第二話 浅川(2)
ファミレスではわたしが昨日返して今日彼が借りたその本のことを皮切りに、沢山の本の話をしたように思う。氷室さんとは驚くほどに本の趣味が似ていた。
わたしは少し堅い文章でどこか暗い話を書いた小説を好んで読む。時折明るい話を読みたくなって柄にもなくファンタジー小説や恋愛小説を読むこともあるが、いつも途中で読むのをやめてしまう。そして仄暗くて人間の醜い部分を書いたような小説に戻ってきてしまっていた。
それはきっと心のどこかに自分のような人間が、希望と幸福に溢れた物語を読んではいけないのではないか、という思いがあるからなのではないかと思う。
わたしのような人間にはきっと、暗くて救いのない話がお似合いだから。
だから氷室さんのような、キラキラと眩しく華やかな人間がそんな話を好んで読むことに少なからず驚いた。
もちろん趣味は人それぞれだからとやかく言うつもりはないが、あまりに彼という人間に似つかわしくなくて吃驚したのだ。
そのことを馴れ馴れしくも正直に彼に伝えれば、彼は仄暗く笑うだけで何も言わなかった。
そのことに違和感を覚えた。少しの時間ではあったけれど彼と話し、わたしには彼という人間の輪郭がなんとなく見えてきていた。
わたしの言葉に何でも楽しそうに答えるとても明るい人という、輪郭が。
なのに何も言わずに少し翳った表情だけで語る彼を見たとき、掴みかけていたはずの彼の人物像の輪郭がぼやけたように感じた。
先ほどまで一緒に楽しそうに話していた彼が幻で、翳りのある表情をした彼が真実彼という人間であるような。
何かが噛み合わないような心地の悪さと違和感に黙りこめば、彼は明るい彼に戻って困ったように笑った。
互いに沈黙し、なんとなく気まずくなっていれば彼と目が合う。「そろそろ出ようか」と言われてどちらからともなく席を立ち、会計を済ませて賑やかな店内を出た。涼しかったファミレスの中と違って外は暑い。一時間程度ファミレスに滞在して現在の時刻は午後三時半。まだまだ夏の日差しはその鋭さを維持している。
だけど天気予報でも午後は雨と言っていたからか、少し蒸すような暑さに拍車がかかっているように感じられた。
会計ではさっさと彼に支払いを済まされてしまい、財布を出す隙もなく店の外へと連れ出された。それがとてつもなくスマートで、彼が容姿という要素以外でも女性に大人気であろうことは想像に難くない。
わたしは女性は奢ってもらって当然だという考えは持ち合わせていない。
なのできっちり自分の分を払うことを願い出たのだけれど、彼は「これは俺に付き合わせた分の料金だから気にしないで」と譲らず、結局わたしが折れる形になり支払いは頓挫した。
意外と彼は頑固なところがある。でも彼にそう言えば「浅川さんもでしょ」と笑われてしまった。
「ねえ浅川さん。よかったらもう少し俺に付き合って」
どういう意図を持ってその言葉を述べたのかは分からない。
だけどわたしは彼と過ごす時間が存外楽しかったからなのか、それとも両親に決められた生活から逸脱する行動に魅力を感じたからなのか。
明確な理由はわからないが、彼のその言葉に自然と頷いていた。
◇◇◇
彼に連れられて着いたのは古めかしいレトロな民家だった。その民家はガラス戸を開け放ち、家の一部に誰でも人を入れることができるようにしている。いわゆる商店というものだろう。
そこには見たこともないお菓子が並べられており、コンビニやスーパーでは考えられないような破格の値段で売られている。駄菓子屋、という言葉が頭を過ぎった。
よく見てみると一部に見たことのあるお菓子がある。あれはスーパーの駄菓子コーナーにあったお菓子だ。やはりここは駄菓子屋に違いない。
それにしても安い。わたしはこんな商売をしていて利益が出ているのだろうかと他人事ながら心配になる。
わたしは普段、お菓子を食べるということはあまりない。
それもやはり“体によくないから”という理由からである。ただジュースと違うのは、お菓子は良い成績を収めたときのご褒美になり得るという点だろう。
何故お菓子は褒美になり、ジュースはならないのかは不明だ。ただ分かっているのは両親にとってお菓子というのは体にはよくないが、褒美としてたまに食べることは許容できるものであるということだけ。
わたしは両親には言っていないけれど、お菓子が割と好きだった。ジュースを飲んだときに感じたあの幸せの味がするから。
