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第1章

     第1章


 安肝卓郎あんきもたくろうは考える。

 世の中には生まれつき「いじめられっ子」になる運命の者がいるんじゃないだろうか。

 たとえばぼくがそうだ。

 ぼくの名前は卓郎。これはお母さんに言わせると「優れた」という意味らしい。卓論(すぐれた議論)・卓説(すぐれた説)などと使うと辞書にも書いてある。これはぼくが生まれたときに両親につけられたから、ぼくが自分ではどうしようもなかったこと、つまり運命だ。

 それから安肝あんきもという名字。うちは先祖代々「安肝」という姓だから、別にこれ自体が悪いというわけじゃないし、両親でもどうしようもなかったことなのは間違いない。

 でも続けて書くと「あんきもたくろう」。それで省略すると「きもたく」。つまり「キモいおたく」=「キモオタ」になる。だれも「キムタク」とは言ってくれない。

 そこでちょっとアニメをよく見る位でぼくのことを学校のみんなは「キモオタ」と呼ぶ。君たちだってアニメ位見てるじゃないか。

 どうしてぼくが生まれたときにもう少し将来のことを見こして名付けてくれなかったのか。お父さん。お母さん。あなたたちの息子の運命ですよ。

 それからぼくは胃腸が弱い。これも生まれつきの体質で、自分でも両親でもどうしようもない。学校の給食で出る牛乳をきちんと残さずのむと必ずおなかがごろごろしてきて、それで痛くなれば先生に言って牛乳禁止にしてもらうのだけれど、そうではないので、出されたものはきちんと全部食べなさい、と先生は言う。

 けれどもその通りにするとちょうど午後の授業が始まったころ、おなかの中が発酵はっこうしてきてガスがたまって苦しい。なるべく目立たないように少しずつ力をこめてガスをぬこうとすると・・・

 プウ。

 教室中に分かるくらいの音が出てしまった。これで終わりだ。

 「おならマン」とか「魔人プウ」などの不名誉なあだ名を付けられて中学校三年間の生活が決まるのだ。

 今はだれでもいじめられっ子になる可能性がある。みんな自分がその標的にならないように、弱点を見せないように必死になっている。

 一度いじめられっ子になると、それをばん回するのはとても難しいからだ。


 とにかくそれでもぼくは学校へ行っている。そこしかぼくが行くところがないからだ。

 今朝、学校へ入ってげた箱の前でくつをはきかえようとしたら、いきなり後ろからどやされた。はずみで眼鏡がずれて落ちそうになった。眼鏡がないと黒板が見えないからあわてて眼鏡をおさえると、そのままバランスをくずしてぼくはすのこの上にたおれた。

 ぼくをつき飛ばしていったやつが少し向こうで笑っている。同じクラスの鎌田かまただ。小学校のときは遊び友達だった。腐れ縁ってやつ。小学生のときは、あいつとは仲間はずれにされたもの同士でよく一緒に遊んだが、中学に入ってからはやつは「人生リセット宣言」をして、ぼくに対して赤の他人のように振舞うようになった。

「オッス! キモオタ!」

 ぼくは何事もなかったかのようにズボンをはらうと親指と人差し指でつるをつかんで眼鏡を直した。

「おい! キモオタ。今日もスーパーヒーローごっこしてんのか?」

 鎌田はわざとらしくにやにや笑いをした。その笑顔の後ろに恐れがある。他人をいじめていないと、いつか自分がいじめられるのではないかという気持ちだ。

 ぼくはそんな鎌田の気持ちが分かったが、やられっぱなしでいるのはくやしいから返事をせずにそのままくつ箱を開けた。

 中はごみだらけだった。

 昨日のそう除で出たごみをご丁ねいにそのまま中につっこんでいったらしい。面どうなことをするやつ(あるいはやつら)だ。ぼくはごみをどけるとごみの下じきになっていた上ばきを取りだしてはいた。そのまま鎌田を無視して歩き出した。後ろからわざとらしくけたたましい鎌田の笑い声が追ってきた。


 まったく朝からうっとおしい。


 いつものようにクラスに入ると変なふん囲気だった。クラスの数人がこそこそと話しながらぼくの方を見ている。

 ぼくは構わずにいちばん窓際まどぎわにある自分の席へ行った。机の上にどこかのアニメ雑誌の一ページを破ったのか『魔法少女プリプリスウィーツ』のイラストが置いてある。学校に雑誌を持ってくるのは禁止だ。

 言っただろ。ぼくはアニメは見るが、そして魔法少女も見るが、別にそれだけがぼくのしゅ味じゃない。ぼくはどっちかというと『カリウドxカリウド』の方が好きだ。君たちと一しょだよ。


 数人の笑い声で顔をあげたら気づいた。黒板にチョークでへたくそな絵がかいてある。アニメ雑誌とおぼしき四角い物体を手にし、おしりの後ろにきのこ雲の絵がかいてあって「ブウ」と説明があるからぼくのことなんだろう。ぼくはそんなに太ってないが。

 牛乳が飲めないのでぼくは自然に別の飲み物が好きになった。お茶も……あまりよくない。お茶を飲むと下痢げりになる。

 いちばんおなかにいいのはコーラだ。うちは母さんも働いていて昼間はいないので、お小づかいを置いていて、学校から帰ったぼくはおやつに好きなものを買ってもいいことになっている。

 ぼくはそれでコーラを買うことが多い。学校でいやな目にあった後であまい味はなんだかほっとする。でもそれで最近ちょっと太り気味だ。

 だからといって絵で書かれているほどこんなに太ってない。ぼくは黒板消しで不正確なイラストを消した。後ろからばかにしたような笑い声が聞こえる。ふり返ると他のクラスメートの先頭に鎌田がいた。イラストを消しているぼくを指さして笑っている。

 こいつは最初はぼくを無視してるだけだったが、ぼくがクラスで「認定いじめられっ子」になるととたんに他の生徒と一しょになってぼくをばかにし始めた。

 でも仕方ない。他の生徒とちがったことをすると、今度は自分がいじめられてしまうから。その証こにぼくを指さして笑う意地の悪い笑い顔に力がこもっていない。あいつもこわいんだ。

 自分の席にもどろうとして通路を歩いていたら、突然足をひっかけられた。

 転びそうになって机に手を突く。突いた手が女の子の筆箱をひっくり返し、その子はむっと顔をしかめた。ぼくは振り返って足を引っ掛けた赤間あかまの顔を責めるように見た。

 赤間。ぼくの天敵だ。ぼくよりひとつ年上だが落第して一緒のクラスになった。

「いやーわりいわりい」赤間はそういって悪びれもせずににやにやと笑う。

 ぼくが非難をこめて見つめ続けているととうとう逆切れした。

「なんだよ。おまえ。ちゃんと謝ってるだろ! なんか文句あるのか」

 赤間は立ち上がってぼくに詰め寄り、シャツの胸倉をつかんだ。ぼくはなにも言わずにやつを見つめていた。

「やば。先生来た」

 鎌田のささやき声に赤間はぼくを放すと自分の席についた。

 こいつも本当は腰抜けなんだ。

 そう考えて自分の心をなぐさめたが、気分の悪さが直るわけじゃない。今日も家に帰ったらコーラを飲もう。そう考えて自分をなぐさめた。


     *


 昼休みに卓郎は屋上にいた。

 赤間やその類の連中に追跡されないようにするには、お昼を抜き、ダッシュで屋上へ脱出することだ。中学生の食欲はすさまじい。赤間たちが卓郎の襲撃を昼食より優先することは考えられなかった。

 去年清掃委員をさせられ、一度だけ用務員のおじさんが屋上への扉を開く横に立っていたとき、数字パスワード式の鍵を開けるところが偶然見えてしまったのだ。その一瞬でパスワードを覚えてしまった。そこで、卓郎は生徒はだれも知らないはずの屋上へ出る鍵を知っていた。

 卓郎の気分と相反するように天気はいい。卓郎は空腹のつまったおなかを手でおさえながら、やっぱり少しは食べたほうが良かったかな、と後悔していた。急激な無理ダイエットを試みてその反動リバウンドで授業に集中できず成績が落ちたり、我慢の臨界点を越えた食欲暴走で失敗したのは今まで3回だ。リバウンドを繰り返すほど、より脂肪のたまりやすい体質になる、とどこかに書いてあった。

 でもできれば中学生の間、あるいは高校に移るタイミングで今よりもひきしまった身体の人生リセット・再デビューを果たしたいものだ。

 清涼飲料水をやめることもできない食生活に問題があるのだが、卓郎はまだダイエットをあきらめていなかった。

 空腹をまぎらわすため、卓郎はスーパーヒーローの変身ポーズを練習することにした。今年四十作品目となる『仮面ライダーシリーズ』は卓郎のお気に入りだ。過去の作品もDVDで全部見た。特に最初期のライダーがいい。敵の組織に誘拐されて改造人間にされてしまい、人類を守るために孤独に戦うライダーの姿にはうっとりする。『ウルトラマンシリーズ』みたいに人類公認のヒーローではなく、陰のあるところがいいんだよな。あの命をかけて戦って大切な人を守ったのに、自分の正体を明かすことのできないジレンマがたまらない。

 同系統の作品には『蜘蛛男スパイダーマン』や『蝙蝠男バットマン』があるが、卓郎はクモもコウモリも生理的に嫌いだった。お尻から糸を出さない設定も許せない。あいつはニューヨークの摩天楼ならひょいひょいとビルからビルへわたってゆくが、それだってターザンのまねだし、あいつをネバダ州の砂漠へ連れて行ったら面白いだろうな。木も一本も生えていない高層ビルもない場所でごそごそってゴキブリみたいに這い回るのかな。

 空想に飽きた卓郎は空腹を紛らわせるために変身ポーズの練習をすることにした。

 卓郎は足の間隔を少しあけてしっかりと立つと、「変身チェンジ!」との掛け声で腕を交差させ、まっすぐ前をにらみつける。

 鏡があればいいのに。ポーズと表情の確認ができる。

「変身!《チェンジ》 チェーンジ!」

 何度も繰り返し練習した。卓郎の声は、屋上のさらに上の澄み切った青空に吸い込まれた。


「やっぱりここか」


 突然後ろから聞き覚えのある声がして卓郎は手を交差したまま固まった。

 そのままの姿勢で振り返るとツインテールの女の子が腕組みをしたまま卓郎をにらんでいた。年のわりに幼い顔立ちだが、知性を表す目、清潔そうな白い肌、校則に完全準拠した制服と白いハイソックスがまぶしい。

 坂東美香。十四歳。卓郎の同級生にして学級委員長。属性:幼馴染。

「美香、なんでここがわかったんだよ。て、いうか、屋上ここ、関係者以外は立ち入り禁止だよ」

 美香は馬鹿な弟を見るような目つきで腕組みをしたまま深くため息をつくと言った。

「なに、その「関係者以外」って。あんたもただの生徒でしょ。屋上は立ち入り禁止よ」

 むむ。論点につけいるすきがない。

「よくここがわかったな」

 卓郎は必殺技「話題のすり替え《ワールド・トランスファー》」を発動した。美香はたやすくひっかかった。

「あんなふうに一人で廊下を走って行ったら、目立つことこの上なし、よ。それにいじけた中学生が一人になれるところといったら屋上か体育館の裏かトイレと相場が決まってるでしょ」

「べつにいじけてなんかない」

「まあいいわ。屋上は立ち入り禁止」

 ひっかかっていなかった。

「同じ罪を背負った仲間として、見逃してくれないかな。同じ穴のムジナ。同病スタニスワフ・レム」

「なに? 「同じ罪」って?」

「きみも今、屋上結界に入ってしまっている。校則違反という点でぼくと同罪だ」

「な!」

「しかもきみは学級委員長。生徒の模範たるべき委員長が率先して校則を破っている。単なる一般生徒であるぼくが校則を冒すのとは社会的責任においてその重みが違う」

「う!」

「さあ、このことを学校裏サイトに流されたくなかったら、ぼくの言うことを聞……」

 美香は流れるような一挙動で上履きを脱ぐとそれを手にとって卓郎の頭を張り飛ばした。さすが剣道部。

「メンッ!」

「グワーッ!」

「ドォー!」

「グワー!」

「あ、あんた馬鹿じゃないの!? よりによって学校裏サイトなんてあんたが一番やられている場所じゃない!」

「じょ、冗談だよ。冗談!」

「内容が冗談で済むものじゃない。なに? セクハラ未遂? よりによって幼馴染を。サイテー!」

「ご、ごめん」

 卓郎は空気の抜けた風船のようにしょんぼりした。まったく美香には頭が上がらない。


 DIOKS《ダブル・インカム・ワン・キッズ――両親が共働きだがとりあえず子宝には恵まれた》の卓郎の家庭では、早くから卓郎はお隣の坂東家にお世話になることが多かった。しばしばどうしても幼稚園の終わる夜七時に帰宅できない母の代わりに坂東家のお母さんが幼稚園まで迎えに来てくれ、卓郎を数時間預かってくれたのだ。

