第一話 浅川(1)
その日はとても暑かった。
夏の日差しが肌を刺すように照りつけてじりじりと皮膚を焦がすような、身体の水分を全て蒸発させてしまうのではないかと思わせるような、そんな暑さが続く8月も半ばのある日。
わたしはその日、同じ傷を抱えた青年と出会った。
◇◇◇
魚焼きグリルで焼かれる魚って、こんな気分なのかな。
そんなことを思いながら、あまりの暑さに自然と吹き出る汗を拭い、わたしは見慣れた歩道に落ちる日陰をできるだけ通るように歩いていた。いつもは日傘を差して通るのだけれど、日傘がないとこんなにも暑いとは思わなかった。
あまりの暑さに耐えきれず、歩いている途中に見えた人気の少ない公園の日陰のベンチに座る。
蒸し暑い日本の夏は嫌いだ。
なんせ日陰に入ってもかなり暑い。蒸し暑くなければもっと涼めたのに。
心の中で悪態をつきながら、リュックから下敷きを取り出して自分に向けて仰ぐ。ベンチの近くの大きな木の影になって直接太陽光が届くことがないのと、下敷きで自家発電した風のおかげでやっと少しだけ涼しくなってきた。本当に暑くて嫌になる。
体の表面の熱が冷めてくると体にまとわりつく汗が途端に気になり始め、わたしはリュックのサイドポケットからハンカチを取り出して急いで汗を拭った。
しばらくベンチに座っていたけれど、そろそろ目的地に向かおうかと思いハンカチと下敷きをリュックに乱暴にしまう。下敷きをリュックにしまうときに図書館から借りた本が少しだけ見えて、わたしはなんとなくその本を取り出してページをパラパラと捲った。ページを捲ったことで僅かに生まれた風は顔にかかり、微かな涼を感じさせる。
右から左へ、左から右へと何度か捲り、気が済んだらリュックへとしまった。
ベンチから腰を上げ、リュックを背に背負って日陰から出る。すると皮膚を針で刺すような夏の日差しが照りつけた。
借りていた図書館の本の返却日まで、まだ三日程ある。返すにはまだ余裕があるけれど、わたしには返却日などどうでもよかった。毎日のように図書館に通っているからだ。
蒸し蒸しとした熱気が立ち込めるコンクリートの地面を踏みしめ、図書館を目指す。
図書館に辿り着けば冷房の効いた涼しい空間が待っている。それを思えば自然と足は速くなり、いつもより早足で向かった。
図書館は、わたしにとってオアシスだ。どこよりも安全で、快適で、幸福がそこにはある。地獄のような日々の中の、唯一の希望。
図書館へ向かい始めてゴールまで残り半分を切った頃、コンクリートから立ち上がる熱気が街中を揺らめかせているのが見えた。その光景を見ていると、まるで自分が砂漠を歩く旅人になったような気がする。
家を出る前に嫌なことがあって気分が落ち込んでいたけれど、なんだか小説の登場人物になったようで少し気分が高揚して、暑さにやられて重くなっていた足取りが軽くなる。
気分が良くなったわたしはオアシスを求める砂漠の旅人になったつもりで、残りの道のりを歩いた。
図書館の自動ドアを通り抜ければそこはまるで天国だった。いや、砂漠で見つけたオアシスか。
なんてったって涼しい。外気と建物内の温度差で寒冷アレルギー持ちのわたしはくしゃみが出るが、気にせず返却カウンターで本を返して文学コーナーで本を漁った。良さげなのを二、三見繕うとよく座る席に座り、机の上に本を置いてリュックから勉強道具を取り出す。
机に本を置いたのは借りていく分で、いつも図書館に来るとわたしは勉強をしていた。
夏休みももう二週間もすれば終わりを迎える現在、夏休みの宿題は済ませており、今しているのは受験勉強だ。
わたしは高校三年生であり、今年は受験がある。家で勉強するよりも図書館の方が集中できるため、両親に許可を貰い夏休みの間はほぼ毎日図書館に来ていた。
何故図書館へ行くのに許可が必要なのかと言えば、わたしの両親が父も母も厳しい人だから。
