第二章
第二章
卓郎がふらふらになった足でアーイシャを自室に招き入れたのは、昼前だった。
「親は仕事で留守なんだ。今のうちにシャワーをしてきてよ」
卓郎の両親は家を買ったが、その後、父親が不況のあおりを受けてリストラされてしまった。家のローンは膨れ上がる仕組みになっており、いまさら家を売り払っても借金を払いきることすらできない。卓郎の両親はその状況と戦うために二人とも猛烈に働き始めた。父は遠くへ出稼ぎに行き、母は土曜日もパートに出ている。卓郎にはいろいろと買い与えているが、基本卓郎は身の回りのことを自分でやらないといけない。家の中のことはかなり裁量をまかされている卓郎だが、両親もまさかこの年齢で女の子を連れ込むとは予想していないだろう。
「服はぼくのやつでいい?」
卓郎がTシャツとジーンズ、タオルをわたすとアーイシャは黙ってそれらを受け取りうなずいた。
「これが温度調整レバー。終わったら、ここのダイヤルをまわして種火を落としておいて」
だまってうなずいた。
自分の部屋にもどった卓郎は手持ち無沙汰だった。時間のあるあいだ、このハーフの女の子について考えた。今シャワーしている。ちょっとエッチな空想をしなかったと言えばうそになるが、あのこに関しては美香に対するみたいにあまり変な気持ちにはならない。話し方も態度も大人っぽくて卓郎なんか相手にしない感じがあるのと、クラスの女の子たちとはぜんぜん違う――そう、ちょうど自衛隊員みたいな雰囲気と言ってもよかった。現に卓郎の家に入ったときだって、扉が開くとまずさっと視線を走らせて中を調べ、いつでも走って逃げ出せるような雰囲気が身体全体からただよっていた。
最初は男の子の家へ誘われるのを警戒しているのかとおもったが、どうやらそうではなく、単に習慣らしい。卓郎の部屋に入るときも、卓郎を警戒するというよりは、部屋の中に誰かが待ち伏せしていて、突然攻撃されたときに反撃できるように、という感じでドアぎわに立ったまま室内をささっと見回した。
そして今は一人でシャワーを浴びている。浴室にあのブリーフケースを持ち込んで。
「いや。さすがにシャワーをするときまでブリーフケースを持って入らないでよ」といいかけて気づいた。
ぼくが信用されていないんだ。
さきほどの出来事がまだ夢のように感じる。
特撮に出てくるようなはでな色彩の敵。
拳銃とチェーンソー。血と火炎。
卓郎はため息をついて、自分の身体を調べてみた。チャックに切り裂かれた腕や足の傷はすでにふさがっている。身体のあちこちにめり込んだ弾丸の跡もいまはない。服がずたずたなのと対照的だ。
自分が超人なったというより、すべてが悪い夢だったと考える方が理にかなっていると思えた。
ずっとスーパーヒーローになることを夢想していたが、実際にそうなることがこんな奇妙でいらだたしいとは思わなかった。
もしかしたら全部夢オチなのかもしれない。
待っているうちにアーイシャなんて女の子は消えうせて、ブリーフケースもクロスノウも中二病のぼくの妄想だったとなるかもしれない。
卓郎はちら、と自分の左腕についたままの4DSを見た。そこに卓郎を待っているかのように見つめるAI博士の顔が、このことは夢ではなく現実なんだと、いやおうなしに思い出させた。
「あの」卓郎はおずおずと声をかける。
「なんじゃね」待っていたかのようにAI博士が答える。
「いろいろと聞いていいですか。ぼくまだなにがなにやら混乱して。あの黒服やら薬のことやら……」
「そうじゃな」AI博士は画面の中で腕を組んだ。「順序だてて話したほうがきみもわかりやすかろう」
画面の中のAI博士はこほん、とひとつ咳払いをした。そんな動作ひとつとってもこれが人工物とは信じられない。人間はなんてだまされやすいんだろう。
*
「『トリニティ・バイオ・インダストリーズ』という会社がある」
AI博士は話を始めた。
「もともとはただの製薬会社じゃった。特にアメリカ政府の依頼で戦場の兵士のための救急医薬品を作っておった……」
AI博士の話をかいつまんで話すと次のようになる。
『トリニティ・バイオ・インダストリーズ』はアメリカ軍のために戦場の負傷兵の痛みを軽減させたり、傷の治癒を早めたりする薬の研究を続けていた。
モルヒネなどの痛みを忘れさせる薬は麻薬の一種である。
麻薬の原理、というのを知っているだろうか。人間の脳内にはレセプターと呼ばれる受容器があり、そこに麻薬がおさまると人間は幻覚をみたり、実際の苦しみを忘れ、快感を覚えることが知られている。
そもそも神の造形である人間の体内にそんな受容器があることが不思議であるが、人間はなにかに夢中になると自分で脳内麻薬たるドーパミンを分泌して快感をおぼえるし、スポーツでハイになるとエンドルフィンを分泌して感覚が鋭くなる。脳内の受容器は、人間の能力を高めたり苦痛を忘れさせるために必要であるといえる。
そのレセプターの機能を人工的に利用したものが麻薬である。ほとんどの麻薬には副作用や習慣性があり、人間を堕落させ、健康を破壊することが知られている。モルヒネなどの鎮痛に必要なものの一時的な使用はやむをえなくても、勧められることではないのだ。
『トリニティ・バイオ・インダストリーズ』には軍のご用達である傷薬やモルヒネなどのほかにエボラ熱ウイルスなどの伝染病ウイルスの抗体やワクチンを研究する部門があった。
そこの研究員ホルツ・フリードマンはアフリカで見つかったある特殊なウイルスに着目した。
そのウイルスが哺乳類に寄生すると宿主の生体能力が非常に高いレベルにあがったのだ。
どうやらウイルスが自分の生息環境をよくするために宿主を助けているらしかった。
これは珍しいことではない。胃腸に寄生する回虫は、現代の日本ではほとんど駆逐された寄生虫だが、同時に宿主をアレルギーやアトピーから守ることが知られている。いまだに回虫をお腹に飼っているインドネシアの田舎の子供たちの間には、アレルギーやアトピーは一人もいないのだ。
ヨーグルトの中に含まれるビヒダス菌は胃腸の調子を整える。なにも高等生物でない細菌が人間のためを思ってしてくれるわけではない。細菌は自分自身の生命を守るために自身の生存環境を整え、その結果宿主を益することになっているだけだ。
ホルツ・フリードマンが発見したウイルスは哺乳類の細胞を自分の都合の良いように作り変える力を持っていた。それだけでなく、脳内のレセプターに一種の「触手」とも言うべき感覚器を差し込んで、脳に快感を与え、苦痛を忘れさせたり、治癒力を高めたりした。
ホルツ・フリードマンは実験を繰り返し、ウイルスを次第に強化していった。
十五世代のウイルスになると、このウイルスに感染した哺乳類はわれを忘れるほどの快感をおぼえ、また驚くべき治癒力を持つようになった。
ホルツ・フリードマンはこの発見に狂喜した。このウイルスは人類の歴史を変える。このウイルスがあれば、直らない病気で苦しんでいる多くの人々を救い、人間を強化できる。人間は次の世代へ進化することができるのだ。
研究熱心なあまり、ホルツ・フリードマンは人としての一線を越えてしまった。
駐在地のアフリカの人間を用いた人体実験を始めたのである。
もともとその地域は貧しく、新薬の人体実験にわずかな報償で参加する人間が多くいた。
ホルツ・フリードマンはそんな彼らを毎日見ることで、人命を軽視するようになり、「金のためなら自分の体を売る貧しい人々は下層民である」と認識するようになった。
研究は進んだが、部門への予算は限られていた。研究をもっと加速するためには、より大きな施設や多くの人員が必要だった。
そのためには巨額の金が要った。
ある日、目の前で新ワクチンの感染実験を行っていたホルツの目の前で、事故がおきた。
ウイルスを投与された被験者が運転を誤ったトラックにひかれたのだ。
かけつけたホルツの目の前で、しかしその被験者は起き上がった。多少足元はふらついていたがなにもなかった様子で。
首が折れたまま。
数分で折れた首は元通りに戻り、被験者は健康体に戻った。
理性を除いては。
この出来事でホルツは天啓を得たようにアイデアを得た。
彼は研究室へ戻り様々な実験を行った後、ウイルスに感染したものは無敵の不死人であることを発見した。
これを不死兵士として軍に売り込めば、今までの世界は変わる。
ホルツの目の前には研究の成功しかなかった。
人類の安寧のためにこのウイルスの研究を遂行する。
研究のためには莫大な資金が必要だ。
不死兵士を軍に売り込むことで資金はたやすく得られる。
世界を変える究極のウイルス。
ホルツはこれを究極のウイルスすなわち「Zウイルス」と名づけた。
ホルツはこの成果によりついにトリニティ・バイオ・インダストリーズの社長に就任した。
その後、この開発を重く見た軍産複合体はZウイルスをあつかうための組織を作り上げた。表向きの健康と福祉のための組織ではない。不死兵士とその権益を守るための裏の組織。
クロスノウ。
Zウイルスはどんどん力を増し、その潜在的な能力は計り知れなかった。ワクチンを投与した人間を一種の超人にした。ただ問題はそれの制御だった……
「ちょっと質問なんですけど」卓郎はAI博士をさえぎった。「ワクチンを投与ですか? ウイルスに感染したらゾンビになるのは分かるんですけど、「ワクチン」って病気を治すものじゃないんですか?」
「うむ。その認識は間違っておる。ワクチンというのはウイルスを弱体化させたものじゃ。きみも子供のころポリオやはしかの予防接種を行ったじゃろう。あのワクチンはもともとウイルスから作る。弱くしたウイルスや死んだウイルスをわざと体に入れて弱いやつと戦わせることで肉体に本命の強いやつとの戦い方を覚えさせるものじゃな。だが、Zウイルスの場合、ワクチンはウイルスとほとんど同じ力をもっておる」
「じゃあなにがちがうのですか」
「ワクチンには生体時限装置がしかけてあって、およそ十二時間たつとウイルスは死に、宿主はもとに戻る。ウイルスの場合は元に戻らない。これが違いじゃ」
「なるほど」
時限装置を仕掛けたワクチンではウイルスがどんなに暴走しても一定時間を経過すると、その影響はなくなる。ひとまずこれでZウイルスが漏れ出すような事故への対処はできた。しかし制御が難しい問題はまだ終わっていなかった。
Zウイルスに感染する、あるいはZワクチンを投与された人間は激しい快感に襲われ、われを忘れてしまう。肉体と精神が切り離され、肉体は自分の思うとおりに動かなくなる。まず影響を受けるのは話す能力と歩き方である。きちんとしゃべられなくなり、歩き方は手足がばらばらでよたよたと歩く。顔の筋肉を制御できなくなり白目をむく。不死身なら多少動きが遅くてもいい。しかしどんなに不死身の身体であっても、制御できなければただのゾンビである。本能のままにうろうろと動く集団がどんなに数多くいても、戦場に行けば標的にしかならない。
たった一つ、見かけとは異なり普段は平和でおとなしい感染者が、自分の身の危機を感じると凶暴な反撃を行うことがわかった。どうやらZウイルスに支配されている精神が危機を感じると防衛本能が発動するらしい。
いったん凶暴化した被験者は自分の危機が去ったと感じるまで筋肉を強化した身体で暴れまわった。このままでは兵士として使うことはできない。逆にテロとしての使い道しかない。
そんなとき偶然ワクチンの漏洩事故が起こった。インフルエンザの予防接種とZワクチンの箱が取り違えられ、小学校でZワクチンを大量に接種してしまったのだ。小学校は一時的にパニックになり、事件をもみ消すためにクロスノウは金をばらまいたり政府を動かしたり大変だったが、ゾンビ化した生徒たちの中でただ一人、Zワクチンを接種しても理性をとどめた少年がいたのだ。
このことは徹底的に研究された。
最初はその理由がわからず、年齢を変えて接種したり性別や人種を変えてみた。しかしそれらは要件ではなかった。
