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第四章

     第四章


 クロスノウのみなが部屋を出て行ってしばらくしてから卓郎は目を開けた。部屋には粉々につぶされたAI博士、倒れて身動きしないチャムチャム、そして目を見開き放心した様子のアーイシャだけだった。

 ゆっくり考えさせるためだろうか。ドクター瀬奈良は出て行くときに部屋の照明を切っていった。あとは壁のパネルに星のように輝くLEDのランプのみ。ランプの淡い証明が隣のアーイシャの正面を照らす。

「ふざけるな!」

 卓郎の腹の底からふつふつと怒りがこみ上げてきた。ドクターに考えさせてくれと言ったのは、あのままなにかをしゃべったら怒りのあまり叫びだしそうな気がしたからで、もとより最初から協力するつもりは全くない。モニターに映されたいじめられっこたちの悲惨な姿が目に焼きついている。あれは全て卓郎だ。いじめられっこだった卓郎の分身に等しい。彼らの痛みは卓郎のものであり、彼らのための怒りは他人に否定された自分の存在を肯定するがゆえの怒りだった。

「絶対に許さない」卓郎はこぶしを握ったが、かせにつかまれて身動きできないのは変わりなかった。

「い、いや……いや……」

 卓郎が振り向くとアーイシャの目から大粒の涙がぽろぽろと流れ落ちていた。全身が震えている。

「いやよ! ゾンビになるのはいや! 心を失いたくない! 人間でいたい! 助けて!」

 身をよじる。鎖がふれる。

「落ち着くんだ、アーイシャ。きみは強い女の子じゃないか」

 意外に冷静な卓郎の言葉にもアーイシャの動揺は収まらなかった。

「わたし……おかあさんとおとうさんが……」


 アーイシャの両親はアーイシャを連れてスーダンへ引越しした。あるとき父親の出身村でクロスノウのバイオハザードが発生し、Zウイルスに感染した村人が荒れ狂った。父は扉を破って侵入してきた感染者と格闘し、自分もZウイルスに感染してしまった。日本女性である母親は気丈な人で最初は父親をなだめようとしたが、父が外の銃声で興奮し家族を襲ってきたときにアーイシャをかばって室内で乱闘になった。そのはずみで灯油ランプが倒れ、部屋は火の海になった。かつて父親だった感染者に足をつかまれながら、母親は必死にアーイシャをガレージに通じる扉へと送り出した。アーイシャが最後に見た両親の姿は、ゾンビ化した父親につかまれる母とその回りで燃え上がる火の海だった。


「わたし……なんども叫んだの。「おとうさん! おとうさん! 目を覚まして!」って。お父さんは背が高くて、とても優しかった。日本の学校でいじめられたわたしをいつもなぐさめて……「アーイシャ。わたしのかわいい娘」って。お母さんは勇気があった。わたしがいじめられて帰ると「しっかりしなさい。私は武士の家系だった。あなたのお父さんにも戦士の血が流れている。めそめそしてはだめ」と言っていた。でも、でも、忘れられないの。あのお父さんが白目をむいて、わたしの声が全然届かなくって。わたしは自分が死ぬのは平気。身体が変わってしまうことも。でもゾンビになってしまうのはいや。心を失うのはいや!」

 そういうと再びアーイシャはめそめそと泣き出した。普段のアーイシャを知る者からは考えられないほどの弱さだった。

「きみのせいじゃない。きみのせいじゃ」

 卓郎はなぐさめようとしたが、アーイシャはかぶりを振ると叫んだ。

「それだけじゃないの。それだけじゃ」

「わたし……怖かった。ガレージに隠れていて、仕切りのドアの向こう側からお母さんがドン、ドン、ってドアを叩いて……すきまから燃えた真っ赤な手がのびてきて……それでわたし怖くて力いっぱいドアを閉めたの……お母さんもゾンビになってしまったと思って。「お願い死んでー! 死んでちょうだい!」って叫んだ。後でもしかしたらあのときお母さんは意識が残っていて助かりたかったんじゃないかって。今でもときどき考える。あのときのこと。真っ暗な室内に燃える炎……」

 涙でいっぱいのアーイシャの目を見て、卓郎は自分でも身動きできないのにも関わらずアーイシャのことを限りなく愛おしく思った。こんな少女がそんなにも重いものを持っていたのだ。でも男なら、ヒーローなら、励まさなくちゃ。

「しっかりしろ。アーイシャ!」

 卓郎の言葉にアーイシャはびくんと身体をこわばらせた。

「きみはアンデッドマン――いじめられっ子だろ。自分がいじめられたときのことを思い出せ。いじめられた辛いことを思い出せば、どんな苦しいことにも耐えられるはずだ」

 アーイシャは急に静かになった。

「涙を拭いてあげたいけれど、あいにく今ハンカチを持っていないんだ」

 アーイシャはぽつんと言った。

「あんたすごいね」

 目を閉じたまま頭を振った。

「やっぱりあんたはわたしよりすごい。最初からそう思ってた」

「そうかい」

 卓郎は恥ずかしくてちょっと顔をそむけた。話をそらした。

「とはいえ、どうやってここから脱出しようか」

「脱出? 脱出できるつもり?」

「ヒーローならあきらめない。ぼくはアンデッドマンだ。きみも……そうだろ」

「わたしは……わかった。がんばる」

 うなづくアーイシャ。しかしどうやってがんばるのか、卓郎にも分からなかった。

 卓郎が薄暗い部屋を見回して思案していたとき……

 小さな影が身動きした。

 それはちょっと鼻だけ宙に上げて確認し、用心しながら起き上がった。

「チャム!」

 チャムチャムは何事もなかったように卓郎に走りよった。

「忘れてた。チャムチャムのオリジナルはオポッサム(フクロネズミ)だから、オポッサムに生態が似ているのよね。死んだまねが得意なの」

「チャムか。なんとか助けてくれないか」

「できるわよ。変身してみて」

「へ?」

「チャムは動物型のセルシューターよ」

「え、本物じゃないの?」

「人工知能。クロスノウのゾンビ兵士研究の副産物」

 だからブリーフケースの中でも生きていられたんだ。

「さあ、変身して」

「分かった。変身チェンジ! アンデッド」

 卓郎が叫ぶとチャムチャムはやってきて卓郎の身体によじ登り、卓郎の手にかみついた。そのまま卓郎の身体にワクチンを注射する。

 ウロロロロロロー。

 卓郎はアンデッドマンに変身した。

「で、どうするか」アーイシャがなかばあきらめの調子で言う。「アンデッドマンでもこの鎖は引きちぎれないし」

「任せて」卓郎は心を集中した。自分の心の中に危機感を生み、Zウイルスにメッセージを伝える。生き延びるために変化しなければいけないんだ。

 卓郎の目がせり出し、全身からコンデンサの音がした。

 Zレーザー!

「無理よ。この鎖はレーザーでも切れない」

 卓郎はひるまなかった。

「切るのは……こっちだ!」

 ヴン。

 Zレーザーの光が空間をなぐと一瞬後、肉の床に落ちるいやな音が聞こえて卓郎の両手首が落ちた。卓郎は両腕が自由になってがっくりとひざをついた。が、まだ終わりじゃない。

 卓郎は再び強く念じた。強大な電気が使えるのなら、うまくいくかもしれない。

 背中がぐうっともりあがり、コンデンサがより強い電圧を溜めている。

 ゾンビ・ボディ・アンプリファイド・コントロール!


