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弱い紐帯の強さ・例えば低アクセス数作家の書く意義について

 ある日、ネットサーフィンをしていて、こんな感じのタイトルの記事を偶然に僕は見つけました。

 『ラノベ作家の文章力! なんだ、この酷い文は?』

 そこに具体的に引用されてあったその内容は、確かに僕の目にも酷い文章のように思えました。そしてそれは、ネットでかなりの高アクセス数を叩き出している小説で、つまりは一般のネットユーザーから高評価を受けている作品だったのです。正直、その高評価の理由が分かりませんでした。

 実を言うのなら、それまで僕には何度か似たような事を思った経験がありました。「どうして、こんな文体で書かれた作品が高評価を得ているのだろう?」と思わず首を捻ってしまうというような。

 いえ、すいません。ネット小説以外を読んで成長した人間にとっては、驚くような文体で書かれたネットの高評価作品は少なくないのですよ。

 僕は思わずその記事に共感をしてしまった訳ですが、しかし、それから冷静になると、こう考え直しました。

 (それは或いは、その記事の書きっぷりの高慢さに腹が立ってしまったからなのかもしれません)

 “いや、僕は酷い文体だと思った時点で、それを読むのを止めてしまっている。つまり、その文体に馴染んではいない。文化差によって稚拙に感じてしまっているだけで、本当はこれはこれで一つの確立した文体なのかもしれない”

 有名な文学者の文体でも、一見は取っ付き難くても、読み続けるとその良さが分かるものがあります。例えば、柳田國男が遠野物語で使っている文体や中島敦の文体など。

 (こんな事を書くと、“同列に並べるな!”と怒る人もいそうですが、そこは権威主義を忘れて、文化相対主義でお願いします)

 恐らくは主に2チャンネルで発達しただろう、ネットで用いられている独特の文体。それは一部ネット小説にも引き継がれ、独自の進化を遂げていると考えるべきでしょう。2チャンネルから派生した文体に慣れ親しんだ世代にとっては、だから僕が『酷い文だ』と思ってしまうそんな文体の小説でも、自然と受け入れられ、そしてその良さが評価できると考えても不思議はありません。

 ならば、ネットでのその高評価にも納得がいくはず……

 さて。

 知った風な感じで、てきとーに説明をつけてみましたが、果たしてこの僕がした説明、妥当だと言えるでしょうか?

 答えを言っちゃうのなら、「分からない」というのが正解になります。だって、これ、検証しようもありませんからね。正しいのかどうか確かめる術がない。“説明できること”と“正しいかどうか”はまた別の話です。反証不可能性があるので、科学哲学の“反証主義”を持ち出すのであれば、この僕の説明は非科学的という事になりますね。

 実はこんな感じの“説明”の類が、世間には溢れています。「あの作品がヒットした理由はこうだ」、「いや違う、ああだ」などといった、本当かどうかは分からないもっともらしい説明群。

 例えば、絵画“モナ・リザ”。

 『世界で最も有名な絵画』と言われるこの絵。果たして、本当にそうなる必然性がこの絵自体にあったのでしょうか?

 先の僕の説明と似たようなもっともらしい説明を数多くの美術評論家などが書いていますが、実はモナ・リザは、盗難事件によって注目される前までは、数ある名画の内の一つに過ぎませんでした。数世紀もの間、放置されていた期間すらもあったのです。

 この事実。もし、モナ・リザ自体に『世界で最も有名な絵画』になる価値があると仮定するのなら、おかしいような気がしてきませんか?