クロスノウ研究班は少年のプロファイルを徹底的に調べ上げた。少年の先祖や家庭環境にいたるまで。
その結果、少年は「いじめられっこ」であることが分かった。
少年は家庭環境のためや素行のせいでクラスのみなから嫌われており、もって生まれた卑屈な態度がよりいっそういじめを加速していた。
理由はともあれ少年はその学校で長い間孤立していた。それでも学校をやめなかったのは、自宅はもっとひどい環境だったからだ。学校ではみなにいじめられ、家でも安寧はなく、少年の心ははげしいストレスにさらされて続けていた。ゲームすら買えず、薬物はなおさらだった。少年は夢想し、時間をつぶした。
少年の脳をスキャンしてわかったことは、少年の脳には一般人にはないものが存在した。麻薬やZウイルスが触手をのばすべき脳内の受容器を不思議な物質が占めており、それがZウイルス・ワクチンの進入をはばんだのである。いじめられ続け、それを耐え忍んだことによる高い強度のストレスによって脳内にこの物質が生成され、それが少年をZウイルスの支配から守ったのだった。
クロスノウの研究班はこの物質を「Zウイルス抗体」と名づけた。
Zウイルス抗体を持つ人間は精神を支配されず、ゾンビ化せずにZウイルスの超人的な肉体能力のみを得る。
そしてZウイルス抗体は現在まで分かっているところ、いじめられっこの脳内にしか生成されない。
だから超人になれるのはいじめられっこに限られる。
そこまで博士の話を聞き終わった卓郎は深いため息をついた。
ようやくなぜ自分がアンデッドマンになれたのか分かったからだ。
「すごいことですね」
「そう。すごいことじゃ。しかしその力は使い方を間違えればおそろしいものになる。原子力エネルギーと同じじゃ。クロスノウはその力を間違って使おうとしておる。チャックが言っておったように、あきらめずに追ってくるじゃろう」
卓郎は再びため息をついた。スーパーヒーローにあこがれていた昔がなつかしい。スーパーヒーローになるのは簡単なことじゃない。しかもダークヒーローだなんて。
ひとりごちた。
「これからぼく、どうすればいいのかな」
*
卓郎が学校から戻ると、アーイシャは台所でなにかやっていた。近所のホームセンターの袋から洗剤やらシロップやら白熱電球、電気ケーブル、鉄パイプなどを取り出し……ん? 鉄パイプ?
「皿洗いなんていいよ。まだ疲れているだろ。それとも料理でも作ってくれるの?」
卓郎の言葉にアーイシャはぎろり、と大きな目でにらんだ。
「別に……時間のあるうちに爆弾でも作っておこうと思って……」
「ここぼくの家なんですけど!」
卓郎は叫んだ。
「ば、ば、爆弾って、きみなに考えてんの?」
アーイシャは身体ごと向き直った。
「あんたこそなに考えてるのか分からない。わたしたちは追われているの。危険な相手に。今は敵の出方を様子みてるけど、この家はあの浜からそんなに離れていないし、追っ手を全滅させたからたぶんもうこの町の公共交通機関は全部見張られているはず。武器はないから襲撃をうけたらひとたまりもない」
卓郎は唇をなめた。何度もまばたきし親指と人差し指で眼鏡のつるをつまんで直す。
「でも、外を歩き回るほうがもっと見つかると思うよ。買い物がしたかったらぼくが行ってくる」
アーイシャはいったん目をふせてから上目遣いに卓郎を見た。
「助けてもらってこんなことを言うのはなんだけど、わたし、まだあんたを信じたわけじゃないの」
ちょっと、それってありかよ? ありなわけ?
「ちょっと。ひどいじゃないですか」
卓郎は腕からはずしてテーブルの上においた4DSに話しかけた。この方が自分の腕めがけて話すよりらくだ。
「アーイシャは兵士としての訓練を受けておるからな。きみが頼りなく見えるのじゃろう」AI博士はこともなげに答えた。
「そーよ。あんたは太ってて、暑苦しくて、おどおどしてて、全く頼りにならなさそう」アーイシャが横から答える。
「ででででも、ぼくがあいつらをやっつけて助けたんじゃないか」
「わたしはあれは事故みたいなものだったと思ってる」
「事故」
「事故で悪けりゃ偶然ね。なんであんたみたいのがあいつらに勝てたのか不思議。まあ、ウイルスの潜在能力ということなんでしょうけど」
「Zウイルスの潜在能力を引き出すというのもひとつの才能じゃぞ、アーイシャ」
AI博士の言葉にアーイシャはぷい、と横を向いた。
AI博士は卓郎にささやく。「アーイシャは今まで優等生じゃったからな。新顔のきみにお株をとられて内心穏やかでないのじゃ」
横から短く切った鉄パイプが飛んできた。
「そんなんじゃない!」アーイシャが叫ぶ。
「なにすんだよ! ぼくの4DSにあたったら壊れるだろ!」卓郎も必死だ。
「まあまあ二人とも、ここで争っても仕方あるまい。お互いに理解して共通の敵にあたるのじゃ」
「こいつとぉ?」アーイシャは心底嫌そうだった。「こいつ全然たよりなさそうだもん」
「だれもが最初からアンデッドマンの身体を自在に操れるわけではない」AI博士は言った。「そこでじゃ。アーイシャ。きみが卓郎くんの訓練を行うのじゃ。ほれ、研究所でやっていたように」
アーイシャがかっとなったのがわかった。小麦色の肌でもわかるほど赤みがさしている。
「こいつを……」
「きみしかおらんのじゃ、アーイシャ。研究所を出るときに約束したじゃろう。仲間を集めると」抗弁しようとするアーイシャを包み込むようにして博士が言いつのる。
「わしからの頼みじゃ。このとおり」ディスプレイの中でAI博士が頭を下げた。
「よしてください」アーイシャが立ち上がった。「そこまでされちゃ……」
「このとおり」
「わかった。わかったから!」
なぜかアーイシャはAI博士の言うことは信頼しているようだった。
*
暗くなってからアーイシャと卓郎は町外れの廃工場にいた。
浜辺はクロスノウが来るかもしれないし、公園なんかは警察に補導されてしまう。
廃工場は有刺鉄線を張り巡らせた金網に囲まれていたが、アーイシャはいつのまにか取り出したニッパーで金網を切り裂くとすきまから中に入った。卓郎も後に続いたが、金網の切り口にジャージを何箇所もひっかけて身動きがとれなくなった。アーイシャはそれに気づくとわざとらしく大きなため息をついて戻ってきた。無言で卓郎を鉄条網からはずす。
「あ、ありがとう」
無言。
アーイシャは身体にぴったりとした全身黒ずくめの服を着ている。それに対し、卓郎はだぶだぶの空色ジャージの上下。出掛けにもっとぴったりとした服に着替えるように言われたのだが、この方が動きやすいと言う事をきかなかったのだ。
天井の高い廃工場に入った。中はすっかり片付けられ、機械類をすえつけていたコンクリートの土台のみが残っている。天井近くの割れた窓からは月がやわらかい光を投げかけ、子猫のような二人の影を床にぎざぎざと引いた。
「ちょっと待ってて」
そう言うとアーイシャはどこかへ姿を消した。
五分後に再び影のように現れると背中にしょっていた渋いオレンジ色のバックパックを床におろした。
「どこへ行ってたの」
「古典的な鳴子。敷地へ侵入者がいれば、足がセンサーにかかって音が出るよう仕掛けてきた」
アーイシャはこともなげに言う。
「なんか忍者みたいだね! すごい!」
卓郎は興奮して話した。アーイシャはやれやれ、というように目玉を大きく上にぐるりと回した。
「始めるわ。いいわね」
アーイシャは事務的な調子でバックパックからブリーフケースを出すとパスワードを打ち込んでから開いた。中から銃の形をした注射器を出し、先端を自分の左ひじの内側に見えている静脈にあてた。
パシュッ
中の赤い液体がアーイシャの静脈に流れ込む。
「ちょっとちょっと」
「なによ」
「アンデッドマンへ変身するんだろ。なんの掛け声もしないの?」
「かけ声?」
「変身! とか」
アーイシャは腕をくんだ。
「あんた、お子様。うっ、ぐっ!」
ワクチンの効果が現れ、みるみるうちにアーイシャの顔がゆがみ、苦痛に耐えるように目と歯をくいしばる。数瞬後、まぶたを開いたアーイシャの結膜は狼のような黄色だった。
「あんたも早く感染しなさい」
「感染って」
卓郎はその表現に異議がある。
卓郎は腕に装着した4DSのパネルを開くと、腕を組み合わせ叫んだ。
「チェンジ! アンデッド!」
AI博士の入ったカセットから針が出て、腕をちくりと刺した。微量の液体が流れ込む。
「う、ううっ」
全身をおおう炎の感覚。細胞が沸騰しそうだ。
「うわああああ」
卓郎は思わず声をあげた。何度やってもこれは慣れない。
数秒後、燃えるような感覚は去り落ち着いた。しかしZワクチンの触手は身体の隅々まで染み渡っている。
「では始めましょう」アーイシャの事務的な調子は変わらない。
「博士から説明を受けたと思うけど、Zウイルスおよびワクチン感染者は通常自意識と肉体の通信を遮断されてしまう。レセプター抗体を備えた「恐るべき子供たち《レ・ザンファン・テリーブル》でもその影響から完全にまぬかれるわけではないの」
向こうをむいて歩いていたアーイシャはかかとの上でくるりと回って振り向いた。
「だからZウイルスに負けてはだめ。負ければ肉体の制御をとられ、意識はあってもそれこそゾンビのようによろよろと歩くことしかできない。不死身の身体でもそれでは敵の標的になってしまうだけ」
「だからZウイルスを「飼いならし」て、本来の性能を発揮させるためには訓練が必要。リハビリのようなものと考えて。Zウイルスを制御できる率は人によって異なるけれど、三十パーセントの制御率があるわたしはこんなことができる」
そう言いざま、アーイシャは軽くひざを曲げると飛び上がった。十メートルはあろうか。廃工場の高い天井近くに張りめぐされている金属製の梁の一つにぶら下がって下であんぐり口をあけている卓郎をながめた。
そうかと思うと一瞬後、飛び降りて床を転がると、落ちていた十寸釘の箱をつかみ、そのままゴムボールのように跳ねて物陰に隠れざま、両手で十寸釘を投げた。
数十本の釘は卓郎の目の前を横切り、部屋の反対側に立てかけてあるベニヤ板に並んで突き刺さった。
「うわあ、すごい」卓郎は大はしゃぎで拍手した。
「やめてよ。その動物園でオットセイのショーを見ている小学生みたいな喜び方」
アーイシャは腕を組んで横目で卓郎を見た。
「今度はあんたの番よ。まず、まっすぐ歩くことから」
卓郎は歩き出したが、まっすぐ進もうとするのに、よろよろとし、バランスをとろうと両手を前に突き出したところはいわゆる「ゾンビ」のような歩き方しかできなかった。
「はい。ターン」
卓郎は振り向いた。背中を曲げ、ちょうど食人鬼がゆっくりと振り向くように。照れ隠しににっこりしたつもりだが、ほおが引きつった。たぶん、ニヤリと恐ろしい顔で笑ったんだ。
「はい歩いて一、二、三……」
卓郎はそのまま千鳥足で進む。
「病み上がりの病人みたいね。はい。じゃ次ジャンプ」
卓郎は飛び上がりそのままどさりと床に転んだ。
「ホホ、重い荷物が落ちてきたみたいね。次、走ってみて」
卓郎は走ろうとしたが、左右交互に足を出す方法を忘れてしまったらしく、すぐつまづいて転んだ。
「立って」アーイシャはにべもない。「早く」
卓郎はもがいて両手をつき、ええと、まず右ひざをたてて、そこに体重をのせて、上へ身体を……起き上がった。ふだんは考えることなく当たり前のようにやっている「起き上がる」という動作がこんなに難しいものだとは知らなかった。
次に卓郎は二、三歩前へ進んでからそのまま正面に倒れた。
「もう一度」
右足に体重をのせ過ぎ、そのまま横向きに回転してしりもちをついた。
「もう一度」
だんだんとこつを覚えてきた。右、左、右、左。
「もっと早く」
まだぎこちなかったが、ずいぶん早く足を動かせるようになってきた。
「今度は敵の攻撃をよける練習」アーイシャの訓練メニューに休息はないようだ。
アーイシャは床に落ちていた栗くらいの大きさのナットを拾うと、いきなり卓郎に向かって投げつけた。
ぐえっ!