――ウイルスは電波によって短きょり通信できる。「ゾンビ・ボディ・アンプリファイド・コントロール」とは、細ぼうに電気を流し、一時的に電磁石を使って切りはなされたパーツを操る技である――


 切り離された両手首はいま、卓郎の意思に従って少しずつ動き始めた。最初は指を使って匍匐前進のように床をはいずって行ったが、その内操作に慣れてくると二本指ですたすたと歩けるようになった。

 二本の手首は壁際まで行くと互いに一度うなづいてから一人(一本?)が踏み台に、もう一人がその上に乗ってプッシュアップし、壁のスイッチやレバーといった突起につかまり、お互いを引っ張り上げ、互いに協力し合いながら少しずつ上へ登っていった。

 そしてついに卓郎とアーイシャの縛めを制御しているスイッチまでたどり着いた。二人はプッシュアップを利用してボタンを押した。ウィンチが回る音が聞こえ、まずアーイシャが、続いて卓郎を吊るしていた鎖がゆるんで床にとぐろを巻いた。アーイシャは床に寝そべってため息をついた。

 続いて別のボタン操作で、足かせがはずれた。後はアーイシャの手かせだけだ。これは大きな鍵穴がついていて電動ではないようだ

 卓郎は壁際に寄ると、自分の両手首を拾い、てぶくろをはめるようにしてくっつけた。Zワクチンの治癒能力で直ちに細胞同士が癒着する。

 卓郎はアーイシャを振り替えった。アーイシャがうなづく。すでにZワクチンを接種し、アンデッドマンに変身を完了している。

「ちょっと痛いけど我慢して。鍵が見つからないんだ」

「大丈夫」

 ヴン。

 卓郎はZレーザーでアーイシャの手首を切断すると、手かせを抜いた。すぐに手首をひろってぺたんと座り込んでいるアーイシャの腕に婚約指輪をはめるかのようなしぐさで手首をそっとつなげた。卓郎はそのまましばらく動かないでいた。それからそっと両手首を離すと、アーイシャの手首は無事癒着していた。

 二人は顔を見合わせてにっこり(ニヤリ)とした。

 さあ、脱出だ! いや、逃げるためにわざわざ苦労してここまで来たんじゃない。クロスノウの野望を阻止するために来たんだ。

 ドアがゆっくりと開いた。

 卓郎とアーイシャは互いに顔を見合わせ、うなづくとドアから走り出た。


     *


 クロスノウ基地の長い廊下を走りながらアーイシャは聞いた。

「ねえ。いろいろな技って、どうやったら発動するの?」

「強く願うんだ。怖くて叫びだしたいくらいの気持ちでZウイルスに話しかけると、ウイルスはそれが分かるみたい」

「ウイルスが?」

「うん」

 卓郎は横を振り向いた。「でもなんで?」

 アーイシャは正面を見たまま答えた。

「わたし、このままだと足手まといだから」

「いや、足手まといじゃないよ」

「もっと強くなりたいの」

 走り続けながら、再びアーイシャは言った。

「ねえ。全然違う話だけど」

「なに」

「わたしのセルシューターとチャムチャムを交換しない?」

「え、いいけど。なんで?」

 アーイシャのセルシューターは拳銃型をしていて、圧搾空気でワクチンのついた針を飛ばす。十メートルくらい飛ぶから武器としても使える。4DSを壊されてから卓郎はチャムチャムを肩に乗せて変身できるようにしていたが、それをアーイシャは換えてくれというのだ。

「だってほら」アーイシャは走りながらもじもじした。「魔法少女ってかわいい動物の力で変身するじゃない」

「へ」

 卓郎は思わず笑った。なんだか今日のアーイシャはらしくないことばっかりだ。

「なによ。わたしがかわいいもの好きだと変?」

「いや、そうじゃない。いいよ」

「じゃあ、チャム、おいで」

 チャムがアーイシャの肩に飛び移るとアーイシャは胸元をあけ、チャムチャムを中にしまった。それからアーイシャは拳銃型セルシューターを放ってよこした。卓郎はそれを受け取った。アーイシャの体温がまだ残っている。卓郎はそれをズボンのポケットに押し込んだ。


 廊下が終わり分岐となる大きな広間に出た。広間は円形で天井も半球形だ。八方に出口があり卓郎たちが走ってきたような廊下が続いている。

 二人が円形広間の中央までくると、突然全ての出入り口にシャッターが降りた。閉じ込められた。敵はどこだ。二人は構えた。


「アンデッドマンたちを扱うときに心しておかなければいけないことがある」

 声が聞こえ、柱の陰からレオンが現れた。すでに拳銃を抜いて構えている。

「それは見かけが子供であることにだまされてはいけない、ということだ」

 正面に立って二人に対峙した。

「研究所の連中は毎日いじめられっこを実験材料にしている。彼らの弱さ、覇気のなさを見ていると彼らが超人となることなど忘れてしまうものだ。得てしてそれが油断につながる」

「だが、このおれは違うぞ。人間の代表として全力でお前たちを狩る。ドクターはお前の脳内の抗体を惜しむだろうが、ゾンビを倒すには頭を打ち抜くしかない。行くぞ!」

 そう言いざま、レオンは身を低くして走り出した。卓郎もレオンに向かって前進したが、足になにかが引っかかる感触の直後……

 ドオーン。

 床に巧妙に指向性地雷クレイモアが仕掛けてあり、それが起動したのだ。卓郎は全身を鉄鋲で貫かれて床に転がった。

 アーイシャは天井近くまで飛び上がったが、梁をつかんだとたん悲鳴を上げて落ちてきた。梁には高圧電流が流れているらしい。

 卓郎はZレーザーの準備をした。全身の細胞を変化させて発電するとコンデンサの音が聞こえる。

 レオンが左手を振りかぶると人工衛星の太陽電池のように左腕に鏡が展開して盾のようになった。

 卓郎はZレーザーを放ったが、レーザー光線がレオンの構えた盾にぶつかって跳ね返った。

 Zレーザーを跳ね返す盾!

 盾以外のかしょをねらって撃たなければ。

 レオンが左手でなにかを床に放った。爆発音とともに煙幕がさあっと広がった。

 視界を奪ってZレーザーを封じるつもりだ。床すれすれにZレーザーを撃ってもいいが、アーイシャに当たる恐れがある。

 卓郎はアーイシャの元へ走った。アーイシャがまだ倒れているのを確認してからZレーザーで床上五十センチくらいの高さをなぎ払った。

 手ごたえはない。

 ククク

 レオンの声が聞こえた方へZレーザーを撃ったが、反応はなかった。今度は反対側から靴音が聞こえる。人間がそんなにすばやく移動できるものだろうか。

 アーイシャが立てることを確認して卓郎は靴音がした方へ走った。こつんとなにかを蹴飛ばした。よく見ると小型のスピーカーだ。レオンはこれを無線であやつって幻惑したらしい。

 だまされてはだめだ。

 卓郎は身を伏せて全身を耳にした。スピーカーの音ではなく、レオン本人の気配を読み取らなければ。卓郎が聴覚にすべての神経を集中したとき。

 ギュアーン、ギュアッ、ギュアッ、ギュア

 突然の爆発閃光騒音。

 卓郎の軍事知識では音響爆弾スタン・グレネード。音と閃光で敵を幻惑する爆弾だ。「聴くこと」に全神経を集中していた卓郎はその影響をもろにくらった。頭の中がぐちゃぐちゃになり、立っていられず、ふらふらとひざをつく。