 

 (間)

 

 レオナルド・ダヴィンチがフィレンツェの若き婦人リザ・ゲラルディーニ・デル・ジェコンドの肖像画として描いた“モナ・リザ”。この絵は、元の発注主である裕福な絹商人の手には渡らず、当時ダヴィンチが住んでいたフランスの国王によって買い上げられた。早い話が、フランスにあったのだ。しかし、絵を受け取るはずだった発注主の商人はイタリアに住んでおり、レオナルド・ダヴィンチ自身もイタリア人だ。“本来ならばイタリアにあるべき絵画”。そう考える人間が現れても不思議ではない。

 時は流れて、一九一一年。ヴィンチェンツォ・ペルッジャというイタリア人は、そのように考え、そして実際に彼はルーブル美術館に飾ってあった“モナ・リザ”を祖国に持ち帰る為に盗んでしまった。ところがそれをイタリアのフィレンツェにある美術館に売り払おうとして逮捕されてしまう。

 彼の目論見は失敗に終わったのだがしかし、この盗難事件はフランスでも、そしてイタリアでも注目を集めた。イタリアはペルッジャを愛国心のある英雄として扱い、結果としてフランスに返還される前に、“モナ・リザ”はイタリア各地で公開され、一躍有名になった。

 恐らくは、その影響で、“モナ・リザ”はその後も様々な事件に巻き込まれたり、或いは数多の芸術家達からモチーフとされる事で、注目を集め続けた。結果として、モナ・リザの名声は更に高まっていき、遂には『世界で最も有名な絵画』と呼ばれるまでになってしまったのだ。

 

 (間)

 

 有名かつ顕著な例という事で、“モナ・リザ”を取り上げましたが、もちろん、似たような事例は数多くあります。生前はまったく評価されず、死後になって評価された芸術家は“宮沢賢治”、“フランツ・カフカ”、“フィンセント・ファン・ゴッホ”など数多くいますし、その逆にどうして大ヒットしたのか、分からないと言わざるを得ない作品・商品もよく目にします。フラフープとか、ダッコちゃんとかのブーム。もちろん、どうして人気が出ないのか分からない素晴らしい作品・商品もありますしね。

 (因みに、世界で最も有名な日本の画家と言えば“葛飾北斎”でしょうが、僕は“伊藤若冲”の方が好きです。鶏、サイコー! まぁ、どうでもいい話かもしれませんが)

 実は僕自身にもこれと似たような経験があります。

 僕はネット上に小説を多数投稿しているのですが、『盲目の女と醜い男』という小説は、何故か評価点が千を超えました。それまでは、最高でも百点を超えるくらいだったので、これは凄い差です。

 恐らくは、『盲目の女と醜い男』という刺激的なタイトルと、暗く甘いハッピーエンドな内容が注目を集める要因となったのでないかと思うのですが、他の作品とのクオリティ差が、そこまであるとは僕にはどうしても思えないのです。

 (評価点とアクセス数が急激に増えていった時は、軽く恐怖を覚えました。「人気が出て怖くなって削除した」と書いていた人がいたのですが、その気持ちが分かってしまった。確かに不安になります)

 音楽バンドの“バンプ・オブ・チキン”が珍しくテレビに出ていた時に、「“天体観測”が、どうしてあそこまでヒットしたのかが分からない。他にも同じくらい良いのはたくさんあるのに」と言うような事を言っていましたが、やはり似たような感想を他の人も抱くものらしいです。質と人気の関係が、腑に落ちないというか何というか。

 (ある社会学の実験で、音楽について質とランキングとの関係を調べてみたものがあるのですが、漠然とした傾向はあるものの、そこに明確な関係はなかったそうです。似た環境で実験を行い、あるコミュニティでは一位になったものが、他のコミュニティでは二六位だったとか)

 さて。

 この劇的とすら言える差は、一体、どうして発生するのでしょうか? クオリティの差はそれほどないのに(そもそも、まったく同じ作品の場合もあるのですが)、人気には天文学的と呼べるほどの差がついてしまう場合もある。

 実はこの様な劇的な差は、芸術作品や商品の人気にばかり現れるものではありません。例えば、大きな暴動。

 同じように少人数の人が暴れ始めても、それが切っ掛けとなって、大きな暴動にまで発展するケースもあれば、逆にニュースにもならない極小規模な事件で終わるケースもあるのです。また感染症の流行も、小規模で終わるケースもあれば社会中に蔓延してしまう事もある。作品・商品の人気の関係とよく似ていますね。とても不思議だとは思いませんか? この相似が単なる偶然だとはとても思えないような気がします。

 

 (間)

 

