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第四話 氷室(2)

※性的虐待をほのめかす描写があります

※苦手な方はブラウザバックを

 母が本格的におかしくなったのは風俗で働くようになってしばらくした、俺が中学三年生の頃。確かあの頃の俺は進学を諦め、母のために中学を卒業したら働こうと、そう思っていた。

 俺は母がおかしいことに気付いていたのに、どうしてやることもできなかった。その件に関しては今でも後悔している。どうにかすることができていれば、あんな悲劇は起きなかった。

 あんなことになる前に、俺は祖父母に連絡して助けて貰えばよかったのだ。でも当時の俺はそんな風に思えなかった。

 俺も両親が離婚し、泣いているばかりの母を泣き止ませる生活で疲弊して、何も考えられないほど疲れていたのかもしれない。


 ある日、母が仕事から帰ってきて寝室でいつものように泣いていた。

 寝室は父がいた頃とまったく変わらない。この家はどこもかしこも父がいた頃のままで、四年前から時が止まってしまったようだった。

 俺はいつものように気味が悪いほどに変化のない寝室へと入り、母の背中をさすって母の愚痴を聞いていた。

 何もかもがいつも通りだったが、その日母だけはどこかが違っていた。


『辛い。辛いの。ねえ、ハル。お母さんを慰めて』


 母は俺にいつも慰めてほしいと言って、背を撫で愚痴を聞くことを強要した。それは別に嫌ではなかった。俺は母が俺を育てるために、身を売ってまで金を稼いでくれていたことをよく知っている。そして母がそのことで苦しんでいることも。感謝しているからこそ、それを断る理由はなかった。


 だから俺はいつもと変わらず慰めているじゃないか、と言いかけて、母の目に情欲の火が灯っていることに気が付いた。

 俺の頭の中で警鐘が鳴り響いている。このままではまずい。本能的にそう思った。

 怖くて母から離れようとすれば母は俺の腕を強く掴み、


『ハル、お願い。お母さんもう耐えられないの。あなたを育てるためには、こうするしかないのよ』


 母はそう言った。


 そんな方法を取らなくても、他に方法なんていくらでもあったはずだ。実の両親に頼れば良い。母を慰めてくれた男に頼れば良い。そして俺はそれを母に伝えられたはずだ。

 でも俺は母が()()()()()()俺を見ていることがとてつもなく恐ろしくて、ただ母の言葉を聞いていることしかできなかった。


 母が俺を四年前まで父と一緒に寝ていたベッドに押し倒したとき、母の目に映っていたのは父によく似た面立ちをしたまだ幼さの残る少年だった。

 俺はどちらかというと母に似ていたが、父にも似ていた。そのときの母には、俺は父に見えていたのだろう。


 だって母は俺に無理矢理キスをした後、俺を「晴彦(はるひこ)さん」と呼んでいたから。


 晴彦というのは、父の名前だった。

 母が俺を父の名で読んだとき、俺は絶望のようなものを感じた。母は俺に父の面影を見ている。母は父を愛していた。それは今でも変わらないのだろう。

 そして愛故に、俺を通して父を見ている母は、俺を欲望の吐口にしようとしている。

 そう思ったら目の前が真っ暗になって、その後のことはあまり覚えていない。


 俺を育てるためには必要なことだから。母は俺にそう説いて俺を自分の欲望のために消費した。

 仕事で自分が消費された分を取り戻すかのように。母が仕事で味わった苦しみを、俺にも同じように残して。


 母は俺に消えない傷をつけた。

 してはいけないことをしてしまったという罪悪感を俺に抱かせて切り傷を作り、そこに塩を塗り込むかのように俺に父の面影を探した。

 父を求める母の顔があまりに醜く、喘ぐ声が汚らしくて、俺は(おぞま)しいその()()が終わるまで、ずっと目を瞑り続けた。


 早くにそういった経験をしたクラスメイトの男子が、それは気持ちの良いものだと高揚した様子で話していたのを遠巻きに見ていたことがある。

 だけど全然そんなことはなくて。俺にとっては苦痛、煩悶(はんもん)。それはそういったものでしかなかった。


 母の「私を見て、晴彦さん」という声をひらすら無視し、永遠に続く拷問にも思えるそれが早く終わることだけを祈った。


 その行為が終わると母はシャワーを浴びに浴室へさっさと向かった。

 母がシャワーを浴びている音を聞き、やっと目を開いたときに映ったのは枕についていた濡れたシミ。それが俺が流した涙だったのか汗だったのか、そのときの何も考えることができなかった俺には分からなかった。




 母はその日から、毎日のように仕事が終わって帰ってくると俺を「晴彦さん」と呼んで寝室へ誘った。逃げようとしても、あなたを育てる為なのよと母に強く言われると逆らうことはできない。抵抗するのをやめて母に従い、寝室に連れ込まれて母の快楽の生贄になった。