 これまで全てレオンのペースでやられた。やはり経験もないにわか戦士は百戦錬磨の老練なレオンのような男にはかなわないのだろうか。

 頭を抱えてしゃがみこんでいる卓郎の後頭部に固い感触が当たった。

「チェックメイト」

 レオンが引き金を引くのが分かった。

 ぱんっ

 銃声を聞きながら卓郎は意識を失った。


     *


 卓郎は混沌の中にいた。

 闇の中に薄ぼんやりとした光が見えるが身体の感覚はない。

 自分がなにを考えているのか明確に言葉にできない。ちょうど深海で酸素が足りずに脳の酸素消費量を押さえて知性が低下したときと少しだけ状態が似ている。

 今の卓郎には物事を「言葉」にして概念を「固定化」する力が欠けているようだった。

 そのような状態で、いやそのような状態だからこそ、彼らの「言葉」がわかった。

 「言葉」? いや言葉ではない。言葉は人間がお互いにコミュニケーションするための不完全な手段。共通の感情を持ち、共通の感覚器を備えていなければ共有することができないもの。

 ある人が感じる「甘い」と他の人が感じる「甘い」は違う。「赤い」とはなんてあいまいな表現だろう。赤色には深い赤、朱色、紅、夕焼けの色と様々だ。自分が「赤い」と言ったとき相手は別の色を想像して「赤い」と理解する。共同幻想に基づいた誤解による理解。

 犬には色は分からないが嗅覚は人間よりはるかに優れている。そんな犬に赤と青のことを説明できるか。

 コウモリは目が見えない。超音波の反響でものの形をとらえている。そんなコウモリと雲の形の絶妙さについて会話できるか。

 人間の知性と他の生物の知性には断絶がある。

 しかし人間に理解できる知性がないから劣っているといえるだろうか。

 Zウイルスには人間のような知性も見ることのできない概念を伝えるための言語もない。しかしそれは宿主の欲求に応じて人間のテクノロジーができないような細胞の変化を実現する。

 Zウイルスに感染した人間たちはどのような会話もしない。しかし彼らはときとして一糸乱れずに行動する。

 言語に代表される人間の常識的な知性や感覚を失った状態の卓郎は、その状態でZウイルスと「気持ちを交わ」した。

 卓郎は言葉や概念でなく、細胞を融合し、お互いに血をめぐらせることで彼らの意思を会得した。

 そして卓郎は欲求した。それはZウイルスには明確なメッセージとなったのだろうか。

 生きたい。自己を保ったまま生き続けたい。

 自我を保つことがそんなに大事なのか。人間とはなんと強欲な生き物なのだろうか。それでもZウイルスは卓郎の「気持ち」を尊重した。その力を用いて卓郎を修復した。


     *


 卓郎は目を開いた。

 確かレオンに頭を撃たれたはずだが。

 弾丸が頭蓋骨にめりこみ、脳がぐしゃぐしゃに砕ける感覚がまだ残っている。

 自分は一回死んだはずだ。脳が砕けて、記憶も人格も全て失ったはずだ。

 それでは今ここで考えているのは誰だろう。

 考えている卓郎の耳に爆発音が聞こえてきた。

 誰かが戦っている。周囲は煙幕に覆われて見えないが誰かが高速で動き回り、跳び、蹴り、走り、打撃を加えあっているのが分かる。一瞬後。認識した。

 レオンとアーイシャが戦っている!

 アーイシャはなんらかの洞察でスタン・グレネードに気づき、とっさに耳をかばったのだろう。そして卓郎を始末したレオンを相手に全力で肉弾戦を挑んでいるに違いない。あたりを飛び回るアーイシャ。それをねらい撃つレオンの銃声がときおり聞こえた。

 ドオーン

 再びクレイモアの爆発音が聞こえ、卓郎の目の前に全身血みどろのアーイシャが転がってきた。アーイシャは頭をあげようともがいたが、がっくりと床にふせて身動きしなくなった。

 煙幕をついてゆっくりとレオンがやってきた。立っている卓郎を見ると驚きで目が見開かれた。

「そんな! ヘッドショットで確実に殺したのに。お前、何者だ!?」

「分からない」卓郎は答えた。

「しかし入れ物が機械であろうとゾンビであろうと、そこに正義の魂が宿っていればぼくはアンデッドマンだ!」

 レオンは急いで銃を撃った。彼が始めて見せた恐怖の表情だった。

 ゾンビ・イレギュラー・ムーヴメント!

 卓郎の身体は関節の常識を無視した不規則で意外な動きをし、レオンの放った弾丸を全てよけた。

 ゾンビ・ライト・アンプリフィケイション・バイ・スティミュレイテッド・エミッション・オブ・ラディエイション!

 卓郎の全身からコンデンサの音がし、Zレーザーの準備ができた。レオンはそれを聞くと距離をとった。再び左腕を振ってレーザー盾を展開する。

 卓郎は目から出るレーザー光線で自分の両腕を切断した。

 ゾンビ・ボディ・アンプリファイド・コントロール!

 切断された両腕は強力な電磁力の力でレオンめがけて飛んでゆく。

 レオンは自分に向かってくる腕めがけて銃を撃った。左腕が撃ち落とされたが、右腕はいったん上昇してレオンの弾幕をよけると床すれすれに飛び、低い位置からレオンの顎をとらえた。

 バスッ

 レオンは顎をこぶしで撃ち抜かれ、あおむけになって後ろに吹っ飛んだ。

 床に転がった左腕はすばやく走りよるとレオンの拳銃を取り上げた。ゆっくりと卓郎が近づくとレオンの顎をなぐった右腕と拳銃を構えたままの左腕が宙を飛んできて、卓郎の腕にくっついた。

「チェックメイト」

 一度言ってみたかった卓郎はそう言ったが、レオンは失神していて、なんの反応もなかった。

 卓郎はすぐにアーイシャのもとに駆け寄った。そのころまでにアーイシャはほとんど回復していた。全身からクレイモアの鉄鋲が体から押し出されて床にころころと転がり、服は血だらけだったが傷はふさがった。

「大丈夫?」卓郎の言葉にアーイシャは黙ってうなづいた。

「やっぱりわたしの能力は肉体の動きしかないから攻撃が弱い」

「じゃあ、これ使ってよ」卓郎はレオンから奪った拳銃を渡した。「ぼくじゃ使い方がわかんないからさ」

「ありがとう」アーイシャは物慣れた様子で拳銃をチェックし、レオンの体から予備の弾倉を奪った。


     *


 二人は広間を見回した。

「新手の敵が来ないね」

「さっきの言葉だと、レオンは独断でわたしたちと戦ったみたいよ。ドクター瀬奈良には秘密だったみたい」

「なんで?」

 アーイシャはちょっとあきれた顔をした。

「聞いてなかったの? ドクターはあんたを生きたまま解剖して新しい抗体を取り出す必要があるでしょう。殺しちゃったら抗体が取れないじゃない」

「ぞっとしないね」

「とにかく、ドクターはあんたを生きたまま捕まえたいはず。レオンはそれはどっちでも良かった。だから逃げ出した私たちを始末する方を優先した」

「じゃあ、やつらはぼくたちが逃げ出したことをまだ気づいてないかも」

「かもね」

「それはいいけど、この部屋からどうやって脱出しよう」

 見回したところ、八つの扉はすべて固く閉ざされ、腕力で開けるのは無理そうだ。

「あそこに操作盤コンソールが」

 アーイシャが指さしたところにコンピュータの端末ようなものがある。ディスプレイとキーボードだ。アーイシャはそこに走り寄った。

「ぼくはゲームは得意だけど、これは正直どうやったらいいかわからないな」

「わたしはクラッキングを教育されたけれど、ここのシステムをそんなに早く攻略できるとは思えない」アーイシャもがっかりした様子だ。

「でも」アーイシャは「さっきあんたなんて言ったっけ」

「なんのこと?」

「ほら。Zウイルスの特殊能力を発動する方法よ」

「Zウイルスと友達になる――いや、怖くて叫びだしたいくらいの気持ちで話しかけるんだよ。そういえば……」

「なに?」

「ぼく、一回死んだみたいなんだ」

「しゃべってるじゃない」

「確かにクレイモア攻撃で混乱したとき、レオンはぼくの頭を撃った。いくらアンデッドマンでも脳が破壊されたら死ぬよね?」

「ふつうはそうね」

「でも、ぼくは夢の中みたいで、Zウイルスに頼んだような気がする。ぼくがぼくのままで生きたいですって。それはかれらZウイルスみたいに集団が一つの生物にとってずいぶんわがままな言い方かもしれないけれど、Zウイルスはそれを聞いてくれたんだ」

