑むだけで、名を語らない。
「視る者は、時にその光ゆえに迷います」
「けれど…あなたには、声がある」
「呼びかけ、手を取り、信じることができる」
「どうか、それを忘れないで」
その声は、どこまでも澄んでいて、心の奥に染みわたるようだった。
リィナがエレナの手を強く握る。
青も、目を細めたまま、静かに警戒を解いていく。
そして…静かに歩を進めてきた別の影が、その沈黙を破った。
「……その声……間違えるはずがありません」
「…母上様……お久しぶりでございます」
その名を口にしたのは、オディゴスだった。
驚きに満ちた一同の視線が、白い女性に集まる。
彼女は、微笑んだまま、オディゴスの名を静かに呼んだ。
「…オディゴス……あなたも、よくここまで来ましたね」
その瞬間、月明かりが雲間から差し込み、彼女の姿を照らし出す。
その全てが、あの白いフクロウの記憶と重なった。
「アジェリィ」
かつて力を授けし、エレナの丘に佇む存在。
過去を知り、未来を見守る、魂の導き手。
青は息を呑み、リィナが小さくつぶやく。
「…あの時の……」
エレナは、胸の奥に残る、あの白い羽の記憶を思い出していた。
そしてようやく、目の前の女性に向かって小さく呟いた。
「…アジェリィ……なの…?」
女性は、何も言わずに…ただ、静かに頷いた。
アジェリィは、ゆっくりと歩みを進め、エレナたちの正面に立つ。
その姿はまるで、時を超えてこの夜を見守り続けていたかのようだった。
彼女は、エレナの瞳をまっすぐに見つめ、そっと手を差し伸べた。
「エレナ…今日は本当におめでとう」
「心から祝福するわ」
アジェリィが話を続ける。
「エレナ…あなたの中に宿るものは、もう視る力を越えつつあります」
「それは…選ぶ力…そして、導く力へと変わろうとしている」
エレナの胸の奥が、きゅっと締めつけられるように震える。
「けれど、その進化には…代償も伴います」
「視えすぎることは、時に自分を見失う危険もある」
「今夜、あなたが感じていた重なりは…その兆し」
エレナはそっと唇を噛み、言葉を飲み込んだ。
青が寄り添うように肩へ手を添え、リィナは不安そうにエレナを見上げる。
「でも…私は、怖くなんてない!」
「…この子がいる……」
「みんながいる……」
「私…私はもう、逃げたくない!!」
エレナの声は震えていたが、その目は真っ直ぐだった。
アジェリィは小さく頷く。
「その決意こそが、力を真に形へと導きます」
「…それでも、迷いが訪れるでしょう」
「自分では選べない夜もあるかもしれません」
「だからこそ、今日を祝福として、胸に刻んでおきなさい」
「この夜は…あなたの芯となるものです」
アジェリィはそっとリィナの頭を撫でる。
「あなたも…同じように、強くなっていく」
「けれど、その強さを…決して一人のものにしないように」
アジェリィがリィナの手を取っていたそのとき…
ふと、リィナが顔を上げた。
その小さな胸に、何かが強く鳴った。
…コトン…
響いた音は、まるで鐘のように深く澄んでいて彼女の心の奥に、何かが芽吹くのがわかった。
「…ママ……?」
リィナがぽつりと呟いた瞬間、エレナの視界に、鮮やかな光の帯が差し込んだ。
それは声ではない。
…でも、確かに、リィナの想いが…流れ込んできた。
…ママが、怖がってる。
…だけど、守りたい。
…ママは一人じゃないって、伝えたい。
エレナの脳裏に、リィナの視界が広がった。
小さな頃、エレナに抱きしめられて笑った日。
青に肩車されて、空を見上げたあの瞬間。
オディゴスに褒められて照れた日。
その全てが、波紋のように心の中に押し寄せる。
「これ……リィナ、あなた……今……!」
リィナの目が一瞬、淡く光った。
「うん……さっき、パァンって、音がして……」
「頭の中に…ママに、見せたくなったの…」
「ちゃんと、届いてた?」
青が目を見開いて呟く。
「これは……共鳴が…感覚まで伝わっているのか……」
「いや、それ以上…今のは…幻影だったのか?」