 人口集中によって生まれる都市。

 通貨などの資産が集中する事で誕生する資産家。

 核反応。

 発火現象。

 星の誕生。

 大企業の誕生。

 並べられたこれらの事象は、一見は何の関わりもないように思える。ところが、これらの事象には、ある共通の仕組みが隠れている。それは、

 『正のフィードバック』

 と呼ばれる作用が、その発生に関係する点。

 ある場所に人間が集まる。すると、人間が集まった事で便利になり、ますます人間を集める力が強くなる。これを繰り返す事で、等比級数的に人の数と人を集める力が増えていく事になる。

 もちろん、“人間の数と人を集める力が増えた場所”こそが都市になるのだが、このようにある結果(出力)が原因(入力)を更に強くする作用を『正のフィードバック』という。人が集まる事(結果)が、人を集める力(原因)を強くしているのだ。

 (結果が原因を調整するように働く作用は、“負のフィードバック”と呼ばれる。この二つの作用は事象を理解する際に非常に重要なので、覚えておくと良いだろう)

 そして、この『正のフィードバック』は、流行現象にも観られるのである。

 注目が集まった事で話題になれば、それで益々注目が集まるようになる。注目を抑える力が充分に強くなければ、その作用が繰り返されて、やがては爆発的な大ヒットに至るのである。つまり、『正のフィードバック』を用いれば、大ヒットするモノとそうでないモノにどうして激しい差が生まれるのかを説明できるのだ。もちろん、これだけで全てを説明し切れる訳でもないのだが。

 

 (間)

 

 はい。

 確実に大ヒットにはこの『正のフィードバック』が関わっています。注目が注目を呼ぶことで、人気(アクセス数)が集中をする。早い話が、この『正のフィードバック』が起こるか起こらないかが、その人気の差を生むと言えるのですね。

 しかし、ではこの『正のフィードバック』はどういう仕組みで起こるのでしょうか?

 仮に、何かの小説を読んで、「面白い」と主張した人がいたとしましょう。そして、その人の周囲には、偶然にも簡単に同調し易い人が集まっていたとします。それで、その小説を読むのです。そして同じ様に「面白い」と主張したとします。すると、当然の事ながら、「面白い」と主張する人の数は前よりも増えます。

 ここで、ある想定とういうか、人間の性質を強調しておきますが、人間は周囲に流される生き物です。百人が同じ事を言っているのなら、それに従いたがる性質を持っている。集団で生きる生物が持つ、否定できない特性でしょう。もちろん、個々人でその性質の強さには差がある訳ですが。

 多くの人が「面白い」と言っているのであれば、比較的同調し難い性質を持っている人でも、だからそれに同調して「面白い」と言うようになり易くなります(もちろん、斜に構えて天邪鬼に、「関係ねーや」って言うような態度の人もいるでしょうが)。

 もう分かるかもしれませんが、このような繰り返しこそが『正のフィードバック』で、これが起これば大ヒットに繋がっていきます。これを仮に「発火現象」と呼ぶ事にしましょうか。

 さて、今度は少し意地悪をして、このストーリーに少しばかり手を加えてみます。仮に最初に「面白い」と主張をした人の周囲に、同調し易い性質を持った人がほとんどいなかったとしてみるのです。

 複数人が「面白い」と言っていたのであれば別ですが、たった一人が言ったくらいでは同調行動は起こさない。そんな人が多くいるとしてみるのですね。

 すると、この小説は、ほとんど話題にもならずに埋没していく事になります。偶々、最初に「面白い」と言う人がいたかいないか、そして周囲に同調し易い人がいたかいないかの極わずかな差ですが、それが発火現象を引き起こし大ヒットするか、埋没していくかの大きな差を生むのです。

 仮に歴史を繰り返せるとして、大ヒットした作品をもう一度、別のタイミングで世に出したとしてみましょう。その時、目に触れた人達とその周囲に、同調行動を執る人が少なかったのならば、ほとんど話題にも上らず、その作品は埋没していく事になります(もちろん、これは仮説ですが)。