ナットは卓郎の心臓あたりにめりこんだ。衝撃で卓郎の身体は一メートルも吹っ飛んだ。
「遅い! よけなさい。浜辺でやったみたいに」
「ひ、ひどいよ! いきなり」
「ひどい? 敵が待ってくれると思うの? お子様!」
第二弾が来るのが見えたが、体が反応する前に腹にめりこんだ。
「痛い!」
「あたりまえよ。普通の人間に当たれば死ぬくらいの力で投げている。でもZウイルスで強化した身体だからとりあえずそう簡単には死なない。さあ、よけるの」
「ゾンビ・イレギュラー・ムーヴメント!」
卓郎は叫んだがなにも起きなかった。その代わりにもう一個のナットが身体にめりこんだ。
ぐはっ
Zウイルスで強化した身体でも痛かった。血はすぐに止まり、身体にめりこんだボルトやナットがゆっくりと押し出されてコンクリートの床に転がったが、それで痛さがなくなるわけじゃなかった。普通の人間ならとうにうめき声をあげて床をのたうちまわっているはずだが、スーパーヒーローの力を得てしまったばかりに倒れることもできない。
卓郎の出血が止まるのを確認するとアーイシャは再び攻撃を始めた。
「よけなさい。よけるの!」
そう叫びながら機関銃弾のように十寸釘をばらまく。卓郎は最初の一斉射撃はかわしたが、次の連射をもろにくらった。身体を横切って巨大なミシンにぬいとられたように連続した穴が開く。
はぐうっ
卓郎は転がった。
「まだまだっ!」それに追い討ちをかけるアーイシャ。
ちょっとした段差にぶつかってとまった卓郎の身体を再び十寸釘の斉射がつらぬいた。
「痛たたたたたたあい!」
そんなつもりはないのに、目から大量の汗が出てきた。
「ううううう」
頭をかかえる卓郎を見ていたアーイシャがふっと力を抜いた。振り上げた両手をゆっくりと下に下ろす。指の間で釘がきらりと光った。
「もうやめよっか」
「え」
「あんた、あんまり見込みなさそうだし、そんなに痛がってたら訓練にならない」
「やだ、やめない」
「そう」アーイシャの指の間から釘がぽろぽろとこぼれた。「じゃ、次は徒手格闘」
いきなりアーイシャは卓郎の目の前にせまった。すれちがいざまにひざを卓郎の腹に叩き込む。
ぐはあ!
卓郎は自動車にぶつけられたみたいに回転してころんだ。
「そら! 構えて!」
アーイシャは次の突進の体勢をとっている。卓郎はなんとか起き上がりアーイシャを向いて中腰の姿勢をとった。アーイシャは卓郎の前まで突進し、軽くステップを踏むと卓郎の目の前で大きくパンチを振った。
卓郎はパンチを防ごうと両腕を上げた。腹ががら空きになる。
げしっ! げふう
がら空きの卓郎の腹にアーイシャの後ろ回し蹴りが決まった。卓郎はそのまましりもちをつく。吐き気がどっとこみ上げ、なんどかげえげえとしたが、胃から出てきたのはげっぷだけだった。
再びアーイシャは静止した。すらりと伸びた細長いからだ。その立ち姿はかっこいい。スーツアクターできるよ。こんな状況なのに卓郎は思わず見とれた。
「やっぱりやめよっ」突然アーイシャが言う。
「やだ」卓郎はだだっこのように即答する。
アーイシャはうんざりした顔で肩をすくめた。
「もういい加減にしたら? あんたはただの中学生でしょ。こんな苦しいことを無理に続けることはないのよ」
卓郎は座り込んだまま、口のよだれをふいた。
「いや。これはそんなに苦しいことじゃない」
「!?」
アーイシャははっとした。卓郎は初めて勝利感を味わった。
「いじめられて……それでも仕返しすることもできないで我慢する方がもっと苦しかった。クラスでどこにも居場所がなくて、それでも家よりもましで……」
アーイシャは初めて卓郎を見るような目でながめた。
「そう……あんたはいじめられっこだったね」
突然4DSのスクリーンが点灯し、博士の顔が現れた。
「まずまずじゃ」AI博士は言った。「制御率十パーセント、といったところか。最初にしては上等じゃ」
AI博士は片方のまゆを上げて言った。
「しかしじゃな。制御率というのはきみの心の持ち方一つで変動するということを忘れてはいかん。よいか。Zウイルスは生きておる。そして君の脳に抗体があっても常に肉体の支配権を奪おうと試みておるのじゃ。平常心を失えば肉体の制御をZウイルスにとって代わられることもあるのじゃ」
「え、じゃあ」
「ヒーローになるのはそう難しくない。ヒーローであり続けることが大変なのじゃ」
*
週明けに卓郎が学校へ行くと、クラスの雰囲気が違っていた。いつもならからんでくる赤間も教室のすみでこちらを見ながらひそひそと話していた。赤間だけではない。クラスの女子が数箇所で固まりおしゃべりしているが、卓郎を認めるとちらっと見てから目線をかわしひそひそ話をはじめた。これはうわさをしているサインだと卓郎でも分かる。
え、なに? これ。卓郎は自分の身体を見回して、どこかにマジックペンでいたずら書きがしてあるのか背中に張り紙がしてあるか確認した。
え? え? え? どうして? ぼくがアンデッドマンになったのが知られたの? そんなはずはない。あの深夜に行われた訓練を見ていた者がいたとしたら、ひそひそ話くらいでは済むはずがない。
ああそうだ。アーイシャとの訓練で得た傷はZウイルスの治癒能力で跡形もなく消えたが、激しい訓練で一歩大人の階段を登った卓郎の変化が顔つきに表れているのかもしれない。
卓郎は自分のあごに手を当ててみた。ひげは……生えてない。まだつるつるだし声変わりもしていない。
大人の階段。
ムフ
ひとりほくそ笑んだ卓郎が自分の席へたどりつくと腕組みをして仁王立ちした坂東美香がいた。
「やっ」卓郎はがらにもなく片手をしゅたっと上げてスポーツ系男子のようなあいさつをしてみる。赤城山から降りてくる冬の風のような冷たい空気が返ってきた。なんか違うな。
卓郎はあたりを見回してからウインクしてみせ、こっそりと美香にささやいた。
「もしかして、もしかしてうわさになってる?」
そう言ったとたん、美香の態度がモリブデン鋼のように硬化した。
「へーえ」卓郎をジト目でながめる。「じゃあ自覚はあるんだ」
「う、うん。秘密にしていたつもりだけど、わかっちゃうもんだね」
「わたしは信じられなかったわ」
「え、みんなどの辺まで知ってるの?」
「ほとんど憶測よ。事実はなにもない。あなたの自白のみが頼り。いっそ否定してくれたなら良かったのに」
「そんなあ。こういったことって、やっぱりいくら隠していてもばれちゃうんだな。特撮ヒーローも終盤ではリアル割れするし」
「なんのこと」
「実はね……」卓郎は声をひそめて美香に顔を近づけた。いつもなら嫌がらない美香は今日に限っては不快そうに顔をそらして距離をおいた。
「ぼくは……実はスーパーヒーローなんだ」
「ああそう」
「本当にヒーローになっちゃったんだ。本当だよ」
「そんなことより、うわさは本当なの?」
「うわさって?」
「信じられなかったわ。あなたは太ってて汗かきでオタクでいじめられっこで運動神経にぶいし勉強はできるけどやる気はないし話題はディープ過ぎて誰もついていけないし気がきかないし鈍感だから……まさかあなたがそんなことをするなんて信じられなかった」
「美香、なにを言ってるんだ」
「呼び捨てにしないでよ」美香はつーんとあごをそらせた。
卓郎は混乱した。どうやらみなの「うわさ」ってのはアンデッドマンとは関係ないらしい。
「ごめん。ちょっとよく分からなくて、そのうわさってどんなうわさ?」
「なによいまさらっ!」
「ちょっとちょっと」卓郎は両手をあおいでなだめた。「本当にどんなうわさか知らないんだ。心当たりはない」
急に勢いを失った美香はハムスターのような小さな声で言った。
「安肝くんの家に……外人の女の子が住んでるって。出入りしてるところを見たって」
「そ、それは……」卓郎はつまった。こんな問題が起きるとは全く想定外だった。
「たっくんの家って、確かご両親は仕事でほとんど不在よね」
「えと」
「ということは、もし女の子が一緒に住んでたら、その子と二人だけでほとんどの時間を一緒にすごしているということね?」
「そ、それは」確かに今、卓郎はほとんどアーイシャと一緒にいるが、それはその……ほとんど厳しい訓練をしていて……一緒にいたって、雑談するひまもなくて……。
「どうなの?」美香は深く息をついて卓郎を見た。心なしか目が赤い。
「そんなことより、もっと大事なことがあるんだ。聞いてくれ」あわてた卓郎はますます深みにはまった。
「人間を超人にするワクチンがあって、それをねらう秘密組織が……」
「ごまかさないでっ!」ばんっ! 叩かれた机が震え、クラスの全員がこちらを見た。
「あなたは欠点だらけだけど誠実なところはいいと思っていたのに……」
「あのこは追われてて……」
「やっぱりいるのね!」
「いやその」
「サイテー!」美香は柳眉を逆立てた。「なにやってんのよ!」
「待ってくれ! 待って。これにはわけがあるんだ」
「そのわけとやらを今から考えるの?」
「ち、違う。そうだ。ぼくの言葉が信じられないなら、ちょっと待って」
卓郎はかばんから4DSを取り出した。どこでクロスノウが襲ってくるか分からないから、いざというときのためにいつも持ち歩くことにしたのだ。4DSを起動し、呼びかける。
「博士! AI博士!」
呼びかけたが、AI博士はこんなときに限って姿を現さなかった。
「あっ、こいつ。学校に4DS持って来てる。先生に言うぞ~」
鎌田が目ざとく見つけて大きな声で叫ぶ。
「ちょっと待ってて。今博士が説明するから。ほんとだから」
卓郎は4DSをかかえ、汗をかいて必死に抗弁したが、AI博士は出てこなかった。
クラスの全員の冷たい視線を感じた。
「おい。キモオタ。お前なんかやらしいことしてんだって?」赤間が聞く。
「ま、ふたまたかけてる男はこれくらいの目に遭って当然よね」美香の友達の栗柿ももこがぽつんと言った。
ちょっとちょっと二股って言った? それってもしかして、美香はぼくのこと……
「エロい。エロいぞこいつ!」赤間が叫ぶ。
クラスの喧騒のバックに卓郎は頭を抱え込んでしまった。担任がやってくるまで、それは続いた。
報われない。
ヒーローって全然報われない職業だ。