そして再び、エレナの周囲の空気が微かに揺らぐ。
ふと、目の前に光が浮かんだ。
それは、まるで空気を包む膜のように…形を成していく。
次の瞬間!そこに現れたのは、リィナの想いが作り出した、小さな幻。
…それは、エレナとリィナが手を繋いで丘を歩く姿。
温かな笑い声が、空に溶ける。
確かに、そこに感じていた。
「……これが…心音共鳴の、進化…?」
アジェリィが、優しくリィナの頭を撫でた。
「あなたの心が…成長した証ですね、リィナ」
「共鳴は…ただ繋がるだけでなく、想いそのものを、世界に映す…」
「それは、世界を癒す光にもなり得るでしょう」
リィナは少しはにかみながら、エレナに抱きつく。
「ママ…もう、隠さなくていいよ」
「私がこれからもっと…ママの力になる!」
エレナは目を潤ませて、リィナを抱きしめ返した。
「うん…ほんとに、ありがとう」
「リィナの想い…ちゃんと届いたよ」
リィナはまばたきをして、小さくうなずいた。
そのとき、風がまた優しく吹き抜けた。
アジェリィの髪がふわりと舞い、白い布が夜空に溶けるように揺れた。
「私はもうすぐ、また遠くへ還ります」
「けれど、あなたたちの歩む先に…道は必ずある」
「忘れないでください」
「選ぶことを恐れなければ…未来は変えられる」
そう言うと、アジェリィはそっと一歩後ずさり…空を見上げた。
その目は、どこか懐かしい場所を想っているようだった。
「…母上…」
「私は…いったい…」
オディゴスが言葉を継ごうとしたその瞬間、アジェリィは優しく微笑みながら首を横に振った。
「あなたの使命は、もう始まっています…オディゴス」
「それを忘れずにいてください」
「あなたが導くのです」
「はい。母上」
白い光が、彼女の周囲を包み始める。
月明かりではない…それはまるで、天と地を繋ぐ静かな輝き。
「ありがとう…私の愛する子たち」
そう言い残して、アジェリィの姿は静かに…夜の風の中へ溶けていった。
一陣の白い羽が、ふわりと舞い落ちる。
エレナはその羽を、そっと手のひらに乗せた。
「…私は…間違わない」
「この力で…この未来を…守ってみせる」
その誓いは、夜空に刻まれるように響いた。
アジェリィが風に溶けるように姿を消し…
白い羽が、ゆっくりと地に落ちる。
その静寂を破るのは…誰かの「視線」だった。
どこか、遠く。
エレナの丘を見下ろす、断崖の上。
闇に溶け込むように立つ黒い影。
その目は、微かに赤く光り…
何も言わず、ただ静かに…その光景を見下ろしていた。
風が、音を変える。
葉がざわめき、空の雲が流れを早める。
ふと、リィナが首をかしげた。
「……今、誰か……」
エレナが振り返るが、そこに何もいない。
ただ、夜が深まってゆくだけだった。
…だがその背後で…
黒い羽根が、一枚。
黒い羽根は、風に抗うことなく
けれど、地に落ちることもなく…
そのまま、夜の闇へと…消えていった。
その瞬間…
エレナの視界が、突如として裏返る。
…来る…また……
閃光が脳を走り、心臓が跳ねる。
焼けるような空。
崩れ落ちる大地。
叫び声と…リィナの泣き声。
その奥に…何かが立っている。
黒い影。
いや……これは……
「…来る」
「……三年後……」
「この未来に……」
目を見開くエレナ。
口から息が漏れ、身体が揺らぐ。
「大丈夫だ!」
「みんなで乗り越えよう!!」
青が優しく…大きく……エレナを抱きしめた・
「おーーーーーーい!エレナーーー!!」
聞き慣れた、あたたかな声。
振り返ると、丘の向こうから手を振るレオがいた。
満面の笑みを浮かべながら、仲間たちの輪にエレナを呼んでいる。
「こっちにおいでよー!」
その声に、エレナは…一度だけまぶたを閉じた。
恐怖と希望が交錯する未来を胸に秘めて。
「レオーーーーーー!!」
「いまそっち行くね~」
「みんな!行こう!!」
歩き出す
丘の上へ歩き出す…光のほうへ。
そして夜空に、ひときわ大きな星が瞬いた。
狭間の暁 ―After the Fall―
「エレナの結婚式編」完