 実は暴動にも似たようなメカニズムがあるだろうという仮説があって、小さな暴動事件は数多く起こっているらしいのです。その中の一つが、極まれに多くの人を巻き込む同調行動、つまりは発火現象に結びつき、大規模な暴動にまで発展してしまうのだとか。

 この話を作品に当て嵌めるのなら、仮に同程度の質を持っていても、発火現象が起こらない、大ヒットまでには至らない作品の方が圧倒的に多いという予想ができます。

 

 (間)

 

 人気動画サイト“ニコニコ動画”には、“過剰埋没動画”というタグがある。クオリティは高いのに何故か注目を集めない作品に付けられる傾向にあるタグで、検索してみるとかなりの数ヒットする。そして、視聴してみると「なるほど、確かに素晴らしい」と言えるものが多い。もちろん、タグすら付けられていない良作だって数多くあるはずだ(むしろ、その方が多い)。世間で目にする名作の背後には、隠れた名作が膨大に存在するのだとよく分かる。

 だから、仮にあなたの作った作品の質が非常に素晴らしいにも拘らずアクセス数が少なくても、それに憤ってはいけない。恐らく、ほとんどの人の作品はあなたの作品と同じで、高く評価されてはいないからだ。名作と言われ世間の耳目を集める作品の多くには、幸運が深く関わっているのだ。そして、当然の事ながら、その幸運を手にできる人の数は非常に少ない。

 注目を集める為には、質が高いだけでは不充分。効果的な宣伝活動でも確実性はない。そこに、『偶然に同調行動を引き起こし易いタイミングで、世間にそれを発表した』という幸運が結びつかなければ、高アクセス数は期待できないということだ。

 埋没をしていく良作の数は非常に多く、注目をされる良作は非常に少ないのが普通。

 因みに、そのような数字の配分は、実はつぶさに探せば世界に多く観られる(『ハインリッヒの法則』など)ので、もしかしたら、その背後に何かしら共通の抽象的な法則性のようなものがあるのかもしれない。

 

 (間)

 

 インターネットを通して、社会に対して強い影響力を持つ人を『インフルエンサー』と呼びます(インフルエンザじゃないですよぉ)。

 非常に高いアクセス数を得て、ある種のカリスマ性を獲得しているWeb作家はこの『インフルエンサー』になっていると言って良いでしょう。

 もちろん、だから、高アクセス数作家が何かしら社会に良い影響を与える作品を書けば、社会は良くなります。反対に悪影響を与える作品を書けば、社会は悪くなる。社会通念上、強い力を持った人には、それに見合った責任があると考えるのが普通ですから、本来ならば、そのWeb作家達は「社会に良い影響を与える作品を書くように努力するべき」となります(ま、社会的影響力のある人なら、Web作家達に限りませんがね)。

 先にも述べた通り、『インフルエンサー』になれた事には、幸運が関わっている点を考えるのなら、これは尚更そうでしょう。僕は義務であるとすら思います。

 ですが、正直、ざっと見た限りでは、高アクセスWeb作家達の中で、そんな努力をしている人は少ないように、僕の目には見えます(もし、たくさんいたら、ごめんなさい)。もちろん、難しいテーマを扱ったり、深い知識や思考能力が必要な内容は誰にでも書けるものではありませんから、限界があるのは分かりますが、中には重要かつ単純なテーマもあるのです。

 例えば、“献血”とか。

 献血の減少は深刻で、現在、徐々に危機的状況下に追い込まれつつあります。高齢社会の影響もありますが、若い世代の献血離れが酷く、このままでは輸血用の血液が足りなくなる事態すら引き起こしかねないと言われています。

 だから献血協力の呼びかけをテーマにした作品を、既に『インフルエンサー』となっているアクセス数ランキング、上位百名くらいのWeb作家達が書いてくれれば、大きな社会貢献になるはずです。

 仮にそれで献血が復活して、充分な量の輸血用の血液が確保できれば、当然、それは医療コストの低減になります。そうなれば、医療費が安くなるので、Web作家本人達にもメリットがある。もちろん、そういった重要な役割をWeb作家達が果たせば、Web作家達はもちろん、その投稿サイトの社会的地位の向上にも結び付くでしょう。やる価値は充分にあると思います。