「とうてい信じられない」

「ほんとなんだ。ぼくの体内のZウイルスはぼくの記憶や人格と一緒に脳を修復してくれた」

 卓郎はアーイシャの目をじっと見た。アーイシャはそれを見返したが、しばらくすると自信なさげに目をそらした。

「まあ、あんたが言うのなら、ほんとかもしれない。わたしにはわからないけど」

「いや、ここが肝心なんだよ」卓郎は強調した。「Zウイルスが下等な生物だと思うから信じられないんだ。でもZウイルスが実際にできることは、今の人間の医学でも科学でもとてもできないことだらけだろ。だから、Zウイルスにお願いしてごらん。聞いてくれるかも」

「どうやって」

「自分の心の中に、自分の中にいる自分とは別の存在に向かって話しかけるんだ。お願いしますって。声に出さなくてもいい」

 アーイシャはちょっと照れくさそうに考えていたが、自然にひざをつき目を閉じて両手を挙げた。

 それはあたかも神に祈るかのようだった。


「なにをしようとしてんの!?」

「しっ黙って」アーイシャは卓郎を片目で制すると、再び目を閉じて集中した。しばらくすると極度の集中のため、アーイシャのなめらかな額に汗がにじみ始めた。

 そうして五分ほども集中していただろうか。やおら操作盤コンソールのケーブルを引き抜くと自分のうなじに突き立てた。

 目の前のディスプレイが真黒な画面に変わり、流れるようにして大量のテキストがスクロールした。データや数式、読めない文字などがずらずらと上に登ってゆく。ときどき画面はフラッシュして、まるで戦いが行われているようだ。

 卓郎はアーイシャがそんな調子でいる間、用心に立って後ろを警護した。見回したが、誰かが襲ってくる様子はない。

 アーイシャの試みは十分以上続いた。次第にディスプレイ上の文字列は多くなり、流れは速くなった。

 とうとうアーイシャが目を開いた。一瞬卓郎にはアーイシャの虹彩が四角形に見えた。アーイシャはロボットのように機械的に首を回すとにっこりと笑った。

「成功よ」

「ドアの開け方がわかったのかい?」

「それだけじゃない。ネットワークごしにここのシステムに侵入し、支配下に置いた、いいえ、お友達になったの。もうここの全システムはZウイルスに感染している」

「へ?」卓郎には理解できなかった。「それってどういうこと? コンピューターは機械だよね。プログラムでしょ。Zウイルスに感染ってどういうこと?」

「もちろん人間に感染するZウイルスとは少しちがう」アーイシャは笑顔のままで言った。「でもAI博士はプログラムだけど怒りや悲しみや正義の魂をもっていた。それと同じでここのシステムにシアンワクチンを注射するようなことができないかやってみてもらったの。うまくいった」

「やってみてもらったって……」卓郎にはまだ理解できなかった。

「あんたが言ったじゃない。Zウイルスは人間のように言語で意思を交わさないけれど低級な生物以上のものだって。それなら人間の作ったシステムに感染することもできるんじゃないかって考えたの。それでお願いしてみたらできた。今ではここのシステムはずべて私のマゼンタワクチンの支配下にある」

 卓郎はなんだか興奮した。「すごいぞ! じゃあ、研究所のこともすべてわかるんだね」

「わかるだけじゃない」アーイシャは立ち上がって言った。「ここのシステムはいま、わたしたちの味方よ」

 ゾンビ・インフェクション・クラッキング! 別名システムのゾンビPC化。


「まずここの中を調べてみる」そう言ってアーイシャは研究所の様々な区域をモニターに映し出した。倉庫、射撃場、運動場、食堂……そして研究所の中に卓郎たちが見せられた囚われのいじめられっこたちの姿が映し出された。

 卓郎は思わず叫んだ。「あれはどこ!?」

農場ファームよ」アーイシャは冷たく答えた。「この世の地獄」

「かれらを助けなきゃ」卓郎が言う。

 アーイシャはそれを無視した。さっきよりももっと大粒の汗がひたいにうかび、流れ落ちた。

「だめだわ」一瞬、人にもどってアーイシャはつぶやく「削除できない。削除に対してプロテクトされている」

 一人でぶつぶつ言っている。

「それならコピーならどうかしら」

 アーイシャの全身が震えた。なにかが彼女の体に起きている。ちょうど卓郎がZレーザーを発動するときのように全身の細胞がなにかに変質しているようだった。それは数分かかった。ふつうの状態に戻ったとき、アーイシャは長時間の脳外科手術を終えた外科医のようにぐったりと疲れた顔をした。

「やったわ。今までの研究所の成果――ワクチンの生成情報を全て置き換えた」

「置き換えたって?」

「ここのシステムはプロテクトされたデータを「削除」することはできない仕組みだった。しかしデータを格納する場所を「移動」することは許される。だからいったん私をシステムに接続し、システムの一部だと思い込ませてから全データを消去する代わりに私の中に移動した。さらに元のデータがあった場所に空白は許されないから……」

「わたし自身の全情報をあそこにおいてきた」

「なにを言っているか全然わからない」

「まあいいわ。とにかくクロスノウの研究所にあるワクチン生成情報は破壊した。でも、待って!」

 アーイシャは突然記憶を呼び覚ますようにこめかみに指をあてた。

「ブリーフケースが持ち出されている!」

「貯蔵庫の記録ではここ一時間以内にブリーフケースを持ち出した者がいる。あれがあればクロスノウは再び完全なワクチンを作れる。一体どこに……」

 言いかけたアーイシャは突然電気を切られた自動人形のように体をけいれんさせた。広間の照明が暗くなり、非常用の副照明に切り替わる。

 ふと後ろを見ると倒れていたはずのレオンが半身を起こし、手には携帯用無線機を手にしていた。内部に連絡したらしい。

 アーイシャは一挙動でとびかかると、レオンのあごをけとばした。レオンは再び吹っ飛んで、今度こそ動かなくなった。

「どうして?」

「こいつが仲間に連絡した。やつらはむりやり主電源を破壊したわ。だからシステムも停止している」

「じゃあ、ここから操作することはもう無理か」

「いいえ、嵐で島が半分水没した場合を想定して、通信塔のてっぺんに副コントロールシステムがある。あそこに行きさえすれば、多少制約はあるけれど、研究所全体を制御できる」

「でもちょっと待ってくれ」卓郎は言った。「さっきのいじめられっ子たちが囚われている場所はどこ?」

「地下一階。ちょっと待って。どうするつもり?」

「もちろん助けに行く」

「だって元ウイルスが持ち出されたら、もっと多くの人たちが、世界の人たちがZウイルスによって苦しめられるのよ。コントロールセンターを発見して、全施設の機能を破壊する方が優先でしょ」