わたしの進路は常に両親によって決められており、父と母が卒業した有名大学へ行くために現在も勉強することを日々求められている。だけどそのことに特に不満はない。わたしには意志というものが希薄だから。
わたしに対する周りの評価は“優等生”だった。
制服を乱したり髪を染めるなどの校則違反をすることはなく、授業態度は真面目そのもので提出物などの期限もきちんと守る。模範的な優等生。
だけどそれは表面的なことに過ぎない。わたしはいわゆる模範的な優等生であったが、周りからは少々浮いていた。それはきっと同級生が、わたしがどこか普通ではないおかしな子供だと、敏感に感じ取っていたからだろう。
小学生の頃、担任の先生から国語の授業のときに『将来の夢』という作文を書くように言われたことがあった。
わたしは周りの同級生たちが楽しげにああなりたい、こうなりたいと会話を交わしている中、一人困惑していた。
わたしには夢などなかった。
いくら考えても考えても何も浮かばず、原稿用紙は白紙のまま。
いつもはスラスラと問題の答えを書くわたしが困り果てているのを先生は困ったように笑って、「浅川さん。あんまり深く考え過ぎなくていいのよ。あなたが思ったなりたいものをまずは書いてみて」とアドバイスをくれた。
だけど先生の言うわたしが思った“なりたいもの”は結局思い浮かばず、その授業はそのまま終わりを迎えた。
わたしと同じように『将来の夢』を書けていない生徒が半数くらいいた(皆将来の夢を友達と語るのに必死で原稿用紙には手をつけていなかった為だと思われる)ので、書けなかった生徒は原稿用紙を埋めてくるのが宿題となった。
そしてわたしは宿題を家に持ち帰り、自室で『将来の夢』を考えてみる。
だけどやはり何も思い浮かばず、いつも困ったときは父か母に相談するよう言われていたのでそのとき家にいた母に相談した。
『お母さん。将来の夢を作文に書くように言われたんだけど、何も思い浮かばなくて。なんて書いたらいいのかな』
『あなたは父さんと母さんのように先生になるの。だから将来の夢は“学校の先生”って書きなさい』
当然の事のように、母は言った。
父の職業は教師だった。母も専業主婦になるために教師は辞職していたが、元は教師だった。
『また分からないことがあったら聞くのよ。お母さんが教えてあげるわ』
『はい』
わたしは母に言われた通り、『将来の夢』のタイトルに“学校の先生”と書いて本文を書き上げた。方針さえ決まってしまえばあとは簡単だ。だけどわたしはいつもその方針を決めることが苦手だった。
わたしは日々を、ただただ両親に従って、両親が指し示す道を歩いていた。
両親の言うことが絶対的に正しいことであり、わたしはそれに従うだけでいい。何も考えなくていい。両親の言うことに間違いなどないのだから。
だからきっと、自発的に何かを考えるという能力が育たなかったのだろう。父と母にとってわたしはさぞ育てやすい子供だったに違いない。けれど同級生にしてみれば自分の意思というものを持たないわたしは、やはりどこか異質な存在だったのだと思う。
そしてそれを敏感に感じ取っていた同級生は表面上はわたしと普通に話していても、決してわたしと仲良くなることはない。
深く近づいてはならない人間なのだと、きっとそう思っているのだろう。
そしてそれは事実だとわたしも思う。
わたしは皆に仲良くしてもらえるような人間ではない。
だってわたしは、決して周りの人々と同じように生きることが許されない人間なのだから。
受験勉強をしていると、目の前の席に見知らぬ青年が座った。
ちらりと視線を目の前に流す。いつもならその後すぐに勉強に戻っていた筈なのに、わたしは目の前の青年から目が離せなくなった。
だって、目の前の青年があまりに綺麗な顔をしていたから。
本を読んでいて伏せられた目のきわには長い睫毛が生え揃い、高い鼻に形のいい唇、シャープな輪郭。艶やかな黒髪にはくっきりと天使の輪が見える。