でももし両親に好きだと言ったら、わたしが今後頻繁に強請るかもしれないと思う可能性がある。そうしたら、もう褒美としても出してもらえないかもしれない。
だからわたしは褒美のお菓子を食べるとき、粛々とお菓子を口に運び、最後に夕食を食べ終えたときに「美味しかったです」と言うのと同じ声色で同じ言葉を言うに留めている。
何故お菓子の為にそんな面倒なことを、と他の家庭で育った人は思うのかもしれない。でもこれがわたしが今まで生きていて、この家庭で得られる“好きなもの”を失わない為の最良の方法だったのだ。
自分の意思というものが希薄なわたしだけれど、昔はもっと意志があったように思う。
あれが欲しい、あれが見たい、あれで遊びたい。そういうものが今よりもっと多かった。でもそれを両親に口にすれば、わたしは口に出したその対象を得る機会を失うことになる。
周りの子が面白い漫画があると会話しているのが聞こえ、漫画というものを読んだことのなかったわたしは好奇心から両親にわたしも読んでみたいと口にした。そしたら漫画を読むことは禁止された。
テレビの音楽番組のことを話す同級生が楽しそうで、輪に入りたくてわたしもその番組を見たいと両親に言えば、今まで許されていたテレビの視聴を禁止された。
そんな風に、わたしの家庭ではわたしが何かを望むとわたしはそれを失った。
だからわたしは両親に従順であればいい。そうすれば、これ以上奪われることはないのだから。
安っぽいパッケージはどれも目の引く配色でありながらも派手過ぎない色合いをしている。タバコみたいなパッケージのお菓子や、金塊を模したようなお菓子があり、そのどれもがチープでありながらとても魅力的だった。
まるで宝石のように思えて夢中になって見ていると、いつの間にか今日のうちに聴き慣れてしまった笑い声が隣から響いてふと我に帰る。
完全に氷室さんの存在を忘れていた。
「あ、すみません」
「いいよいいよ。凄く楽しそうだね」
「わたしの家ってお菓子とか滅多に食べられないので、なんだか見ているだけでも楽しくて」
「そっか。そんなに楽しんでくれたなら連れてきてよかった。ここね、俺の母方の祖母の家で、俺が今住んでる家」
「え!?そうなんですか」
「うん。ばーちゃん!」
大声で店の奥へと彼が声をかけると、嗄れた声が店とそのまま繋がっているであろう彼の家を隔てた、床につきそうな程に長い暖簾の奥から聞こえてきた。
「ハル君かい?」
「そうだよ!ばーちゃん、俺前から言ってるけどさ、無用心だから店にいないなら店閉めなよ!万引きされ放題じゃん!」
「滅多に人なんて来やしないんだから、ハル君は気にしすぎなのよ」
小豆色の暖簾の切れ目を片手で分けて店に出てきたのは、六十歳前後の女性だった。この人が彼の祖母なのだろう。
「おや、ハル君にゃ珍しいね。めんこい子連れてる」
「今日知り合ったばっかなんだ。浅川さんっていうの」
「はじめまして。浅川菫と申します」
名乗り終えて深く礼をしながら思う。まさか今日が初対面の人の身内に挨拶することになるなんて。
今日は色々予想だにしなかったことが起きる日だ。
「まぁ、礼儀正しい子だこと!ハル君の祖母です。ちょっとハル君、ナンパしたの?」
「違うよ。ちょっとしたきっかけから話したんだけど、そしたら前に図書館に行ったときに俺が借りようと思った本が借りられてて、それを借りてたのが浅川さんだったって判明してさ。そんなこともあるんだねみたいな話して、その後も色々話したの。本の趣味が合うからよかったら俺の持ってる本貸そうと思って」
「あらまぁ、そういうこと」
何故急に彼の家に連れられてきたのか謎だったけれど、なるほどそういう意図があったのか。
しかしそれならば一言、そう言ってくれればよかったのに。
「どうぞ、あがって」
「お邪魔します」
「ゆっくりしていってねぇ」
何故かとても嬉しそうに彼の祖母は笑っていた。
彼はもしかすると普段友人をあまり自宅に招かないタイプの人間で、彼の祖母は彼が友人を連れてきたのが嬉しいのかもしれない。でもわたしは彼とは今日が初対面で、とても友人と呼べるような間柄ではないのでなんだか申し訳ない。
促されるままについて行き、段差の急な階段を登って左に曲がるとすぐ左側に襖が見える。彼はその襖を開けるとわたしをその襖の奥に招いた。
「お邪魔します」