「でもあのいじめられっ子を放っておけないよ。彼らを見捨てるつもり?」

 アーイシャは冷たい目をして言った。「世界を救う方を優先するに決まってるじゃない。あまちゃん」

 そうして扉の方へ駆けていったが、いったん戻って倒れているレオンの側から携帯用無線機を拾い上げた。

「これを持っていって。役にたつかも」そう言って無線機を放った。

 卓郎が無線機を受け取ったときにはアーイシャの影もなかった。

「女の子ってやつは……」「まったく女の子ってのは……」

 卓郎はため息をついて首を振った。当面は館内のシステムは卓郎たちの味方のようだ。卓郎が扉に近づくとそれは自動的に開いた。卓郎が先に進むにつれ、必要な箇所の扉は開き、卓郎が通り過ぎると閉じた。卓郎はそうして次々に部屋を通り、さきほどモニターで見たいじめられっ子たちが幽閉されている部屋にたどり着いた。


 ドアがゆっくりと開いた。

 卓郎は部屋の中に入った。


     *


 卓郎は廊下を進んだ。途中、何か所か扉があったが、卓郎が近づくと自動的に開いた。

 アーイシャによって支配されたシステムの導きに従って、卓郎は地下一階の厳重に管理された区域にたどり着いた。

 そこの扉は固く閉ざされていたが、扉の脇にパネルがあり、その正面に卓郎が立つと数秒して扉は開いた。顔認証装置だ。アーイシャはしっかり卓郎を登録してくれたらしい。冷たいけれど頼りになる女の子だ。

 中に入ると白衣を着た研究員がいて、卓郎を見ると手に消火器やいすを持って襲い掛かってきた。卓郎がこぶしで殴りつけると、研究員たちはだらしなく床に転がり、逃げ出した。

 部屋の中はモニターで見た通り、壁面には檻があり、その中にたくさんの卓郎くらいの少年たちが囚われていた。少女も数名混ざっている。

 中央には白いカーテンで仕切られた区画があり、その中の一つをめくって中を見た卓郎はめまいがしそうになり、急いでカーテンを閉じた。

 何度もこみ上げるえずきを抑えながら、卓郎は自分の腹の中に火を呑んだような気がした。人間というのは……自分より弱いものに対してそんなに残酷なことができるんだ。彼らは人間の皮をかぶってはいるが、中身はゾンビよりも非人間的で……悪魔だ。

 卓郎は檻の一つに駆け寄った。

「みんな! 無事か!?」

 中のベンチに腰掛けてうつむいている少年の一人が顔を上げた。卓郎と同い年くらいに見えるが、その顔は絶望と諦観で老人のようだ。

「ようこそ。絶望の部屋、農場ファームへ。」

「助けに来た。みんなここから出て帰ろう!」

 卓郎が叫んだが、誰一人動かなかった。

「みんな何をしてるんだ。今研究所の電源が落ちている。今がチャンスだ。ここを出よう!」

 先ほど顔を上げた一人の少年が疑い深そうに卓郎を見て言った。

「なんのテスト? これ。今さらなにが来てもどうにもならないよ」

「そんなことはない! 全てのいじめられっ子はスーパーヒーローになる可能性がある。ここから逃げ出すんだ。きっとできる!」

 卓郎の必死の頼みに何人かが顔を上げたがまだ信じられない様子だった。

「おたくだれ? 一人でここへ入ったの? おたく一人でなにができる?」

「ぼくはいじめられっ子の超人アンデッドマンだ。きみたちを助けに来た」

 卓郎の言葉に数人が笑い出した。完全に中二病と思われている。かつては自分たちも多かれ少なかれ中二病の空想を楽しんだはずの少年たちはいま人生の辛酸をなめつくした老人のように疑い深い態度で卓郎と接した。

 「動くな!」

 卓郎の背後に数人の靴音が聞こえ、武装警備員たちが現れた。その姿を見ると檻の中の少年たちは恐れて奥に引っ込んだ。警備員と卓郎をかわるがわる眺めている。

 卓郎はセルシューターを構えて撃ったが、警備員たちは全員防弾チョッキを着ており、飛んだ針は防弾衣の上に刺さっただけだった。警備員たちは発砲した。

 ゾンビ・イレギュラー・ムーヴメント!

 飛んでくる弾丸を通常の肉体の動きを無視してかわしてゆく。

「すごい!」

 卓郎の目覚ましい動きを見ていじめられっ子の一人が檻の鉄棒をつかんで叫んだ。

「アンデッドマン! 負けるな」

 卓郎はピースサインを出してから警備員の一人を殴った。その警備員は後ろに吹っ飛んだ。

 細胞が変化する。

 卓郎の歯がせり出してきた。

 ゾンビ・ブルートゥース・マシンガン!

 卓郎は部屋中を駆け回りながら、シアンワクチンのついた歯を発砲した。警備員たちの撃った弾と卓郎の放った歯の弾丸が乱れ飛ぶ。しかし警備員たちの動きは止まらなかった。どうやら防弾服は青い歯の弾丸も通さないらしい。彼らをゾンビ化して従属させることはできない。

 卓郎は再びZウイルスに対して願った。

 卓郎の腹が膨れてくる。

 ぷうー。大きな音を立てて長い長いおならが出た。

 かっこ悪い! 檻の中で卓郎を応援していたいじめられっ子たちも引く。警備員たちは思わず笑う。

 部屋の中に霧状のガスが満ちてきた。

 卓郎の体内で生み出されるガスがどんどん噴出量を増している。そのうちに警備員たちは不安な様子になってきた。どうやら卓郎の意図したことに思い至ったらしい。しかし遅かった。

 ヴゥン。

 卓郎の目がせり出し、虹彩から強力なビームが飛ぶ。Zレーザーだ。

 一瞬間をおいて、室内に充満したガスが引火した。

 ゾンビ・メタン・ハイドロスプレッド・ヘルファイア!

 ドオーン!

 部屋中が爆発の衝撃で揺れ動き、家具やカーテンなどが吹き飛んだ。

 しばらくすると卓郎は立ち上がった。武装警備員たちは全員倒れて身動きしない。檻の中の少年少女たちも倒れている。

 卓郎は檻の鍵を引きちぎった。扉を開けざまに叫ぶ。

「誰か意識の残っている者は応答しろ!」

 ウロロロロロロロローン

 倒れたいじめられっ子たちのほとんどが立ち上がった。結膜が黄色くなっている。

「ぼくの言う言葉がわかるか。しゃべりにくいかもしれないけど、わかるものは手を上げてくれ」

 檻の中の半数が手を挙げた。アンデッドマンへの変身に成功したのだ。

 卓郎がシアンワクチンをばらまいた目的は囚われたいじめられっ子全員にワクチンを接種して不死身化することだった。そうすれば、爆風を浴びても生き残ることができる。

「みんな。ぼくの言うことを聞いてくれ。君たちには不死身となるワクチンが接種された。ワクチンの効果が続いている間、銃で撃たれても死ぬことはない。今からこの恐ろしい場所を脱出する。ついてきてくれ」

 ウロロー

 自由意志のある者も、シアンワクチンに支配されて自由意志のない者も、先導する卓郎に続いて檻を出た。

『ピー。こちら、ダークジニー。アンデッドマン、応答せよ』アーイシャの声が通信機から聞こえた。

「アーイシャ! 無事か!?」卓郎は叫んだ。

『通信塔のコントロールルームを制圧した。これから行きたい場所に誘導する』

「頼む。潜水艦の発着場へ案内してくれ」

『ロジャー。そのまままっすぐに進んで。携帯無線機のチャネルを66.6メガヘルツに合わせて』

「了解」


 ドアがゆっくりと開いた。

 卓郎はなりたてのアンデッドマンやゾンビと化したいじめられっ子たちを引き連れて、農場ファームを出た。


     *


 卓郎は走りたかったが、Zウイルスに慣れていないいじめられっこたちは最初のときの卓郎のように歩き方から練習しなければならなかった。いきおいぞろぞろとゆっくり歩く。隊伍を組んで歩くというよりは観光客みたいだ。卓郎は先頭に立った。