わたしにはあまり見ることを許されないテレビを母が見ていて、それをトイレの帰りに好奇心からこっそり覗き見たときに画面に映っていた、芸能人のような華やかな顔。
わたしの通う学校のどの学年でも見たことのない、いやそれどころか今までのわたしの人生の中で、かつて見たことのないほど綺麗な顔をしていた。
あまりに見ていたからだろうか。ふと顔を上げた青年とバッチリ目が合った。
まずい、と思ったときにはもう遅くて。
「俺の顔に何かついてる?」
柔らかな声で、だけど少し警戒したような様子で青年はそう言った。
わたしは「あまりに綺麗な顔だったので思わず見てしまいました」などと正直に言える筈もなく、咄嗟に言い訳を考える。
視線を彷徨わせると青年が読んでいる本が目に入り、その本がわたしが昨日図書館に返したばかりの本だったので良い言い訳を思いついて安堵しながら口を開いた。
「あ、あの。わたしもその本を先日読んだばかりだったので、驚いてつい見てしまいました。すみません…」
「ああ、そうだったんだ。俺も借りたかったんだけど先に借りられちゃってて。じゃあもしかして前に借りてたのって君?」
「おそらく…」
「そうだったんだ。面白いこともあるもんだね」
警戒を解いて青年は花が咲くように笑った。
その笑顔を見た瞬間、心臓の音が大きく聞こえた。今までにない不思議な感覚で戸惑ったけれど、この場を切り抜けることができた安心からすぐにそのことは忘れてしまう。
「それ」
「え?」
「それ、借りるの?」
青年の視線の先には借りる予定の本が置かれている。
「はい。その予定です」
「俺もそれ気になってたんだ。本の趣味似てるかもね。本好きなの?」
「好きか嫌いかで言えば、好きだと思います」
「それはつまり好きか嫌いかの二択以外の選択肢がある場合、好きには分類されないってこと?」
「…そうかもしれません」
「あはは。なんか君少し変わってるね」
失敗した。そう思った。
わたしはいわゆる普通とは離れたところにいる人間で、当てはまる言葉があるとするならば“ズレている”という言葉が一番近いだろう。以前同級生に問われた質問に似たようなものがあり、それに答えたときに同級生が微かに困惑していたのを感じたことがある。
そしてその“ズレ”を同級生が少しでも感じたからこそ、わたしはわたしと話した同級生に距離を置かれ、そんなことが幾度か繰り返されて周りから浮いてしまっているという現状がある。
ただ今までは距離を置かれる、という形でズレを認識されられてきたけれど、“変わっている”と直接伝えられてズレを認識するのは初めてだ。
慣れない距離感に戸惑いが生まれる。
「あなたがそう感じるのならば、実際わたしは変わっているんでしょうね」
「…君ってとっても素直だね」
「素直?」
「うん」
先ほどより柔らかく笑う青年からの意外な評価に驚く。素直なんて言われたのは初めてだ。
「そんなこと初めて言われました」
「そうなの?意外だなー」
館内が喋ることを推奨していない空間の為か控えめだけれど、でもおかしそうに笑う青年が凄く眩しく見えた。
どういう風に生きてきたら、こんな風に笑えるんだろう。
わたしには一生浮かべることができないであろうその笑みに、嫉妬にも似た感情を覚える。
「ねえ、君まだ勉強する予定?」
「え、はい…いつも勉強する為に図書館に来ているのでその予定ですけど」
「今日はその予定キャンセルできない?」
「え?」
「君と話してみたくて。本の趣味も合いそうだし。ここじゃお喋りできないだろ?」
顔を近づけてこそっと耳打ちするその動作が妙に艶めかしくて、あまりにわたしの日常からはかけ離れた出来事過ぎて、わたしは冷静な判断力を失っていたのだろう。
思わず「はい」と答えていた。
