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第六話 菫

 時は流れ、わたしと彼は大学生になった。

 同じ有名大学に入り、なんと家も隣同士だ。


 ここに至るまで色々あったように思う。


 わたしは大学に合格し、大学に通うにあたって両親はわたしが実家から大学へ通うことを望んでいた。でもわたしは絶対に父とはこれ以上一緒に暮らしたくなどなかった。だから一人暮らしをしたいと、初めて両親に強く願い出た。

 わたし一人だったらそんなことできなかったと思う。彼の…氷室君の存在があってこそ、わたしは両親に逆らう決意をしたのだ。

 一人暮らしをすれば父から離れることができる。何より、自由の少ない実家暮らしとは違って気軽に彼に会うことが可能だ。

 だからわたしは両親に支配され続ける道を選ばなかった。


 最初は両親ともに、特に父が強く一人暮らしを反対していたが、わたしが絶対に折れるつもりがないことに気が付いたのか、やがてわたしが一人暮らしをすることを渋々ながらも認めた。

 わたしはそのとき、思っていたよりもずっと簡単に自由を手に入れられたことに、愕然(がくぜん)としたのを覚えている。

 今までの両親のイメージは絶対的支配者で、わたしが逆らってもそれが認められることなどありはしないのだと、ずっとそう思っていたから。


 父の虐待の悪夢を終わらせたときもそうだった。

 わたしは一人暮らしが認められた少し後、父にまた求められたがそれを強く拒否した。彼と交際をするようになって、わたしは彼の隣にいるわたしが、父に汚される日々を耐える自分であることが許せなくなったのだ。

 父は拒否をしたわたしを強く怒ったが、それに屈することなく、むしろやり返す気持ちで母に言うぞと脅せば、父は呆気ないほど大人しくなった。

 その様子を見て、わたしはまた愕然としたのだ。


 わたしの父は娘の自発性を奪い、両親に従順であるように調教してその娘を簡単に性の吐口にしてしまうような人間のクズで……母に言うぞと、たったそれだけを言えば、こんなにも大人しくなってしまうような人だったのかと。

 そう思ったら今まで溜め込んできた怒りや悲しみや苦しみが一気に爆発し、わたしは衝動的に父を殴って今まで口に出すことのなかった怨嗟(えんさ)の声を父に投げつけていた。

 何度も何度も殴りつけるわたしは、きっと般若のような顔をしていただろう。そしてそんな顔をしながらも泣いていたのだから、どこかチグハグで随分と滑稽な姿だったろうな。

 父はわたしが暴力を振るっても抵抗せずに黙ってわたしの声を聞いていて、やがて殴るのをやめて肩で息をしながら父を睨めば、父は一言「すまなかった」と小さな声で呟いた。


 あの悪夢の日々を終わらせるのが、こんなにも簡単だったなんて。

 もっと早くこうしていれば。そうすればわたしは。

 その日の晩は悔しさと自分の愚かしさに、目が腫れるほど泣き続けた。


 父を殴った日は母が帰ってきてから大騒ぎになったが、父が「俺が悪かった」と土下座してわたしに謝り、わたしもあんな悍しい記憶を母に話すことなど流石にできないとだんまりを決め込んだ結果、母の中では詳細はわからないが何か喧嘩をしてその決着がついたということになったらしい。


 母には詳細が分からないから、あれがただの遅い反抗期を迎えた娘と父との過激な触れ合いにしか映らなかったらしい。

 あの悪夢の日々をなかったことにされたようでムカつきはしたが、わたしはそれで構わなかった。

 父が娘にしていたことを知ったら、母は首を吊ってしまうのではないかと思う。真面目で、父と同じく世間体を気にする人だから。

 あの頃に気付いてくれなかった母を恨みはするが、母に死んで欲しいなんては思わないので、母は知らなくていいと思える良心は残っていた。


 わたしはこれからも両親を恨んで生きて行くだろう。あの日々はとてもじゃないが、忘れることなどできはしない地獄のような日々だった。

 でも、それでいい。両親、特に父は絶対にわたしに許されないことで、ずっと後ろめたさを抱えてわたしという存在に怯えながら今後の人生を生きていけばいい。

 そして父は「母にあれを言うぞ」とずっと脅され続け、その代償としてわたしに搾取され続けるのだから。

 人一人の人生を滅茶苦茶にしたのだから、これくらいしたって許されると思うのだ。



 そんなわけで一人暮らしをする権利をもぎ取り、両親によって部屋を決められたわたしは、住むことになったアパートの住所を氷室君に伝え、彼は()()()空いていた隣の部屋に引っ越してきた。

 まあ実はそのアパートが彼の親戚が大家を務めるアパートであり、わたしが両親をうまくそのアパートに誘導してそこを選ぶよう仕向けたのだが。

 わたしの両親は何も知らないだろう。何事にも従順であった娘が好きな男と同じアパートに住むために、両親を騙すような形でアパートを決めさせたことなど。


 他にもいいアパートは沢山あり、最初両親はわたしが住む予定のアパートに難色を示した。父はなんとかなるにしても、母はそう簡単にはいかない。脅すこともできはしないし、今だにわたしを両親に従順な子供だと思っているから。

