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最終話 陽翔

 俺の秘密を打ち明けてしばらくして、彼女は俺に秘密を打ち明けてくれた。

 怒りながら、泣きながら、今まで抱えてきたものを少しでも軽くするように。


 彼女はやはり、俺と同じ人間だったのだ。嬉しくもあるが、それがとても悲しくもあった。

 あんな思いをしている人間が俺以外にもいるなんて、世の中には不幸が溢れ過ぎている。


 彼女は今も父と二人になれば、あの悍しい行為をさせられてるらしい。

 それから救い出してやりたいが、俺が何をできるというんだろう。


 彼女はこの苦しみから逃れたがっていたが、自分の家庭を壊してしまうことは怖くてできないようで、現状のままどうにか父の手から逃れたがっていた。

 俺が何かしたとして、それは彼女の家庭を壊してしまうことになるだろう。それは彼女の本意ではないから、俺もどうすることもできない。


 だから俺は母にしたように、彼女の背を震える手で黙って(さす)ることしかできなかった。


 その後色々あったけど、色んなことを経て彼女は随分明るくなった。きっとこちらが本来の彼女だったんだろう。

 大学生になってからは彼女は垢抜け、砕けた話し方をするようになり、性格も俺のように作り上げた虚像としての明るさではなく、正真正銘の明るさを持った。そしてそんな彼女はかなり異性にモテた。

 あいつらにとっては彼女はただの可愛い女の子で、ちょっと手を出してみたい子。彼女の存在はそんなものなんだろう。

 でも俺にとっては彼女は唯一で、彼女しかいない。絶対に彼女を他の奴に渡したくなんてなかった。


 俺も両親に似て顔がいいからかなりモテはする。でも俺と違って彼女は俺がモテても焦らないし、嫉妬もしない。俺はそれが怖くなった。

 暗い過去を乗り越えた彼女にとっては、もう俺という人間は彼女と同じ人間ではなくなり、必要なくなったのか。俺と離れても、平然と生きていける人間になってしまったのか。


 俺は彼女に父のように、一人置いていかれてしまうのではないかと恐ろしくなった。

 父に対してほぼ何も思わないほど父に関心がない俺だったが、父に置いていかれたという事実は思った以上に俺に深い傷をつけていたようだ。

 俺は置いていかれるのが、捨てられてしまうことが、どうしようもなく怖くてずっと怯えていた。


 だからある日、俺の家で以前から見たかった映画のDVDを二人で見ようと、世間一般的にいうお家デートというものをしていたとき、俺は映画を見始める前に隣に座った彼女の横顔を眺めながら、


「なんで俺が他の女性に声をかけられても、擦り寄られても、菫は平然としていられるんだ?俺は菫が他の男に声をかけられていると、気が気じゃないのに」


 と聞いてみたことがある。

 俺の問いに対し、彼女は少し首を傾げて逡巡(しゅんじゅん)した後、自信に溢れた笑みを浮かべた。


「だって絶対に陽翔はわたしから離れないでしょう?わたしが陽翔から絶対に離れないように」


 その言葉を聞いたとき、俺は彼女の前でみっともなく泣いてしまった。初めて名前を呼んでもらったときのように。


 俺たちはいつの間にか、互いを下の名前で呼ぶようになっていた。

 きっかけは俺だったと思う。俺が下の名前で読んでくれないかって、そう言ったんだ。

 不思議そうな顔をしていた彼女はしばしの沈黙の後、出会った頃より柔らかくなった優しい声で「陽翔」と眩しい笑顔で俺の名を呼んだ。

 やっぱり()()と響きが似ていて怖さが拭えず、俺は少し身構えていたのだが、実際に呼ばれると嬉しくて泣いてしまった。


 俺は晴彦じゃなくて、陽翔なんだって、そう彼女がちゃんと教えてくれた気がしたから。

 彼女はいつかの俺のように俺の背を優しく撫でてくれて、今の俺には俺を慰めてくれる人がいるんだと思えてまた泣けてきて、随分あの時の俺は情けなかったと思う。


 俺は彼女から離れない。彼女も俺から離れることはない。そう自信満々に言い切った彼女はやっぱり眩しい。

 そして彼女はこれからも俺の一番の理解者であり、パートナーでいてくれる。俺を父のように、救いのない闇の中に置いて行ったりはしない。

 俺は図書館で彼女をファミレスに誘った当時の俺を褒めまくった。


 この関係は共依存なのかもしれない。

 でもそれでも確かに俺たちは互いの存在に救われていて、普通の人のように幸せになってもいいのだと、そう信じ合えているのだから、俺たちにはこの関係が一番いいのだ。




 そんな俺と彼女は五年ほど前に結婚した。

 仕事に出て行くとき、彼女は毎朝玄関まで見送ってくれて、帰ってくれば「おかえり」って笑って迎えてくれる。そんな毎日がずっと続いていて、俺は今、本当に幸せなんだと思う。