 それで卓郎は美香とは兄妹、いや姉弟のように育った。卓郎は知能指数は高かったが、のろまな子供だった。幼稚園で誰よりも早くひらがなやカタカナを覚えたが、テレビに夢中になってミルクをひざにこぼしたり、トイレに間に合わずにもらしてしまったりしていた。そんな卓郎をなにくれとなく世話を焼いてくれたのは美香だった。

 小学校に上がっても二人は同じ学校へ行き、卓郎がうんちを我慢できず、先生に言うこともできずにもらしてしまったときにこっそりと家へパンツを取りに行ってくれたり、宿題を忘れてノートを写させてもらったり、拾った捨て犬をどうしても家で飼ってもらえずに泣いていたとき、自分の親を説得してその子犬を引き取ってくれたりした。もちろん毎日犬の散歩を約束した卓郎が実際に散歩したのは最初の三日間だけで、小学校六年生のときにその犬ががんで死ぬまでずっと面倒をみ続けたのも美香だった。

 中学にあがってからは、もうそんな付き合いはない。なによりサナギが蝶になるようにどんどん女の子らしくなってゆく美香に卓郎の方が話しかけづらくなったのだ。しかし美香は学級委員長の責任、ということにかこつけていまだに卓郎になんだかんだとおせっかいをしたがるのだった。


「で、こんなところでなにしてたの?」

 美香は負け犬の尻尾のように両腕をももの間にはさんだまま小さくなっている卓郎をジト目で見た。

「なにしてたのって……見りゃわかるだろ。変身の練習」

「ふーん?」美香はわざとらしく物分りの悪そうな表情をしてみせた。「練習するとできるようになるんだ、変身。しらなかったー。で、なにに変身するの? 蝶? カブトムシ?」

「昆虫がするのは変身じゃない、変態」

「確かにはたから見たらあんたは変態よね」

 噛んだのではなく、漢字もまったく同じなのがつらかった。

「泣いてるのか、ひょっとすると自殺でもするんじゃないかと思って心配して走ってきたのに、損しちゃった」美香は両手を頭の後ろに組んで卓郎に背を向けた。その姿勢では腕の内側に走る静脈の青さが目にしみて卓郎は思わず目をそらした。

「変身ヒーローは変身するだろ」

「変身ヒーローって、あんた年いくつ?」

「住んでいる地域に時差――時空間偏差じくうかんへんさがなければきみと同い年だ」

 美香は振り返って卓郎に人差し指を突きつけた。反り返った指が美しい。これも一種の「決め」ポーズだよな、と卓郎は考えた。

「わたしたち中二よ、中二! 来年は高校受験生。そろそろ将来のことを考える時期なのに」

「保護者みたいなこと言わないでくれよ」

「言いたくもなるよ。中二病って言葉があるけど、あんたそのまんま。その歳で変身ヒーローの真似する? 普通」

「まねじゃない」

「え、将来の就職先はスーツアクターとか……?」

 スーツアクターは卓郎が教えた言葉だ。昔は何時間でも卓郎のオタトークに付き合ってくれた美香だが、小学校高学年から卓郎が特撮ヒーローのうんちくを披露しようとすると、必殺技「さて……」を発動して立ち上がり、全てをなかったことにする美香であった。

「いや、将来の職業。スーパーヒーロー」

「誰か! ここに病気の人がいます!」

「おせっかい病が……」

 美香は卓郎をにらんだ。

「人が……心配してるってのに」

 そんなこと分かっていた。でも相手の真剣さをはぐらかしたい自分の気持ちも分かって欲しかった。

「ぼくに……かまわないでくれ。そっとして、ほっておいてくれ」

「ほっとけないよ。ほっとけない」美香は悲しそうに首を振った。「なんであんなやつらにやられっぱなしでいるの? どうしていじめられてもやりかえさないの」

「いじめられてるんじゃない。非暴力不服従を貫いてるだけだ」

「なぜ?」

 美香はうるんだ目でじっと卓郎を見つめた。そんな目で見つめられたら、本当のことを白状してしまいたくなる。卓郎は言った。

「ぼくは……ヒーローだから、ヒーローたるべくあろうとしているから」

「なによ!」

 緊張が解けた。

「人がまじめにたずねているのに……」

 美香はあくまでも卓郎がはぐらかしていると思っているようだった。でも美香には言えなかった。大切な人だからこそ、言えなかった。

「まったくいつまでたっても……」美香は横目で卓郎を見た「……子供」


     *


 あれは卓郎と美香が小学校三年生のときだった。家の中で遊ぶのにあきた卓郎は、日が暮れる前に美香を連れて近所の小山公園へ繰り出した。

 もちろん変身ヒーローごっこのためである。

 そこにはブランコも滑り台もなかったが、名前のとおり公園の真ん中にちょこっとだけ小高い山があった。

 そのときは美香も変身ヒーローごっこにつきあってくれた。ただ、本気で遊んでくれたのかどうかはわからない。そのときから美香は年齢としの割りにやけに大人びていたし、いつも清潔な服を身に着けて、泥だらけになるのをいやがった。

 いつも卓郎が小山の頂上で立ちポーズを決め、「変身《チェンジ!》」するのを小山のふもとで見守っていた。敵の怪人がいないので、怪人の役をやってもらいたかったが、美香はそれは拒否した。そこで、卓郎こと架空のヒーローは立ち木や時計の柱を怪人に見立て、怪人に襲われそうになる一般人役の美香を助けるのだった。

 美香を後ろにかばい、架空の怪人をにらみつけてポーズを決めた卓郎は美香を振り向いて言った。

「心配するな! ぼくが美香ちゃんをまもってあげる!」

 突然後ろから声がした。

「本当かよ。オレが相手でもか」

 振り向くと近所の子供ギャング団、赤間一郎あかまいちろうとその仲間たちだった。卓郎より一つだけ年上なのに身体がずっと大きく、いつも三人から五人でつるんで、近所の店からものを盗んだり、他の子のおもちゃをむりやり「借り」たりしていた。

「オレは「悪魔ライダー3サード」だ。この世は正義じゃなくても強いものが勝つ!」

 それはちょうど放映中の仮面ライダーシリーズ作品中のせりふだった。その仮面ライダーの中では悪のライダーも登場し、主人公ライダーと激しく戦うのだ。でもビジュアル的には悪魔ライダーのほうがかっこいい、ともっぱらの評判だった。

赤間あかま

「あかまじゃなくて悪魔だ」赤間一郎は腕組みしてあごをあげたまま言った。「お前が変身ヒーローならオレ様を倒してみろ」

「この世は金と知恵!」悪魔ライダー1ファーストのせりふを真似した赤間の仲間が言った。

「どんな手を使っても勝ったほうが正義だ!」悪魔ライダー2セカンドの真似をしたもう一人が言った。

「ちがう。ちがうぞ」卓郎はくやしげに言った。

「正義は正しいやり方で勝つんだ。そうでなくちゃいけないんだ」

 卓郎には悪のライダーが活躍したり勝ったりする展開はどうしても納得いかなかった。どんなに強い敵が出ても最後には正義のヒーローが勝つ、それが正しいのだと思っていた。

「正義が勝つなんてのは古いし間違ってるんだぜ」赤間はにやにやしながら言った。「世の中を見てみな。悪いことをしても金や力のある大人は警察にも捕まらない。正義が勝つなんて嘘だ。この世は力のあるやつが勝つんだ。おれは完全に正義を超えた悪――完全超悪だ!」

 小学生の言葉とは思えなかった。きっと近くにいる大人の言葉をそのまま真似したに違いなかった。ついでに言うと元の四字熟語も知らないに違いなかった。

 でもそんなことはそのときの卓郎にはまだ分からなくて、そんないかにも深そうな人生の真理みたいに言われると言い返せなくて、それでも気持ちは絶対に納得いかなくて、卓郎は手を握り締めたまま言葉に詰まった。なんだかくやしくて涙が出そうだった。

「違う!」卓郎は叫んだ。

「違わない」赤間も言った。

「この世は金と知恵!」ひょうきんな節をつけて悪罵ライダー1号が言った。

「勝ったら正義。負けたら悪」腰を振って踊りながら悪魔ライダー2号が言った。

「来な」赤間が大きな胸を張った。

「うわああああああああ!」

 卓郎はその胸に突進して行ったが、突然悪魔ライダー1号と2号が差し出した足につまずいて、あとちょっとのところで転んだ。土が口の中に入って気持ち悪かった。

「はははははは」

 三人は空を見上げて笑った。

「弱え。それで正義が勝つのか? やっぱり強いものが正義……」

 赤間の言葉は途切れた。卓郎が足にしがみついたからだった。

「なんだこのやろ」

「弱いくせに」

「死ね! 死ね死ね死ね!」

 三人は赤間の足にしがみついたままの卓郎を蹴飛ばした。卓郎のシャツは破れ、ズボンは泥だらけになった。

「離せ。こいつ離せ、離せぇー!」

 赤間は卓郎の顔を上から殴ったが卓郎はなかなか離さなかった。

「こらっ! お前ら」

 突然大人の声がして、三人は顔を上げた。

「やべっ」そのまま卓郎を蹴飛ばしてふりほどくと、隠れていた石をひっくり返された地虫のように逃げ出した。

 緊張が解け、卓郎はがっくりとひじの上に伏せた。

「大丈夫?」大人を呼びに行った美香が卓郎のかたわらにしゃがむ。

 卓郎は顔を上げた。まぶたが腫れあがり目をふさいでよく見えない。

 美香はいつもポケットに入れてあるハンカチを公園の水道水でぬらして卓郎の目に当ててくれた。水がしみる痛さで卓郎はびくっと身体をすくめた。

「きみ。病院へ行こうか」大人が心配そうに言う。

「いやです」卓郎はかぶりをふった。

 病院へ行ったりしたら警察とかなにかとおおげさになる。おおげさになるのはいやだ。お母さんに怒られるし。

「やせ我慢しないで」美香が言った。

 卓郎は美香の顔を見た。服もぼろぼろで気分は最悪だった。でもひとつだけいいことがあった。逃げなかったし、美香になにごともなかった。卓郎はちょっと胸を張って言った。

「ごめんよ。もう少し大きくなったら本当に変身して悪いやつらをやっつけてやるんだけど」

 美香はゆっくりとかぶりをふった。卓郎は後々までそのときのことを覚えている。美香の短い髪がかぶりを振るにつれ、ゆっくりとほおの上を流れるように波打ったことを。スローモーションの動画のように、髪の毛一本一本の動きまで見えるかのようだった。

 そのとき、本当に美香は年上のお姉さんみたいだった。美香は言った。

「いいのよ。あなたはそのままがいい」


     *


 その日はそれで済んだが、赤間の毒牙から逃れたわけではなかった。

 数週間がたち、卓郎は同じ公園に通い続けたが赤間たちには遭わなかったので、あのことを忘れかけていた。一人で行動するようになった。

 ある日、卓郎が遊歩道に埋め込まれた石の上をとんで歩いていると突然前に影が現れた。

 赤間だった。今日は一人だ。

 卓郎はすばやくあたりを見回した。目の届く範囲に少なくとも三人の大人がいる。大声を出せばこちらに気づくだろう、と思うとちょっと気が楽になった。

「大人がいるか確認してるな」そんな卓郎の気持ちを見抜いたように赤間は言った。「心配するな、おれは抜け目ない悪魔だ。大人に言いつけられるようなヘマはしねえよ」

 その言葉どおり、赤間は身体の力を抜いて立っていたが、そこから出てくる雰囲気はまったく安心できるようなものではなかった。

「だが今日はお前をおれの奴隷にするためにきた。おれと奴隷契約を結ぶんだ」

 こいつなに言ってるんだ。

「お前は殴りやすいが、あの坂東という女な。あいつが邪魔だ。あいつに邪魔されないようにあいつを人質にとることにした」

「やめろ!」卓郎は思わず叫んだ。赤間がなにを考えているのか知らないが、こいつの考えることはどうせ最低のことに決まってる。

「心配するな。あいつは殴ったらすぐに先生や警察にいいつけるに決まってる。だがあいつの弱点を見つけたぜ」赤間は始めて口を大きく開いてにやにや笑いした。卓郎は不安に押しつぶされそうになった。