*
「遅い! おそすぎる!」
廃工場の暗がりでアーイシャの叱咤する声が響く。
このごろ毎晩のように卓郎たちは訓練を続けていた。卓郎は毎日学校へ行き、戻ってくると夕食を食べてから昼寝する。もともと徹夜には強い卓郎だが、こう毎日限界まで試され続けるともうへとへとだった。
Zウイルスによって体が超人となっても、傷がみるみるうちに回復しても、ダメージを受けているのは卓郎本人の身体なわけで、筋肉痛はひどかった。訓練が終わり、日の出前に帰宅すると倒れて朝まで冷凍マグロのように眠りこけ、起き上がると母がキッチンテーブルの上に用意していってくれた朝食を食べ、登校したが、毎晩の緊張がもたらす疲れはだんだんと心にたまっていった。それでも身体だけはすごく元気なので休めなかった。
「まだまだね。五分休憩」
アーイシャはそう言うとタオルで額の汗をぬぐった。
「そんなことはないぞ。最初にくらべるとずいぶんと上達したものじゃ」
AI博士がフォローしてくれる。
確かに卓郎はもうZウイルスに感染した状態で走ったり転がったりできるし、しゃべるときもつっかえないで言葉を発することができるようになった。しかしまさに超人のような動きのできるアーイシャと比べれば、見劣りするのも間違いなかった。
「やっと普通の人間らしく動けるようになっただけ。これじゃ一般人と変わらない。クロスノウの殺し屋どもと戦うなんて無理」
アーイシャの評価は低い。
「肉体を制御するという観点からみると、まだ制御率は二十パーセントといったところじゃな。なぜ制御率が向上せんのじゃろう」
AI博士も不思議そうだ。
「アーイシャなぞ、最初は制御率五パーセントもなかったが訓練でここまでなった。Zウイルスに支配されないぞという強烈な意思の力じゃ」
「じゃあぼくは意思の力が欠けていると」
「うむ。そこが微妙なのじゃ。きみは素質がある。それは間違いない。あのゾンビ・レーザーなぞ究極の肉体制御じゃ。あの技を発動したとき、きみの全細胞が一時的に変化してコンデンサとなり、目の水晶体はレーザー光を収束するくらい強くなった。いずれも制御率百パーセント近くなければ不可能なことじゃ。もしきみが自分の意思でやったとするならば」
「もし、が多いですね」
「うむ。Zウイルスの挙動についてはまだまだわからんことだらけじゃ。研究所ではアーイシャが優等生じゃった」
「殺人技術の習得のね」アーイシャが皮肉な口調で言う。
「今までなにをやってきたの?」
「やつらが……クロスノウがわたしに期待していたのは、不死兵士を率いる指揮官としての役割だった。意識と理性を残して、上からの命令を聞き、ゾンビ兵士たちに命令できる能力」
「仕官候補生か。じゃあ訓練も厳しかったんじゃないの」
「そうよ。よくそんなことを知ってるわね。そっか、あんたおたくだっけ」
「え、きみはおたくじゃないの? 確かおたくでなければアンデッドマンにはなれないんじゃ……」
「ま・さ・か。アンデッドマンの条件はいじめられっこであること」
「あ、そうだった。じゃあ、きみもいじめられっこだったの?」
一瞬、空気が凍った。
「そうよ」搾り出すようにアーイシャは言った。「わたしはいじめられっこだった。悪い?」
アーイシャはヘアバンドを直していった。コイル状の髪がつんつんとゆれた。
「そんなこと、あんたに関係ないじゃない」
「関係あるよ」
「なぜ」
「だってぼくたち、仲間だろ?」
アーイシャは再び嫌そうな顔をした。廃工場のすみでこおろぎが鳴いているのに気づくくらい、しばらく沈黙が座を支配した。
突然アーイシャはぷい、と向こうをむくと壁際まで歩きながら言った。
「なんだか気がぬけちゃった。休憩にしよっ」
卓郎は大またで歩くアーイシャの後ろを子犬のように小走りについてゆくと、その隣に座った。
アーイシャはバックパックからスポーツドリンクのペットボトルを出すと一口飲んでから卓郎に差し出した。
え、いいの? これをそのまま受け取ると間接キスになっちゃうけど・・・
「なに? いらないの?」卓郎のためらいにアーイシャが即す。
「えと、いいの? 口をつけても」
卓郎は自然に開いた口からよだれが出ているときがあり、しゃべったときについつばが相手の顔に飛んで怒られたことがなんどもあった。
卓郎の言葉にアーイシャは天を向いて顔全体で武者のようにかか、と笑った。
「あんたいつも学校でそんな調子なの? おどおどしちゃって。無駄に遠慮深くて。それじゃ、いじめられるのも無理ないわね」
「きみはどうしていじめられたの?」
アーイシャは嫌そうな顔をした。「わかるでしょ」
「わからない。きみみたいにしっかりした子がいじめられるなんて考えられない」
「わたしの茶色い肌の色、ちりちりの髪が十分語ってる」
「そんな。きみはかっこいいし……」
「へえ、おせじ? あんた見かけによらないね。実はプレイボーイ?」
アーイシャはいたずらそうに笑った。笑うと大きな口から白い歯がこぼれ目の獣人じみた黄色でさえも魅力的だった。
「そ、そんなことない」
「実はふたまたかけてるとか」
卓郎は美香を思い出してどきっとした。そんな卓郎を見てアーイシャは声を出して笑った。
「あんた。考えてることが全部顔に出てる! やらし~」
「ち、ちがう!」
「ははは、冗談」
アーイシャは楽しそうに笑い続けた。
「子供のころスーダンへ行ったことがある」
ひとしきり笑うとアーイシャは話し出した。
「日本と比べると車は古いし家の中に家具もなんにもないけど、楽しかった」
アーイシャはそのまま立ち上がり、両腕をひろげると回転しながら歌いだした。それは心のそこをゆさぶる民族音楽のような調べだった。抜群のリズム感で歌にあわせてゴムのようにしなやかな身体が躍動し、折れ曲がり、びん、と勢いをつけて戻り、Zウイルスの力で高く飛び上がり、長い滞空時間を利用して宙に浮かぶ彫像のように空中で静止した。月のスポットライトに照らされ、踊るアーイシャは黒い女神のようだった。卓郎はしばし別世界にひたった。
ひとしきり踊り終えるとアーイシャはタオルで汗を拭いて卓郎に笑顔を向けた。
「これはわたしの国の踊り。あのままスーダンにいてもよかったのに、お父さんは仕事で日本にいる必要があるし、家族は一緒に暮らすべきだって。そこで日本へ帰ってきた」
「ふうん。帰国子女なんだ」
「でも……帰ってこなければよかったかも」
思いのほか激しくアーイシャは言った。
「わたしがお父さんに連れられてスーダンへ行ったらむこうではみんな私のことを日本人だと言った。でも家族として接してくれた。日本に来るとアフリカ人と呼ばれたわ。くろんぼと」
「そんな」
「日本に戻ってきてからあるとき学校へ行ったらわたしの机の上にバナナが置いてあった。それでね。クラスの男子が「キキッ」ってサルのまねをしてからかったの」
「ひどい」
「わたしは「これを置いたのだれっ!?」って大声で叫んでみんなをにらみつけた。そしたら「柴田は凶暴だ。みんなを脅した」って先生に告げ口した。あるとき私の髪の毛を後ろからで引っ張るやつがいたからわたし、そいつの小指をつかんで折ってやった。それ以来、誰もわたしに近寄ってこなくなった。女子も」
「指を折ったって。それはやり過ぎだ。親御さんも大変だったろう」
アーイシャは憤然とした。
「あんたすっごく日本人らしいね! 他人とか立場とかばかり気にして。わたしの髪がまっすぐじゃないのはわたしのせいじゃない!」
「きみも日本人だろ」
「違う! 日本人なんて大嫌い!」
アーイシャは勢いを吐き出し終わると急にしんみりした。
「でも……あんたは別。だってあんたもいじめられっこだから」
「ま、まあ、確かにぼくは正統派いじめられっこというか、デブだし汗っかきだし、おたくだし」
アーイシャはくすっと笑った。
「まあ、上履きを隠されたり下駄箱や机の中にごみが入れてあるなんで日常茶飯事だし……」
アーイシャは「ああ、あるある」という風にうなづいた。
「上履きは毎日持ち帰ることにしたけど、体育の授業が終わると制服のズボンを隠されたんで下はジャージをはいてその日をすごしたことや……」
アーイシャはじっと卓郎を見ていた。
「給食のときにわざとらしくトレイをひっくり返されたときは昼飯抜きですごしたし……」
アーイシャの動きが止まった。卓郎をただじっと見ている。
「廊下を歩いていると足をひっかけられて「わりー、わりー」とかわざとらしく言われて……」
アーイシャは無言だった。
「とうとう「金をもってこい」と言われたけど、黙っていたら殴られて、それでも黙っていたらあきらめたよ」
卓郎はめがねをなおした。
「まあでもそんなことするやつらだって自分がいじめられることが怖いんであって、まあ放っておけばいいかなと……」
「わたしはいや!」アーイシャがさえぎった。「わたしは馬鹿にされたままにしておくなんて我慢できない。相手に他人の心を傷つけた代償を払わせてやらなきゃ気がすまない。でも学校に正義はない。クラスメイトはみんないじめをするときにはグルだし、先生だってあてにならない。だから自分を鍛えたし、わたしの尊厳を傷つけるやつには代償を払わせるためにいつも戦った」
アーイシャはきゅうにさみしそうな顔をした。
「でもそんな風にすればするほど友達はできなかった。髪を染めてタバコを吸ってる頭の悪い連中と一緒につるむ気にもなれなかったし、わたしの居場所はなかった」
アーイシャがなんだかアーイシャがかわいそうになり、卓郎はどもりながら言った。
「ま、まあ人間みんな孤独だしさ。友達がいなくても家でアニメを見るとか、時間をすごす方法はあるし……」
しんみりした様子だったアーイシャはその言葉で突然凶暴さを取り戻した。
「そんなことばかりやってるからでぶなのよ! さ、休憩終わり。続きをやるよ」
その夜の訓練はいつもに増してひどかった。
*
アーイシャの調子が悪くなり、卓郎の夜の訓練はしばらく止まった。声をかけても黙って布団の中でごろごろしている。食事もほとんどとっていない。アーイシャらしくない。
卓郎がどうしたのかと聞いてもアーイシャは答えないので、卓郎はだまった。以前母親に同様の質問をして、女の子には女の子の事情があるのだから、あんまりしつこく聞いてはいけません、としかられたのを思い出したのだ。