 俺は家を出て行った父と俺を求めるようになった母を見て、絶対に結婚なんかするものかと、ずっとそう思っていた。

 だけど同じ苦しみを抱えた彼女と一緒に過ごしていくうちに、俺を支えてくれる彼女を見ていくうちに、俺は彼女と過ごしていく未来というものを考えられるようになった。

 離れないと言い切った彼女ならきっと、本当に俺とずっと一緒にいてくれるから。


 大学三年の頃には結婚というものを考えるようになり、就職先が決まった時点で彼女に俺の正直な思いを打ち明けた。虐待されていたという秘密にしていた過去を、初めて出会ったあの日に打ち明けたときのように。


「俺と結婚、しませんか」


 この言葉を紡ぎ出すのには苦労した。俺は言う少し前から落ち着きがなくなり、彼女に訝しげな顔をされて焦り、しまいには汗が吹き出て声が震え、顔も真っ青になって心配された。

 でも勇気を振り絞ってそう言えば、彼女は最初面食らったような顔をしたが、でもすぐに「うん」と言って満面の笑みで俺の手を握ってくれた。


 俺は父に置いて行かれてしまうほど、母に陽翔ではなく父を求められてしまうほど、俺自身に価値というものがない人間だ。

 そんな人間と結婚したって、きっと幸せになんてなれない。それでも俺との結婚を受け入れてくれた彼女が、俺は愛おしくて仕方がなかった。


 彼女の両親に認めてもらい、祖父母に泣いて喜ばれながら籍を入れ、俺と彼女はとあるマンションの一室で暮らし始めた。

 良いところに就職が決まったとはいえ、働き始めたばかりの俺はそこまで収入があるわけでもないので、安いアパートで最初は暮らそうと俺と彼女は思っていたのだが、彼女の両親の強い希望で俺の職場から近くてそれなりに良いマンションで暮らすことになった。

 安いアパートではセキュリティが心配だったらしく、アパート暮らしを強く反対されたからだ。


 ちなみにならばと彼女が彼女の両親に交渉し、家賃の半分を彼女の両親に出してもらっている。俺としてはありがたいが、本当にいいんだろうか。

 そう俺が言えば彼女は「あの人も贖罪(しょくざい)として受け入れているからいいんだよ」と、出会ったばかりの頃のような表情のない顔をして言った。


 マンションで暮らすのは母との日々が戻ってくるようで正直怖かったが、彼女が「わたしがいるから大丈夫だよ」と言ってくれたので俺はマンションでの暮らしを受け入れた。


 最初の頃は彼女と一緒に寝室で眠ることができなくて、俺はリビングのソファで寝ていた。寝室にいい思い出がないから、女性と寝室にいることが怖かったのだ。それがたとえこの世で一番愛していて、信頼している女性であっても。

 彼女は俺のその過去を知っているからか、「わたしがベッドを一人占めしちゃってごめんね」なんて明るく言ってくれて、俺はどれだけその言葉に救われただろう。


 マンションでの暮らしに徐々に慣れていき、俺の母と彼女は違うのだという当たり前の事実をきちんと認識できるようになっていくと同時に、俺と彼女は少しずつ心の距離も縮めていった。

 母とは違うのだと受け入れ、寝室のベッドで一緒に眠ることもできるようになった。

 そして俺はいつしかある一定の距離を置きながらも縮まってく彼女との距離に、何かもどかしさのようなものを感じるようになっていた。

 それはぬるま湯に浸かったような生活の中で、少しずつ傷が癒えていくのを感じ、過去と向き合おうと決意したからかもしれない。


 ある日、寝ている彼女に「抱き締めてもいい?」と聞くと、彼女はそれを受け入れた。彼女もきっと過去の影に向き合いたかったのだと思う。

 何度も深呼吸をしてやっと彼女に触れれば、彼女の背を伝って彼女の鼓動が伝わってくる。彼女は俺に、父に肌を撫でるように触られることが何よりも嫌だったと前に語った。

 湧き上がる性欲を吐き出せる悦びに満ち、舌舐めずりをするように、吐き出す器の価値を確かめて品定めするように触られるのが、本当に気持ち悪いと。

 そういった邪な感情を隠して寄ってくる異性の気配を敏感に感じ取ることに長けていた彼女は、異性に触れられることをとりわけ嫌った。

 大学に通っているときになるべく女友達でいつも周りを固めていたのは、それをきっと防ぐためだったのだろう。


 そんな彼女だから、きっと俺であっても触れられるのは嫌だったと思う。それでも受け入れてくれたことが嬉しい。

 彼女の鼓動が落ち着いてくると、俺は恐る恐る彼女を後ろから抱きしめた。彼女の体は硬直したように動かない。

 もう少ししたら彼女は俺を振り解くだろうか。それとも怖くて動けずにいるだけなのか、はたまた嫌悪感を隠してひたすらに我慢しているだけなのか。

 不安に押しつぶされそうになりながら、でも俺は自分から女性に触れることができるようになった喜びから涙を流していた。

 俺はたとえ彼女であってもやっぱり無理なんじゃないかって、心のどこかで思っていて。だからこんな風に彼女を抱き締めている自分がここに存在していることが夢みたいで、思わず嗚咽が漏れてしまった。


