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第五話 浅川(3)

※性的虐待をほのめかす描写があります

※苦手な方はブラウザバックを

 思っていた通り、雨を理由に連絡をすれば両親は帰りが遅くなることを許可した。

 雨はゲリラ豪雨だったようで彼の秘密を聞いている間にあっという間に通り過ぎ、話を聞き終える頃には帰宅するのにちょうどいい天気になっていた。


 わたしは彼と彼の祖母に別れの挨拶を告げ、彼とは連絡先を交換して別れた。

 両親はなんにでも制限を設ける人ではあるが、わたしの交友関係に今まで口を出してきたことはない。それはわたしが粛々と両親に従ってきた結果許された自由の一つなのかもしれない。

 多分勝手に携帯の中身を見るようなこともしていないはずだ。

 だから彼と連絡先を交換したことも、わたしが気を付けていれば今後知られることはないはず。


 彼と連絡を取る手段を得た携帯を大事に鞄にしまい、わたしは雨の上がった蒸し暑いコンクリートの上を歩いた。幸い彼の家は図書館から二十分程度のところにあり、少し帰るのが遅くなっても勉強に夢中になっていたと告げれば許される程度の時間だろう。



 彼の抱えてきた秘密を聞き終えた時、わたしは泣いていた。

 泣くと言っても涙を一筋流す程度で、目が赤くなるほどではない。だからこのまま帰っても怪しまれることはないだろう。

 彼の経験したことがあまりにも悲しかったからなのか、彼の苦しみを()()()()()()()()ことが悲しかったからなのか。

 なぜ悲しいのかははっきりとは分からなかったが、でも確かにわたしは悲しかったのだ。


 地獄そのものであるような日々を過ごす中に同じような傷を負った人間が存在している、わたし一人だけが苦しんでいるのではない。

 そう気付けたことはわたしを救い、わたしのその後の人生に大きな変化を(もた)らした。

 あの図書館での偶然の出会いはわたしにとっても、彼にとっても、本当に救済だったのだと思う。


 彼と出会えた幸福を、その日わたしは信じてなどいなかった神様にひたすらに感謝した。




「あら、おかえり。遅かったのね」

「はい。少し覚えたいところがあったので集中していたら、遅くなってしまいました」

「そうだったのね。その様子だと今日も勉強は滞りなくできたみたいね」

「わたしは図書館だと集中しやすいようです」

「前は家でも集中できていたようだけど、家では勉強しにくいかしら?」

「…そういうわけではありません。図書館や図書室だと同じように勉強している方も多いので、一人で家で勉強しているより捗るのだと思います」

「あら、そうなのね。これからも頑張るのよ」

「はい」


 予想通り、帰宅予定時刻を少々過ぎる程度なら問題なかったようだ。


「あ、そうそう。さっきまで雨が降ってたからお母さんまだ買い物へ行けてなくて。これから行ってくるわね。欲しいものはある?」


 この欲しいものというのは母と父が許容できる欲しいものか、という意味である。


「特にないです。気を付けて行ってきて下さい」

「ありがとう。じゃあ行ってくるわね」


 どうやら母はわたしが帰ってくるのを待っていたらしく、わたしが帰宅したことを確認したらそのまま荷物を持って買い物に出て行ってしまった。

 靴を脱いでリビングに向かうと、父がソファに座って新聞を読んでいる姿が目に入る。カレンダーで言えば今日は日曜日。学校が夏休みなこともあって、部活の顧問などをしていない父は仕事が休みで家にいた。


「ただいま帰りました」

「おかえり、菫。お母さんは買い物に?」

「はい」

「…じゃあ父さんの部屋へおいで」

「……はい」


 家を出る前は上手く(かわ)したのに。

 お母さん、わたしも買い物に連れて行ってくれればよかったのに。どうしていつも置いていくの。


 ああ、嫌だ。だから父と二人になるのは嫌なんだ。

 父に腰に手を添えられ、そのまま父の部屋に向かう。ぞわぞわとした不快感が全身を駆け巡り、体温が冷えていくのを感じる。

 父の部屋に入って電気を点けると、そこにはたくさんの本棚と、机と椅子、そしてソファが一つずつある。ここは父の書斎だ。

 ソファの近くにはバスタオルが何枚か用意してあって、父の準備の良さに吐き気がこみ上げてくる。


 持っていた鞄を部屋の入り口近くに置き、ソファの上に父が今さっき敷いたばかりの二枚のバスタオルの上に促されるまま移動した。


「さあ、服を脱いで」


 さも当たり前のように発されるその言葉が、とてつもなく恐ろしい。

 わたしは従順であればいい。そう、逆らってはいけない。逆らっては…。


『どうしてこうなってしまったのだろう』


 そう言っていた彼の言葉が頭の中にこだまする。

 本当に、どうしてこうなってしまったのだろう。


 父は間接照明の明かりを灯し、ついさっき点けたばかりの部屋の電気を消した。心許ないその明かりを背に父の形をした闇が近づいてくるのが見えて、わたしは()()がまた始まるのだと思い知る。