 ……やってくれないかなぁ。

 皆さん、無関心そうなので、自然発生はしそうにないですが、投稿サイトが主催すれば、ある程度の成功を収める可能性は高いでしょうし。

 ……実はつい最近、献血問題をテーマにした小説を投稿したのですが、びっくりするくらい低アクセスだったので、思わずこんな事を書いてみちゃったのですが。僕みたいな低アクセス数作家では、力不足過ぎて笑っちゃう感じなのですよ。だから、「“力”を持っている人達が、それに相応しい責任を果たしてくれれば!」と願わずにはいられないのです。

 と、少しばっかりいじけて他力本願な事を書きましたが、では高アクセスWeb作家じゃなければ、書く意義が何もないのかと言えばそれも違います。低アクセス数Web作家達にも充分に作品を書いてそしてそれらを発表する意義があります。何故なら、

 “ほんの少しのわずかな差”

 先に発火現象の説明で、それが大きな差に結びつく場合もあると書きましたが、実は他でもそんなケースはあるからです。

 低アクセス数Web作家が書くか書かないか、そのわずかな情報の差が、大きな影響を与える、いや、既に与えている可能性もあるのですね。

 ………まずは、僕自身の体験談を語りたいと思います。

 

 (間)

 

 手に職を持とうと思い、プログラミングのスキルを身に付け、プログラマとなった僕は、しばらくは様々な職場を転々とした。人手が足りなくなった開発の現場に派遣されて、そこで半年から二年半くらい働いては、次の職場に移るという事を繰り返していたのだ(因みに、一応、派遣社員ではありません)。

 行った先々の職場で、僕は様々な知識や技術を身に付けていった。当然、それは後々役に立つ場面も多々あり、教えてくれた人達には大いに感謝しているのだけど、そんな中には「少しだけ知っている」程度の知識もあったりする。

 普通に考えれば、その程度の知識では役に立たないと思うだろう。ところが、これがかなり役に立つ場合も多いのだ。

 データベースから情報を取得する為の特別な機能。そのうちの一つ、オラクル(データベースの名前です)に備わっているとても便利な機能に、『ツリー構造の検索機能』がある。ツリー構造というのは、ここでは、一つのテーブル(情報を格納する為の棚みたいなもんです)に親子関係が存在する構造をいう。これを高速で検索するのは、実は非常に難しいので、このオラクルの『ツリー構造の検索機能』は非常に重宝する。

 僕はある職場でこれを知ったのだけど、自分で使った訳ではなく、他の人が使っているのを見ていただけだった。ところが、ある別の職場でこの機能がどうしても必要になってしまったのだ。周囲にはこの存在を知っている人はいなくて、「どうするんだ?」という声が上がっていた。もちろん、僕はそこで「オラクルにはこんな機能がありますよ」と、教えてその問題を解決し、自身の評価を上げたのだった。今の時代、少しインターネットで検索して調べれば、その使い方や実装方法も出て来るから、ほとんど困らずに実装もできた。

 因みに、この機能の名前は『階層副問い合わせ』という。もしあなたがプログラマか何かで、この機能が必要になったのなら、このキーワードで検索してみれば、簡単に見つかるから覚えておくといいだろう。

 

 (間)

 

 「丸暗記型の知識は、持っていてもそれほど自慢にはならない」

 なんて事を、随分と前にある理系学問の先生が言っていたのですが、最低限のキーワードさえ覚えていれば簡単に詳しい内容を調べられるインターネット時代を迎えた今日は、よりその傾向が強くなったと言えるでしょう。

 実際、僕はほんの少し知っていただけで、『階層副問い合わせ』を活かす事ができました。

 これはほんの一例に過ぎません。

 他にも「バーコード生成機能は、実はフォントとして無料で提供されていて、ダウンロードすれば誰でも使える」なんて知識も役に立ちました。これも他の人がやっているのを見ていただけなのですが、活かす事ができたのです。