「なにをするつもりだ」

「知ってるか。お前なら知ってるよな。あの坂東の母ちゃんは浮気して離婚されたんだぜ」赤間は勝ち誇ったように言った。

 卓郎は目の前が真っ暗になった。知ってる。知ってる。子供だからなにも教えてもらっていないが、いつもやさしく卓郎の面倒をみてくれた美香のお母さんがある日突然いなくなったこと。そのとき坂東家にも卓郎の家にも異様な雰囲気がただよっていたこと。卓郎の両親もひそひそとなにかのうわさをしており、その会話の内容は理解できなかったが、ときどきもれ聞こえる「坂東さんの奥さん」という言葉に卓郎は子供ながらになにか禁忌が犯されたことを感じていた。

 赤間は得意げに続けた。

「おれの父ちゃんは理事長だからな。この町の裏の情報はすべて知ってるのさ。それで離婚された後、坂東の母ちゃんはどうなったと思う?」

 得意げに続ける赤間の言葉が卓郎の心に突き刺さり、卓郎は頭が爆発するかと思った。耳をふさぎたかったができなかった。

「オトコにも捨てられて今ではカブキチョウで働いているんだってよ」

 赤間は得意げに言ったが、その内容を理解しているようには見えなかった。卓郎もそれの意味するところは分からなかった。ただ直感で、それは他の人たちに告げることのできない種類のものごとだと分かった。

「このことを学校で言いふらせば、あの生意気な女もぺしゃんこだ」

「やめろっ!」

 卓郎の叫びはほとんど悲鳴に近かった。あのしっかりして清潔な美香が汚される。あの笑顔が暗くなる。彼女が学校でおどおどと人目を気にし、うつむいて歩く。そんなことには耐えられなかった。

 赤間は卓郎の反応を楽しむようにながめてから言った。

「だろ。お前もあの女が学校にいられなくなるの、やだろ? この町から出ていくの、やだろ? じゃあ、黙っててやる。今日はおれ一人できた。このことはおれとお前しか知らない。おれの子分にもあの女にも言わないでいてやる。だから今日からお前はおれの奴隷だ。いいな」

 卓郎は歯を食いしばった。

「心配すんな。やりすぎたりしねえよ。徳川秀吉は「キャクショウは生かさぬよう殺さぬよう」って言ったそうだぜ。お前もおれの言うことさえ聞いてりゃ、あの女は無事だ」

 キャクショウってなんだよ。ばか!

 卓郎は考えていたが、頭の中は嵐でろくな考えなどまとまらなかった。赤間の無知を指摘することすらできなかった。

「お前はヒーローなんだろ。ヒーローは弱いものを守らなくちゃな。ヒーローのせいで女がつぶれたらしょうがねえよな」

 その言葉が最後だった。折れた。

 心が折れた。

 卓郎はヒーローであらんがために、美香を守るために悪魔に屈服した。

 その日から奴隷の日々が始まった。


     *


 そんな昔のことを思い出しながら卓郎は帰宅の途にあった。

 美香は成長した。

 卓郎は……成長してない。成長できない。

 それは卓郎にとってとりあえずどうしようもないことだった。


 卓郎たちのいる町は大きな国道とJRの駅前をのぞけばほとんど家がない。帰宅途中に卓郎が自転車を走らせている両側には延々と田んぼが広がっている。空にはひばりがさえずり、新緑の稲穂をなぶって吹き寄せる風が草のざわめきとにおいを運んでくる。

 こんな田舎でつっぱってもしょうがないのにな。

 赤間とギャングたちのことを考えてふと卓郎は思った。ひどい目に遭ったが、不思議と彼らに対する憎しみはなかった。

 遠くで踏み切りの警報機が鳴ってる。それに混じって子供の声が聞こえた。

 卓郎の行く手に田んぼを横切って、猫鳴線ねこにゃーせんの線路が敷かれている。まだ単線で一時間に一本ほどしか走らない電車だ。それが今近づいている。

 卓郎の正面に自転車の脇に立っている小学生の男の子が見えた。

 そろそろ踏切から出ないと危ないぞ。

 そう思えるほどその男の子は動かなかった。

 いや、動いていた。

 近づくとむしろその男の子は全力で自転車をひっぱっていた。

 しかしコメツキムシのようにいくら細い身体がはねても、地面にくっついているようになっているのは自転車の方だった。

 卓郎は速度を上げて踏切まで行った。

「どうした」

 卓郎は声をかけた。

 振り向いた男の子の顔が今にも泣きそうだ。

「抜けない! ぬけないよぅ」

 卓郎の姿を見た男の子が悲鳴のような声をあげる。

 卓郎が飛び降りて近づくと、線路の隙間に自転車のタイヤがはさまっていた。卓郎が代わりにハンドルを持って引いたが、どこをどうはさんだのか、自転車はタイヤを中心にして左右に動くだけで引き抜くことができない。

「下がっていろ!」

 卓郎の声を警報音が打ち消した。男の子は数歩下がってぺたんとしりもちをついた。卓郎を呆然と見守っている。

 卓郎はホイールに指をかけて様々な方向へ引っ張った。線路に振動が伝わり、視界に迫る電車が見えた。

 卓郎の額から汗が出てきた。気づいた列車の運転手が警笛を鳴らす。

 両手でタイヤの下を持ち、こじるように何度も動かすと徐々にゴムの臭いとともにタイヤが上にせり上がってきた。

 電車が迫る。

 男の子がなにか叫んだが、警笛と車輪の振動でなにも分からない。

 運転席に立っている運転手が大声で叫んでいる。何度も警笛が鳴る。

 自転車をつかむ手が汗ばみ、すべる。

 電車が視界いっぱいまで広がったとき、突然車輪は抜けて自転車と卓郎は後ろに倒れた。

 その目の前を鉄の車両がふさいでゆく。

 三両編成の電車が過ぎ去ったあと、ようやく深く息をついで卓郎は男の子を振り返った。

「ありがとうございます」

 頭をなでられた男の子は目じりをこすりながら、自転車に乗って帰った。


     *


 土曜日の朝早く、卓郎は近所にあるはま辺でジョギングをしていた。

 卓郎の住んでいる千葉県の町は海に面していて、それはそれは自然が素晴らしい。現に今卓郎が走っているはま辺からは水平線にうかぶ漁船が数隻すうせき、点のように見える他は、人工的な建物は一つも見えない。もっと都会寄りの場所なら化学コンビナートやらアトラクションやらコンベンションセンターが山ほどあるのだけれど、ここはそういった所からは十分はなれている。

 このごろ太り気味の卓郎はなんとかダイエットしようとジョギングを始めた。

 中学生なんだから部活に入ればいいじゃないか、と思うが、部活でもいじめられるのはいやだし、いやな気分をいやしてくれるコーラをやめるのはつらい。そこで始めたのがジョギングだった。

 卓郎は常に持ち歩いているゲーム機4DSを二のうでにつけていた。お小づかいを貯めて買った『スマートジョガー』というベルトできっちりとうでにつくし、つけたままディスプレイも開いて見られる。中古で買ったダイエットソフトのカセットよりもこのベルトの方が高かった。

 4DSがゆれるたびにジョギングで走った数を記録し、トレーナーのミキちゃんがディスプレイの中から「がんばれー! あと百歩で今日の目標達成もくひょうたっせい! BMI25.8」などと応えんしてくれる。

 こういう準備をしないとやる気が出ないのが卓郎だった。

 むしろ準備をしているときの方がわくわくして、こうしたらああなって、と空想するのが楽しいのだ。

「今に見てろ。おれのこのうでに付けられたこの4DSフォー・デビル・ストレージがおれのせん在的な力を五百パーセント引きだす。チェンジ・デアボロ!」あたりにだれもいないことを確認してから海に向かってさけぶ。

 これは今見ている特さつ変身ヒーローの変身シーンに自分流のアレンジを加えたものだ。昨夜も明け方近くまでためていた特撮やアニメを見まくっていたが、徹夜には強い卓郎だった。

 いじめられる原因になるのがわかり切っているので、痛キャラクターグッズを持ち歩いたりはしないが、部屋には雑誌のふろくの戦隊もののポスターが張ってある。

 なんのことはない。オタクのがたっぷりとある卓郎であった。


 卓郎がジョギングを終え、コーラを飲んで一息ついていると、波打ち際にカモメが集まっているのが見えた。黒々とした海に、そこだけぽっかりと白い色が小山になっているものだからよく目立つ。

 カモメはどん欲な鳥だ。自分より弱いものならカニやら虫やらの生きている動物でも襲って食べてしまう。

 魚でも打ち上げられたのかな。

 好き心で卓郎は立ち上がるとそのカモメの群れに近づいた。

 人間をおそれてカモメはいっせいに飛び立った。でも見つけたエサに未練みれんがあるようにそのまま卓郎の頭の上をぐるぐるととんだ。

 飛ぶカモメたちをくぐって卓郎は近寄って見た。

 なにかカモメのエサよりも大きなものが波打ち際に落ちている。

 いや……たおれている?

 カモメが集まっていたその物体ぶったいは……

 人間だった。


     *


 し、死体したい

 しばらく頭の中が真っ白になって卓郎はその場に立ったままだった。

 どうしよう。警察けいさつにしらせなきゃ。

 でも、もしかしたらまだ生きてるかもしれないし、救急車は119番だったっけ

 混乱こんらんした卓郎が固まったままでいると、ひときわ大きな波がざんぶとおし寄せ、その物体を洗った。

 ワカメのような黒いかみの毛が水の流れで割れると、そこに長いまつげのついた小さな顔が表れた。

 お、女の子!?

 顔が隠れていたので今まで気がつかなかったが、よく見るとそれは卓郎と同い年くらいの少女だった。小さな顔。良く引きしまって細長い手足。『黒ギャル』っていうんだっけ。よく日に焼けている。

 なぜか卓郎の脳裏に浮かんだのは「クレオパトラ」という言葉だった。クレオパトラがどんな顔をしていたのか知らない。とにかくその少女は東洋人でもなく西洋人でもない顔立ちだった。

 卓郎の脳内でトリビアの蓄積が渦を巻いて電磁波を放ち、囁いた。

「もしおぼれたのなら人工呼吸で命が助かる率は、呼吸が止まってから対処するまでの時間に比例する」

 卓郎の百科全書的おたくのしゅみによる雑学知識だ。しかしこれが本当なら、他人を呼んでいる暇はない。一刻も早く処置しなければ死んでしまう。

 卓郎は急いで両手を重ねて体重を乗せ、少女の胸の真ん中あたりを押した。その胸は信じられないほど冷たかった。もしかしたら卓郎は当の昔に死んだ死体を生き返らせようと無駄な努力をしているのかもしれなかった。

 しかしそんなことは卓郎にはわからない。専門の救急隊員でもないから、死者と病人との区別もつかなかった。卓郎は汗をかきながらうんうんと力をこめて救助活動の真似事を続けた。


 とくん


 今手に反応があった?

 卓郎の努力が功を奏したのか、今卓郎の手の下ではかすかにとくとくと脈打つ反応が始まり、それは段々と規則正しく速くなっていった。


 はっ。少女が息をもらした。

 動いた! 生きてる!

 再び波が少女の身体を洗った。その波は卓郎のジョギングシューズとひざを突いたジャージもぬらした。

 波に洗われたせいか、その少女は気がつきそうだった。まつげがふるえ、首や薄い胸が少しずつ上下している。息をしている! 手首をにぎると冷たいが脈がある。

 少女の手首を握った卓郎は、おかしなことに気づいた。

 少女の左手に手じょうがはまり、その先に半分砂にうもれていたので気づかなかったが、銀色ににぶく光るブリーフケースがつながっている。

 卓郎はブリーフケースの上にかぶっている砂を手ではらった。

 表面に大きなもようがついている。

 雪の結しょう?

