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たまゆら

作者: 早坂知桜
掲載日:2026/04/24

 帝都に、また雨が降っている。


 石動皓夜は、濡れた石畳の上に立っていた。外套の襟を立て、煙草の煙をゆっくりと吐き出す。瓦斯灯の光が水たまりに揺れ、どこかで路面電車の音がした。帝都の夜は、いつも少しだけ、腐った花の匂いがする。


 依頼はすでに届いていた。


 帝都の北、飛鳥山の奥に妖気あり。人が消える。家畜が死ぬ。土地の者どもは近づかない。——陰陽寮からの文は、いつも通り簡潔だった。皓夜は煙草を踏み消し、外套の内側に手を入れた。指先に、冷たい玉の感触があった。


 彼の依り代。勾玉。


 乳白色の、小さな石。陰陽師としての力の座であり、皓夜という存在の核でもある。


 ——今夜、それが微かに熱を持っていた。


  *


 飛鳥山の奥は、雨の中でも暗かった。


 木々が天を覆い、瓦斯灯の光も届かない。皓夜は懐から式札を三枚取り出し、低く呪を唱えた。紙片が光を帯び、三体の式神が夜気の中に顕れる。


「散れ」


 一言で、式神たちは闇に溶けた。皓夜は歩き続けた。


 妖気は濃かった。ただの妖ではない。これほどの気配は——皓夜の記憶の中に、該当するものがなかった。いや、記憶ではない。もっと深い場所、血の底のようなところが、何かを知っていた。


 開けた場所に出た。


 雨の中、一人の女が立っていた。


 白い着物。濡れているのに、雨粒が寄りつかない。黒髪が風もないのに揺れている。そして——九本の尾。白銀と金が混じり合った、炎のような尾が、夜の中で静かに揺れていた。


 皓夜は立ち止まった。


 女がゆっくりと振り返った。


 美しかった。それは人の美しさではなかった。千年の妖気が凝縮したような、触れれば壊れるような、しかし触れた者を壊すような——そういう美しさだった。


「陰陽師か」


 声は低く、しかし鈴を転がすように響いた。


「久しいのう。千年ぶりに外の空気を吸えば、まず陰陽師と顔を合わせるとは」


 皓夜は式札を構えた。感情は表に出さない。それが皓夜の流儀だった。


「帝都に仇なす妖を、祓う。それだけだ」


「ほう」女の唇が弧を描いた。「祓う、か。やはり陰陽の者どもは言うことが変わらぬ」


 次の瞬間、空気が裂けた。


 細い剣——妖気が凝った刃が、皓夜の頬をすーっと横に一閃した。


 血が流れた。


 皓夜は動じなかった。指でゆっくりと頬の血をぬぐい、感情の乗らぬ瞳で空を見上げた。


 女は宙に立っていた。月を背に、九本の尾を広げて。雨粒がその周囲だけ、光の粒のように散っていた。


 皓夜の口が、静かに開いた。


「……たまき」


 夜が、止まった。


 女の九本の尾が、微かに揺れた。長い睫毛が、一度だけ震えた。それだけだった。しかし皓夜には見えた——その一瞬の、揺らぎが。


「……よくぞ」


 女の声が、わずかに変わった。


「よくぞ、我が真名を言い当てた、陰陽師。だが、これでますます、お前をこのまま無事に帰すわけにはいかなくなったぞ」


 紅の炎のような、挑戦的な微笑みが、女の美貌を輝かせた。


「わたしを狩るか、たまきよ」


「おうよ」


 女——たまきは、月を背にして笑った。


「陰陽師はみな我の敵であろう。千年も前、やはり我を石に封じたのも陰陽の者どもじゃ。その恨み、この帝都で晴らすのに、何の不都合があろうか」


 皓夜は式札を下ろした。


 たまきの眉が、わずかに動いた。


「……なぜ、構えを解く」


「一つ、聞いていいか」


「問答など——」


「千年前に封じたのは、クガの陰陽師か。それともセイメイの陰陽師か」


 今度の沈黙は、長かった。


 たまきはゆっくりと地に降り立った。九本の尾が、雨の中で静かに揺れる。皓夜と、数歩の距離。


「……何故、そを知る」


「俺の中にも、勾玉がある」


 皓夜は外套の内側に手を入れ、乳白色の玉を取り出した。


 たまきの目が、細くなった。


「セイメイの血か」


「そうだ」


「セイメイの血を引く者が、陰陽寮に仕えておるのか」皓夜の持つ勾玉を見つめながら、たまきは低く笑った。「それは道理じゃ。セイメイの系統は人に寄る。人の側につく。千年前もそうじゃった」