 (因みに、これは半角文字を打ち込むと、それがバーコードとして表示されるというものです。これを使えば、バーコードバトラーで勝ちまくりですよ! ウヒョー! 僕はやった事はありませんがね)

 これはそれら知識に、僕が“弱いリンクを持っていた”と表現する事が可能でしょう。ならば、この僕の体験は『弱い紐帯の強さ』と呼ばれるものと同一だと見なせるのかもしれません。

 ここに至ってようやく、この文書のタイトルにもなっている『弱い紐帯の強さ』が出て来ましたね。ああ、長かった(笑)。

 『弱い紐帯の強さ』とは、社会学者の“マーク・S・グラノヴェター”の仮説で、「情報の伝播には、弱い繋がりが重要な役割を果たしている」というものです。

 例えば、どんな人からの紹介で職を得たかを質問すると、“親密な人間ではなく、ちょっとした軽い知人程度からの場合が多かった”なんて結果が得られたケースがあります。この“ちょっとした知人”が、弱い紐帯って事ですね。

 親密な人間は、既に情報を共有している場合が多く、情報源としてはあまり有効ではない。しかし、ちょっとした知人の場合は未知の情報を持っている可能性が高く、結果として新しい有効な情報を得られ易い。といったような説明がされています。

 そしてこの『弱い紐帯の強さ』は、他にも様々なネットワークで観られ、そして重要な役割を果たしているのではないかとも言われているのです。例えば、“生態系の安定性”にも関与しているという仮説があります。

 仮にライオンがシマウマを多く食べていて、ヌーはあまり食べていなかったとしましょう(飽くまで、“仮に”ですよ。実際は、どうだか知りません)。

 ここでシマウマの数が急激に減少したとします。当然、ライオンはピンチに陥るはずですが、今まであまり食べていなかった(つまり、弱い紐帯しかなかった)ヌーを多く食べ始めたなら、そのピンチを回避できます。ヌーが安全弁として働くのですね。

 生態系のネットワーク上で、もしライオンが重要な役割を果たしていたなら、このヌーとの弱い結びつき(つまり、弱い紐帯)のお蔭で、生態系は安定している事になります。

 他にも『弱い紐帯の強さ』が重要な役割を果たしているのではないかと思える現象はあります。

 例えば、労働者団体達のデモ運動。

 これが大きな盛り上がりを見せるかどうかにも、『弱い紐帯の強さ』が関係している可能性があるらしいのです。各労働団体が完全に分断されてしまっているか、それともちょっとした知り合い程度の弱い繋がりで結びついているか。この差が大きな差となって、デモ運動が自然消滅するか、大きな盛り上がりになるかを分けてしまう可能性があるのですね。

 こういった事実を考慮するのなら、『弱い紐帯』が他にも役に立っている可能性は、大いに考えられると判断すべきです。

 ここで低アクセス数の小説を思い浮かべてください。仮にそれが低アクセス数であっても、つまり『弱い紐帯』でしか社会と結びついていなくても、今までの述べて来た事実を鑑みるのなら、それが何かしらの有効な影響を与えている可能性は捨て切れないのです(もっとも、その確実性がある訳でもないのですが)。

 あなたの書いた小説が、社会であまりメジャーではない知識や考え方や観点… つまり“情報”を扱っていたのなら、それを読んだ人には、それら“情報”への弱い紐帯が生まれている事になります(場合によっては、強い紐帯かもしれませんが)。

 そして、その人が何かしら重要な人物であったとしたなら、それで社会に大きな影響を与えている事になる…… いえ、重要人物である必要はないかもしれません。あなたの書いた小説へのアクセス数が増えなくても、間接的にそれに触れ、それを切っ掛けとして、多数の人々の中で新たな“情報”への関心が生まれ、理解を助け、目立ちはしなくても大きな力になっている。そんな可能性だってあります。

 何故なら、『スモールワールド・ネットワーク』の特性(または、それに近似した特性)を人間社会は持っているとも言われているからです。『スモールワールド・ネットワーク』とは、少ない次数で全体が結ばれているネットワークの事で、この性質を持つネットワークは、何処にいようと全体と緊密に結びついています。