 廊下の反対側から武装警備員たちが現れる。機動隊の持っているような盾を押し立てて迫ってくる。卓郎はZレーザーを放ったが、その盾は特殊な素材で作られているらしく、レーザー光線を吸収した。Zレーザーが効かないのに鼓舞されて武装警備員たちは前進する。

 卓郎は廊下の一番奥、武装警備員たちの後ろに並んでいる赤いボンベに目を留めた。あれの中身はなんだろう。

 卓郎はよくねらって撃った。Zレーザーが赤いボンベをなできりにすると、大爆発が起きた。

 背後ががら空きだった武装警備員たちは爆風で吹き飛ばされ、卓郎たちの前に転がってうめき声をあげたが、卓郎はかわいそうだと思わなかった。いじめられっこたちにあんなひどいことができる連中に慈悲をかける必要などない。卓郎の心は怒りと悲しみでZウイルスの暴走に身をゆだねたくなるほどだった。かろうじていじめられっこを安全なところまで誘導できるのは自分だけだ、という思いが彼の理性をとどめていた。

 主電源の切れた基地はエレベーターが動かない。卓郎たちは非常階段を下へ下へと降りていった。途中で何度か武装警備員の邪魔が入ったが、ゾンビの集団攻撃でやっつけた。いまここではゾンビが正義だ。

 長い非常階段を最下層まで下りてドアを開けると倉庫だった。山と積まれた木箱の向こうは潜水艦発着場だった。

 通信系統が絶たれて取り残された警備員たちは不安そうに、それでも持ち場を離れずにいたが、卓郎たちゾンビ軍団がわらわらと現れると悲鳴を上げて銃を撃ってきた。恐怖で狙いはでたらめだが、何発かが卓郎の仲間たちに当たる。アンデッドマンとして理性を残したいじめられっこたちは「うっ」とうめいて自分の胸や腹を押さえ、弾が貫通しているのに痛みを感じない自分の身体に信じられないような顔をしていたが、Zウイルスに理性を支配されたゾンビたちは防衛本能が発動し、警備員たちに襲い掛かった。

 発着場の岩でできた天井に警備員たちの長く尾を引く悲鳴が響いた。


 潜水艦の周りを制圧してから卓郎は通信機を作動させた。

「CQCQ。こちらアンデッドマン。ダークジニー応答願います」

『ガー。こちらダークジニー』

「アーイシャ! ぼくたち無事潜水艦発着場に着いたよ」

『そう』

「そうって。早くこっちへ来て合流して。潜水艦で脱出するんだ」

『ごめん。先に行って』

 アーイシャの声はこころなしか弱弱しかった。

「先って……なに言ってんの。一緒にここを出るんだろ」

『わたしは……無理みたい。細胞にデータを記録することがとても大きな負担だったようで、もうZワクチンの効果が切れそうなの』

「そんな!」

『今そちらに移動したら、途中でZワクチンが切れて普通の女の子になってしまう。そうしたらまた捕まってしまう。つかまるのはいや。絶対にいや。意思のないゾンビにされるくらいなら、このまま死んでしまった方がいい。さっきガスボンベを爆発させたよね。火が燃え広がって研究所中が火事になってる。良かった。これでブリーフケースも燃えてなくなってしまう。わたしは……ここで死ぬのを待つわ。さよなら』

「駄目だー!」卓郎は叫んだ。「絶対にそんなの許さない! 絶対にだ」

『勇気がないの。今Zワクチンを追加接種したら抗体が壊れるかもしれないから。ごめんね』

「待ってろ。そこで待ってろ」

 卓郎は一同を振り向いて言った。

「この中で軍事オタクはいるか」

 二、三人が手を挙げた。卓郎はその中で最初に卓郎を応援してくれた少年の肩に手を置いて言った。

「きみが指揮してこの潜水艦を運航して脱出するんだ」

「ええ!?」

「大丈夫。今外は凪だ。潜水艦だからとはいえ、もぐる必要はない。入り江を出たら、海上を進めばいい。太陽か星を見てまっすぐ西に進めばじきに九十九里浜に着く。健闘を祈る」

「そんな。ぼくできないよ」

「ここにいたら殺されるぞ。他の仲間たちみたいになりたいのか? 死ぬ気でやればなんでもできる。オタクの意地を見せてやれ」

 その少年は黄色い目をしばたたかせてしばらく考えていたが、うなづいた。「やってみる」

「よし。じゃあ全員潜水艦に乗り込め」

 ゾンビ集団がぞろぞろを甲板をよじ登り、潜水艦のハッチから中に降りていく間、卓郎は岸壁に立って見守っていた。最後に臨時の艦長に任命した少年が振り返る。

「おたくは? どうするの」

 卓郎は笑顔を作った。「やることがある」片手をあげると後ろを振り返りながら言った。「幸運を祈る」

 卓郎の背中にむけて軍事オタクの少年は潜水艦乗組員式の敬礼を送った。


 研究所へ戻る通路のドアがゆっくりと開いた。

 卓郎はためらうことなく進んだ。


     *


 卓郎はとりあえず今来た非常階段を上へ上へと登った。アーイシャのいる通信塔への道のりは分からない。とりあえず建物の屋上に出れば、少なくともどっちへ進めばよいかわかるだろう。

 地下から地上階へ出るとすでに火は建物にまわっている様子だった。非常階段の扉から煙が入り込んでくる。扉の外で何人もの叫び声や走り回る物音が聞こえる。主電源が切断されたので、消火設備もうまく機能していない様子だ。

 卓郎はまっすぐに非常階段を駆け上り続けた。五、六、七、八……最終階を過ぎると屋上へ出る扉があった。

 扉は風圧に押され、両手で支えなければならなかった。卓郎は扉をくぐるとすぐに取ってを放した。百メートルほど向こう側にヘリコプターがローターをまわして離陸準備をしている。その反対側に通信塔が立っている。そして目の前に歩いているのは、銀色のブリーフケースを片手に提げているドクター瀬奈良だった。ドクターはこちらを見るとにやりとゆがんだ笑いを笑った。

「卓郎くん、だったな。ずいぶんやってくれたものだ。だが、この元ウイルスがあれば、必ず戻ってきて日本を支配する。首を洗って待っていることだ。さらば」

 そう言うとドクターはヘリコプターに乗った。ただちにローターの回転があがり、ヘリコプターはゆっくりと上昇し始めた。

 あいつを逃がしちゃいけない!

 卓郎はとっさにZレーザーを発動してヘリコプターを撃ったが、ヘリは防弾仕様らしく、レーザーははじかれた。だんだん機体が浮き上がる。

 卓郎はあたりを見回した。なにかないか、なにか。

 ヘリコプターの飛び立ったすぐ脇にガスボンベがあった。あれを爆発させてもヘリには届かないだろう。じゃあ。

 卓郎はガスボンベに走りよると、引っ張って転がしさかさまにした。重い。ガスは満タンだ。そのままガスボンベに抱きつくようにしてまたがる。首を不自然なくらい伸ばして後ろを振り向くとZレーザーでボンベの首部分を焼ききった。

 バシュッー

 内部に圧縮されていた高圧ガスが切り口から噴出し、卓郎を乗せたガスボンベはすごい勢いで空中に飛び出した。

 ゾンビ・デコンプレッシング・ガス・ロケット!