しかし夜起きる習慣はすぐには改まらない。アーイシャの調子が戻ればまたすぐにでも訓練が始まるし、卓郎は前の習慣でアニメを見出した。訓練のせいで見られなかったアニメや特撮がずいぶんたまってる。
ところが何週間も肉体訓練を続けていた卓郎はインドアの生活がつまらなくなっていた。アニメを見ていてもどこかさめてしまって集中できない。それどころか肉体がうずいて運動したくてたまらなくなった。以前の卓郎であれば考えられないことである。
卓郎は動画を止めて外へ出た。
外の空気を吸うと身体の中に力がみなぎってくる気がする。しばらくぶりにジャンクフードが食べたくなり、卓郎は町に一軒だけあるハンバーガー店へ行った。
メガバーガー二つとコークのラージとポテトバスケット。
お持ち帰りの袋に入れてもらったが、急に気が変わり店内で食べることにした。アーイシャはジャンクフードは食べないし、家族の寝ている家で物音を立ててもいけない。
卓郎が二つ目のバーガーをほおばっているときに、通りの向こう側で誰かの駆ける音が聞こえた。
ちょうど女の子が一人、三人くらいの柄の悪い男たちに取り囲まれているところだった。女の子は卓郎と同い年くらい。もしかしたら同じ中学かもしれない。卓郎は少し迷った。
アンデッドマンであることをクラスのみんなに悟られたくない。顔を見られたら誰だかわかってしまうかもしれない。ところがあることに気づいた。
ぼくはスーパーヒーローになったんじゃないか。
念願のスーパーヒーローになっていながら、弱いものが危険に遭っているのに助けないなんて考えられない。
助けよう。
卓郎は立ち上がった。
店を飛び出しかけて、ちょっとためらった。あれがもし同じ学校の生徒ならこのままではぼくがアンデッドマンということがばれてしまう。
どうしよう。
「おい、待て!」
女生徒にからんでいた男たちを鋭い声が呼び止めた。
男たちは振り向くと言った。「なんだてめえは」
まさになんだ、であった。アンデッドマンに変身した卓郎がかぶっているのはハンバーガーの入っていた紙袋だった。目の場所に穴が開けてあり、着ているのはだぶだぶのジャージ。ちら、と横目で見ると店のショーウィンドーに映っている自分の姿はスーパーヒーローというよりは、例のゾンビを撃ちまくるゲームに出てくる定番の敵キャラだ。しかしこの際しかたがない。正義の実行に姿を気にしてはいられない。
卓郎はめげずにヒーローらしく不良たちの前に仁王立ちで立った。太ってはいるが背だけは高い卓郎の姿に不良たちもなにごとかと目をみはる。
「その手をはなすんだ。離さないと許さない」
「こいつ、馬鹿か」
「さあ、離せ」
せまる卓郎の腹に不良のボスらしい男がノーモーションでいきなり一発ボディーブローを打ち込んだが、Zワクチンを接種済みの卓郎にはまったく効かない。驚きに目をみはった男はいきなり指で目を突いてきた。けんか慣れしている。しかしその指を卓郎は目で受け止めた。鉄のように固い目に男が突き指した手をおさえる。
卓郎が平手打ちをかませると男は吹っ飛んでアスファルトに転がった。
「ば、化け物!」
男たちは叫んで逃げていった。その逃げる姿を、決めポーズをしたまま見送った卓郎は、やおら女生徒に振り返った。
「お嬢さん。大丈夫ですか」
口元にむふふ、と笑みを浮かべ、ヒーローらしく言ったつもりだったが、しりもちをついた女生徒の目は不良にからまれていたときよりももっと大きく見開かれた。
やはりこの紙袋がまずいらしい。どう見ても不審者だよこれ。
女生徒の制服が自分の学校のものとは違うことを確認し、卓郎は特上の笑顔を顔に張り付かせたまま袋を脱ぎとった。
目を見開いていた女生徒が大声で悲鳴をあげた。
「きゃあああああああああ! 化け物!」
そのまま死に物狂いで立ち上がり、走って逃げてゆく。
「あ、あの、ちょっと……」
卓郎は思わず片手をあげて女生徒を引き止めようとしたが、女生徒は後も見ずに消え去った。ふと駐車してある車のウィンドウに映っている自分の姿を見ると、折れ曲がった体、見開いた白目。どう見ても善人やヒーローには見えない。卓郎はさっきやった特上の笑顔をやってみた。ウィンドウの中で化け物がにやり、と笑った。どう見てもこれから人間を襲って喰おうという顔つきだ。
酬われない。
本当にヒーローって酬われない仕事だ。
とぼとぼと帰り道を歩く卓郎の視界に横断歩道を渡るおばあさんの姿が入った。
ちょうどそのとき、交差した道にもうスピードの車が走ってくる。
あれ、危ないぞ。あのままじゃあの車、おばあさんを跳ね飛ばす。
卓郎は走り出した。Zウイルスによって強化された肉体の力を最大に使って、おばあさんへ向かって走る。三、二、一、やっ!
間一髪でおばあさんを抱きとめた卓郎は自分の体を下にしておばあさんをかばい、道路に転がった。その傍らをまったくスピードを落とさずに自動車が通り過ぎた。酔っ払いか。
おばあさんは「ひあっ」と叫んだが、自動車の風圧と音でなにがおきたかを悟ったらしい。しばらく体を硬化させていたが、卓郎に手を引かれて起き上がると何度も頭を下げてお礼を言った。
「ありがとうありがとう」
卓郎はちょっぴりうれしかったが、よく見るとおばあさんは白い杖を手にしていた。卓郎の姿が見えないのだ。
酬われたのはいいけれど、できればかわいい女の子にも認められたかったな。
卓郎は深いため息をついた。
ヒーローは酬われないものなのだ。
*
翌朝、卓郎が学校へ出るとクラスで女子たちがうわさをしていた。まだZワクチンの影響が抜けていないのか、教室の反対側にいてもその声がよく聞こえた。
「ねえねえ聞いた?」
「なになに?」
「昨日の夜、外房中学の生徒が不良にからまれたんだって」
「それで?」
「それがあ、突然助けられたんだって」
卓郎は耳に全神経を集中した。なに? 昨夜のこと? じゃぼくがうわさになってる?
女生徒たちは続けた。
「助けられたのはいいんだけれど、助けてくれたのが不良よりもっとこわかったんだって」
「ええ? どうして?」
「それがね~」うわさをしている女生徒は白目をむいて襲い掛かる仕草をした。
「ゾンビだったんだってー」
「キャー! やだ~」「なにそれ」「きもい~」
うれしそうに騒ぐ女生徒たちを横目に卓郎は深いため息をついた。せっかく女の子を不良から救ったのに「きもい」か。
「ゾンビだったら、助けてもらってもゾンビが伝染るんじゃない?」
「げ~やだ~!」
「あ、あの」たまらず卓郎は声をかけた。「そんなことはないよ」
突然の卓郎の言葉に、女生徒たちは押し黙った。目は不審そうに卓郎をながめている。
「あ、いや。ゾンビでもヒーローは正義のために戦ってるんだから、そんな言い方はないと思うんだけど」
「なに、あんた。ゾンビの知り合い?」
一番明るい少女が両手を腰に当てて仁王立ちになった。
「ゾンビは伝染るものでしょ。噛まれたりすると」
「いやそれは映画の場合で、今回のは別なんだ」
「なんであんたにそんなことが分かるのよ」
「ええ? もしかして知り合い?」
「同類かも。どっちもきもいから」
女生徒たちは聞こえよがしにひそひそと話す。
卓郎は窮地に落ちた。何度も目をしばたたかせ、右手の親指と人差し指で眼鏡のつるをつかんで直す。額から汗が吹き出てきた。
卓郎はちら、と目の端で美香の姿を認めた。いつもなら卓郎が困っていると美香が助け舟を出してくれるはず。
しかし美香は卓郎の視線に気づくと、ぷい、とよそを向いてしまった。
「近くに来ないでよ。おたくが伝染るわ」
「きもきもっ」
少女たちに追い払われながら卓郎は深いため息をついた。
本当にヒーローって報われない。
*
夏である。コミケの夏である。
卓郎はうずうずしていた。明日から夏の祭典コミックマーケットが東京ビックサイトで開催される。
ここ毎日訓練訓練ばかりで楽しみは全くない。軍人のようなアーイシャはともかく、普通の(いやもう普通ではないが)中学生である卓郎にとって、訓練ばかりの毎日はまるで軍隊か刑務所みたいだった。
こそこそとコミケの案内をプリントアウトしたりして、アーイシャの顔色をうかがっていたが、とうとう卓郎は言った。
「あ、あのさ。ぼくあさっては用事があって出かけるから」
「そう」
「一日用事があって出かけてるから、夜の訓練はお休みにしよう」
アーイシャは大きな目でぎろっと卓郎をながめたが、一瞬後言った。「いい」
「そうかい。それじゃ、なにか買ってくるよ。お土産はなにがいい」
うきうきした気分を隠そうともしない卓郎を見てアーイシャはなにかいいたそうだったが(そしてため息もつきそうだったが)なにも言わなかった。
土曜日の朝、疲れて寝ている母親を起こさないように卓郎はこっそりと起きだし、自分で弁当を作ると遠足用のリュックに弁当と麦茶の入った水筒、カメラ代わりの4DSをつめて出かけた。
アーイシャはとうにどこかへ出かけていていなかった。卓郎の家族に見つからないように週末はどこかへ行ってしまうのだ。
4DSも今日は腕につけなかった。AI博士はうるさいことは言わないが、今日は卓郎が一人の世界を楽しむ日だ。誰とも会話したくない。同じ世界を共有できない者とは。
AI博士は人間ではないから、なにも必要としないが、アーイシャにはアニメキャラの携帯ストラップか、予算が許せば抱き枕でも買ってきてあげようかな、と考えていた。
JR臨海腺に乗って幕張まで行く。遠目にドーム状やら未来建築の巨大なコンベンションセンターが見える。車内にはディズニーランドへ向かうカップルや家族連れでいっぱいだ。卓郎のムードはいや高まった。
幕張に着くと、会場まで行くバスがあったが、卓郎はお金を節約するために歩いていくことにした。
八月のひざしは強くさし、歩き始めた卓郎の全身から汗が吹き出てきた。コミケ会場まで約二十分というところか。卓郎は持ってきたタオルで汗を拭き拭き、歩いていった。
駅前の町並みが切れてコンビニを最後に道路しかなくなるころ、卓郎はまっすぐに続いた道路のはるか向こうに影を見たような気がした。
あれっ。あれは!
