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年寄りの時間

作者: 作 Sebastian Salami Rodoriguez 訳 庭野 緑

ショートショートへのノスタルジック

 夫は、ベッドの中から大きな伸びをして、体を起こした。

 大きな音を立てている目覚まし時計を止めると、隣の妻を揺する。

「もう少し」

 妻は、甘い声で、体を捩った。

「もう、時間だよ」

「えー、うそ」

 妻も、ゆっくりと体を起こした。

「なんだか最近、寝た気がしないんだよなぁ」

「暑くなってきたからね。夏バテじゃない?」

「いや、それにしたって、昨日は十一時には寝たんだし」

 夫は、ぐるぐると首を回した。

「いま、仕事、忙しいんでしょう?」

「ああ。だけど、ほとんど定時で終わる現場だしなぁ。なんか、重要なプロジェクトみたいだけど、俺みたいな末端のプログラマーには、全体がどうなってるかよくわかんないけど」

 妻は、寝巻き代わりのTシャツを脱ぎ捨てると、ブラジャーを着けた。

「なんか、だるさが抜けないよね。今晩は、何か精のつくもの用意するわ」

「うん、頼むよ」

 妻は、トイレにでも行きたくなったのか、下着のまま、ベッドを降りて部屋を出て行った。

 夫は、諦めたように、タンスから靴下を取り出して、ベッドに腰掛けて履き始めた。



 男は、閉じていた目をゆっくりと開いた。

 大きなリクライニングチェアの背もたれを起こした男の前には、たくさんのモニターが並んでおり、その画面の中にはいくつもの数字が並び、細かく数を変えていた。

 男は、机の上にあったスマートフォンを持ち上げると、画面に数回タッチして、表示されていた数字をプラス二としアプリケーションを閉じた。

 日の出と共に連動して動くスクリーンが上がり、部屋の中に太陽の光が差し込まれた。

 スクリーンが開ききると同時に、静かに電子音がなり、トレイにカップを載せた黒服を着た男が部屋に入ってきた。

「おはようございます、総帥」

 黒服は、鷹揚にうなづく男の前に、カップを置いた。

 黒服が一礼をして部屋を出て行くと入れ替わりに、今度は黒服を着た女が部屋に入ってきた。

「おはようございます、総帥。アゼルバイジャンのプロジェクトの進捗ですが」

 黒服は、男の前に立ち、ファイルを見ながら説明を始めた。

 説明に合わせて、男の前のモニターに、画像やグラフが目まぐるしく表示された。

 男は、黒服の説明を途中で遮り、指を二本立てて、黒服を追い立てるように、手を振った。

 黒服が頭を下げて部屋を出て行くと、黒服の男女が入れ替わりに入ってきて、最初の黒服の女と同じように、説明を始めた。その度に男は、指を一本、二本、三本と出しては、手で追い払っていった。

 百人の黒服の男女が出入りしたころ、また、静かな電子音が聞こえた。

 男が、スマートフォントを取り上げ、画面をタッチして、表示された数字をゼロに合わせたと同時に、トレイを持った黒服が入ってきた。

「お昼でございます、総帥」

 また、鷹揚に頷いた男の前に、ざるに盛られた黒々としたそばと、わさびが添えられたとろろが入ったそば猪口が並べられた。

 黒服が出て行くと男は、箸を取り、ゆっくりとわさびをとろろに溶かし込んでいった。

 わさびが溶けきった途端、ざるに盛られたそばに箸を刺しガバっと取ると、とろろをたっぷりつけて、一気にすすりこんだ。

 勢いの割りに、不思議とそばつゆは、飛び散らない。

 蕎麦湯でのばしたとろろをゆっくりと飲み干すと、男は、この日初めて立ち上がった。

 先ほどから、黒服が何度も出入りしていた自動扉を出て、廊下の向かいにあるトイレに入る。

 個室の扉を閉め、便器に座ると、ふーと大きく息を吐いた。

 今日初めて、男の口から出た、音、である。

 その後も、ううっ、ううっ、とうめき声を発し、下の方からも大きな音を続けて、男は恍惚の表情を見せた。

 すでに、七十歳をいくつか過ぎた男は、男性として機能はすでに役に立たなくなっている。その点から、毎日、昼に行う排泄行為による快感が、唯一、人間の性に従った喜びだと言える。その次に位置するのが、これも昼時に行う、とろろそばを食べること。