 しがみついたままの卓郎は体重を移動して微妙にガスボンベ・ロケットの軌道を変えた。ヘリコプターの上へ出た。いったん空中で旋回する。そして上からまだ速度を上げきっていないヘリコプターに突進した。

 ヘリコプターがぐんぐん視界に迫る。

 ドオーン!

 実際の時間にしたら数秒でガスボンベはヘリコプターの尾翼を打ち抜いた。その衝撃で卓郎は振り落とされ、屋上に落ちてきた。アーイシャとさんざん練習した体術を用い、空中で一回転すると足から降りる。

 すぐに見上げるとヘリコプターは主ローターの回転に合わせて回り始めた。尾翼を失ったことでバランスがとれなくなったのだ。そうしてスローモーションのようにゆっくりと高度を下げ、卓郎のいる屋上に激突した。激しい爆発音がした。燃料が燃え上がり、機体は一瞬で炎に包まれた。

 終わった。

 卓郎はそのまま燃え上がる機体を眺めていた。この炎の中で生きていられる人間はいないだろう。しかし待て。あれはなんだ!?

 燃え上がるヘリコプターの機体は地獄のされこうべのようだった。その口に当たる黒い穴からだれかが出てくる。その黒い影はゆっくりと炎のカーテンをくぐった。

「この小僧が!」

 焼け爛れた亡者がしゃべった。白衣はこげ、むき出しになった肉体が次々と再生されてゆく。ドクター瀬奈良だ。

「わたしがアンデッドマンに変身できるとは知らなかったか? 小僧」焼けた顔にしだいに肉がつき、むき出していた歯に唇が再生され、人間の顔になる。

「もちろんクロスノウの幹部として、天然抗体を使えるのだ。そしてわたしの使うZワクチンは深紅クリムゾン・レッド! お前のマゼンタワクチンの上位にあるワクチンだ。それがどういうことか分かるか?」

 ドクターは歯ぐきをむき出した口でにやりと笑った。

「わたしの命令をお前は拒絶することができないのだ。下位にあるワクチンを使っているお前はわたしと上下関係にある」

「なに」

「命令する。その場を動くな!」

 ドクターが命令すると卓郎の身体は卓郎の意思に反して動かなくなった。足を動かそうとしても一歩も踏み出さない。ワクチンの強制力だ。

 ドクターはおもむろにケースを取り上げた。ふたを開け中の棒状のものを取り出し引き伸ばす。

 携帯式ロケットランチャーだ!

「不死身のゾンビ戦士。ヘッドショットでも抹殺できないしぶといやつにはこれで全身を粉々にするしかない」

 ドクターはゆっくりと卓郎に狙いをつけた。

 卓郎は逃げようにも動けない。言葉だけは発することができる。

 ゾンビ・イレギュラー・ムーヴメント!

 叫んだが、深紅クリムゾン・レッドワクチンを接種したドクターの直接の命令を覆すことはできないらしい。卓郎の身体はびくん、と一度震えただけでその後はぴくりとも動かなかった。

 ドクターの構えたロケット・ランチャーがまっすぐ卓郎の心臓に向けられる。

 突然ドクターの体が痙攣した。

「かっくっこのっ!」

 ドクターはなにかに抗うようにもだえ苦しんだ。

「うぐっうぐっ」口からよだれをたらす。しばらくうつむいてから顔を上げた。

「ふん。醜態だな」自嘲の笑顔を見せる。

「お前がAI博士と呼んでいたあのプログラムな、あれは実はわたしだ」

 卓郎は声に出さなかったが驚きに目を見張った。

「クロスノウの目指すものは究極の新人類となって大衆を支配すること。そのさきがけが十二神将だ。しかしワクチンの力で肉体がどれほど優れても精神がそれにふさわしくなければどうしようもない。人間の弱さとはためらいや善だ。論理的にどれほど正しいことでも心の中に残っている道徳や情に流されて過ちを犯す」

 ドクターはきっ、と目を吊り上げた。

「だからわたしは次の世代の人類となるために己の中の「善」を捨てた」

「クロスノウのテクノロジを用い、人格分離手術をほどこしたのだ。全ての理想主義や善や弱いものの味方などという甘い感情をAIに封じ込め、わたしは完璧な悪、完璧な意思、完璧で冷酷な指揮官となるはずだった」

「しかしどうやら神は人間と言うものを善悪両者を併せ持って初めて一つという不合理な存在として創造したようだ。己を半分に分けたわたしは定期的にあのプログラムのじじいと同期しなければ精神に変調をきたすようになった。ふん、くやしいものだ」

「今ではわたしはZワクチンを打ち続けなければ肉体の痛みを抑えることができず、いじめられっこたちから抽出した抗体を打ち続けなければ理性を保つことができない。これが新しい人類を目指したわたしの業なのだ」

 ドクターはロケットランチャーを構えなおした。

「死ぬがいい。アンデッドマン。わたしはいじめられっこを殺し続けて新人類の道を歩む」


 危機だ。危機感をZウイルスに伝えるんだ。

 卓郎は強く願った。あのロケットから助かり敵を倒せるように。


 空気がゆがみドクターの姿がぼやけた。

 さきほど農場ファームから発生した火災がこの屋上までまわり、ヘリコプターの炎上する炎と合わさってあたりはすごい熱気に包まれている。

 視界はどんどんゆがんでいる。

 空間が黒くなる。

 ドクターがロケット・ランチャーを発射した。

 卓郎にはスローモーションに見える。

 弾頭がまっすぐ自分に向かって飛んでくる。

 その瞬間!


 ロケットが消えた。まるっきり空間のどこかの裂け目に入ってしまったかのように。

 どこへ行ったんだ。

 ドクターの上のほうに空間の口が見える。

 真っ黒な中が空いている。そこから音が聞こえる。

 そこから今しがた発射されたロケットランチャーの弾頭が天のいかずちのように落ちてきた。

 ゾンビ・スペイシアル・ワープ・デフォーメイション!

 危機に際して卓郎の身体で生きているウイルスは、空間を捻じ曲げて卓郎に向けて飛んできた弾頭をドクターの頭上に転移させたのだ。

 ドオオオオオオオオーン!

 大きな爆発が起きた。

 爆風に思わず卓郎は目をつむって腰を落とす。体に破片が食い込む。

 ロケット・ランチャーは焼夷弾だったらしく。火の玉はドクターとヘリコプターの残骸を包んだ。

 しばらくして炎が治まったとき、後には焼け焦げのほかなにもなかった。


     *


 卓郎は通信塔のはしごを登っていた。下からは炎が巨大な蛇の舌のように少しずつ卓郎を追って這い上がる。

 Zワクチンを使用したアンデッドマンへの変身時間は十二時間。しかし必殺技などを使ってエネルギーを大量に消費するとその時間は短くなる。

 重力の法則を捻じ曲げる技を使った卓郎は激しく消耗し、Zワクチンは切れかかっているようだった。

 足がもつれる。のどが渇く。

 しかし炎よりも早く頂上のコントロールルームにたどり着かなければいけない。

 卓郎はかすむ目をこすると再びはしごをつかみ直した。

 研究所のどこかで爆発音が聞こえた。黒い煙が噴き出す。もはや人の叫び声は聞こえない。上から見下ろすとクロスノウ日本支部だった施設はまさに地獄絵図だった。紅蓮の炎を浴び、解剖された犠牲者たちの身体も、悪魔の所業を行った研究者たちも、今は跡形もなく焼かれている。


 最後の手すりを乗り越え、卓郎はコントロールルームのバルコニーにしりもちをついた。

 アーイシャ!