卓郎は親指と人差し指で眼鏡のつるをつまんでもう一度見直してみたが、そのときにはもう、黒い影はいなかった。
確かに黒服のように見えたが気のせいだったかもしれない。
そもそもアスファルトの道路はこの陽気で逃げ水が光り、遠くの景色は蜃気楼のように漠然としている。
鳥かなにかが鏡のような地面の上を横切っただけかもしれない。
卓郎はしばらく身体をこわばらせていたが、しばらくするとそう自分をなぐさめて再び歩き出した。
ふたたび立ち止まって眼鏡をはずし汗を拭いた。
小さな四つ角を通り過ぎるとき、辻の向こうに誰かが横切ったような気がした。
卓郎は念のため、その場でしゃがんでリュックから4DSを取り出すと左腕に装着した。まだ起動はしない。AI博士と話したくない。これが杞憂であればそのままでいたい。
卓郎が再び進み始めると、再びはるか向こうの道路に黒い服の人影が卓郎と同じ方向へ向かって歩いていた。卓郎は再び眼鏡を直してよく見ようとしたが、人影はゆっくりと歩いているように見えるのに卓郎との距離はだんだん開いてゆく。
卓郎は走り始めた。
人影は人を食ったように奇妙なぴょこぴょことした歩き方で歩いてゆき、卓郎がせまったところでショッピングモールの正面玄関からなかにすっと入ってしまった。
続いて中に入ろうとした卓郎は、突然止まった。
ぼくを尾けてきたんじゃなかったのか。あいつがクロスノウの関係者だとして、「ゾンビ」を扱う組織とよりによって「ショッピングモール」で相対したくはないな。卓郎はそう考えた。
ゾンビと言えばショッピングモール、というくらいありふれた状況だ。
卓郎はそのままモールの玄関を通り過ぎてまっすぐ駆けてゆき、五分後にはコミケ会場にたどりついた。
コミケ会場はすでに開いており、ものすごい数の人がひしめきあってごったがえしていた。その物量はショッピングモールの比ではない。人の渦、渦、渦。
多くの人々が展示即売会で同人誌をまとめて買ったりしているが、中学生の卓郎の小遣いではそこまで手が出ない。ここへ来たのはイベントを見たり、その場の雰囲気を楽しむのが目的だった。
卓郎は汗だくになりながら人ごみを掻き分け、あちこちを歩き回った。
そんな卓郎がアニメのセル画を手に取ってみているとき。
ふと卓郎はセル画のプラスチックに反射する影を見た。
後ろのほうでアニメキャラの着ぐるみを着た人がこちらを見ているような気がしたのだ。
その着ぐるみはちょっと汚れていて商店街の宣伝に使うような素材で、全身を覆いしかもキャラクターはバニーウサギという一昔前のもの。今のはやりでは……全然ない。
あやしい。
一旦きづくとその着ぐるみはとことん怪しかった。
卓郎はわざと気のないふりをしてブースを移動した。今度はさりげなく4SDのパネルを使って後ろを確認すると、あの着ぐるみはさりげなく距離をおいて卓郎を監視できる位置にいた。
卓郎は数度同じような移動を繰り返し、あの着ぐるみが自分を尾行していることを確信した。
クロスノウか。
卓郎を追ってくるのなら、クロスノウ以外には考えられない。
卓郎は着ぐるみの裏をかくことにした。ブースを大きく迂回し、柱の影に入ったとたんに走り出した。
「いたっ」
「なに? 針でも持ってるの?」
卓郎がぶつかったせいか、いくにんかの人たちが不満そうな声を上げた。え、ぼくの身体になにかとがったものがついている?
しかしあまり他人を構ってはいられない。卓郎はそのまま大きく会場を横切って着ぐるみの監視範囲から脱出することに成功した。
卓郎が深い息をついて立ち止まったとき。
周囲の人間たちが何人もうめきだした。
ある者は頭を、またある者は腹をおさえている。
「あああああ」
「ううううう」
なんだ。なにがどうした。
突然のことで混乱する卓郎の目の前で、一人の人がうつむいていた顔を上げた。
赤い目。こわばった表情。ぎこちない動き。
ゾンビ化した人間だった。
*
一瞬卓郎の頭をよぎったのは「これってコミケのイベント」という考えだった。
コミケそのものが半日常の世界で、そこではコスプレしている人や痛シャツを着た人たちが普段着を着た人々に混じって普通に歩いている。会社や学校ではありえない風景が許される、それがコミケだった。
だから中にはゾンビのコスプレをしている人がいたり、あるいは今からゾンビタイムを宣言して会場にいる参加者全員が一定時間ゾンビごっこをする、というのもありだ。
だが、自分の前にいるゾンビが演技だとしたら、アカデミー賞ものだ。目は血走り、指はするどく鉤状に折れ曲がり、足元はふらついて不規則に移動している。
最初は卓郎と同じようにイベントだと思い込んでいた人々の間に、次第に恐怖が広がった。
「なに、これ」
「いやー! やめて!」
笑い声交じりの悲鳴がだんだん真剣なものに変わってゆく。
「ねえ、ひろし。ねえ! ねえ! 返事してよ。あたし怖いの苦手なの。冗談はやめて。やめて!」
卓郎を中心として、徐々にゾンビ化の輪が広がってゆくようだった。会場の人の波はさあーっと引き、卓郎たちを遠巻きにしたが、その遠巻きにした人々の中から次々と胸をあるいは頭を抑えうつむく人々が出る。みな同じZウイルスの感染症状だった。
ふらふらとさまよっていた目の前のゾンビが突然頭を押さえた。何かの声と抗っているようでもある。
卓郎には覚えがあった。Zウイルスに感染しているあいだは、常人よりはるかに優れた身体機能を持っている。それは視覚や聴覚にも影響し、一般人が聞こえない周波数の音が聞こえるのだ。最初は卓郎もずいぶんそれで悩まされた。廃工場を夜飛び回るコウモリの超音波すら聞くことができた。
しばらくうつむいていた目の前のゾンビが頭を上げた。目に敵意がある。
ウロー!
そのゾンビは吼えた。周りにいたゾンビ化した人々もいっせいにその雄たけびに同調する。巨大なコミケ会場に悲鳴が上がった。いまやコミケ会場の人波はどんどんゾンビに侵食されつつある。さっきまでゾンビをイベントと思い込んでひきつった笑いを浮かべていた人々が次々と頭を垂れ、数瞬後にはゾンビと化しているのだ。
卓郎は4DSを起動し、AI博士に話しかけた。
「博士! 博士!」
「おはよう卓郎くん」
「時間がありません。周りの人々がどんどんゾンビ化しています。噛まれたようすはないのに、なぜでしょうか」
AI博士はあたりを見回してこともなげに言った。
「なんらかの方法でウイルスを注射されたのじゃ。Zウイルスは空気感染はせんからな。Zウイルスの感染者はなんらかの危害を加えられない限り凶暴化せん。安全じゃ」
「そんな! でもぼくに敵意を見せています」
「ふーむ」AI博士はディスプレイの中で腕を組んだ。「誰かが操っておるな」
「そんな! どうしましょう」
「ふーむ」AI博士は考え込んだままだった。その間もゾンビの群れは卓郎に迫ってくる。
卓郎はとりあえず自分もゾンビの真似をすることにした。
「ウロロロロ」
目に力を入れ、背中を曲げ、指を鉤爪にし、千鳥足で歩く。何度も変身したのでゾンビの真似ならお手のものだ。卓郎に迫ってきたゾンビが不思議そうな顔をした。仲間だと思ってくれたのかもしれない。
そのとき、先ほど卓郎を尾けてきたバニーラビットの着ぐるみが目の前に現れた。卓郎は思わずゾンビのふりを解いて警戒する。こいつ、なにをするつもりだ。
バニーラビットに気を取られた卓郎の背後から、やはり卓郎が仲間ではないと判断したゾンビがつかみかかってきた。卓郎の肩に手を置き、首に噛み付こうとする。
バニーラビットの動きは早かった。
その場を一挙動で飛び上がると、卓郎につかみかかったゾンビに両足でドロップキックをかませた。
ゾンビはその衝撃で後ろに倒れ、反対側に落ちたバニーラビットの頭部がはずれて転がり落ちる。
「あっ!」
バニーラビットの着ぐるみから現れたのはアーイシャだった。アーイシャは頭部のはずれた穴からもがき出て、地面に転がる。
「ど、どうしてここに」
「早くしなさいよ。ばかっ!」アーイシャは怒鳴った。「クロスノウが襲ってくるかと思って尾けてきたのっ!」
いいざまに横から襲ってきたゾンビを華麗なる後ろ回し蹴りで吹っ飛ばした。
「かっこいい!」
「なんですぐ感染しなかったの」
「いや。ゾンビの振りをしていれば大丈夫かと」
「ばかじゃないの!」
アーイシャは本気で怒ってる。
「早く! はやく注射して! こいつら、素手では無理」
「分かった」
卓郎は両手を空中で組み合わせ、大きな声で叫んだ。
「チェンジ! アンデッド!」
その大声にびっくりしたのか、ゾンビたちが卓郎がZワクチンを注射するまで攻撃するのを待ってくれた。
「うぐ、うぐぐぐぐぐ」
いつものようにZウイルスが全身の細胞を変化させる苦痛が過ぎ去ると、卓郎はアンデッドマンとなった。
「ウロロロロロロロロロロロー!」
快感が全身を走る。自分が違う自分になる。
アーイシャが左右のゾンビをぶちのめした。身体の軽い彼女は、相手を蹴ってその足でそのまま空中へ飛び上がり、別の相手に体重を乗せた蹴りをかませる。ほれぼれするような連続技だった。
対する卓郎は相手をなぐったりけったりするが、何しろ相手もZウイルスに感染しているのだ。力は同じ。押し合ったら、数が多い相手にはかなわない。Zウイルスに半分支配された肉体を制御する訓練を受けているかいないかの違いしかない。
落ちていたバットに持っていた釘を数十本刺し、即席の釘バットを作ったアーイシャがそれを両手に持って振り回した。
ぶん!