 それ以外の行為は、すべて無駄なこと、と思うようになって十年以上が経っている。



 男は、貧しいといわれる家の出自だった。

 それを跳ね返すように、一所懸命勉強をした。小学校、中学校と学校の授業だけでなく、図書館に通って、専門書の類もたくさん読んだ。おかげで成績は上々で、公立の小中学校を出たにも関わらず、その地域では有名な進学校である私立高校に特待生で入学できた。

 だからと言って男は、ガリ勉の内向的な男ではなかった。と言うのも、世の中をうまく立ち回るには、自分の知識力を高めるだけでなく、人間関係が大切なことを、多くの書物が主張していたからだ。

 しかし、高校生ともなると金のかかる遊びを始める同級生もいて、貧しい出自の身では、気軽に付き合うことは出来なかった。そこで、早朝に起きて新聞配達を始めることとした。

 夜は、級友たちと遅くまで遊び、二、三時間寝ると新聞配達をする。

 こんな暮らしを一年間続けるうちに、級友たちの、そのまた友人や、家族、特に兄弟たちと親しくなってきて、新聞配達よりも効率よく稼げる方法もわかってきた。

 そこで、新聞配達を辞め、半分犯罪の加担するような金儲けに手を染めていった。

 学内では、特待生の権利を維持できる最低限の成績を維持し、大学も同様の手段で、奨学金を貰いながら通い、更に交友関係を広めていった。

 高校、大学とこんな暮らしをしているうちに、一日が二十四時間しかないことに、違和感を感じていった。

 大学卒業後は、友人、知人の伝手を最大限に活用し、就職せずに、いわゆるブローカーとして、さらに富を築いていった。

 二十台、三十台のころは、それこそ、面白いように富が積み上がった。

 高級車を乗り回し、美女をはべらかせて、毎晩のように飲んで歩く。

 そんな暮らしを続け、四十歳が見えてきたときに、大きな転機が訪れた。

 世界恐慌が起きた。

 機敏にその兆候を察知した男は、自らの富の保全に走る。

 おかげで、積み上げた富のほとんどは維持できたが、ここで、一つのことに気づいた。

 世界中で大騒ぎになるほどの不況に見舞われても、お構いなしに、富を積み上げ続けているものたちのいることを。

 大きな世界的規模の企業が潰れ、戦争が起こり多くの命が奪われても、何事もないように富を積み上げながら、悠々と、この世の中を眺めているものたちがいることを。

 であるならば、自分もそのものたちと同じ立場に立たなければ、意味がない。

 そう思うと、男は学生時代の自分を思い出した。

 貧困から抜け出すため重ねてきたたくさんの努力。そして、一日がもっと長い時間であればと思ったことを。

 それを、幾許かの富が積み重なった段階で、無為に浪費してしまったこの二十年弱の時間の愚かさ。

 富は、いくらでも取り返せることを男は知っていた。

 しかし、時間は取り戻せない。

 僅かな間、男は、取り返せない時間を悔やんだが、すぐに、動き始めた。

 時間も取り返してやる。

 そのために、また、努力の時間が始まった。

 経済、政治、歴史などの分野だけでなく、数学、物理学、化学、医学、生物学などから哲学や宗教、倫理学まで、ありとあらゆる分野の勉強を始めた。

 ここで障害になったのは、その費用ではない。やはり、万人に等しく訪れる時間とその経過。

 気が付けば、もう五十歳が届こうかという年齢になっていた。

 まだ、積み上げた富は、人間一人が使い切るには十分な額が残っている。

 そして、この時、男は時間を取り戻せないものの、時間をコントロールできる術を作り上げることに成功した。

 これにより、男は、自分の感覚的な時間に合わせて、周りの時間をコントロールすることが出来る。

 となれば、男の感覚で他者を動かすことが可能となる。なにしろ、他者は男に動かされていることに気が付かずに、自らの感覚で動いていると感じてくれるのだから。

 これは、時間をコントロールするシステムを稼動していく上でも、大切なことだった。

 時間をコントロールするシステムは、その複雑かつ高度化されたシステムのため、さすがに超人的に活動できる男であっても、男個人で動かせるものではなかったのである。

 時間をコントロールするシステムは、簡単にいえば、男の活動した時間帯を昼間とし、男の休息のための時間を夜にする、つまり、地球の自転や公転を、男の感覚にあわせるシステムである。