 父はわたしにとって絶対的支配者だ。逆らうことは許されない。


 父の生暖かい息が顔にかかり、歪む顔を父に悟られまいと必死に別のことに意識を逸らした。

 入り口の近くにあるはずの鞄の方に意識を向けて、今日知り合ったばかりの同じ傷を抱えた青年を思い出す。


 実の親とこんな悍しいことをしてしまったわたしたちって、許されないのかな。


 そう彼に問いかけてみたくとも、彼とここで繋がることができる唯一の手段は鞄の中。手の届かない遥か遠くにあって、暗く欲望に満ちた闇で視界が覆われたわたしには、その問いをただ飲み込むことしかできなかった。



 ◇◇◇



 彼、氷室さんとは初めて会ったその日から図書館の休館日を除いて毎日図書館で会った。そして勉強をある程度終えたら彼とファミレスだったり公園だったりに行き、話をした。

 わたしと彼はどうやら同い年で、同じ大学を目指す同士でもあったらしく、話しているうちに自然とわたしはいつしか彼を氷室君と呼び、彼はわたしを浅川と呼んでいた。

 彼と話すのは楽しい。彼はユーモアがあり、教養のある人だ。

 そんな人が自分と同じ傷を抱えているなんて今でも信じられない気持ちがあるが、彼の暗く淀んだ目を見るたびに同じなのだと感じさせられる。


 だから彼の家に遊びに行って、彼以外の家族がみんなでかけている日。

 わたしも、彼に自身の秘密を打ち明けた。父に性的虐待を現在も受け続けている、と。

 今まで誰にも話せず、抑え込んできた感情が爆発したようにわたしは時には怒り、時には泣きながら今までのことを話した。


 父の生暖かい息が顔にかかるのが嫌。父に触られると嫌悪感から鳥肌が立って、死にたくなるほど嫌。

 わたしで欲望を発散する父が嫌い。そのことに気付かない母が嫌い。助けてくれない周りが嫌い。大嫌い。

 でも父に消費されることを黙って耐えているしかない愚かな自分が、一番嫌い。


 赤子のように泣き叫びながら、わたしは溜め込んでいた思いを全て彼に吐き出した。みっともなかったと思う。でもなりふり構っている暇なんてなかった。全部、吐き出してしまいたかったんだ。


 わたしは意思というものが希薄な人間だとずっと思っていたけど、そうではなかったのだとこの時に気付かされた。

 心の奥底にはああしたい、こうしたいという思いが(くすぶ)っていて、それを必死に押し込めているだけだったのだと。

 そう気付いたとき、また泣けてきてみっともなく声を上げて泣いた。


 彼はそんなわたしの話を最後まで聞いてくれて、背中をそっとさすってくれた。

 それだけで、自分が今生きていることを許されたような気がしてまた泣いた。


 わたしはずっと許されないことをしていて、自分は世の中に溶け込んではいけない、みんなみたいに普通に生きることが許された人間ではない。許されてはいけない人間なのだと思い続けてきた。

 だって、そうだろう。させられていたといっても父と性行為をしていたなんて、普通じゃない。


 わたしは父としてはいけないことをしていると分かっていても、それに逆らうことができなかった。

 逆らったら、わたしは次は何の自由を奪われるのだろう。それとも悍しいそれを今以上に強いられるのだろうか。わたしは殺されるのだろうか。

 世間体を気にする父がそんなことをするなんて思わないが、そう思わずにはいられなかった。


 怖くて母にも言えず、父の()()が始まった中学生の頃からずっと一人で抱え続けてきた。

 父方の祖父母も母方の祖父母も、正月や盆くらいしか交流がない。わたしの進学先や将来の話ばかりでわたし自身に興味なんてない。

 一体、わたしは誰に頼れば良かったのか。


 そんな中、わたしと同じような体験をして生きてきた彼の存在は、暗く終わりの見えない恐怖に怯えるわたしの人生に一縷(いちる)の光を差した。

 わたしの苦しみを理解してくれるこの人がいれば、どんなに辛くともこの先も生きていける気がしたから。



 わたしたちはそうなることが自然であったかのように、いつしか交際を始めた。

 彼にとっては初めての彼女がわたしであり、わたしにとっては初めての彼氏が彼である。その事実がとても尊いことのように思える。


 わたしも彼も交際を始めはしたが、決して体を重ねることはしなかった。

 互いにそれにトラウマがあるから、それが恐ろしかったのだ。わたしも彼も、もう綺麗な体などしていない。一方的な欲望の発散の為に酷く汚された、汚い器となり果てた。幸せな初めてなどというものは存在せず、残ったのは苦しみだけ。

 性行為に愛情があるなんて、彼もわたしも到底思うことなどできはしない。

 だから寂しい時は肩と肩を寄せ、ただ隣にいた。それが一番幸せだった。


 

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