 科学の授業で見た雪の結しょうのけんび鏡写真に良く似ている。でも雪の結しょうは確か六角形じゃなかたっけ。この模様もようは六角形のパーツが組み合わさって四方に伸び、ちょうど十字架みたいな形になっている。

 美しく、見るからにあやしい模様だった。

 こんな模様をでかでかとかばんにつけている人ってどんな人だろう。

 普通、会社のロゴだったら、ひかえめにすみっこに小さくついているよね。

 なんかNASAとか特殊な組織のかばんみたいだ。秘密の研究所とかに保管されていて……

 よく見ると、模様の真ん中には小さなボタンみたいなものがついている。4DSのリセットボタンみたいだ。

 卓郎は何でも思いついたことはためしてみたくなる性格だった。リセットボタンはおしてみないと気がすまない。

 卓郎はそのボタンみたいなものをおしてみた。ボタンはへこんでいて、普通に指でおそうとしてもおせない。何か細いものでおすような感じだ。

 卓郎は4DSのタッチペンを引きぬくととがった先でボタンをおした。

 数秒おいて、カチャリ、という音を立て、ブリーフケースはゆっくりと開いた。ふわっと冷気が漏れ出てくる。

 中にはスポンジがつめこまれ、その間に試験管のようなガラスの容器が何本もつまっている。中の液体は赤や青や黄色だった。

 秘密の研究所から来た薬だ。

 そんな空想をかき立てるほど、未来っぽい容器だった。

 ブリーフケースの中にはガラスの容器の他にも小さなピストルのような形をした器具があり。これは……注射器かな。さらにふかふかの毛皮のようなものが……ねむっていた。

 ハムスターかな。

 それは卓郎の初めて見る動物だった。一見死んでいるように動かないのではく製かと思ったが、間近で手をかざしてみるとほんのり温かい。

 卓郎はちょっとその毛皮のかたまりをつかんでみたとたん……

 キュウ!

 その動物はいきなり動いてブリーフケースから飛び出した。

 卓郎もおどろいてしりもちをついた。全身に鳥肌が立つ。

 動物はそのまますごい速さでどこかへにげてしまった。ハムスターののろさではなく、まるでリスのような素早さだった。

 しまった。他人ひとのかばんを勝手に開けて、しかも中身をなくしちゃったというへまな中学生がいた。

 それはぼくだった。

 あわてて卓郎はブリーフケースを閉めた。

 なぞのケースの中にはいろいろな色の薬品と注射器。生きたリス。それを大事そうに手じょうで手首につなぎ、はま辺にたおれている少女。

 これは何だろう。なにかの陰謀か。それともテレビのロケか。テレビのロケの方がありそうだけど、周りにはだれもいないし、砂はまに足あともない。

 ドッキリかな。ドッキリならそろそろ種明かしをするおじさんが出てくるころだけど、なにもないし。


 卓郎の空想はたおれている女の子からはなれてただよった。

「う、うーん」

 とつ然、女の子が息をふき返した声で卓郎はわれに返った。女の子の肩をゆすってみた。

「き、きみ。大丈夫か」

 しばらくゆすったが、女の子が意識を取り戻す様子はない。

 卓郎はひとりだった。

 そもそもこの子はなぜここに倒れているんだろう。

 波打ち際にたおれていたってことはおぼれていて海から打ち寄せられたってこと?

 いや、あり得ない。昨日のあらしは大変なものだった。もしあのあらしに海に落ちたのだとしたら、今まで生きているはずがない。

 もしかしたらぼくと同じようにジョギングしていて、とつ然目まいがしてたおれたのかもしれない。

 卓郎は波打ち際に沿って見てみたが、女の子がここまで来たらしき足あとは砂はまの上についていなかった。

 卓郎がよくやるように砂がぬれて引き締まっている波打ち際を選んでジョギングしてきたのかもしれない。それで潮が満ちてきて足跡が消えたのかも。

 卓郎は少女のかたわらにひざをついたまま空想した。

 改めてよく見ると女の子はきれいだった。

 日本人じゃないみたい。

 浅黒あさぐろい肌にぷっくりしたくちびる。すっきりと通ったはなすじ。つむっているのにまぶたの大きさで目の大きいのが分かる。目のふちは黒々としている。アイラインみたい。

 卓郎の心臓がどきりとした。

 卓郎はこれから悪いことをする人みたいにちょっと顔を上げ、あたりを見回した。砂はまには視界しかいの届く限り、だれも見当たらない。

 卓郎は少女の顔の上にかがみこんだまま、少女の生命の兆候をながめていた。

 そうしてどれくらいの時間がたっただろう。

 女の子の目がぱっちりと開いた。

 大きな目。光彩こうさいがかすかなブラウンで引きこまれそうな深みがある。

 少女の目は最初、しょう点があわなかったが、じょじょに卓郎の顔を見た。

 卓郎も少女を見た。

 ぱちーん。

 いきなりの平手うち。卓郎は頭がくらくらとした。

「ご、ごめんよー! ごめん!」卓郎はちょっとやましかったので、助けようとしたんだとは言えず、ほおをおさえてしりもちをついた。少女の平手うちはかなりいたい。眼鏡がとこかへ跳んでった。鼻血が出てきた。

 少女は手をついて起き直ると座ったままさけんだ。

「ちかんよ! 変態へんたい! だれか!」

 あたりを見回しながらさけんだ。座ったまま卓郎から少しずつあとじさる。ふと左手がブリーフケースから延びた手じょうのくさりで引っ張られた。

 自分の手とつながったブリーフケースを見た少女の身体が固まった。

 とつ然何かを思い出した様子だった。その表情は正しく『恐怖』だった。

 少女はくるおしげにあたりを見回した。砂はまには二人のほかだれもいない。

 少女は卓郎にたずねた。

「ここはどこ?」

 やっぱり流れついたんだ。ジョギングじゃなかった。記憶喪失の可能性もあるにはあるが……。卓郎は小説やドラマと異なり、記憶喪失というものがどれほどまれなのか雑学とりびあとして知っていた。

 卓郎はおずおずと言った。

「千葉県新浜市だよ」

(ええと……いうことは……。良かった。四十キロははなれている)

 少女は少し安心したようになにかつぶやいた。身体を起こそうとするが、力が入らない。急にくずれるように倒れた。

 卓郎が手を差し伸べようとすると、意外にすばやい動作でその手をはらいのけたが、そのはずみに再び砂の上にうつぶせに倒れた。しばらく重力と戦うようにもがいていたが、やっとのことで砂はまの上に座った。

 しばらく目まいをこらえるような表情をしていたが、少し落ち着くとかみの毛をかき上げた。髪の毛はくるくるとコイル回転し、水滴がはねた。そのしぐさが年れいにあわずとても大人びて見えた。

 かの女は卓郎のはいているジャージの「新浜東中」の刺繍を見ながら聞いた。

「あんた。だれ? 名前は?」

 それはこっちのセリフだろう、と思いながら、卓郎は言った。

安肝卓郎あんきもたくろう。この町に住んでる。中学二年生だよ」

「そう」

 少し待って会話の続きを期待したが、少女はだまったまま続ける気はないようだった。

「き、きみは? なんて言うの?」

「わたしはアーイシャ柴田しばた

「アーイシャ?」

 アーイシャは振り込め詐欺の電話に応対しているような疑い深い目つきで答えた。

「お父さんがスーダン人なの。それでお母さんが日本人」

「そうか。じゃあハーフなんだ」

 少女はちらと横目で卓郎を見た。

「そういうとかっこよく聞こえるけどね。でも……」

「でも……?」

「なんでもない」

 軽くいなされた。

 卓郎はちょっとむかっとした。せっかく人が心配したのに。

「いま何時?」それには構わずアーイシャは聞く。

「ええと……」

 卓郎は左うでの4DSを開けると時計を見た」

「午前六時三十五分」

「そう」

 アーイシャはがっかりした様子だった。

(まだできないわね)

 なにかひとりごとを言っている。卓郎は我慢できなくなった。矢つぎ早に質問を浴びせた。

「きみどうしたの? どうしてこんなところでたおれていたの? ぼくになにかできることはないか? まず病院へ行くか警察を呼ぼうか?」

 アーイシャは卓郎を値ぶみするようなめで上から下までながめた。特に最近ちょっと出すぎたおなかには鋭い視線が数秒止まった。

「そう。わたしを助けてくれるの。今はとりあえず警察はいいわ。ちょっと聞きたいことがあるんだけど」

「なに?」

「いい? 大事なことだから正直に答えて欲しいの」

「い、いいよ」

 アーイシャはなにかを告白するような顔つきでいったん言葉を切ってから卓郎の目をのぞきこんだ。

「あんた。いじめられっ子?」


     *


 卓郎はしばしその質問を心の中でかみしめた。

 いじめられっ子かって? ああ、そうさ。ぼくはいじめられっ子だ。だけどそれがなに? それが、その質問のどこが大事なんだ。

 不満がわずかに表情に表れたのだろう。アーイシャは口をゆがめて笑った。

「気を悪くしたらごめんなさい。わたし、こういったものの言い方しかできないの。でも図星ずぼしだったみたいね」

「いじめられっ子だったら、どうなんだ。それがきみとなんの関係がある」

「あんたがいじめられっ子だったら、まず一次試験合格いちじしけんごうかく。あんたをちょっぴり信用するわ」

「はあ?」気がぬけた。

 アーイシャは首に下げていた小さなロケットからふるえる手でなにか取り出した。まだつかれが取れていない様子だ。

 そのままその白いものを卓郎に差し出す。

 それは4DSのカセットに見えた。いやそのものだった。

 卓郎はそれを受け取ってひっくり返したりもどしたりして見た。見たところ普通のカセットに見えるがどんなソフトなのかは表面にはってあったシールがはがれてしまって分からない。

「これなに?」

 卓郎が聞いたがアーイシャは目を閉じてだまったままだった。しばらくしてから苦しそうに息をはき、答えた。

「こめんなさい。まだ目まいがする。くわしい説明をするのは大変だから、とりあえずそのカセットをさしてみて。後はそれで分かる」

 ふうん。

 どことなくうさんくさかったが、カセットをさしたくらいで4DSがこわれるわけもない。卓郎は今ささっているジョギングソフトのカセットをぬくと、アーイシャに手わたされた見知らぬカセットを自分の4DS

に差しこんだ。

 『怪物狩り』みたいなテーマソングが流れ、なにもロゴは出なかったが、しばらくすると画面はSK-APE《スケイプ・テレビ電話》みたいになり、真ん中にアップで一人の老人が現れた。老人はかなりの年齢で、髪もひげも真っ白だった。

 老人は画像がはっきりすると話しかけた。

「やあ、こんにちわ」

 卓郎はだまって見ていた。これはなんのゲームかな。ゲームに出てくる登場人物はなにかしらの役割をあたえられていて、ゲームの進行に必要なことをしゃべちらかすと選択肢を選ばせる。卓郎もそのつもりで「A」ボタンをおすのか「B」ボタンをおすのかくらいな気持ちで待っていた。しかしいつまで待っても老人の下には選択肢は表示されなかった。

「わしはプログラムされた人格じゃ。『AI博士えー・あい・はかせ』とでも呼んでくれたまえ。きみの顔に対する目と耳の位置からすると、君の年れいは中学生位じゃな」

 卓郎はちょっとおどろいたが、元々4DSには顔を認識して子供か大人か区別する機能がある。それがちょっと高級になってしゃべるようにしたくらいだろう、と考えた。しかしそんな卓郎の考えを見抜いたような顔で老人は続けた。

「君はわしをゲームのNPC位に考えとるのかしらんが、わしはれっきとした『人格』じゃよ。君の言うことがちゃんとわかるぞ。試しになにか話しかけてごらん」

 こいつはずいぶん高級なゲームだぞ! コンピューターもここまで進歩したんだな。卓郎は感心した。

「いやいや。わしはゲームじゃない。これから何か面白いことをして見せてあげることはできん」

 え、これ。ぼくの心が読めるの?

