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第三話 氷室(1)

 それは本当に偶然だったんだ。


 視線を感じて顔を上げれば、見知らぬ女が俺を見ていた。

 いつもの俺なら素知らぬ顔をして読書に戻り、追うのを中断していた文章の続きを読んでいただろう。


 でも彼女の目の奥に潜むものが、あまりに俺が抱えるものと似ていて。

 だからきっと、普段なら絶対しなかったのに声なんてかけたんだと思う。


 最初は別に深く話をするつもりなんてなかった。

 二、三言葉を交わして適当に切り上げて早く読書に戻ろう。そんな腹積りでいたんだ。

 でも俺がそのとき読んでいた本を前に借りたのが彼女だと知って、俄然興味が湧いた。俺の周りに読書が趣味だという奴はいなかったし、本が好きだと言っていた奴もいたが趣味が合わなかった。

 だから俺が気になってた本を読んでいた彼女と親しくなってもっと本の話がしたいと、そう衝動的に思った。


 でもそんなのは後付けの理由で、今思えば俺は多分、無意識に彼女に惹かれていたんだと思う。

 彼女と目が合ったその瞬間から。

 俺は彼女が自分と同じ場所にいる人間だと、本能的に気付いていたんだ。だから惹かれた。


 彼女と話してみると受け答えもなんだかどこかズレていて面白くて、俺はますます彼女の虜になった。

 ペラペラ回る舌で彼女をはんば無理やりのような形でファミレスに誘い出し、そこで過ごした一時間は俺のそれまでの人生の中で一番楽しい時間だったと思う。

 それと同時に自分にこんなに行動的な面があったなんて思わず、俺は驚いた。絶対に逃してはならないと思える何かに出会うと、人って変わるのかもしれないね。



 俺は“普通”ではない人間だった。

 でも普段は普通を装い、周りを騙して生きている。普通であることが尊ばれる世の中で、普通から外れてしまうと苦労するのは目に見えているから。だから俺は自分が相応しくないと分かっていても普通という舞台に上がり続け、そこで道化を演じ続けた。

 俺がはみ出しものだと気付かれないように。


 俺が普通じゃない過去を持ち、皆と同じところに居続けていい人間ではないと知っている人はこの地にはいない。

 いつ、何がきっかけでそれがバレるかは分からないが、バレないようにこれからも生きていくつもりだ。もしバレたのなら、生きていく場所を変えればいい。

 きっと祖母たちは協力してくれるだろうから。



 名前を呼ばれるのはとある理由から好きじゃない。だから名字で呼ぶようにと彼女に頼めば、彼女はなんの理由も聞かずにそれを受け入れてくれた。

 俺に対して興味がないのか、色々な物事に深く関わるつもりがないだけなのか。彼女の心の内は分からなかったが、深く追求してこない彼女にますます魅力を感じた。


 俺はファミレスに入る前は、店内で軽く彼女と話をしてその場で彼女と連絡先を交換して、たまに好きな本について話せればいいなとそんな風に考えていた。

 なのに彼女は俺の質問にあまりにも素直に真っ直ぐ答える。汚れを知らないような、生まれたままのような様子で疑問は素直にぶつけ、自分の考えを真っ直ぐに伝えた。


 眩しいな。そう素直に思った。

 直感では俺と同じ場所にいる人間だと感じている。なのに彼女は俺と違って、あまりに眩しい。


 俺のことを知ってほしい。彼女のことを深く知りたい。

 そんな渇望がファミレスで過ごす一時間の間に生まれていた。


 俺の秘密を彼女に共有して欲しくて、彼女の目の奥に潜む暗い淀みの正体を俺に共有して欲しくて、俺は彼女と好きな小説の話をしながらも、頭の隅で秘密を共有する舞台にふさわしい場所を考え続けた。

 考えた結果、一番秘密を明かすのに安全な場所として思い浮かんだのが俺の家だった。

 俺は彼女を俺の家に連れ込んでどうこうしたいなんて思惑はないが、彼女に「俺の家に行かない?」なんて言って彼女がどう思うかは別の話だ。ましてや知り合ったばかり。

 どうするのが最善か考えながら、仮に俺の家に行くとしてそれをどう切り出そうかと思っていると、彼女は話の流れの中で俺に、


「氷室さんががわたしと同じような暗い話を好むなんて思わなかった」


 と言った。

 確かに俺の表面上のイメージを考えれば、暗い話を好むのはどこか違和感があったのだろう。俺がよく演じているのは明るく、それなりによく喋る男だから。好むとしたらコメディな話だったり、明るく希望に満ちた話だと推測していたのだろう。