 例えば、あなたの知り合いの知り合いの知り合い…… と辿っていけば、わずか数回でアメリカ大統領にまだ至ってしまう(この話は“六次の隔たり”で検索すると、詳しい説明が出て来るので、興味のある人は読んでみてください)。

 つまり、少ないアクセス数でも、『スモールワールド・ネットワーク』の特性によって、その情報を社会全体の人間達に近い位置に放り込めるのですね。ほんの少しの切っ掛けで、皆はそれを得られる。

 “情報”を提供するテキスト。

 そういう観点から小説の価値を考察するのであれば、仮に1億回のアクセスを達成していようが、その小説が何も新たな情報を社会に対して与えていないのであれば、全く意味はありません。影響力は極めて小さい。その小説が面白くて、一時的な高揚を与えていたとしても、そんなものは直ぐに消えてなくなりますからね。

 反対に、仮にその小説が100回のアクセスだけだったとしても、その内容が意味のある知識や考え方や観点を扱っていたなら、充分に価値があります。それが、あまりメジャーではないが重要な情報であるのなら、情報ゼロで1億回のアクセスを達成している小説よりも、影響力は上です。

 もしかしたら、「小説は、そんなものじゃない」と考えている人もいるかもしれません。「面白ければ、それで良いのだ」と。もし、そのように思っているのなら、少しだけ“小説”という言葉の意味について考えてみてください。

 “小説”とは、“小さな説”書きます。“説”です。実は小説とは、本来は、知識や考え方や観点などのメッセージ性を込めた物語の事だったのです。いつの間にか、単なる物語と区別なく使われるようになりましたが、そのメッセージ性を重要視する発想は今でも根強く残っています。

 Web小説の多くに、このかつての定義を当て嵌めたなら、“小説”を名乗れなくなるものも少なくないかもしれません。

 

 (間)

 

 僕は時々、知識や考え方や観点を分かり易く伝える為の小説を書く。小説には数々の要素があり、単純には捉えられないが、その数々の要素のうち、確実に価値があると言えるものが、“知識や考え方や観点”を伝える機能だと僕は信じているからだ。

 だけど、そうやって書いた小説の多くは、低評価かつ少ないアクセス数で終わるのが常だ。

 苦労して知識を身に付け、それを筋道のある主張としてまとめ、更にできるだけ平易な表現や描き方で綴る。

 正直に言うのなら、これはそれなりに労力がかかる作業だ。その結果がこれ。もちろん、書く事自体が楽しくもあるから、書く理由はある訳だけど、それでも虚しくなる事もある。

 「もう少しくらい、皆、関心を持ってくれても良いのにな……」

 そういう小説には、社会問題をテーマにしたものも多いから、僕は思わず、そんなぼやきをしてしまう。その時僕が投稿した小説が、やはり低評価で終わりそうだったからだ。アクセス数も少ない。もちろん、これから評価がつく可能性もあるけど、経験上、それがかなり低い確率である事を、僕は知っていた。初めの数日で、評価がつかなければ、後は滅多に評価が入る事はないのだ。

 少し悲しく憂鬱になりながら、僕は何気なくそれまでに書いて来た、そういうタイプの小説のうちの一つのアクセス数を確かめてみた。評価点はまったく増えていなかったから、どうせほとんどアクセス数は増えていないだろうとそう思って。

 ところが。

 アクセス数を確認してみて、僕は驚いてしまった。わずかなアクセス数ではあったけど、ほぼ毎日、アクセスがあったのだ。つまり、何処かでその存在を知った人達が、それら小説を読んでいる事になる。人間社会のネットワークを、僕の小説は渡っていたのだ!