「おどろくことはない。わしくらいの年になればわしを初めて見た人間がどのような反応をするか、君みたいな少年がなにを考えるかくらい表情の変化ですぐ分かる。ああ、これこれ。不安になることはない。わしはしゃべるだけでこの通り手も足も出んからな」

 卓郎は自分の二のうでに付けた4DSがしゃべるのをちょっと気持ち悪いとは思ったが、それよりも好奇心が勝った。

「4DSはいわば小さなコンピューターじゃ。コンピューターはプログラム次第でいろいろなことができる。4DSのソフトにはゲームだけでなく英単語を勉強したりするものもあるじゃろう? わしはそういったソフトで人間と同じように考えたり話したりする機能がある」

 ふうん。おしゃべりソフトか。でもおじいさんとおしゃべりしてもつまらないな。どうせなら可愛い女の子とおしゃべりする方がいいな。

 卓郎がそんなことを考えているとAI博士は目をぐるりと回した。

「ところでアーイシャは無事かの?」

「え? え、ええ」

 ちょっとおどろいた。現実にいる人間のことを知ってるなんて、まるで本当に生きた人間と話してるみたい。

「ここからじゃ見えんのでな。ちょっとすまんがカメラでアーイシャが見えるように4DSの正面を向けてくれんか。ああ背面カメラでもいい」

 そう言うとAI博士は画面の中でくるりと後ろを向いた。それはあたかも本当の人間が少女の無事を確認しているような動作だった。

「まだつかれきっておるな。なにしろ昨日は大変じゃったからなあ」

「え? まさか……」

「あらしの中で海に飛びこんだのじゃろう。一晩でこの距離を移動したのじゃから、よく生きていたものじゃ。さすが」

 いや。ありえないでしょ。普通。

「あのう。ここがどこか分かるのですか」

 AI博士は言った。

「分かるとも。現在地は千葉県新浜市。4DSには時計とGPSがついているからの。ところで」

「きみにわしの入ったカセットを渡すくらいじゃから、きみはアーイシャの目にかなったのじゃろうが、わしから確認したいことがある」

「なんでしょう」

 卓郎はだんだんばかばかしくなってきたが、相手が老人の姿をしているので、自然に敬語になった。

「うそをつかず正直に答えて欲しい」

 それでどんな質問がくるかなんとなくわかったが卓郎は答えた。

「はい」

 AI博士は言った。

「きみは……『いじめられっ子』かな?」


     *


 なんだろう。この人たち(?)は。正確には子供一人と機械老人一台は。

 いじめられっ子だとなにか特典があるのだろうか。

 卓郎の表情をAI博士は読み取ったようだった。

「いじめられっ子ということじゃな。それならきみは特別な人間になるしかくがある。特別な人間になって特別の力を得たいとは思わんか?」

「あんたたち……誰?」

「まあ、言うならば「正義の味方」というところじゃ。悪と戦っておる」

 ますます怪しげ。

「で……どこからいらしたんですか?」

「わしらは昨日、ここから五十キロほどはなれた島におった。ある事情でわしらはそこからにげ出し、海に飛びこんだ。そういうところかな」

 いや、このじいさんの話。だんだんうさんくさくなる。人間があらしの海に飛びこんで一晩泳いで五十キロはなれた所に生きてたどり着けるわけがない。

「疑っておるな」

 卓郎の心をみすかしたように老人は言った。

「あ、ええ。とても信じられませんね。申し訳ないけど」

「ふ通の人間ならばそうじゃ。だがスーパーヒーローならできる」

 AI博士は重々しく、真面目に言った。

 逆にそれで卓郎は理解した。

 あ、そういうこと。なんだかわかっちゃった。やっぱりこれって何かのゲームなんだ。新しいゲームのデモ? キャンペーン? このアーイシャって女の子はキャンペーンガールで、ゲームの博士とつじつまを合わせて演技しているのかな?

 もう一度卓郎はあたりを見回してから、次に何が起こるのかと画面をのぞきこんだ。

「実はこのブリーフケースには人間を不死身のちょう人にする薬が入っておるのじゃ」

 はいはい。なるほどね。

「薬を注射すると一定の時間、無敵のちょう人になる」

 ほーう。

「薬が切れるとふ通の人間にもどるのじゃ」

「それ、ヒーローものでよくありがちな設定ですね。『プリキュア』とか『ウルトラマン』とか、その時間制限がきん張感を生むんだよなあ」

「これは『ヒーローもの』ではない。本当にヒーローになれるのじゃ。では質問その2。もしきみが本当に無敵のちょう人になれたらどうする?」

「え?」

 これはまだキャンペーンが続いているのだろうか。すると質問に答えるとなにかもらえるのかな。

「失礼だがきみはいじめられっ子なんじゃろう?」

「はい」

「じゃあ、いやな目にあったり、自分の思う通りにならないことは多いじゃろう。いやそもそも全てが自分の思い通りにいく中学生などおらん。もしそんな中学生がおれば間違いなくプライドが高く利己的でだめな人間になっとるじゃろう」

「はあ」

「質問にもどる。きみがもし本当にヒーローだとしたら、ちょう人の力を持っていたらどう使う?」

「ええと」

「いじめっ子たちに復讐してやりたいと思うのではないかな?」

「あ、それはないです」

「なぜじゃ?」

「だって、いじめっ子だって、もし出会い方がちがっていれば、もしかしたら友だちになれてたかもしれないし。きらいな相手だって徹底的にやっつけるのは間違ってると思う」

「ほう」

「『龍玉』や『カリウドXカリウド』とかだって最初は敵と思って戦ううちに友情が芽生えて逆に強い味方になる、なんて展開よくあるし、そもそもぼくは人を傷つけるのはきらいだし……」

 卓郎はクラスでの自分の立場を思った。自分がもう少ししっかりしていれば、いじめられっ子の立場からぬけ出すことができるかもしれない。

「でも、ちょう人になってかっこ良く人を助けるとかはしてみたいです。そうすれば他の人に気に入られるかもしれないし……」

「女の子にもてるかもしれんし、の?」

 それはまあ、言うまでもなく。

「まあ質問その2は半分だけ合格じゃ」

「半分ですか」

「そう。スーパーヒーローの条件の一つは『見返りを求めぬこと』。つまり、いじめられっ子に復しゅうしないというきみの考えは立派じゃが、それで女の子にモテモテになりたいというのはちょっと不純な動機じゃ。ま、その年齢としでは無理もないがの」

 なんだ。この質問を全部クリアすれば、なにかもらえるのかな。

「そして」AI博士は続けた。「スーパーヒーローの条件の3つめは『大きな力には大きな責任がともなう』ことを自覚することじゃ」

「それってどこかで聞いたことがありますよね」(『スパイダーマン』じゃん)

「まあ気にするな。真理はどこか共通しているものじゃ」

「あと、質問その2と3に対してスーパーヒーローの条件その2と3が来る、ということはもしかして最初の質問のいじめられっ子かどうかっていうのが条件その1と関係あるとか?……」

 AI博士は目を見開き口をむすんだ。

「きみはなかなかかしこいのう。その通りじゃ。いじめられっ子でなければスーパーヒーローに変身することはできん」

 へえ、変身するんだ。

「じゃあ、いじめられっ子でなければどうなるんですか」

「ゾンビになる」

「へっ?」


     *


スーパーヒーローになる条件:

その1 いじめられっ子である。

その2 見返りを求めない。

その3 大きな力には大きな責任、を自覚する。


 卓郎の頭はいそがしく回った。

 さっきは注射するとちょう人になる薬、とか言ってたけど、今度は条件を満たさなければゾンビになる、とか言うし……。

 あ、やばっ。これってあの注射すると人間じゃなくなっちゃうウイルスが出てくるゲームにすごく近い。

「博士」

「なんじゃ」

「さっきのちょう人になる薬って、もしかしてウイルスとかですか」

「わしらは「ワクチン」と呼んでるがな」

「赤とか黄色とかで効き目がちがうとか」

「ほう」AI博士は横目で卓郎を見た。「なぜいろいろな色があることをしってるのじゃ」

 つかれきって横になっていたアーイシャまでもががば、と身を起こした。

「ボタンをおしたの!?」

「あ、ええと」

「ケースのボタンをおして開けたの? 中を見た?」

「うーん」

 アーイシャのあまりのけん幕に卓郎が言葉をにごしている横をさっきのリスだかネズミみたいな動物が横切った。

 アーイシャがそれを見た。

 AI博士もそれを見た。

「チャムチャム!」アーイシャがさけんだ。

「チャムチャムが外に出ているということは、ケースを開けたのじゃな」

「う、うん。ごめんなさい」

 少女はさっと顔色を変えた。

「大変! やつらがくる」

 卓郎は勝手にブリーフケースを開けたことでおこられるのを覚悟していたが、二人はそれどころではないようだった。

 アーイシャは手のひらをブリーフケースの上に乗せた。

 ブリーフケースの表面にキーボードがうき上がった。アーイシャは急いで十数けたの文字を打ちこんでからブリーフケースを開けると、内ぶたについているコンソールを激しく操作した。パソコンを持っている卓郎にはそれがパスワードを変更しているように見えた。

「やつらって」

「敵よ」アーイシャの顔はきん張にこわばっていた。

「わたしたちがにげ出してきた敵。このケースは認証して開けないと、位置を教える電波が発信されてしまう。どうしよう。わたしはまだワクチンを使えないし……」

「その敵ってどんなやつら」

「研究所。人間を強化する薬を研究している」

 出た。出たよ。ベタな設定が。

「情け容しゃのないやつらよ。今度つかまったら、わたしは殺される??。いえ、殺されるのならまだまし。それよりももっとひどいこと」

 アーイシャの表情にはうそは感じられなかった。演技としたら大したものだ。業界では子役で知られている人なのかも。

「ねえ、これってなにかのキャンペーンじゃないの?」

「あんたなに言ってるの?」

「ドッキリならそろそろ種明かしをしてもいいと思うんだけど」

「ふざけないで! 今まで説明したことは全部本当よ」

「ホントにホント?」

「くっ」アーイシャはくやしそうに歯をかみしめて横を向いた。

「今ごろやつらはこちらに向かってるはずじゃ。すぐにここをはなれるのじゃ!」

 AI博士の声も緊迫している。

「おそかったみたいね」

 ゆらりと立ち上がったアーイシャが遠くの浜辺を見た。

 卓郎もそっちを見た。

 遠くから黒い服を着た人かげが少なくとも十。こちらに向かって歩いていた。


     *


 黒服たちはこっちが気づいたことに気づいたようだったが、あわてた様子はなかった。ゆっくりと散開し、卓郎たちを遠巻きに囲んでいる。

「にげるわよ。あんた走れる? 」

 アーイシャはすでにブリーフケースを胸にかかえている。

「そんな。きみ、くつもはいてないのに」

「つかまったら殺されるのよ。死ぬ気でにげて」

 いや、まさか。

 ここに至っても卓郎はかれらの言葉を信じきれなかった。一人(?)はゲーム機の画面でしゃべるおじいさん。もう一人は同い年の女の子。

 まだどっかでテレビカメラがまわっているのかも、という気持ちが残っていた。

「それっ」

 言いざまにアーイシャは直ちに走り出した。

 卓郎が後ろをふり向くと、黒服たちもこちらに向かって走ってくる。

 じゃあ、おにごっこであることは間違いないんだ。

「早くにげるのじゃ! さあ!」

 AI博士もせかす。

 卓郎はおっかなびっくり走りながら考えた。

 ブリーフケースの中身が超人になる薬でなくても、もし麻薬かなにかで、それでもってあの黒服たちはヤクザやギャングだったら、いまかなりやばい状況だよな。

 アーイシャがころんだ。

 起き上がろうとするが、四つんばいになってぜいぜいと大きく息を切らしている。

 首だけ後ろを振り向いた。

 焦点のあっていない目にせまる黒服たちが映っている。

 しばらくだまったままだったアーイシャはやおらポケットに手を入れた。

 ピストルの形をした器具をとりだし、それを手ににぎったまま考えている。

 博士が叫んだ。

「アーイシャ! まだ無理じゃ。現在七時十五分。あと約五時間待たなければ、それを使うわけには……」

「実験台になるよりはまし。このままだとこの子も殺されてしまうし」

 『この子』って、もしかしてぼくのこと? 同い年くらいなのになにその上から目線。だいたいこの子、子供のくせにおばさんみたいなしゃべり方するね。

 しかしアーイシャの表情は真剣だった。祈るようなまなざしを天にむけ、目を閉じるとピストル型の器具を自分の手首に当てた。

 パンッ。

 アーイシャの手の中にあった器具が吹っ飛んだ。

 みるみるうちに近づいた黒服の男たちの一人が足でけったのだ。去年のワールドカップサッカーに出ていたにちがいない。それくらい見事なキックだった。

 アーイシャはそれでも両足で立ち上がろうとしたが、最後の力が尽きたようにひざから落ち、内股すわりで砂浜に座り込んだ。その周囲を黒服たちは囲んだ。

 アーイシャの目はうつろに虚空を見ている。

「あなたたちは誰ですか」

 卓郎の言葉に誰も答えなかった。黒服の一人がサングラスをはずした。少したれ目の顔がにこやかに卓郎を見ている。

 その黒服は卓郎に軽く会釈すると銀行員みたいなしゃべり方で言った。

「すみませんね。ウチのものが迷惑をかけませんでしたか」

「い、いえ」

「われわれはこの山の向こう側にある施設の職員だが、この子が高価な薬を盗んで逃げ出してね。しかたなく追いかけて来たんですよ」

「施設……?」

 黒服は目をすがめた。

「ま、いわゆる精神病院ですよ。この子はウチの患者でね。ちょっとイカれてるんですよ。自分がアニメのヒーローになれると思い込んで……。ま、そんなわけですから、ご迷惑おかけしました」