 卓郎は部屋に入り黒曜石のような少女をさがす。

 いた!

 アーイシャは力なく横たわっていた。目から涙がこめかみを伝い、ちょこんと前に立っているチャムチャムのふさふさとした尻尾をなで続けている。

「アーイシャ!」

 アーイシャには聞こえないようだった。卓郎を無視してチャムをなで続ける。

 卓郎はアーイシャの肩に手をかけた。

「しっかりしろよ」

 アーイシャは卓郎をあきらめたように見た。卓郎はアーイシャの肩を持って強引に引き起こし、座らせたがアーイシャは抗わなかった。

「立つんだ。ここを脱出しよう」

 アーイシャはようやくやれやれという表情を見せた。

「あんた、戻ってきたのね。まああんたらしいといえばあんたらしいけど。見たところ、あんたもZワクチンが切れてしまったみたいだし、どうするつもり? もう駄目だわ」

 ガアーン!

 ずっと下で爆発音が起こり、通信塔全体がゆれた。

「そんなことはない。希望を捨てるな」

「無駄よ。いまさらどうしようっての?」

「Zワクチンを追加接種するんだ。アンデッドマンなら、この状況でも生き残れる」

 アーイシャの両眼からどっと涙がこぼれた。

「嫌よ。いや。もう限界だから。これ以上追加接種すれば、理性を失ってしまう」

「分からないよ。ぼくたちは普通の人たちが経験することのないすごいストレスを耐えてきた。こうしてできた抗体があればきっと理性を失うことはない。それに……」卓郎は考え込むように首をかしげた。「Zウイルスにはぼくたちの気持ちが通じると思うんだ。だから特殊な技を発動させたじゃないか」

 卓郎の言葉にかまわずアーイシャは遠い目をした。

「きっとわたしがこういう目に遭うのは罰なのよ。お父さんとお母さんを見殺しにした。わたしもこのまま炎で焼かれる運命なのかも、それがわたしの罪に対するつぐないなのかもしれない」

「そんなことはない! そんなこと。きみの両親はきみを生かすために自分たちが火に焼かれてもきみを助けた。きみは生き残るために全力を尽くすのがつぐないだ」

 ガワーン。

 再び下で爆発音が起き、塔全体が少しかしいだ。

 卓郎はアーイシャの手をとった。

「これしか方法がない。二人で一緒にワクチンを打とう」

 アーイシャは卓郎の目を下から見上げていたが、仕方ない、という風にため息をついた。

「わかったわ。でもひとつお願い」

「あなたが気がついたとき、もしわたしが意思を、理性を失っていたら、ゾンビからもとに戻れなかったら……殺して」

 卓郎はかぶりを振った。

「いやだ。絶対に殺さない。どんな病気にもかならず治療法があるはずだ。Zウイルスの感染者は兵器でも動物みたいに殺していい相手でもない。病気の人間なんだ。治りょう法が見つかるまで努力する。意思がなかったらぼくが世話する。ごはんも食べさせる。服だって着替えさせる。きみももしぼくがそういう状態になったら助けてくれ」

 アーイシャは横を向いてためらった。

「約束する」卓郎はアーイシャを見つめた。

 アーイシャは横を向いたまま黙っていたが、しばらくしてからぎごちなく卓郎に向き直るとうなづいた。

 卓郎は手錠で自分の左腕とアーイシャの右腕をつないだ。アーイシャはチャムチャムを胸元にしまい、卓郎はセルシューターを引き抜いた。

「先に目が覚めた方が、もう一人を助けるんだ」

 二人はバルコニーに進み出た。

 ゴオン

 大きな爆発音が聞こえ、塔が大きくかしぎ始めた。

 卓郎はふんばって態勢を崩したアーイシャを支えた。

 海が見える。この塔は高いから、塔の下部で折れれば最上部にいる卓郎たちは海の中に落ちるだろう。

 卓郎はセルシューターを自分の腕にあててアーイシャの目を見た。アーイシャも見返した。

 卓郎はセルシューターを発射した。赤ワクチンが血管に注入される。

 続いてアーイシャの腕にセルシューターをあてて注射する。

 二人はもう一度目を見合わせた。

 卓郎が腕を上に伸ばすとアーイシャもそれに応じて腕を伸ばした。

 塔がだんだんかしいでゆく。

 空中で二人の腕が交差した。

「「変身チェンジ! アンデッド!」」

 二人は同時に叫んだ。


 最後の爆発音が聞こえ、通信塔が折れてゆっくりと海面にむかって倒れてゆく。景色がゆっくりと回転した。

 そのとき、卓郎は水平線の向こうに真っ黒い雲が立ち上るのを見た。

 ああ、また嵐がくるんだ。

 最後にそう考えながら、卓郎はアーイシャの細い身体をしっかり抱きしめたまま通信塔と一緒に海へ転落していった。


     *


 よく晴れた朝だった。太陽はゾンビの上にも一般人の上にも平等に降り注いでいる。

 浜辺に群がっていたカモメの群れは何かに驚いていっせいに飛び立った。

 カモメが飛び立った後には手錠でつながれた二人の少年少女が倒れていた。

 カニが近づくと倒れている肉をはさみではさんだが動かない。

 ハエがとんできて止まった。ハエはなんどか飛び立って女の子の目の端に止まると、無作法な口を突き出して目の端から湧き出る水分をなめだした。

 パシン!

 目にも留まらぬ速さで手が動いてハエを叩いた。

 アーイシャは身を起こしてそのまましばらく座っていた。頭をゆっくりと振る。昨日までの出来事が全て夢だったようだ。

 突然アーイシャはわれに返った。

「ねえ。ねえ。起きて」

 卓郎の身体を揺さぶる。しばらくすると卓郎はうーんとうめいて起き上がった。

「ねえ。大丈夫?」

 アーイシャの声には不安がある。

 卓郎はうつむいたまま返事をしなかった。

「ねえ。ねえ!」

「ううう」

「ねえ! 大丈夫なの? 返事して」

 不安そうな声になる。

「ねえ! お願い!」

「ウロー!」

 突然卓郎は白目をむいてアーイシャに襲い掛かった。

「いやあああああ!」アーイシャが蒼白になって叫ぶ。

「なんちゃって」卓郎が笑顔になる。「冗談」

 バキッ

 アーイシャの正拳突きが卓郎の鼻に決まった。

「グワー!」

「こ、このっ、空気読めないやつ」

 アーイシャはこぶしを硬く握り締め、肩をわなわな震わせて本気で怒っていた。よく見るとちょっと涙目になっている。

「怖かったんだから。本当に怖かったんだから」

「こめんよ。ごめん」

「あとあんた塔の上でなんて言った? 服を着替えさせてあげるとか、ちょっとあんた変態? それにもしわたしだけ理性が残っていたら一生あんたの世話させるつもりだったの? 寝たきり老人みたいに。ごめんだわ!」

「こめん。このとおり」

 ぺこぺこする卓郎をにらみつけていたが、突然力が抜けたアーイシャだった。

「でも良かった」

 卓郎は鼻から血を流しながら笑っていた。

「助かったみたいだね」

「うん」

 卓郎が立ち上がろうとすると手錠がぴんと伸びた。アーイシャと同時にそれを見る。

「さてと。これをどっかではずさないと、警察にあらぬ疑いをかけられるし、他人に見られたら変なうわさをされる」

「わたしは気にしない」

「そうだよね。生きていて理性があるってことだけで十分だ」

 二人はよろよろと立ち上がり、手錠でつながれた手をつないだまま砂浜を歩いていった。



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