そしたら青年はまた夏の太陽みたいに眩しく笑うものだから、わたしは冷房が効いた図書館の中で、夏の日差しの暑さに脳が溶けたアイスのようになっていた。
◇◇◇
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
どうしてこうなったのだろう。
そう思いながらファミレスの角の席でドリンクバーのグラスを受け取る。安っぽいプラスチックのグラスにウーロン茶が並々と入っていた。でもそのうちの半分は氷でお茶の密度が少なく、ウーロン茶特有の濃い茶色が少し薄くなっている。
「本当にお茶でよかったの?」
「ジュースを飲むという文化がわたしの家庭にはありませんでしたので」
わたしの両親はわたしがジュースを飲むことを禁止している。例外は小学生のときに町で行われる祭りの準備をしていてジュースを振る舞われたときなど、家庭外でジュースを好意的に提供された場合のみだ。それらを除き、基本的には“体によくないから”という理由のもと飲むことは許されない。いつも家で飲むのは水かお茶だった。
ジュースを初めて飲んだときのことをよく覚えている。とても幸せな味がして、大事に大事に少しずつ口に含んだ。その味を忘れないように。少しでも舌に残るように。
ジュースを飲んでからはまた飲みたいなという気持ちをしばらく引き摺っていたけれど、水かお茶しか飲まない普段の生活に戻ればたちまちにその気持ちは忘れてしまった。
普段飲むことを許可されない甘い飲料に執着を覚えるということに、無意識に危機感を覚えたからなのかもしれない。
だってそれを渇望したとても、わたしの家庭では出されることはないのだから。
「面白い言い方するね。やっぱ変わってる」
おかしそうに笑う青年を見ていると、やはりわたしは“ズレた”人間なのだということを痛感する。
そんな風に思っていることが伝わってしまったのか、青年は少し申し訳なさそうな顔をした。
「ごめん。悪い意味で言ったんじゃないよ。ただ周りにそういう切り口の言い方する人がいなかったから、なんだか面白いなって思ったんだ。それに変わっているっていうのは悪い意味で言ったんじゃなくて、俺的には好意的側面が強い」
「…何故でしょうか?わたしのその“変わっている”ところは今まで好意的に受け入れられたことがないので、あなたが好意的に受け止める理由が分かりません」
「“普通”に所属する人間からすれば普通から外れた“おかしい“人間を仲間ではない部外者として認識して遠巻きにするのかもしれない。だから君は周りから今まで好意的に受け入れられていなかったんじゃない?でも“個”を没した普通ってのは酷くつまらないよ。俺は普通であることに魅力なんて感じないし。俺は君のその言葉の選び方に面白さを強く感じてる。つまるところ君の感性は俺にとっては魅力的なんだ。だから、かな」
「…ならばわたしを面白いと感じるあなたも、普通ではないのですね」
そう問いかけると青年はきょとんとした顔をした後、腹を抱えて笑い出した。
「あはは!その通りだよ。いいね、ほんと君って面白い!君、名前は」
「浅川菫と申します」
「俺は氷室陽翔。でも名前で呼ばれるの嫌いだから氷室って呼んで」
「わたしも名前で呼ばれるのは慣れないので浅川でお願いします」
「よろしく、浅川さん」
「よろしくお願いします、氷室さん」
何故か握手を交わすわたしたち。
わたしはその出会いを、偶然生まれたかすかな関係を、その日限りのものだと思っていた。だからせっかく名前を教えてもらったけれど、覚えている必要性を感じず頭の片隅に追いやろうとした。
なのにそれを惜しく感じる自分がいて、胸の深いところに彼の今後呼ぶことのない下の名前をしまい込んだ。
普段のわたしならそんなことはしなかっただろう。
きっと心のどこかで、わたしは気付いていたのかもしれない。
今後のわたしの人生を大きく変えることになる、運命的な出会いだったのだと。