 黒服はそう言ってにこやかに微笑みながら深く礼をした。

「それはそうかもしれないですけれど……」

 卓郎は食い下がった。最初の考えどおり、やっぱりこの子はおかしかったけれど、ドッキリじゃなかったけど同じようなものだったけれど、でもこの男たちの女の子の扱いはちょっと許せなかった。精神病院の職員? とてもそうは見えないな。だいたい患者の目の前で当人に聞こえるように「イカれてる」なんて傷つくような言葉を吐ける人間は信用できない。

「……嫌がってるじゃないですか。もう少しやさしくできないんですか」

 アイーシャがきっと顔を上げた。

「無駄よ。こいつらの言ってることは全部嘘……」

 バフッ!

 続いてはためにも分かる激しい拳の一撃でアーイシャの体はふっとんだ。左手の鎖がぴんと伸び、ブリーフケースが重しになって遠くまでとんで行くのを止めた。止められたアーイシャの身体は糸のない操り人形マリオネットのように手足がばらばらな方向に動いた。それくらいひどい殴り方だった。

 アーイシャはそれでもすぐに立ち上がろうと両手をついたがその腹に男の靴がめり込んだ。

「グフッ」アーイシャの口から胃液がもれた。

 ひどい! 女の子なのに!

 両側から二人の黒服が腕をつかんで立たせるとアーイシャはしぼりだすような声で言った。

「殺せ」

「まさか」一人サングラスをはずした黒服はおおげさに驚いたようなジェスチャーをした。「殺すわけがない。われわれをなんだと思っているのかね。大切に連れ帰るに決まってるよ」

 とても大切に扱うとは信じられないような口調だった。卓郎はようやく冗談ではないと感じた。

「ねえ。これってもしかして本当?」

 アーイシャは卓郎をにらみつけた。「気づくのが遅い!」

 アーイシャはまだあきらめずにもがいたが、弱弱しかった。力なく頭をたれ動かなくなった。

 男たちは手慣れた様子でぐったりと動かなくなったアーイシャの体を両側から抱えて立たせると、一人が手錠につながったままのブリーフケースを運んだ。

 そのまま約十名の男たちは卓郎を残して砂浜を立ち去ろうとし始めた。

 アーイシャが力なく振り返った。

「助けて」

 卓郎をすがるような目で見る。

 え、え、え? 助けてってぼく? ぼくに言ったの?

 卓郎は固まったままだった。助けてと言われても相手は怪しげな大人たち。自分はただの中学生。ヒーローの妄想はするがこの男たちがどれほど悪そうに見えても現実的に考えて自分がこの男たちの意志に逆らって少女を救うことができるなんて考えられない。

 でも目の前で同い年くらいの女の子が殴られて、蹴られて、殺される、と恐怖を訴えて、それでどう考えても彼女が連れ去られた先で丁寧に扱われるなんで考えられないような状態で、このまま見て見ぬふりをしたら、ぼくはヒーロー以前に決して人間として許されない気がする。そんな出来事を呑み込んで自分に関係ないことは見ないふりができて、どんなに後味悪くても一晩寝たら全部忘れて普通の生活を始めることができるのが大人というものかもしれないけれど、ぼくはまだそういう意味で大人じゃない。こんなやつら許せない。許せない。でもどうすればいいんだ……

 思わず卓郎は4DSの画面を見た。博士が深い色をたたえた瞳で卓郎を見ていた。

「彼女を助けたいかね」

「はい。でも……」

 AI博士は言った。「わしの言うとおりにすれば不死身の身体になる。それなら彼女を助けることもできるだろう」

「はあ」

「では両手を交差させて4DSのスクリーンを右手でタッチしながら『チェンジ・アンデッド』と言うのじゃ」

「あのう。両腕を交差させるのはどうしてですか」

「わしの趣味じゃ」

「はあ」高級な冗談か。とても笑う気にはなれないが。

 AI博士はもう一度卓郎の顔をのぞきこんだ。

「確認じゃが本当にかの女を助けたいかね?」

「なんで何度も聞くんですか」

「後戻りはできんからじゃ。後悔しないね?」

「はい」

「おや」

 博士がちら、と後ろを向いて言った。

「どうやらヒーローになることを選ばざるを得ないようじゃな」

 卓郎が目を上げると、先ほどの黒服の一人が引き返してくるところだった。不自然な笑みを浮かべている。手にはさっきまでしていなかった皮手袋をはめている。

 卓郎は気づいてしまった。ずっとむこうでアーイシャを連れて行った連中のいくにんかが砂浜にビニールシートみたいなものを広げている。あれって海外ドラマで出てくる死体安置用のシートに似ている。

 殺すつもり?

 映画なんかでよくあるベタな展開だ。

「そのようです」

 卓郎は黒服たちに背を向けてAI博士とひそひそ話した。

「なんだか危ない雰囲気です」

「きみは証人じゃからな。すべてを消すつもりじゃ。やつららしい」

 じゃあこのままだと殺される!?

 卓郎の焦りとは別に博士の声は落ち着いていた。

「そうじゃ。普通の人間にはこの状況から脱出することはできんじゃろう」

「じゃあ……」

「変身するのじゃ。それしかない」

「わかりました」

「あともう一つだけ。うそはいかんよ」

 博士は横目で卓郎を見た。

「本当に君はいじめられっ子かね」

「間違いありません」

「では変身せよ」

 卓郎は腕を交差させ、いつも行っているような朗々とした声で指でタッチスクリーンに触れながら叫んだ。

「チェンジ! アンデッド!」

 4DSを装着している腕にちくりと針の刺さる感触がしたのと、首を後ろから絞める皮手袋の感触が同時だった。

 やっぱり黒服は卓郎を殺すつもりだった!

 皮手袋の指がしっかりと卓郎ののどをとらえた。


     *


「チェンジ・アンデッド!」

 卓郎がそう言うと博士の目が変わった。

 それまで人間味のある瞳だったのが、マネキン人形のように無表情になり、虹彩の線はバーコードのようになった。

 博士の表示された画面の下にはプログレスバーが表示された。

 4DSのカセットのある辺りの位置に針を刺されたような感覚が走り、同時に液体が腕の血管に流れ込む冷たい感触がした。

 プログレスバーは十秒ほどで右まで行き、中央に『赤ワクチン注入。100%』の文字が表示された。

 卓郎の首はいま後ろから黒服にしめられている。本来ならそちらの方が気になるはずだが、卓郎はそれどころではなかった。

「あうううううううおおおおおお!」

 卓郎の全身が内側から熱くなった。炎の熱さではなく、薬品で身体の細胞という細胞を焦がされるような熱さ……しかし気持ちいい。

 頭の中で戦争が起きている。

 視界が白熱した。

 卓郎の右腕が自分の意思とは関係なしにはねあがった。

 おさえようとした左腕も指が真っ白になるくらいこぶしを握っている。

 ひざががくがくとしたまま折れ、内側に曲がってX型になった。

「ウロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロ」

 自分の口からけものの叫びのような声が出ているのに気づいたのはしばらくたってからだった。

「卓郎くん。卓郎くん!」

 呼びかける声にわれに返った。

「ふぁ、ふぁい」

 なんだか舌がうまく回らない。自分の身体じゃないみたいだ。だが卓郎の返事を聞くと博士の顔がぱっと明るくなった。

「成功じゃ! おそらくキミならうまくいくと思っておったが、ちゃんと理性が残っておる! 現在の同期率9パーセント。これでキミはスーパーヒーロー『アンデッドマン』となったのじゃ!?」

「ふぉ、ふぉくが?」卓郎の舌はまだ回らない。

 卓郎が自分の両手を見ると、なんか少し指が伸びており、爪もとがっていた。指は間違って生きたまま埋葬された人が棺おけの内側をかきむしるみたいに折れ曲がっている。ヒーローというよりはこれじゃ怪人だ。

 ふと気がつくと、皮手袋の指はまだ卓郎の首に食い込んでいた。

「ウロッ!」

 卓郎が両手を黒服の腕の間に入れてのばすと、皮手袋はあっさりとはずれて黒服は後ろにしりもちをついた。

 卓郎はぎごちなく向きを変えた。黒服は作り笑いを浮かべたまま近づき、いきなり膝蹴りを卓郎の腹に入れた。

 ぼいん。

 卓郎の身体はちょっと宙に浮いたが、なんの痛みも感じなかった。卓郎は黒服をつきとばした。

「ウロルッ」

 ぐえっ。

 卓郎はちょっと力をこめただけのつもりだったが、黒服は二メートルも離れたところへふっとんで胸をかきむしり砂の上を転げまわった。

 すごい。本当にヒーローみたいな力を持ったんだ。

 卓郎が目を上げると遠くにいた黒服たちも全員こちらを眺めていた。

 そしてその中の一人がやってきた。

 背広の内側から黒くて重そうな金属をとりだす。

 拳銃だ。

 おもちゃじゃなければ、ヒーローと化した中学生を撃ち殺すことのできる器具。

「どうふぃよお《どうしよう》」卓郎はAI博士をせわしなく見てたずねた。

「落ち着くのじゃ。アンデッドマンはそう簡単には死なん」

「ても、ゆうおおってうよ。ぱんうぃうぇうぁいうをうあっつえるろ《でも銃を持ってるよ。パンチであいつをやっつけるの》?」

「技を発動するのじゃ」

「わわうぉはつうぉ?」

「キミしだいじゃ。キミが心から願えば、必要なとき必要な能力が発現する」

 卓郎は両腕を組み合わせ、「ウォンヴィーム《ゾンビーム》!」と叫んでみたが、なにも出てこなかった。

 黒服は十メートルくらいまで近づき、卓郎にまっすぐ拳銃を向けた。

「わっ」卓郎は両手で頭をおおってしゃがみこむ。その髪の毛をかすめて弾丸が飛んできた。

 ばすっ

 弾丸の後に遅れて発射音が耳にとどく。

 頭がなんかこげたように熱かった。

 殺される! 拳銃で撃たれる!