 だからわたしは誘導した。わたしが慕っていた学校の先生の親戚が大家を勤めるアパートがあるんだよ、と。両親はまんまとそこを選んだ。

 その学校の先生、皆川先生は両親とも知り合いらしく、皆川先生の人となりを知る両親が、彼女の親戚のアパートならば大丈夫だろうと決めたのだ。

 皆川先生は嫁入りして名字が変わっているが、元は()()だったそうだ。


 彼と話していて気付いた時、神様っているのかも知れないと思った。

 だって偶然でこんなことがあるのだろうか。

 わたしの慕っていた学校の先生と彼の親戚が繋がっていたなんて。


 両親とアパートの隣室の人に挨拶に行ったとき、わたしは笑いを堪えるのに必死だった。


()()()()()()。浅川菫と申します。よろしくお願いします」

()()()()()()。氷室陽翔です。よろしくお願いします」


 なんて、まるで初対面のように彼と挨拶を交わしたのだから。

 両親が実家に帰った後、わたしは隣室の彼の部屋に上がって彼と二人で祝杯をあげた。祝杯といっても()()()()だけれど。

 でもわたしにはジュースであることに意味があった。両親に禁止されていた飲み物であることが大切だったから。そのジュースの味は、今まで飲んだどの飲み物よりも美味しい罪の味がした。



 氷室君との付き合いは続き、大学を卒業したと同時にわたしは彼と結婚した。

 一応教員免許は在学中に取得したので両親はそれで満足したのか、もしくは結婚を女の幸せだと思っているからなのかは定かではないが、わたしと彼との結婚を認めた。

 彼は教師ではないけれど、大手企業に就職して働いている。それが両親には安心材料となり、短期間ではあったが父母と離れ祖父母と暮らしていたという、特殊な家庭事情を持つ彼を受け入れやすくしたのだろう。

 結婚式をする予定がないことに関しては、とても不満げだったけれど。


 結婚してから一つ、変化したことがある。

 それはベッドで抱き合って眠ることができるようになったことだ。別に性行為はしない。本当にただ、互いを抱きしめて眠るだけ。


 わたしたちはそれまで、怖くて互いの体に触れることを好んで行ってこなかった。わたしは父を、彼は彼の母を思い出してしまうから。

 同じ傷を負った者同士、互いを傷つけることはしないだろうと分かってはいても、それが怖くてしかたがなかったのだ。それくらい、わたしと彼が負った傷は深かった。


 でもある日、ベッドで適切な距離を保ちながら彼に背を向けて眠っていると、彼が震える声で「抱き締めてもいい?」と聞いてきた。

 それは彼なりのトラウマを克服するための、大変な勇気を伴った発言だったのだと思う。実はわたしも同じことを言おうと前から思っていて、でもやっぱり怖くて勇気が出せず、その言葉を口にすることができずにいたから。


 大きな飴玉をごくりと飲み込むように唾を飲み、少しの間を置いて「うん」と彼に言った。

 すると彼はかなりの時間をかけてわたしにまずは指一本で触れ、次に掌でそっと背に触れた。触れられていると心臓の脈打つ速さが加速して、その鼓動はわたしの背から彼の掌へと伝わる。彼はそれをしばらく掌で感じて、やがてゆっくりと後ろから抱き締めた。


 異性に体をこんなに触れられて不快だと思わなかったのは、それが初めてだったと思う。

 同じ大学に通う男性たちは馴れ馴れしくもスキンシップと称し、わたしに許可なくわたしの体に触れることがあった。その度に素早く振り払うのだけれど、触られたところが気持ち悪くてトイレに駆け込み、何度もウェットシートで強く擦ったのを覚えている。

 男なんてみんな父と一緒で、欲望をぶつけるためにわたしを利用しようとしていると思っていたから。


 唯一の例外は彼だった。彼はわたしに触れることはしない。触れても、肩と肩を寄せたときぐらい。それだって服越しの触れ合いだった。

 彼は彼の母が深く刻みつけたトラウマに囚われていて、手に触れることすら怖がる人だから。だからわたしの背をさすってくれたあの日、彼の手は震えていたんだと思う。


 わたしは静かに涙を流した。触れられてもいいと思える人がわたしにできた事実と、あの彼がわたしを抱きしめたという事実が確かに存在している。まさかこんな日が来るなんて、という感動から自然と涙が溢れて頬を伝ったのだ。

 頭の後ろの方から嗚咽が聞こえてきたから、きっと彼も泣いていたのだろう。

 わたしも彼の腕の中でもぞもぞと動いて向きを変え、彼をそっと子を抱く母親のように抱き締めた。


 わたしたちはそのときにやっと、わたしたちを虐げてきた親の影を振り払うことができたのだと思う。

 その晩はお互いを抱き締めたまま眠りについた。


 それから現在まで、毎夜抱き合うようにして眠っている。

 腕の中にある唯一触れることのできる幸せが、間違いなくここにあるのだと確かめるかのように。



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