 俺はそれが嫌で嫌でたまらなくて、どうにかしてそんな日々を逃れたくて。


 ある日、もはやそんな苦しみの日々に耐えかねて命すら投げ出したくなっていた俺は、母がいないときを見計らって遺言でも残す気持ちで祖母に電話をかけた。

 泣きながら「たすけてほしい」と、それだけを受話器に呪詛のように呟き続け、それを電話が切れるまで繰り返し続けた。祖母はそのとき電話口で色々と何かを言っていたように思う。

 でも俺は遺言を残すようなつもりで電話をかけたから、何を言われたのかは詳しくは覚えていない。


 そのときのことで覚えているのは、慌てて叫ぶように俺をハル君と必死に呼ぶ祖母の声。

 そして父に似た響きを持つ名前を呼ばれるのがとても嫌だな、と思ったことだけだ。


 その後のことは記憶が曖昧だけど、いつものように母が帰ってきて、母はいつものように俺を消費した。俺を消費した後仕事に行くこともままあり、その日もシャワーを浴びたら母は仕事のために家を出ていった。

 俺はシャワーを浴びる気力もなくて、情事で汚れた体を洗うこともせずにベッドに横になったまま、死んだように眠った。いっそ本当に死んでしまいたいと思いながら。


 次の日、朝早くに家のチャイムが鳴って俺が目を覚ますと、ドンドンと戸を叩く音と電話越しに昨日聞いたばかりの祖母の声が聞こえた気がした。

 朝特有の混濁した意識のまま視線を漂わせていると、ガチャリと戸が開く音が聞こえて足音が近づいてきた。祖母の声が聞こえたはずなのに誰だろう、なんて思っていると寝室の戸が開いた後、悲鳴が部屋に大きく響く。


 俺は昨日母に消費された後そのまま眠ってしまったから、汚れたベッドに汚れたまま裸で眠っていた。そんな姿で虚な目をした俺を見て、祖母は色々と察したのだろう。

 汚れているはずの俺を祖母は強く抱きしめ、後ろにいたらしい祖父が誰かに電話をかけていた。



 正直この頃の記憶は曖昧だから、祖父と祖母から聞いた話になる。

 祖父母は俺からの電話で俺のSOSに気付き、隣の隣の県から夜中にもかかわらず車を飛ばして俺の元に来てくれたらしい。そして母から渡されていた合鍵を使い、家に入った。

 そしてベッドに無気力に転がっていた俺を見て、俺が性的虐待を受けていたことに気付いたそうだ。


 その後色々あったらしいが最終的に母は親権喪失となり、俺は母方の祖父母に引き取られて育てられることとなった。

 元父はこの件に関して関係ないの一言だけを残し、俺を引き取るつもりはさらさらなかったようだ。祖父母が激怒していたらしいが、父はそれきり話し合いにも来ることはなかったという。


 俺は別に貧乏だってよくて、母がこの家を離れたくないのなら、母と二人で暮らしながら中学を卒業したら働いて、二人でなんとか暮らしていこうと、そんな風に漠然と将来のことを考えていた。


 なのに、どうしてこうなってしまったんだろう。

 俺はいつ、間違えてしまったんだろう。母が望むから母と二人で暮らしていこうと、そう思ったことがそもそも間違いだったのかな。



 俺はそれなりに頭が良かった。祖父母の勧めもあり、祖父母宅から近い地元の高校を受験して合格した。

 働くつもりだったけど進学することになり、不思議な気持ちだった。

 働くにせよ、進学するにせよ、環境が変わったというのは良かったのかもしれない。俺は母と暮らしたあの地にいたら、人としてしてははいけないことをしてしまっていた俺を知り合いに見られるのが怖くて、きっと命を投げ出していただろうから。


 父がいた頃から比べると、俺はかなり変わったのではないだろうか。

 苗字は父と母の離婚を経て父の方の杉内から母の方の氷室へと変わり、ただの中学生だったのに“性的虐待を受けていた中学生”になった。

 俺は氷室という姓を名乗ることが嫌ではない。父を求める母から少しでも遠ざかれていることが嬉しかったから。でも母と同じ姓であることは複雑でもある。


 俺の人生を無茶苦茶にしたあの人と同じ姓であることで、俺にあの人と同じ血が流れていると思い出させられてしまうから。

 でも名前で呼ばれるよりずっと良かった。

 名前で呼ばれるのが怖い。俺に父を求めてくるのではないか。そんな風に構えてしまう。


 祖父母には「ハル君」と呼ばれている。

 嫌ではあるが、そのことは祖父母には伝えられていない。母が俺を「ハルヒコさん」と呼んでいたことなど知らないだろうし、俺からも言うつもりはない。

 余計な心配をして欲しくなかった。


 だけどこの罪と傷を抱えて生きていくのは思ったよりも大変で。

 俺は誰かに、ずっとこのことを知って欲しかった。


 だけど普通体験することのないこの苦しみを話したとしても、きっとフィクションのようにしか受け取ってもらえないだろう。人によってはエンタメになるのかもしれない。

 我が儘かもしれないけど、そんな風に思われたくなかった。俺の傷を、苦しみをただ理解して欲しかった。


 だから、似た痛みを抱える人をきっとずっと探していた。

 そうして出会ったのが、彼女だったんだ。


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