 恐怖に卓郎の身体はこわばって動かない。

 黒服がもう一度狙いをつけた。

「わあっ」

 卓郎が恐怖に叫んだその瞬間。

 卓郎の身体は卓郎の意思とは別に動いた。目は黒服に向いたまま、卓郎の腰がばね仕掛けのように横に動き、五十センチほど前にいた場所から移動していた。

 ばすっ

 卓郎が移動した直後に拳銃の音が聞こえた。しかし身体のどこかに弾を受けた衝撃はない。

 黒服がおかしいな、というようにもう一度狙って撃った。今度は卓郎の頭は大きくのけぞり、後ろの地面にくっつきそうになった。背中が麦穂のように曲がっている。そんな無理な姿勢で、卓郎の身体はしっかりと弾丸をよけていた。

「恐怖で技が発動したのじゃ。『ゾンビ・イレギュラー・ムーヴメント!』じゃ!」

 博士が興奮した様子で叫ぶ。

 

――ゾンビ・イレギュラー・ムーヴメント! それは通常の人間ではできない複雑な動きをして相手の攻撃をすべてかわす技である。ゾンビ化した卓郎の肉体は通常の人間の関節の動きや重心移動の制約から全て解放され、自由自在に相手の攻撃をかわすことができるのだ。ただ、手足がばらばらに動くため、あまりかっこいい《スタイリッシュ》とはいえないが――


 その後、黒服は続けざまに拳銃を連射したが、そのたびごとに卓郎の身体は自分で意識することなく、跳ね飛ぶように動いて弾をかわし続けた。

 かちっかちっ。

 黒服の拳銃が弾切れの音を発したとき……

 卓郎は黒服の正面に現れた。

「くわえっ《くらえっ》」

 卓郎のこぶしの一撃は黒服のあごを打ち抜き、黒服は大きくのけぞって一メートルばかり後ろに吹っ飛んだ。

「ふご《すご》」

 卓郎が自分のなしたことに驚いた声だった。

 おれ、本当にヒーローになっちゃったよ。

 だが、そんな感慨にふけっている暇はなかった。二人をやられたと見るや、アーイシャを連れて立ち去ろうとしていた黒服たちは、アーイシャをその場に残して全員こちらに向かってきたのだ。

「八門遁甲の陣!」黒服の中で最初に卓郎に話しかけた男が叫ぶ。

 八人の黒服たちは半円形に卓郎を囲むといっせいに拳銃を抜いた。


――八門遁甲の陣とは、中国の占術「奇門遁甲」の思想が戦国時代に応用され、兵士の布陣として編み出されたもので、八つの要所を全て固め、敵がどこから攻撃しようとあるいは逃げようとしてもからめとる必殺の陣形である。ちなみに某『N@RUTO』というマンガとは一切関係ない――


「かかれ!」

 ゾンビ・イレギュラー・ムーヴメント!

 卓郎は同じように複雑な動きでかわそうとしたが、黒服たちの拳銃はそれぞれ思い思いの方向を向き、卓郎がどこに瞬間移動しようともその位置にどれかしらの銃弾が飛ぶようにしているのだった。

「がっ、ぐっ、ぎっ」

 弾は卓郎の身体のあちこちに食い込み、そのたびに鈍い痛みが卓郎の動きを止めた。

 撃たれちゃった! 撃たれちゃったよ!

 卓郎はもうだめだ、と頭を抱えた。その身体に容赦なく弾丸は食い込んだ。

 だめだ! 死んじゃう。死んじゃう。

 そうやってごろごろと転がりながら弾を受けていた卓郎だったが……

 あれ?

 普通拳銃で撃たれたら一発で死ぬか泣き叫ぶくらい痛いはずなのに、卓郎の身体はなんともなかった。

「アンデッドマンは不死身の身体なのじゃと言ったであろう」

 博士が勝ち誇ったように言う。

 卓郎は立ち上がった。サングラスで隠れて表情は見えないが、黒服たちは鼻白んだように見える。

 ウロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロロー!

 卓郎ののどからまた異様な咆哮がもれ、次の瞬間には黒服たちの包囲網をかわして五メートルも向こう側に立っていた。一瞬遅れて半数の黒服たちが倒れる。

 卓郎の身体は常人の目に見えないくらいの速度で動き、一瞬で四人の男を倒したのだった。

 次の一瞬で卓郎はもとの位置に戻り、その一瞬後には包囲した残りの男たちがゆっくりと倒れた。

 卓郎は遠くを見た。

 倒れているアーイシャとブリーフケース。

 そこまであと二百メートル。

 卓郎はそこまで行こうとしたが、卓郎が動き出す一瞬前、エンジンの爆音が聞こえた。


     *


 遠くからエンジンの響きが聞こえてきた。アーイシャの倒れているさらに向こうには小さな砂丘がある。

 その砂丘の陰から黒い塊が飛び出した。

 黒い塊は着地すると砂埃を撒き散らしていったん停まった。

 オフロードバイクだ!

 乗っているのはヘルメットをかぶった大男。バイザーの影から見える目は青い。皮つなぎで身を包み、肩やひじ・ひざに盛り上がるようなプロテクターをつけている。プロテクターははでな黄色と赤いプラスチックでおもちゃっぽい。

 そうか。

 もし誰かが遠目で見ても、特撮のロケとしか思わないだろう。男はそんな効果をねらったデザインの格好をしていた。

 よく見るとバイクはハンドルの下から両側になにか突き出ている。

 カラカラカラカラ

 乾いたクラッチの音の後にぶうん、とエンジンのうなる音が響いて……

 その両側に突き出ているものが回りだした。

 チェーンソーだ! 両翼にチェーンソーを備えたオフロードバイク。

 バイクで突進してすれ違うものすべてをなぎ払う回転の太刀!

 白人の男は卓郎を見てにやりと笑った。

「小僧。ゾンビ化したな。だが首を切り離されても生きていられるかどうか、おれが試してやる」

 そう言うと手首をひねってアクセルをふかし、砂煙とともに後輪をすべらせながらバイクを卓郎のほうに向けた。そのまま突進してくる。

 卓郎は構えた。再び「ゾンビ・イレギュラー・ムーヴメント!」を用いて瞬間的に動作するつもりだ。

 白人の乗ったバイクは卓郎の前まで突進してくると、突然砂煙を蹴立てて横に曲がった。跳んだ砂が卓郎の顔をおおう。

「っぷふっ」

 顔にかかった砂を手で払っているうちに、接近してきたエンジン音が卓郎のすぐそばを通った。

「たっ」

 反射的に飛びのいたものの、攻撃がどこからきたのかわからずよけ切れなかった。一瞬後に胸に斬撃を感じる。自分の胸を見るとランニングシャツがはらりと上下に分かれている。胸の肉がぱっくりと割れ、一瞬遅れて血がどくどくと湧き出てきた。

「ハーハッハッハッ」

 白人は楽しそうに笑う。

「いくらゾンビ化しても、大量に血を失えば生身の身体。動けまい」

 バイクは再び突進してきた。

 今度は砂をかけられることを想定して卓郎は構えた。どっちだ。右か左か。

 バイクが左にターンした瞬間、卓郎は脇に五十センチばかりジャンプして飛びのいた。ハンドルから突き出たチェーンソーの歯はよけたはず、だった……

 ズバッ。

 卓郎は自分の右のももが大きくえぐられるのを感じた。

「ハーハッハッハ」

 見ると改造バイクのシートの後ろからもう一本、まっすぐ後ろ向きに刀が飛び出している。バイクをすれ違いざまに後輪を滑らせて後ろの刀で切ったのだ。

「ハッハッハ。正面からだとこの刀には気がつかなかっただろう。ゾンビ化したとは言っても所詮まだ子供。大人の知恵にはかなわないのだ。どれ、死ぬ前におれの名を教えてやろう。おれは『ゾンビ検疫官カランター』チャック赤川だ。

 そう言うと白人は再びアクセルをふかし、バイクの体勢を立て直した。いったん離れたところまで行き、助走をつけて卓郎の方へ向かってくる。

 足が……重い。

 今しがた切られたふとももの筋肉が離れてしまったのだろう。足に力が入らない。

 このままでは「ゾンビ・イレギュラー・ムーヴメント!」を使ってもあのチェーンソーの間合いから離れることはできない。

 バイクがうなりをあげてせまってくる。

 危険に際し、卓郎の脳は忙しく働いた。

 あのチェーンソーも後部の刀も、丁度ぼくの腰から胸にかけての高さにつけられている。ならば低い姿勢ならあの歯は届かないはずだ。

 バイクがすれちがう瞬間、卓郎は両腕で頭をおおってしゃがみこんだ。

 ズバッ。

 今度の嫌な感触は腕だった。右の二の腕がざっくりと切られ、ぶらんと垂れ下がった。

「ハーハッハッハ」

 離れたところで停止したバイクから男が振り返って笑う。

「低い位置ならよけられる、と思っただろ。な、思っただろ」

 にやりとした。

「そこが子供の浅知恵だ。最初からそんな動きは想定済みなのだよ」

 男がどこかのレバーを動かすとチェーンソーの歯は上下にカタカタと動いた。

「こうすれば低い位置にも歯が届く。どんな姿勢でもこれをよけることはできない!」

 卓郎の心に絶望がしみこんできた。もう腕も足も上がらない。血はどんどんと噴出し、身体はだんだん重くなってゆく。

 どうすればいい!? どうすれば。

「もっとできるはずじゃ」AI博士が叫んだ。「きみならできる」

 卓郎はぼんやりと4DSのディスプレイを見た。こんな状況でなにができるって?

「きみはさっき戦闘員たちと戦うために「ゾンビ・イレギュラー・ムーヴメント!」を発現させた。同じ事じゃ。こんな場合にどうすれば良いか強く願うのじゃ」

「そ、そんな事言われても」

「そら、来るぞ」

 その通りだった。チャック赤川はオフロードバイクを真っすぐに立て直すと、とどめの突撃を行うためにゆっくりとエンジンをふかした。

 ブオン、ブオン、ブオン。

 エンジンの音が死への予兆に聞こえる。どうすればいい。

 血を大量に失ってもう体力もない。足も腕も切り裂かれ、動くこともできない。まだ動かすことのできるのは首だけだ。

 卓郎は座り込んだまま、目をせわしなくぎょろぎょろと動かした。

 この視線に刺すような力があれば良いのに。

 卓郎がそう考えたとき、自分の両目が少し飛び出したように感じた。

 いや! 本当に飛び出してゆく!

 同時に卓郎の身体からブウン、という音が聞こえた。丁度冷蔵庫の後ろから聞こえるような音だ。冷蔵庫のあの音ってコンデンサの音だ、確か。

 その音はチャック赤川がバイクのエンジンをふかす音が増すに従ってだんだん大きくなった。

 チャック赤川がバイクを発進させ、みるみるうちに近くへ迫って来た。卓郎の身体から聞こえる音も上りつめるように騒がしい。

 チャック赤川があと数メートルまで迫ったとき、卓郎の目からなにかがほとばしった。

 ビュン!

 それは赤い色をした光線だった。

 光線はバイクのヘッドライトを貫くと、そのすぐ後ろにあるガソリンタンクを、熱したはんだごてがバターを切り裂くように易々と切り裂いた。

 爆発が起き、火だるまになったバイクからチャック赤川が吹っ飛んだ。

 バイクはバランスを崩し、燃える残骸となって、座り込んで動けない卓郎の横を惰性で通り過ぎた後、もう一度大きな音を立てて爆発した。

「ゾンビ・ライト・アンプリフィケイション・バイ・スティミュレイテッド・エミッション・オブ・ラディエイション!」

 AI博士が叫んだ。

「ええっと。ふぉふぇってふぉんび・ふぇーふぁーってふぉと《ええっと。それってゾンビ・レーザーってこと》?」

「その通りじゃ!」

「ふぁふぃとあんいなネーミングにゃないてすか、ふぉれ《割と安易なネーミングじゃないですか、それ》」

「気にするな。中学生なら習いたての英語を使って痛い名前の必殺技を考えたことくらい、あるじゃろう」

「う」

 卓郎の弱点を知り尽くしたようなAI博士の言葉だった。

 しかし博士と会話しているうちに舌の使い方に慣れてきた。だんだんきちんと発音できるようになってきたぞ。


――ゾンビ・ライト・アンプリフィケイション・バイ・スティミュレイテッド・エミッション・オブ・ラディエイションとは、文字通りレーザー光線である。人間の体は弱い電気を帯びている。Zウイルスは細胞を変化させることでそれを増幅して高圧電流を発生させ、また人間の目の水晶体をレーザー光線を収束できるほどに強化するのだ――


 ふと振り返ると、アーイシャを監視していた黒服の男は逃げ出しており、アーイシャは足下がふらつきながらもブリーフケースをしっかりと胸の前に抱え込んで歩いていた。それを確認すると卓郎は周りを見回した。黒服の男たちはみな意識を失って倒れている。その中でひときわ大きな息づかいが聞こえた。チャック赤川だった。