床が年季の入った畳で敷き詰められ、妙に新しい白い壁で囲まれた小さな部屋だった。
窓にはカーテンの代わりに引き戸の障子がついていて、部屋の中にあるのは小さめの長机と座布団と本棚だけ。とても簡素な部屋だと思った。
別にそれが悪いわけではなくて、自分の部屋にどことなく似ているなと思って親近感を覚えたのだ。
わたしの部屋はもっと洋風な作りでベッドもあるけれど、あとは机と椅子と本棚しかなかったから。
彼は部屋の目立たないところにあった押入れから座布団を取り出してわたしに座るように言った。
「何もない部屋でごめんね」
「いえ。わたしの部屋もこんな感じなので特に問題ないです」
「そうなんだ」
世間話をしていると彼の祖母がお茶とお菓子を持ってきてくれた。そして家に上がるときにかけてくれた言葉と同じ言葉を残して部屋を出ていく。
それがどこかこそばゆい。わたしには友人と呼べる友人がいなかったので、当然友人の家にお邪魔するということをしたことがない。だから今のこの状況に慣れなくて落ち着かなかった。
でもそれはなんだかとても胸の奥がくすぐったくなるような、不思議な感覚だった。
「そういえば、どうして用件を先に言ってくれなかったのですか」
「用件?」
「本を貸したい、と」
「ああ。いや、そのなんていうか…俺男だし、浅川さんは女でしょ?だから俺の家に遊びに来ないか、なんて言ったら浅川さん真面目そうだし、断られるだろうなと思って。別に下心あったとか、そういうわけじゃないんだけど。…ごめん、どう言おうと言い訳みたいにしかならないね。なんか騙すみたいにして連れてきてごめん」
その言葉を聞いて、彼は真っ当な人間なのだろうと思った。本当に下心があったのならこんなことを言う必要はないし、黙っていればいい。
でも彼はきちんとわたしに連れてきた真意を告げた。それが本当かどうかを確かめる術はないが、本当に不埒なことをしたくて連れてきたのならわざわざこんな警戒されるようなことを言わないだろう。
「別に気にしていません。でもそうですね、本当は何か話したかったんじゃないですか?」
「え?」
彼に彼の家に招かれたのだと知ったとき、直感的にそう思った。
図書館でもファミレスでもできないような話を、彼は何故かわたしに話したがっている。
それは本の趣味が似ていることと関係があるのか、それとも彼にしか分からない何かわたしでなければならない理由があったのかは定かではないけれど。
あの彼という人間の輪郭がぼやけた、翳った表情。
そこに全ての理由がある気がした。
「…んーやっぱ似てるから、気付くのかな」
「似ている?」
「そう。俺と君が」
「あなたと、わたしが?」
「そうだよ」
わたしはどちらかといえば暗い、目立たない存在だ。
なのに華やかで明るい彼はわたしと彼が似ているという。
わたしを真っ直ぐに見つめる、彼の日本人にしては少し色素の薄い茶色っぽい目の奥には、暗い淀みがあった。
似ている、という彼の言葉の意味を知る。彼が鏡に映るわたしの目と同じ目をしていたから。
彼は一体、何を胸の内に抱えているのだろう。
似ているというわたしに、何を求めているのだろう。
しばらく彼と見つめ合っていると、雨音が窓を叩く音が聞こえてきた。天気予報の予告通り、雨が降り始めたようだ。
あとで両親に雨が降ってきたから少し帰りが遅くなると連絡しよう。天気の関係で少し帰りが遅くなることはままあって、それを両親は良しとしていた。だから門限までに帰れば問題ない。
そんなことを頭の片隅で考えていると、彼はゆっくりと口を開いた。
心なしか声が少し震えているような気がする。
目の前の青年はわたしと同い年くらいのはずなのに、小さな少年のように見える。それと同時にわたしは、自分が少女の頃に戻っていくような気がした。
まだ自分が普通に所属する人間だと信じてやまない、幸福になることを許された人間なのだと思っていた頃。
あの頃のいなくなってしまった自分を、少しだけ思い出した。
彼は語った。彼という人間のこれまでの人生を。
彼はわたしと同じように傷を負った人間で、決して普通の幸福が許されない場所に深く沈んでいる。わたしと同じ。
わたしはその日、彼の秘密を知った。
勢い良く降る雨が激しい音を立て、窓や地面を打ち鳴らす。その音で彼の秘密は覆い隠された。
ただ一人、わたしだけが彼の秘密を知ったことを除いて。