 そこで僕は思わず嬉しくて泣きそうになってしまった。

 もちろん、それでも低アクセスだ。だけど、僕は苦労が報われた気になった。他の同タイプの小説も確認してみた。すると、全てではなかったけど、毎日のように、アクセスがあるものがいくつかあった。

 僕は目を輝かせて、軽くガッツポーズを取る。

 “よし。また、書こう”

 それで僕は、心の中でそう呟いた。この少ないアクセス数の小説が、社会にどれだけの影響を与えられるのかは分からない。しかし、それでも良い影響を与える可能性がある以上、僕はこういったタイプの小説を書き続ける。自己顕示欲を満足させる目的で、小説を書いている人達には、信じられないかもしれないけど、僕は少ないアクセス数、低評価で終わると分かっている小説を、これからも書き続けるんだ。

 

 (間)

 

 はい。

 この話は大体は、僕自身の実話です。

 “分数の割り算を教えてみる話”とか、“ボケとツッコミの社会問題会議”シリーズの一部とか、“経済小説”の一部とか、わずかながらアクセスが持続しているものがあるのを、ある日、僕は見つけたんです。

 はっきり言って嬉しかったですね。

 “分数の割り算を教えてみる話”は、そのまま分数の割り算について説明した小説なんですが、“分数の割り算”って、数学を理解する上で実は重要なんです。そして、その理解したそれを、読んだ人が更に他の人に伝えているだろう可能性を考えるのなら、それが社会全体の学力向上に結びついているかもしれない。なんて事も思ったり。

 ……ま、これは言い過ぎかもしれませんが、少なくともプラスの効果を与えてはいると思うのですよ。

 因みに、グーグルで“分数の割り算”を検索してみたら、1ページ目に僕の小説が出て来ました(2014年3月現在)。アクセスが持続している原因はこれかもしれません。

 ……ああ、本当に書いて良かった。

 余談ですが、僕の書いた知識を伝えるタイプの文章の中で、もっともアクセス数を獲得しているのは、今のところ“原発のメリットデメリット”ではないかと思われます(それでも、上位の人には、三時間もあれば簡単に抜かれる程度のアクセス数ですが)。

 “原発のメリットデメリット”では、労働力不足(と資源不足)に注目して、原発のコストが将来的には更に高くなり、反対に維持費がかからない再生可能エネルギーは、物価が安価な内に設備投資しておけば、実質的にコストが下がり、利益率が上がる点を指摘してあります。この“情報”は、まだまだ世間でメジャーではないので、価値のある仕事をしたと自画自賛していたりもするのですが。

 一応更に付け加えておきますが、『太陽電池のコスト計算』には、実は土地代が含まれている場合が非常に多いです。その為、とんでもなく高いように思えますが、家屋や貯水池などを利用している場合は、コストが激減しますので、その点はよく理解してください。

 

 さて。

 もう一度書きます。低アクセス数Web小説でも、その『弱い紐帯の強さ』の効果を信じるのなら、充分に書く意義があります。もちろん、それがメジャーになっていない、価値のある情報を扱っている場合ですがね。

 もしも、あなたが低アクセス数のWeb作家であっても、だから、がんばって書き続けてください。

 それが社会に何かしら、有効に働いているのかもしれない。その可能性は、充分にあるのです。

と書いた、この文章自体が低アクセス数で終わりそうな気がしています。


主な参考文献は、

 「複雑な世界、単純な法則 著者・マーク・ブキャナン 草思社」

 「偶然の科学 著者・ダンカン・ワッツ 早川書房」

 「スモールワールド・ネットワーク 著者・ダンカン・ワッツ 阪急コミュニケーションズ」

です。

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― 新着の感想 ―
[一言] はじめまして、こんにちは。 私はこのサイトでは低アクセス数作家で、他の某サイトでは高アクセス数ではないですが、多く評価を戴いた作家の者です。 確かに、あなたの仰っている通りだと思います…
[一言]  作品を生み出す上で重要な知識を得る事は大事な事だと思います。知識だけでなく人生の経験も豊富にしている事も必要だと思っています。知識を持つことで作品に深みがでたり、メッセージ性が強くなると私…
[一言] タイトルに惹かれて読みました。思考と論理のおもしろさに加えて、御自身のスタンスやメッセージ性が垣間見えて、パワーもいただきますし、読了のあとでもう一度ゆっくり反芻したくなります。他の作品もこ…
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