 卓郎は倒れているチャック赤川の傍らによった。

「こ・ろ・せ」

 あえぐようにチャックが言う。

 卓郎はチャックの横にひざまずくと、傷を調べた。革のライダースーツが大きく裂けて焼け焦げ、血がにじみ出ている。両脚が不自然な角度に曲がっている。

 卓郎はチャックの足を持ってそっと伸ばしてあげた。チャックは「うっ」とうめいたが、取り乱しはしなかった。

 息が苦しそうだ。

 卓郎はチャックのがぶっているヘルメットに手をかけた。チャックは一瞬抗ったが、あきらめたように力を抜いた。

 卓郎がヘルメットを脱がせると、金髪の頭が現れた。

 チャック赤川はあえぎながら視線を卓郎に向けた。青い目が意外なほど澄んでいる。さっきまで卓郎たちを殺そうとしていたのと同じ人物には見えない。

 いつの間にか後ろにアーイシャが来ていた。

「何してるの?」

「すぐ、手当てを、すれば、助かる、かも、しれない」

 いつの間にか舌が自由に動いてゆっくりだがちゃんとしゃべられるように戻っていた。

「こいつを助ける!?」

 卓郎はうなづいてみせた。

「なに言ってるの! こいつは私たちを殺そうとしたのよ!」

 大きな目と大きな唇を丸くして、どんなところにまだそんな元気が残っていたのか、と思うくらいアーイシャは大きな声を出した。

「助けたりしたら絶対にまた仲間を引き連れて追ってくる。無駄よ、助けるなんて」

 卓郎は黙ってかぶりを振った。

「こいつはいままで何人ものゾンビ化した人間を殺したのよ。「ゾンビ検疫官」って。今まで研究所を逃げ出した人間を何人も。あんた、そんなに甘かったら今日助けた相手に明日殺される」

 卓郎は必死に言葉を発した。舌が自分の体の一部じゃないようだ。

「それ、でも」

「それでもって、それでも助けるってこと?」

 アーイシャは理解に苦しむといった様子で大げさに肩をすくめてみせた。

 卓郎が黙っていると、アーイシャは怒ったように言った。

「わかった。わかった。わかったから、そんな目で見ないで。ま、捕虜をとったと思えばいいよね」

 それには構わず卓郎は驚いて叫んだ。

「あっ!」

「なに?」

「ぼく痩せてる!」

 卓郎の腹が見てわかるほどにへこんでいた。


     *


 卓郎が重いチャック赤川を運び込んだのは先ほどの浜にある海の家だった。まだ海水浴の季節ではなく、誰もいない。たたみ忘れたすだれが一枚風に揺れている。入り口には簡単な南京錠がかけてあったはずだが、すでに誰かが壊して半開きの扉にぶらさがってぶらぶらとゆれていた。

 中には畳を敷いた客席と簡単な調理場があるが、巨大な冷凍庫にも食器棚にもほとんどなにもない。それでも棚の奥に古びた救急箱を見つけて薬や包帯はひとまず確保した。

 卓郎は畳の上にチャック赤川の体を横たえ、ライダースーツを脱がせた。チャックの体はひどいありさまだった。爆発したバイクの破片が革製のライダースーツを突き破って皮膚に食い込み、髪の毛はちぢれ、露出していた皮膚は焼け焦げている。

 チャックがひときわ大きな息をした。

「み、水」

 卓郎はコップに水を汲んできてチャックの唇にあてがった。卓郎がコップを傾けるにつれ、チャックは家畜のように水を飲み干した。

 卓郎はチャックの体に食い込んだ破片をいくつか指で抜き取り、タオルを洗ってたたくようにしてチャックの体を拭いた。そのたびごとにチャックは小さくうっとうめいたが、大声で取り乱すことはなかった。

 軟膏を塗って包帯を巻こうとしたが、もともと不器用な卓郎の指が変身後はさらに動きが鈍くなっていて、どうしても包帯を巻くことができなかった。

「ほ、ほうたいを」

 ブリーフケースを抱きかかえたまま、むすっとした顔をして座っていたアーイシャは卓郎を鋭い目でにらんだ。

「て、手伝って、くれ。ほうたいを」

「なんでわたしがこいつを助ける手伝いをしなくちゃならないの? こいつは人殺しよ」

「でも、にんげん、だよ。かぞくも、いる、かも」

 チャックがかっと目を見開いた。黙って卓郎を見つめる青い目がなにか言いたそうだった。

 卓郎は両手を伸ばすとアーイシャとブリーフケースをつないでいる鎖をつかみ引っ張った。鎖はいちおう抗ったが、卓郎が力をこめると荷物紐のようにぷつんと切れた。アーイシャが目をみはる。

「たの、むよ」

「なぜそこまでするの?」アーイシャは出口のない部屋に取り残されたような表情をした。「理解できない」

「ヒーロー、だか、ら」

「ヒーローだから!? ヒーローだから悪者でも助けるの?」

「そ、う」

 アーイシャは不満そうに手首をさすっていた。くちびるが「あまちゃん」と動いたような気がした。

 しかし、やおらチャックのそばによると手当てを始めた。ライターの火であぶって消毒したはさみを使ってチャックの体に食い込んだ金属の破片を一つ一つ引き抜き、傷口を缶入りチューハイで消毒した。そのへんにあった板切れとひもを使って添え木を当てていく。知識としてのみ応急手当を知っている卓郎よりもはるかに馴れた手つきで包帯を巻いていった。

 数十分でアーイシャはチャックの全身を手当てし終えた。チャックが大きな息をついた。青い目はなにかを思い出すような表情でアーイシャを見つめている。

 窓から潮の匂いが入ってきた。

「としは……いくつだ?」

 突然チャックはつぶやいた。

 青い目を傲然と黒い目で見返し、アーイシャは答えなかった。黙って立ち上がると横目でチャックをながめ、はき捨てるように言った。

「『ゾンビ検疫官カランター』。たくさんの感染者があんたに殺された」

 チャックは目をそらした。

「なにか言いわけはある?」

「ない」チャックはすまなそうな表情をした。しばらく黙ってたがやおら口を切った。

「おれにもあんたくらいの歳の娘がいる」

 アーイシャがかっとなったのがわかった。こぶしを握り締める。

「なに! いまさら身の上話?」

 しかしチャックはぼそぼそと続けた。

「現代では治療するのがむずかしい病気にかかっている……」「治療するには多額の金が必要だ。だから……」

「へーえ。自分の娘のためにたくさんの人を殺したの?」

 アーイシャはあきれたというように肩をすくめた。卓郎もさっきのバイクの怪人と今目の前にいる人間が同じ人物とは思えなかった。

「さっきと話し方がずいぶん違いますね」

 チャックは卓郎を見た。

「「ゾンビ検疫」に行く前には合成アドレナリンを注射する。一時的に筋力もあがる薬だ。あれを打つとハイになるからな。ちょっとクレイジーになる。普段のおれはこんな感じだ」

 そうなんだ。

「薬物でハイになって人殺しをしたの。サイテー!」アーイシャが割り込む。

 チャックは冷静に続けた。

「われわれの感覚では、人間のように見えてもゾンビは人ではない。一種の伝染病だ。だから人類の公益のために、ゾンビを殺すことは悪ではないのだ。われわれの研究所は……海の上にある。Zウイルスは海を渡って感染することはできない。バイオハザード(極大感染)を防ぐため、研究所に封印してある。しかし……もしあれが流出したら……世界は終わりだ。おれの責務は世界を滅亡から救うこと。そのために……流出した感染者を検疫する」

 アーイシャはなにも言わずにチャックを鋭い目で見た。

「しかし、ゾンビに人間らしい感情があるとは知らなかった。知っていたらあんなに殺したりはしなかっただろう」

「勝手ね」

「われわれって誰? あなたたちは何者?」

 卓郎はさっきからどうしてもしたかった質問をした。

「われわれは……「クロスノウ」。全世界の救世主だ。公式発表ではな」

 チャックは全然信じていないような口調で言った。

 卓郎はたずねた。

「アーイシャたちを追って研究所から来たんですか?」

 チャックはかぶりを振った。

「研究所は……おれのような傭兵は入れない。おれは指令を受けて、海を渡ってしまったゾンビを駆除するだけだ」

「ふーん。あんたは研究所へ入ったことがないんだ。わたしたちはあそこから来た。あそこでなにをやってるか知ってる? わたしたちみたいな子供をさらってはZウイルスを注射する実験をしてる」

 チャックはしばらく押し黙った。ようやく声を出した。

「それは……知らなかった。おれはすでに感染してしまった人間を収容する施設だと教えられた。人類を救うためにはZウイルスの治療法を見つけ出さなくてはならない。そのための貴重な実験材料だと」

「恐るべき子供たち《レ・ザンファン・テリーブル》」アーイシャがぽつり、と言った。

「わたしたちはそう呼ばれた。多くはは自分が人間だったときの思い出を失いたくない、と泣きながらあんたたちにゾンビにされていった」

「それは……おれが聞いていた話と違う。「恐るべき子供たち」は感染者の中でも人類に敵意を持つもっとも危険な存在だと」

 チャックはうつむいたまま話した。

「Zウイルスに感染した者はもはや人間ではない。発症したらもう二度と人間には戻れない。そうしてかみついて感染者を増やしてゆく……そう教えられてきた。彼らにとって死こそが永遠の安らぎだと。だが……」

 チャックは顔を上げた。

「おれもいい年をした大人だ。そんな言葉をすべて鵜呑みにしたわけではない。心のどこかで疑っていなかったかと言えばうそになる。しかし娘のためにその疑いを追及しなかった」


「かれらの正体はなんですか」卓郎はたずねた。

 チャックは卓郎を振り返った。

「それは……言えない」

「おれはそれだけは口にすることを禁じられている。しかし罪滅ぼしに教えてやろう。今原型ワクチンはお前が持ち出した運搬ケースの中にあるもの全てだそうだ。通信をつい聞いてしまった。やつらは原型ワクチンを手に入れるためには、死に物狂いでお前たちを追ってくるだろう。決して逃げおおせると思うな」

「変ね。なぜそんなことを教えてくれるの? 敵のくせに」

 アーイシャは全く信用していない表情で問うた。

「ワクチンは回収できず、逆に助けられてしまうとは……致命的な失態だ。おそらくおれは、戻ったらZウイルスを投与される。このままではもはや生きて娘と会うこともかなわない。だから……」

「だからどうせ死ぬなら組織を裏切るの」

「そうだ。もともと忠誠を尽くしていたわけではない。おれは傭兵だ。娘のためだ。ただそれだけなんだ。うっ」

 チャックは卓郎を見た。

「言ってやる。どのみちおれはもうお終いだ。言ってやるぞ」

「トリニティ・バイオ・インダストリーズを調べろ。クロスノウの本体だ」

 チャックは痛みをこらえるように顔をしかめた。

「止めてくれ。やつらを止めて……ぐおっ!」

 突然チャックの体が引きつるように跳ね上がった。

「あぐっ! ぐっ、ぐっ、ぐっ、……ぐおおおおお!」

 大きく見開かれた目が血走り、吐くときのように開けた口から舌が飛び出している。

「あびゅぅ!」

 気味の悪い叫びを最後にチャックの体は動かなくなった。

 駆け寄った卓郎が体に触るとすでに硬直が始まっている。チャックの体から生命が抜けていった。

「どうして!?」アーイシャも叫ぶ。「致命傷じゃなかったのに」

 さっきまで生命を宿していた物体を目にして、夏の家に沈黙が降りた。

「「条件毒」じゃ」

 卓郎がふと左腕に目を転じると、4DSの画面にいつのまにかAI博士が表示されていた。

「クロスノウのメンバーにはある特定の条件で発動する薬が注射されておる。条件を満たさなければ何の問題もない。しかしその一線を越えれば、その薬は体内で毒となり、被験者を殺すのじゃ」

「条件って?」卓郎は聞いた。

「おそらく今回はクロスノウの秘密を明かしたことが引き金となったのじゃろう」

「そんな! じゃあわたしはどうなるの?」アーイシャが叫ぶ。

「きみはのう、アーイシャ」AI博士は横目でアーイシャを見ながら言った。「アンデッドマンに変身するじゃろう。アンデッドマンに毒なぞ効かぬよ」

「じゃあ、こいつは裏切り者で処刑されたということね」

「そうじゃろう」

「いい気味だわ」

 その言葉は卓郎の心を冷たいものでいっぱいにした。ぼくはとりあえずこのAI博士と少女の味方なんだろう。しかし人間らしさがどこまで作り物かわからないAI博士とつめたい少女。今目の前で冷たくなっている白人は恐ろしい敵だったが、話をしてみるとずいぶん人間らしい人だった。

 自分のしていることが正しいのかどうか、ふと卓郎は心配になった。


 クロスノウ。

 やつらは死に物狂いで追ってくる。



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