周りを囲んだゾンビ数名が吹っ飛んだ。その中のいく人かは、釘が顔に刺さり、耳がちぎれたりしているが平気で立ち上がる。Zウイルスの治癒力はすさまじい。これくらいでゾンビ化した人間を蹴散らすのは無理だ。
卓郎は襲い掛かってくるゾンビを投げ飛ばしていたが、投げても投げてもまた起き上がってやってきた。
「出口への経路を開いて!」
アーイシャが叫ぶが、そのアーイシャも厚いふとんのような人々の圧力におされ気味だ。
卓郎はブースのテーブルを持ち上げるとそれを構えて人垣に突進した。数名がひっくり返るが、倒れたまま卓郎の足にしがみつく者がいる。
アーイシャが血のりで足を滑らせた。
ゾンビの群れが重なり合ってアーイシャの上に乗っかる。アーイシャは手足をばたばたさせたが下半身を押さえつけられて人の山から這い出そうと上半身だけでもがいている。
地面に押さえつけられているアーイシャがなにかを放ってよこした。
卓郎がそれを受け取ると、短く切ったパイプでこしらえた塊だった。端から導火線が出ている。テープで百円ライターが巻きつけてある。
「これ爆弾じゃん!」
「早く! 早く火をつけて投げて!」
卓郎はそれをしばらくながめていたが、床に落とした。
「なにしてんのよ!」
卓郎は悲しそうに言った。「ごめん。ぼくにはできない」
「この人たちはZウイルスに感染して一時的に理性をなくしてるけど、じきにワクチンが切れたら人間に戻る。爆弾を使ったら殺してしまう」
「馬鹿! 自分が殺されたいの!?」アーイシャの顔は蒼白だ。
次のゾンビたちの波に卓郎は押し流された。
卓郎も両足を引っ張られ、四肢を捕まえられると胴上げのように宙に持ち上げられた。
これで二人とも身動きがとれない。
卓郎は目を瞑るしかなかった。
四肢を引く力がだんだん強くなる。綱引きのように卓郎の身体を引きちぎるつもりか。
卓郎は初めて恐怖を感じた。殺されるかもしれない。
恐怖がおぼれたときの水のように身体を下から満たし、のどもとまできた。
死にたくない!
卓郎の恐怖が全身の細胞に伝わった気がした。
ぶうん。
再びあの感覚がやってきた。
全身の細胞という細胞が変質してゆく感覚。
すべての細胞をコンデンサとする感覚。
目がせり出してきた。
「ゾンビ・ライト・アンプリフィケイション・バイ・スティミュレイテッド・エミッション・オブ・ラディエイション!」
卓郎は首を回した。目からZレーザーがほとばしり、卓郎の足をつかんでいたゾンビたちの腕を一閃するとすぱっと切れた。
はずみで卓郎の四肢を引っ張っていたゾンビたちが将棋倒しに倒れる。卓郎の足をつかんでいた指がばらばらとこぼれる。
卓郎がレーザーを照射しながら頭を回すと、腕が転がり、卓郎は自由になった。そのままアーイシャの上に馬乗りになっている数名を撃つ。腕や足が転がり、人間の山の中からアーイシャが飛び出した。
「やったわ。そのまま出口へ!」
アーイシャが出口を指差すと、それを理解したかのようにゾンビたちは人垣をバリケードのように作って出口までの道を封鎖した。
「切り開いて」
「どうやって?」
「首をねらうの。首を切り落とされれば、ゾンビは動けなくなる」
「え、それで後でくっつくの?」
アーイシャは馬鹿を見る目つきで卓郎をながめた。
「こんな非常時にまさか相手の心配してんじゃないでしょうね」
「そうしてるんだよ。だってZワクチンが切れたらあの人たちは人間に戻るんでしょ」
「その前にわたしたちが殺されちゃうわよ!」
「いやいや」卓郎は人差し指を立てて振った。「ヒーローはそんな風に考えない」
「勝つためにどんな手段でもとれるのなら、そいつはもはやヒーローじゃない。ぼくはたとえ自分が殺されてもそんなことはしないよ」
*
「やれやれ。必殺の陣を組め、というからどんな恐ろしいやつかと思っていたら、とんだあまちゃんじゃねえか」
突然、上から声がした。
コンベンションセンターの今卓郎たちがいるホールの中二階に通じる階段のてすりに一人の白人の男がもたれていた。チャックは金髪碧眼だったが、この男は黒髪黒目だ。背広を崩して着ている。ワイシャツはだらしなく前を開け、そこから胸毛が見えている。頭にカウボーイハットをかぶっている。
「おれはフランク東。クロスノウ十二神将の一人だ。よろしくな」
フランク東は右手で持っていたセルシューターの銃口でカウボーイハットのつばを押し上げた。
「十二神将。ゾンビの切り込み隊長」
アーイシャの言葉にフランクは不快そうな顔をした。
「ダークジニー、勘違いするな。おれはゾンビじゃない。ゾンビなんて人間以下の存在だ。兵士としては役立つがな。こちらで指示してやらなきゃ、あっちへふらふらこっちへふらふら、まともな人間としての理性なんざ、これっぽちも備えちゃいねえ」
「だから一般人は兵士として使い捨てにしてもいいっての? 子供をさらってきて戦争を教えるの?」
アーイシャは歯をむき出して怒った。
「悪魔! あんたたちみたいのがいるからこの世に地獄ができる」
フランクは両手を広げて肩をすくめた。
「ダークジニー。どこで勉強したか知らんが、ずいぶん賢くなったな。以前はお前もゾンビを操っていたくせによ」
卓郎は思わずアーイシャの顔を見た。アーイシャは卓郎を見なかった。フランクは続けた。
「お前ももうちょっと我慢してればゾンビどもを自在に操る指揮官になれたのによ。もしかしたら神将になれたかもしれないのに、なにを勘違いしたのか」
「だまされない」アーイシャは吐き捨てるように言った。「大人は子供を利用するだけ。わたしも利用価値がなくなったら農場に送るに決まってる。
フランクは一瞬固まったが、すぐに肩の力を抜いた。
「そうか。農場を見たか」
「見た」
「じゃあ和解はありえないな」
「ありえない」
断絶したことでフランクはかえって饒舌になった。
「卓郎君と言ったな。教えてやろう。Zワクチンには赤ワクチンと青ワクチンがある。赤ワクチンから生成したのが青ワクチンだ。赤と青には主従関係ができる。会場にいるこいつら全員「子」の青ワクチンを接種したからその「親」たる赤ワクチンを接種したおれは……こいつらすべてに命令することができる……どうでえ。これが正しい関係ってもんだ。奴隷であるべき大衆どもを支配者であるべきおれさまが意のままに操るんだ。こいつらの生死はおれの手の内にあるってわけよ」
「ふん。小物独裁者らしいけちな考えだわ」
「おや。褒めてくれるのかい」
アーイシャの言葉にもフランクは動じなかった。卓郎は感じた疑問を口にした。
「さっきから大衆って言ってるけど、どういうことですか?」
フランクは得意げに言った。
「いいか。この世界は「支配する者」と「支配される者」に分かれる。ゾンビというのは一般大衆の比喩だ。わかるか。こいつらZウイルスに感染すると快感に圧倒されて理性をなくすんだ。物事の道理も自分になにが必要かもわからなくなる。パチスロで儲けを夢見て散財し続けるおやじも、ネトゲにはまって肝心の学業がおろそかになる学生もスマホに夢中になって前が見えずにぶつかりながら歩いてるやつらもみんなゾンビと同じだ。大衆というのはすべてゾンビなんだよ。ゾンビは下等な存在だから、支配されて当然だ。そしてZウイルスに感染しても「夢中」にならないおれのような存在は……」
フランクは前髪をはらりとなでつけた。
「ゾンビすなわち大衆の支配者となる。おれは「支配する側」の人間だ。自分で思考し、自分の道を選ぶ。快楽に夢中になって自分のするべきことを忘れたりはしない。おれのような者が本当の人間だ。あとの連中はゾンビの予備軍でしかないんだぜ」
いいか。おれはゾンビじゃねえんだ。ゾンビは負け組みの連中さ。おれは勝ち組だ。オーケー?
卓郎は首をひねった。大人の理屈はときとして理解に苦しまされる。
「ええと。あなたもぼくも赤ワクチンを打ったた他人に命令できる。もし青ワクチンなら命令される」
「そうだが」
「じゃあ会社みたいに青ワクチンから赤に出世したりその逆もあるんだ」
「いや、それはない」フランクの顔は図星をさされたようだった。
「あなたもZワクチンを接種してゾンビになるんでしょ。じゃあぼくと同じじゃないですか」
「こいつは人工抗体を使ってる。人工抗体を接種してるからZワクチンを使えるの」
アーイシャが舞台裏を明かした。
「なあんだ」卓郎は思わず笑いそうになった。
「じゃあ人工抗体を打ったら勝ち組、打たなかったらただのゾンビ」
「小僧。勘違いすんな」フランクは苦い笑顔を見せた。「おれはゾンビじゃない。人間以上の存在だ」
「だってあなたは抗体を打ってからZワクチンを打つんでしょ。そうしないと変身できない――超常能力を手に入れられない。他のゾンビ兵士たちを操れない――じゃあ、あなたはぼくと同じじゃない。同じですか? 人工抗体を打ってない? そっか。あなたもいじめられっ子だったんだ」
フランクはセメダインが乾く直前のプラモデルをつぶされたような顔をした。
「小僧。おしゃべりな奴ほど早死にするんだぜ」
「あれ。なにか気に障った?」
「うるさい! こいつらを捕まえろ!」
フランクの指揮でゾンビたちは一斉に卓郎たちに襲いかかった。アーイシャは宙高く飛び上がったが、落ちてきたところを人波にさらわれて沈んだ。
卓郎の腕にも足にもゾンビたちがしがみつき、ものすごい力で引っ張った。さっきまでの統一感のないゾンビの群集とは全く異なっていた。それがフランクの指揮によるものであることは容易に理解できた。
しかし卓郎の口はへらなかった。
「あなたは快楽にわれを忘れないと言ったけれど、ぼくもZワクチンを接種してるからわかる。Zワクチンは気持ちいい。いじめられた思い出がなければぼくもわれを忘れそうになってしまう。あなたもそうでしょう? よほど嫌な思い出があるから勝ち組で人間以上の存在なんですね。ぼくたちとゾンビとの違いって、ただそれだけなんじゃないかな?」
フランクは手にしたカウボーイハットを地面に投げつけて叫んだ。
「うるせえ! オレはゾンビじゃねえ。オレは人間だあああああああ!」
フランクはそばにあった火災報知機を壊して中から斧を取り出すと下に飛び降りてきた。
「やつをしっかりと押さえておけ。Zウイルスの再生能力が首を切り落とされても有効かどうか試してやる」
フランクの命令でゾンビ化した人々の一卓郎を押さえる手が強くなる。
フランクはゆったりとした足どりで近づいた。
押さえつけられた卓郎にだんだん近づいてくる。
ああ、首を切られる。首を切られたらさすがに生きてるだろうか。落ちた首を小脇に抱えて首から下の身体だけが歩いていくんだろうか。それ、なんかやだな。
「ゾンビ・ライト・アンプリフィケイション・バイ・スティミュレイテッド・エミッション・オブ・ラディエイション!」
卓郎は叫んだが、身体のコンデンサはぶすぶすと音を立てるとそのままなにも起きなかった。さっき使いすぎて電池切れのようだ。強力なレーザー光線を出すためにはエネルギーが足りない!
