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美しい三日月が地上を仄かに照らす夜。俺達は今までに類を見ないほどに巨大な街の正門を潜り、その内部へと入った。
「ここがラムールですか……」
門に記されていた街の名――表記は都となっていたのだが――を感慨深げに呟きながら、エイリは入り口の広場を見渡した。
彼女の視線を目で追うと、様々な露店の光景が目に入る。肉の焼ける香ばしい匂いを醸し出している食べ物屋は長旅の疲れを取っているらしい旅人で席が埋まってしまっている。郷土品や装飾品を売っている店の前では、都の出立を控えているらしい人々が商品を物色していた。いずれの店も大いに賑わっており、広場全体が夜中にも関わらず陽気な音を奏で続けている。それはまさに、街ではなく都だけが持つ独特の空気だった。
そして、入り口に掛かっている橋の下を広がる河川が、彼らの織りなす光の粒を反射して神々しく煌めいている。
「知っているのか?」
「はい。昔、噂に聞いたことがあります」
俺の問いかけに、エイリはコクンと頷いた。
「美しい水の都……精霊の加護を受けた、清らかな水と文化に彩られた街だと、そう聞いていました」
「嬉しそうだな」
「え、あ、はい」
彼女は照れくさそうに俯きながら、
「実は少し、憧れてました……」
「良かったじゃないか、生きている間に訪れることが出来て」
「はい」
俺達は泊まる場所を探して、未だ活気に満ちた都の夜を歩き回る。
始めに入った宿の値段を目にして、俺は絶句した。今までに訪れた街の相場から考えて、数倍もの金額だったのだ。
(流石に、都の外れなら、此処より少しはマシな所はあるだろう……)
そう思いながら建物を出て、エイリを伴い都の外れへと赴く。途中、幾度となく俺達は河川の上を伝う橋を通った。数件を梯子した末、ようやく納得出来る場所が見つかった。その見窄らしい宿もまた、一般的な街の宿泊施設と比べれば割高だったが、既に真夜中と呼べるような時間帯に入っていたし、これ以上に安い所を見つけるのも困難だと思ったので、妥協する事にした。
「もう夜も遅いし、散策は明日の朝からにしようか」
部屋の端にに荷物を置きながら言うと、
「えっ、仕事はいいんですか?」
エイリの驚いたような声が背中側から聞こえてくる。
「明日一日くらいはいいさ」
「でも、薬草の調達とかもあるでしょうし」
「ここはエイリが訪れたかった場所なんだろう?」
俺は振り向いて、目を瞬かせている彼女を見つめながら、
「エイリにはこれまで、随分と苦労を掛けてしまったし……だから、今度の宿泊は、ゆっくりと都を見物して回ろう」
すると、エイリは両目を潤ませながら、
「……御主人様、ありがとうございます」
とか細い声で感謝を告げ、何度も何度も頭を下げた。水滴がポツポツと落ち、絨毯の敷かれていない木製の床を濡らしていく。
「本当に、本当にありがとうございます……」
「ど、どうしたんだ。いきなり」
俺が当惑しながら言葉を発すると、
「だって、御主人様がいなかったら、私……ずっと、こんな幸せ、見つけられなかったと思いますから……」
「エイリ……」
涙を手の甲で拭いながら、エイリは顔を上げる。泣いているにも関わらず、彼女は幸福そうな笑みを浮かべていた。
「私、今、本当に幸せです。全部、御主人様のお陰です」
すみません、せっかく頂いたお召し物を汚してしまって。そう言って、彼女は深く頭を下げた。
「そんな事を気にする必要は無いよ。それは俺が君にあげた服なんだから。それは君のものだ」
「はい、分かりました」
エイリは小さく頷いてから、
「あの、一つお願いを聞いて頂いてもよろしいですか?」
と、控えめな調子で訊ねてくる。
「構わないが、なんだ?」
「……胸を借りても、よろしいですか?」
「……ああ」
逡巡の後に承諾した途端、彼女はおずおずと近寄ってきて、俺の胸に顔を埋めた。途端、彼女のほっそりとした体躯の温もりが服越しに伝わり、梳かれていない黒髪から甘い芳香が鼻先に漂ってくる。
(本当に俺は、エイリを幸せに出来ているのか?)
震える彼女の背中に触れながら、俺は心中で呟いた。俺はただ、当然の事をしてきただけだ。助けを求めてきた少女の眼差しに応じ、彼女を醜悪な金持ちから救っただけだ。別に、そこまで人から賞賛されるような事をしたつもりは無い。
にも関わらず、エイリはこうして、自分を慕ってくれている。
その好意が嬉しくもあり、同時に重荷にもなっていた。
(今の俺には、エイリを幸福にする義務があるのかもしれない……)
少女の華奢な身体を優しく抱きしめながら、俺は改めて彼女に対する想いを固く心に誓ったのだった。
翌日。起床した俺達は、二階の自室から一階の食堂へと向かった。メニューはポテトサラダにスクランブルエッグ、それにバターを塗ったトースト一枚。実に庶民的な朝食だ。安い宿泊代というのもあるだろうが、これだけの食事を提供してもらえれば十分というものだろう。
食堂の中は適度に空席が散見されて、とても過ごしやすい雰囲気だった。
「御主人様、美味しいですね」
「ああ、美味い朝食だな」
トーストをかじりながら応答する俺に、エイリはニッコリと微笑んだ。朝からの彼女の振る舞いに、昨夜の余韻は全く見られない。いつもの淑やかな感じを取り戻していて、発言の一つ一つにも明るさが秘められている。
俺の目には何となく、彼女が上機嫌のように映った。
「今日は昨日の予定通りに過ごすんですか?」
「ああ、今日は材料の調達も仕事も全部休みだ。一日中、この都をゆっくりと観光することにしよう」
「私、すごく楽しみです」
ミルクのコップを両手で持っている黒髪の少女が、更に笑顔になる。
「そうだな、俺も今からワクワクしてるよ」
いつの間にか、俺の顔も綻んでいた。
「ご飯を食べて、少し休んでから出掛けるか」
「そうですね。そうしましょう」