 しばらくすると彼女が動き始め、やっぱり不快だっただろうか、振り解かれてしまうのだろうかと思っていると、なんと彼女は俺を抱き締めてくれた。彼女の腕の中は暖かくて、ぼんやりと浮かんでくる母が俺を通して父を見て、縋りよがったその姿が薄れていくような気がした。

 母からあまり感じることのできなかった母性を彼女から強く感じ、俺は子供のように彼女に縋る。子供の頃に得られなかった、ずっと欲しかったものがこの腕の中にはある。それを手放さないように、こぼれ落とさぬようにそっと抱き締める。


 俺も彼女も静かに涙を流し、その日は互いの体温を感じながら眠り、夜を越えた。

 いつしかカーテンから漏れ出した光で目を覚まし、二人でベッドから抜け出してカーテンを開ける。いつもより朝日が眩しく、とても美しく感じた。


「夜が明けたね」

「そうだね」

「……長い夜だったような気がする」


 日の光を浴びて眩しそうに目を細める彼女の横顔は、今まで見たことがないほどに晴れやかな顔をしていた。

 俺は今、どんな顔をしているだろうか。鏡が近くにないから分からないけど、きっといい顔をしているんじゃないかな。口角が上がっているのが分かるから。


「本当に長かった。夜明けなんて、来ないんじゃないかと思ってたよ」

「わたしも」


 二人で笑い合い、昨日の奇跡が夢ではないのだと確かめるようにお互いを抱き締めた。

 俺はこの日を、きっと忘れることはないだろう。


 父に捨てられるほど、母に父であることを求められるほど、俺という人間には価値がない。

 だからそんな価値のない人間は幸せになってはいけないのだと、幸せになんてなれないのだと、ずっとそう思っていた。

 でもそんなことはなくて、きちんと俺は幸せになれている。

 明けない夜はない、なんて言葉をかつての俺はつゆ程も信じてなどいなかった。その頃の俺には夜が永遠に続いて行くようにしか思えなかったから。


 だから本当に、彼女に…菫には感謝しているんだ。

 休日に一緒に過ごしていると、時折ポツリと隠していた本音が溢れるが如く、「幸せだなぁ」と彼女は呟く。その言葉を聞くたびに俺は救われ、幸せを感じる。


 最近、彼女は結婚を決意したときの俺のように、震えながら「子供が欲しい」と俺に言った。

 彼女はかつて、自分のような人間が子供など産んではいけないと、子供は作りたくないと言っていた。俺も子供を作っていい人間じゃないと思っていたから彼女の意見を受け入れ、今までずっと二人で暮らしてきた。


 そんな彼女が子供が欲しいと思えるようになったことが、嬉しく思う。

 きっと俺も彼女も心のどこかで、親になったら自分たちも親と同じようなことをしてしまうんじゃないかって、そう思って怯えていたんだ。

 でも彼女はそうはならないと、そう思えるようになった。だから望んだんだろう。

 俺も彼女と同じで、今の自分なら母のように、父のようにはならないと思える。

 だから「いいよ」と伝えると、彼女は「ありがとう」と何度も何度も言って、干からびるのじゃないかと思うくらいに涙を流した。


 まだ俺たちは性行為をしていない。

 触れることができるようになっても、やっぱりその行為は虐待された過去を思い出して怖いし、嫌悪感があるから。

 でも彼女となら、きっとそれも乗り越えていける。

 抱き合って眠って朝を迎えた、あの日のように。


 いつか子供が生まれたら、うんと愛してあげたいな。

 自分は価値がない人間なんだと、そんな風に思うことなどないほどの、溢れんばかりの愛をあげたい。

 ああ、楽しみだな。


 馬鹿みたいに暑かったあの日、図書館で偶然彼女に出会えたのは、神様が俺のそれまでの人生を哀れんでくれたからなのだろうか。

 同情されるのは好きじゃないけど、あの出会いに関しては本当に感謝してる。


 菫が、まだ見ぬ俺たちの子供が、これから先もずっと幸せでありますように。

 ずっと自分自身を価値がない人間だと思い続けてきたけど、大切な人の幸せを願える俺は、前よりは価値のある人間になれたんじゃないかな。

 そんな風に思えるようになったのだから、まったく人生ってのは面白いね。




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