卓郎は身体をよじったが、ゾンビたちはものすごい力で卓郎の四肢を抑えつけている。
だんだんと死がせまってくる。
頭部を切断されても、Zウイルスの治癒力で生きているだろうか。さすがにだめなような気がする。
フランクはそのまま卓郎のすぐ横まで来てゆっくりと斧を振りかぶった。だめだ! 首を切られる。
「もっとできるはずじゃ!」
黙っていたAI博士の声が響いた。
なんとかしなくちゃ。なんとか。
迫る恐怖に理性が飛びそうになったとき。卓郎の身体に変化が起きた。
歯が!
歯がせり出てくる。
自分の歯の内側から、あたかもホオジロザメのように何層にもわたってあとからあとから歯が生えてくる!
口を閉じることができない。
そのまませり出した最外周の歯が、突然熟したぶどうの房のようにとれて飛んでいった。かなりの強さだ。飛んでゆく歯はみな真っ青に染まっている。青い歯は機関銃弾のように飛んでゆき、まわりにいるゾンビたちの身体に突き刺さった。しかし本物の弾丸とは異なり、人間を殺傷するほどの強さではない。ましてやZウイルスで強化された身体ならば……
なにかが起きていた。
卓郎の歯が突き刺さったゾンビたちが突然卓郎の身体を放し、頭を抑えてうめき始めた。卓郎の歯はまだ次々と生え、周囲に飛んでゆき、他のゾンビたちに突き刺さる。それらのゾンビたちも先ほどまでの一糸乱れぬ団体行動からはずれ、それぞれ頭を抑えてうめいている。
「なんだ! どうした!」フランク東が動揺した声で叱咤する。「お前ら、戦闘態勢にもどれ! 早くしろ!」
しかしゾンビたちは聞く耳を持たない。そして卓郎の歯が飛ぶにつれ、その混乱の輪はどんどん周囲に広がった。
先ほどまで卓郎の手足を押さえていたゾンビたちが静かになった。頭をたれ、なにか黙想しているようだ。これはZワクチンを最初に接種したときの症状によく似ている。Zウイルスが最初に身体の隅々に侵入し支配するときには激しい熱を感じるが、その支配が脳にまでおよぶと、新しい精神状態と肉体が同期をとる間、一瞬行動を止めるのだ。
卓郎の周りのゾンビたちの同期が終わり、彼らは頭を上げた。
再びかかってくるのか。
卓郎が再び襲ってくるであろうゾンビたちに対して身構えたとき、ゾンビたちはいっせいに片ひざをついた。
恭順と命令を待つ待機の姿勢。
「ゾンビ・青歯連弾!」AI博士が叫んだ。「きみは危機に際して自分の体内で青ワクチンを精製したのじゃ! きみの青ワクチンの効果がフランクの青ワクチンの効果を上書きし、彼らはいま君の支配下にある」
「ええ?」
「さあ、命令するのじゃ」
「ええと。フランクのゾンビ軍団と戦え!」
卓郎の周りで同期を終えたゾンビたちはいっせいに回れ右をすると周囲からせまりくるゾンビ軍団と乱闘を始めた。
卓郎は急いでアーイシャの元へ行き、彼女の無事を確認するとそのままゾンビ軍団の乱闘へ突っ込んでいった。せまり来るフランク側ゾンビ、それを押しとどめつかみ合いする卓郎側ゾンビ。その先へ進んだ卓郎はさらに青く染まった歯をばらまいた。卓郎の歯があたったフランク側ゾンビは直ちに行動を停止する。
「くそっ! お前ら! おれの命令をきけ!」
フランクはセルシューターでゾンビをねらって撃った。小さな針が飛び、ゾンビたちに刺さったが、ゾンビたちは行動を止めなかった。
「人工的に生成された青ワクチンよりも元ウイルスが直接生成したものの方が強い。支配力の差じゃ」AI博士が言う。
「くそっ! くそっ!」フランクはむきになってゾンビに追加ワクチンを打ち込んだが、それでゾンビの行動を変えることはできなかった。最後にはつかみかかる卓郎側ゾンビを斧をふるって打ち払い始める。汗で斧がすべって飛んでいった。フランクはコスプレをさせて飾ってあるマネキンを持ち上げ、それを武器にして戦い始めた。
卓郎はその間に会場中を走り回った。
多数のゾンビにすれ違いざま歯を打ち込む。
歯を打ち込まれたゾンビたちは一様に電気で撃たれたように動きを止め、頭を垂れ、数秒後には卓郎側のゾンビ戦士となる。
そのようにして今や戦場と化したコミケ会場を縦横に走り回った結果、数十分後には会場内の全勢力が卓郎の側となった。
卓郎はフランクをふりかえった。背後には数千人のゾンビが卓郎の命令を待っている。
フランクはしばらく黙ったまま卓郎たちをにらみつけていた。その後ろにはすでに卓郎配下となったゾンビたちがせまる。
フランクは腰から拳銃を引き抜くと、自分の口にくわえたが、卓郎配下のゾンビが数名飛びかかり取り押さえた。
卓郎たちは近づいた。床に押さえつけられたフランクがものも言わずに卓郎をにらみつけた。
「どうした。あんたは勝ち組じゃなかったの?」
アーイシャが冷たく言う。
「うるさい!」フランクは激昂する。「お前たちなぞ、お前たちなぞ、わがクロスノウの前には巨人の持っている斧に立ち向かうカマキリ《マンティス》のようなものに過ぎん」
なにも言わないのにフランクはますます一人で叫びだした。
「もうすぐ『ブルシット計画』が発動する。そうなればお前たちのような連中がいくら邪魔立てしようとしても、われらクロスノウの世界制覇を止めることはできん!」
「へえ」アーイシャがこともなげに言う。「その『ブルシット計画』とやらのことを教えてくれる? どんな計画なの?」
「ははははは。教えてやる。教えてやるとも!」
フランクの笑いはだんだん狂気じみてきた。
「もうすぐ赤ワクチンと対の青ワクチンを大量生産するラインが確立される。そうなれば世界中にゾンビ兵士を輸出することができる。いや、正確にはゾンビ兵士を輸出するのではない。ゾンビ指揮官たる赤ワクチンの使い手を十分養成すれば、現地にいる民間人や敵側の兵士がわれわれの即席の兵士となる。訓練も必要ない。兵站も必要ない。いつでもどこでも使い捨てにできる兵士たちの誕生だ! お前ら十億人のゾンビ兵士と戦ってねじ伏せることができるか!? ははできまい! 世界はクロスノウの支配する新しい体制のもとに統一されるのだ!」
「そううまくはいかんじゃろ」
今まで黙っていたAI博士が話し出した。フランクはちょっとびっくりしたような顔をした。
「お前さんが言っているのはあくまでも指揮官を養成できたらば、の仮定に過ぎん。実際にはいじめられっこの素養があったとは言え、お前さんは大人。神将としてZウイルスに心を支配されないようにするために人工抗体を定期的に注射せねばならん。もうけっこう身体に無理をしているのではないかな?」
「うるさい! うるさい、このじじい! 黙れ」
フランクの怒りは普通ではなかった。口から泡を吹き、押さえつけられた身体をばねのように何度もはねさせ、全身で怒りを表現している。身体の骨が床にあたるごつごつという音が聞こえた。
「人工抗体が切れてきたための副作用じゃ。哀れなものよ」AI博士は沈痛な面持ちで言う。
「せいぜい今のうちに言っていろ! クロスノウは全世界をまたがる国際複合組織だ。日本やアメリカ合衆国ですら、支配下に置く力を持っている。お前たち、いつかクロスノウにたてついたことを後悔するぞ!」
「わしらはの。もう覚悟を決めて研究所を出たのじゃ。わしとアーイシャはの」
AI博士の言葉にフランクは不思議そうな顔をした。しばらく4DSのモニターを食い入るように見つめていたが、突然「あっ」と言った。唇がわななき、急には言葉が出ない様子だ。
「瀬奈良博士! おれたちを裏切ったのか!」
AI博士はフランクの追及にぴくりとも表情を動かさない。
「そうだったのか。年齢が違うから気がつかなかった。よもやお前が裏切り者だったとは」
口から泡が飛ぶ。
「だが覚えていろ。日本支部の裏切りを本部が知ったら、ただではすまないぞ! はぐっ、ああっ、あぐっ」
突然フランクは全身を痙攣させてもだえた。胴体を異常な角度にねじり、手足がけいれんする。そして数秒間。それだけだった。最後にフランクは身体を大きく震わせると、カアーと息を吐いて絶命した。
「人工抗体の副作用じゃな」AI博士は冷たい表情で言った。その表情に初めて卓郎はなんともいえない嫌な気持ちになった。卓郎は思わずAI博士を問いただすような目で見た。AI博士はゆっくりと卓郎の視線を受け止めると言った。
「そう。わしのもとの名前は「瀬奈良」と言った。わしがまだ血の通う肉体を持っておったときの話じゃ」
「肉体はどうしたのですか」卓郎はたずねた。
「まだクロスノウの研究所にある。じゃがわしが再びそれを得るときはないじゃろう。わしはクロスノウと戦うために肉体を捨ててきたのじゃから」
「もとの体はどうしたのですか?」
卓郎は問うた。
「……殺された。かろうじて人格の一部はAIとして残ったがの」
AI博士は遠い日を思い出すかのように目を閉じて顔を上げた。その顔つきはよけいな質問を拒む意思を示していた。
卓郎は何もいえなかった。卓郎が想像したのは、殺される瀬奈良博士と、その人格と記憶をデータにコピーするアーイシャの姿だった。単なるコンピューターのプログラムと思っていた博士には、実は恐ろしくつらい過去があったのだった。