 自然が相手であるために、微調整やメンテナンスを行いながら、システムは動いていく。

 そこに、男の時間の多くを費やすことになるなら、男の富を積み上げるために使う時間が減ってしまう。

 そのため、架空の事業が計画され、架空の企業がいくつも起こされ、架空の目的に向かって多くの人間が関わることとなった。

 また、男が、時間を取り戻すことでなく、コントロールする術で満足した一つには、加齢と共に来る睡眠時間の短さが影響していた。

 これまでも、男の睡眠時間は短いほうだったが、歳を重ねるごとにその時間が短くなっていることを自覚していた。起きている時間が長いほうがそれだけ富を積みあげることに使うことができると思っているからだけではないが、まだ、夜を明けきらぬうちに目が覚めてしまい、言いようのない孤独感に襲われることがあった。

 若いころには、早く起きてしまった日は、人よりも得をした気がしたものだが、今では孤独感に苛まれる。

 歳を重ね、積み上げた富が大きくなったことから、自らが体力を削って何かするということもなく、また、スポーツやレクリエーションの類は大方遣り尽し、無駄に体力を消費するならば、その時間を富を積み上げることに使いたい。

 そのために、睡眠が浅くなっていることもわかっていた。



 システムの運用が軌道に乗り、男が、本来の富を積み上げる行為に自分の時間の大部分を使えるようになったのは、今から十五年ほど前、五十五歳の時だった。

 実際に、短くなった夜と長くなった昼の時間には差があるため、システム起動前の時間換算で見れば、男の年齢は八十五歳を超えている。

 しかし、自分の感覚的時間、すなわち多くの世界で信じられている時間から計算すると七十二歳との計算となる。

 効率が悪いものたちは、その分長く働かせれば、一定の結果は付いてくる。昼を長くしているので、他者を使っても残業代を払うことなく働かせ続けることが出来た。

 それ以降、男は富を積み上げ続け、今では、富を積み上げる行為に他者の手を使うまでになり、世の中の動きに影響されないほどの、大きな富を積み上げることに成功していた。

 最近、この国では、精神疾患を患っているものが多いと言う。また、子の出生率も下がっている。

 これは、男の感覚時間が運用されたことによって、夜の時間が短くなったためかもしれないが、男にとってはどうでもいいことだった。



 男は、至福の時間をすごしたトイレを出ると、廊下を渡って、自分の部屋に戻った。

 すでに、机の上から食器は下げられている。

 席に着くと、スマートフォンを取り出し、画面をタッチして数字を表示した。この数字をプラスにすれば、実際の時間より時間経過は遅くなり、マイナスにすれば早くなる。

 自分にとって一番大事な時間である昼の食事の時間と排泄の時間は、自らの贅沢として、従来の時間で一時間を取っている。

 午後に入る前に、数値をプラスにする。後で、今度は夜のためにマイナスにしなければならない。

 と思ったとき、突然、手が震え、スマートフォンを落としてしまった。

 息が苦しい。

 目の前が暗くなる。

 あまりの苦しさに手を振り回して、椅子のリクライニング・レバーを叩いてしまった。

 勢いよく背もたれが倒れる。

 強く叩きつけられたように仰向けになった。

 男は、何年も、この椅子で寝ている。

 その姿勢のまま、青空に流れる雲を見ながら、意識が遠のいていった。



 電子音に続き、トレイを持った黒服が入ってくた。

「午後の執務に入ります」

 黒服は、男が椅子を倒して、眠っているのを見た。

 すぐに、扉を出る。

「どうした? 総帥のご準備は?」

「お眠りのようだ。そりゃ、あのご高齢なんだから、お昼寝くらいなさってもかまわないだろう」

「そうだな。もうしばらくしてから、また、ご様子を見に来よう。俺も、最近は寝不足でなあ」

「暑くなってきたからな。夏バテじゃないか?」



 夫は、ベッドの中から大きな伸びをして、体を起こした。

 大きな音を立てている目覚まし時計を止めると、隣の妻を見る。

 妻も、夫を見ていた。

「おはよう。早いね」

「ええ、なんか今日はすっきり目が覚めちゃったわ。歳かしら」

 妻は、ゆっくりと体を起こした。

「いやあ、今日はよく寝たな」

「昨日のアレが効いたんじゃない」

「そうかもな」

 夫は、妻のお尻を撫でた。

 笑いながら妻がベッドを降りた。

「もう、起きる時間だよ」

 妻が、寝巻き代わりのTシャツを脱ぎ捨てブラジャーを着けようとすると、夫が手を伸ばしてきて乳房を触る。

「もう、だめだってば。今日は、早く帰ってきて」

「ああ」

「今日も、アレを用意しておくわ」

 妻は、下着の上にシャツを羽織って部屋を出て行った。

 夫は、鼻歌を歌いながら、タンスから靴下を取り出して、ベッドに腰掛けて履き始めた。

まあまあ、な感じ笑

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