最終話
晴吉は一人突っ立っていた。あれだけ手ひどく殴られた体は痛みひとつ感じられない。
「ここは」
見覚えのある建物が月明かりに照らされて佇んでいる。
「センセイの神社…なんで」
しかし、晴吉の知っている神社とは違っていた。どこもくたびれも、崩れかけてもいないのだ。まるで、ある時から時間が止まってしまったかのようだ。
「こんばんは、晴吉」
音もなく急に現れたセンセイ。あの日と同じ、黒い山高帽氏と黒く丈の長い外套に身を包んでいた。
「センセイ…」
続く言葉を紡ぐことが出来ない。
「一番悲しい事ってなんだと思いますか」
そういってセンセイは月を見上げた。
「えっと、それは…―」
――殴られ罵声を浴びせられること?
――明日食べるものがない事?
――好きな人がいなくなること?
答えはすぐには出てこない。
「わたしはね、自分の役割が果たせないこと。そう思っています」
センセイは帽子を目深に被り直す。
「遠い過去のことです。私は行く先々で死神や悪魔、悪鬼と恐れ忌み嫌われてきました。自らが運ぶ病で倒れ、力尽きる命を見送り、次の場所に流れていく。それが当たり前でした。けれど、この土地では、神様と慕ってくれた。ただ病を撒き散らし、死をもたらす私をですよ。それだけで良かったんです」。
センセイは自らの両手を見つめ、悲しそうに唇をかむ。
「なのに、またこうして病を広めてしまった。自分の役割をあの日決めたはずなのに…。それを果たすことのできない自分が憎い。そして堪らなく悲しい」
晴吉は悲痛にそうに己の体を抱くセンセイに何も言えずにいた。
「私こそが何も役に立たないデクノボーなのです…。晴吉、君には私のせいで迷惑をかけました。すみません」
「やめてください。センセイ!」
頭を下げようとするセンセイを押しとどめる。
「晴吉…」
晴吉はセンセイの目を真っ直ぐ見つめる。
「一番悲しい事は独りぼっちっていう事だと思うんです。センセイは村のみんなから目の敵にされてる。山の中でずっと独りぼっちもつらいけど、こっちの方がとっても悲しい事だよ。オイラ、ずっと前、やってもいないことをオイラのせいにされてさ。誰も味方してくれなくって、やってないっていっても信じてくれない。辛かったんだ。みんながいるのに、独りぼっちなんだ。心細くって辛くって胸がぐちゃぐちゃになっちゃうんだよ。だからオイラ――」
センセイは晴吉の言葉を抑えるように首を横に振る。
「私にそんな価値はありません。私が君に初めて会った時、実は」
「知ってるんです」
センセイは「えっ?」と目を丸くする。
「普通にオイラと話したかったらコソコソせずに正面から来るよね。けど、気配を殺して後ろからきてたから、あれっ?て思ってた」
「だったらなぜ?…君はこれからもこの村にいる。私のために立場を悪くするのですか」
「ううん。センセイはとっても優しいよ。今年の豊作はセンセイのおかげなんでしょう。近くの村はどこも凶作だから。おっ父や大人たちが作物を運んでる。病気が蔓延して、その上でご飯が無かったらとっくにみんな死んじゃってる。センセイは勝手なオイラ達をこら締めたかっただけなんだよね」
「そこまでわかっていたんですか…。君は本当に――」
センセイの言葉に大きくかぶりを振る。
「違うです。もしかしたら、オイラの勝手な思い込みで全部偶然でセンセイが本当にこの村に対して怒ってるんじゃないかって。センセイに直接聞けばいいのに、センセイがそんなことするはずがないって思ってたのにセンセイを心のどこかで疑ってる、怖がってるオイラがいたんです」
そんな自分が許せず握りこむ拳は震え、センセイの顔を見れず俯いてしまう。
「君に会えてよかった。君はまるで鳥が羽を休める止まり木のようにひたすら穏やかで優しい」
あったかで柔らかい手のひらが頭を撫でる。
「センセイ…」
堪えていた涙がこぼれていく。
「お別れです」
「まさか!?」
頭を過ぎるのは――
「安心してください。この地を離れるだけです」
「センセイ…。オイラも一緒に連れってってよ。独りぼっちは寂しいんだ」
今一度、晴吉の頭を撫でるセンセイ。
「デクノボーの旅に君のような少年を道連れにするわけにはいきません」
クルリと踵を返し、月明かりの中を歩き始める。
「センセイ、待って!待ってください」
追いかけようにも足が全く動かない。
「さようなら」
聞きたくなかったその言葉。
歩みはゆっくりだけど止まることはなく。
センセイは振り返ることもない。
涙で視界が溶けて何も見えなくなってしまった。
日もまだ昇りきらぬ夜明け。
村の入り口には黒い山高帽子と黒くて丈の長い外套に身を包んだ青年が一人。肩には中身の詰まった鞄をかけている。
まだ誰も起きだしていない静かな村とその奥にお山が望む。
「行くのかい」
「なんでここに?!」
杖を突いて現れた老婆に驚く青年。
「お前さんのそのハイカラな格好をしてるもんに、儂が生娘だったころ、お山の中で一度だけ見かけたことがあるわ」
「そっか…。自分で仕立てたんだ。おっ母に教わって」
着ているものを誇らしげに撫でる青年。
「同じ格好をしてるなら気付いてもらいやすいと思うからさ」
青年は帽子を被り直す。
「これやる。暇つぶしにもってこいじゃぞ」
「んっ?これは」
渡されたのは一冊の小振りな本だった。
「詰碁の本?」
中身を開いた青年は興味深げにしている。
「こんなも……この字はどこかで…」
「そりゃあ、門次郎の好きが高じて書いたものじゃ。あいつは儂のいい碁敵じゃった。将棋には手も触れんかったが」
「知ってたのか…」
困り気に頬を指で撫でる青年。
「お前が見かけによらず嘘つきってことわな」
「ひひひ」と短く笑う老婆。
「それと昔取った杵柄ってやつもあったしのう」
「なん―あいたっ」
問いかけようとした青年の向う脛を杖で叩いた。
「男の旅立ちを、これ以上引き留めさすんじゃないわ」
敵わないやと言った風にかぶりを振りながら息を吐き出す青年。
「長生きしなよ」
「あと二十年は生きる予定だわさ」
自信満々の老婆に青年は苦笑する。
「本当に生きそうだから怖いな」
「デクノボーが言うようになりおって」
老婆は楽しそうだ。
お山をもう一度見つめる。涙を拭い歩き出す。
その背中を一陣の風が押す。
歩みだした彼が振り返ることはなった。