 俺は彼女のその言葉にすぐに反応することができず、ただただ笑うしかなかった。

 どういった内容の小説を好むかが、必ずしもその人の本質につながっている訳ではない。だけど俺は彼女の素直な俺に対する感想に、すぐに答えることができなかった。

 言葉に詰まってしまったということは、何かしらの理由がある訳で。俺という人間の本質が表面化された部分にはないのだと、彼女は聡くも気付いたかもしれない。


 そう思ったとき、彼女に悪いとは思ったが黙って彼女を俺の家に連れて行こうと思った。

 一刻も早く彼女に俺の秘密を打ち明けなければならない。


 俺は彼女の前だと上手く演じることができない。

 道化である俺より、元より俺の中に在来していた俺が顔を覗かせてしまうから。

 それは俺が今後生きていく上でとても危険なことであり、ずっと誰かに知ってほしいと願い続けていたことでもあった。



 ◇◇◇



 俺の母は、とても弱い人だった。

 父がいた頃はそこまで弱くはなかったと思う。だけど父が家庭の外に女を作り、家から出て行ってしまってから、母は誰よりも弱くなった。

 母は確かに母親ではあったが、女という側面の方が強い人だった。母親になりきれていなかったのだろう。俺を愛することより、父を愛することを優先する女だった。


 そんな女が愛する男を失ったらどうなるかは、火を見るよりも明らかだ。

 父と母を繋ぐ関係を断ち切る紙を一枚机の上に置き、父は家を出た。母はその紙切れをグシャグシャと丸めて床に投げ捨て、わんわんと子供のように泣いた。

 当時の俺は十になったばかりだったが、父が俺と母を捨てたのだということは分かった。父がいなくなったことが辛かったのかと聞かれれると、果たしてどうだったのだろうと純粋に疑問に思う。父は家に金を納めてはいたが、俺にとって父親ではなかったから。


 俺は父に遊んでもらった記憶が片手で数えるほどしかない。父は子供には無関心な人で、仕事があの人にとっての一番だったから。俺でも母でもなく、あの人にとって何よりも大切なものは、仕事と社会的地位だ。


 だからきっと、父は愛情の証明を何度も求める母が鬱陶しくなっていたのだと思う。

 仕事を優先してもそれを受け入れ、父の性欲を解消するのに協力的な、父にとって都合の良い女に逃げたのだ。そして母はそれを受け入れられなかった。

 父が家を出た後、母が電話で何度か泣きながら狂ったように叫んでいるのを寝室の戸の隙間から見た。あれはおそらく離婚の件で話し合いをしていたのだろう。

 結局五年後に離婚したが、母は五年の間に憔悴し切って父がいた頃とは別人のようになっていた。


 父も母も整った顔をした人だった。

 特に母は俺の目から見ても綺麗な人で、俺は母が美しいことを誇らしく思っていた。だから母からその美貌が失われたとき、悲しくて父が初めて憎く思えた。


 父が出て行った後、そのことを聞きつけた母の友人の男が母を慰めに来たことがある。母は綺麗だから、父と離婚したら美しい母を手に入れたいと思っていた男たちだったのだろう。結局母が父を想う気持ちが強く、誰とも結ばれることはなかったけど。

 母の美貌が失われてからは母を慰める男は少なくなっていった。

 今思えば引く手数多だったあのときに、慰めてくれた男の中の誰かの手を取って再婚していれば、母は今よりずっと幸せになれていたのじゃないかと思わずにはいられない。


 父との離婚が成立した後、俺と母は以前と変わらず父がいなくなったマンションで二人で暮らしていた。マンションの賃料は父が払うことになったらしく、実質タダでそこに住んでいた。

 母は専業主婦だったため、慰謝料があるといっても今後俺を育てていくのは難しく、仕事を探した。スーパーでパートで働いてみたり、コンビニでアルバイトをしてみたり。でも母はどれもすぐに辞めてしまった。


 母は大学在学中に父と結婚して専業主婦になったため、働いたことがなかった。母の父、つまり俺の母方の祖父は郵便局員で、当時は公務員だったので母は割と裕福ではあった。ちなみに祖母がやっている駄菓子屋は趣味みたいなものらしい。

 そんな母は学生時代は勉強に打ち込んでた為アルバイトの経験などはなく、就労経験なしに専業主婦になった人だった。だからそんな母が仕事をするのは辛かったのかもしれない。


 祖父と祖母は何度も実家に帰ってきなさいと言ってくれていたようだが、母は父との思い出の詰まった家を出たくはなかったのだろう。結局マンションから引っ越すことはなかった。

 俺と母は母の両親からの援助と父からの慰謝料で暮らしていたが、それでもやはり子供を育てるというのは大変金のかかることだったらしい。母は悩んだ末に苦肉の策で風俗に勤めた。

 俺は止めようとしたが母は聞かず、俺自身中学生だったので雇ってもらえるところもなく何の力にもなれないので俺は母の意思に従った。

 俺はそのとき、きっと間違えたんだと思う。だからあんなことになってしまったんだ。


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