「千年前、クガを封じたのはセイメイの陰陽師だったか」


「そうじゃ」たまきの声から、笑いが消えた。「同族が、同族を封じた。石の中で、千年。我はずっと、覚えておったぞ」


 雨が、強くなった。


 皓夜は黙っていた。たまきの言葉の意味を、血の底で理解していた。怒りは正当だった。恨みは本物だった。千年、石の中で——それがどれほどのことか、人間には想像もできない。


「帝都を、滅ぼすつもりか」


「滅ぼす、とまでは言うておらぬ」たまきは皓夜を見た。「ただ、陰陽の者どもに思い知らせたい。我らを封じることの、代償を」


「それで、人が死ぬ」


「人は死ぬ。妖も死ぬ。千年前もそうじゃった」


 二人の間に、沈黙が落ちた。


 雨の音だけがあった。


 皓夜は、自分の持つ勾玉を見た。乳白色の石が、今夜はずっと熱を持っている。たまきと向き合ってから、それはより強くなっていた。


「たまき」


「なんじゃ」


「お前の持つ依り代を、見せてくれ」


 たまきは少し間を置いた。それから、着物の胸元に手を入れた。取り出したのは——深い翡翠色の、勾玉だった。


 皓夜の持つ乳白色と、たまきの持つ翡翠色。


 二つの玉が、雨の夜に向かい合った。


 その瞬間——皓夜は知っていた。


 血の底が、ずっと知っていた。


「玉響、という言葉を知っているか」皓夜は静かに言った。「玉と玉が触れ合う、かすかな音。そこから——魂が揺らぐ、ほんのわずかな時間、という意味になった」


 たまきの目が、微かに揺れた。


「……知っておる」


「クガとセイメイの依り代が触れ合うと、玉響が鳴る。そして——」


「黙れ」


 たまきの声が、低くなった。


「黙れ、陰陽師。それ以上、言うな」


「お前も知っていたか」


「……知っておった」


 雨の中で、たまきは目を閉じた。九本の尾が、静かに揺れる。


「知っておったから、封じられる前、我は逃げた。セイメイの陰陽師から、逃げ続けた。それでも——追いついてきおった。そして封じた」


「千年前のセイメイの陰陽師も、知っていたはずだ」


「知っておって、封じた。それが陰陽師の業じゃ」たまきは目を開け、皓夜を見た。「お前も同じじゃろう、石動皓夜。知っておって、それでもここに来た」


 否定できなかった。


 皓夜は今夜、依頼を受けた時から知っていた。この妖気が何であるか。自分がここへ来れば、どうなるか。血の底が、ずっとそれを知っていた。


 それでも来た。


「千年、石の中で何を思っていた」


 問いは、唐突だった。たまきは少し驚いたように皓夜を見た。


「……何故、そのようなことを問う」


「聞きたかったから」


 たまきは、長い間黙っていた。雨が二人の間に降り続けた。


「最初の百年は、怒りじゃった」やがてたまきは言った。「次の百年は、恨みじゃった。その次は——よくわからぬ。ただ、静かじゃった。石の中は、暗くて、冷たくて、静かじゃった」


「孤独だったか」


「……妖に、孤独などない」


「そうか」


「……そうじゃ」


 たまきの声が、少しだけ揺れた。


 皓夜は歩いた。たまきとの距離を、一歩、また一歩、縮めた。たまきは動かなかった。逃げなかった。


 二つの勾玉が、近づいた。


「石動皓夜」たまきが言った。「お前は、何故——」


「俺にも、わからない」皓夜は正直に言った。「ただ、血が知っている。お前のそばに来いと、ずっとそう言っていた」


「……馬鹿な陰陽師じゃ」


「そうかもしれない」


 皓夜の手の乳白色と、たまきの手の翡翠色が——触れた。


 音がした。


 かすかな、しかし確かな音。玉と玉が触れ合う、透き通った響き。それは雨音の中に溶けて、帝都の夜に広がって——


 たまゆら。


 皓夜の胸の中で、何かが揺れた。血の底の、妖狐の血が、静かに共鳴した。たまきの九本の尾が、一度だけ大きく広がり、そして——光になった。


 乳白色と翡翠色が混ざり合い、雨の夜を照らした。


 皓夜は目を閉じた。


 痛みはなかった。ただ、温かかった。千年前から続く何かが、ようやく終わるような——いや、終わりではなく、区切りのような——そういう感覚だった。


 消える直前、耳のそばで声がした。


「……また千年後じゃ、陰陽師」


 挑戦的な、しかしどこか柔らかい声だった。


「次は、逃げぬ。お前が来るなら——我も、待っておろう」


 皓夜は答えようとした。


 しかし声は出なかった。代わりに、口の端が、わずかに上がった。


 帝都の夜に、かすかな玉響が、もう一度だけ鳴った。


  *


 翌朝、飛鳥山の奥で、二つの勾玉が並んで落ちているのを、陰陽寮の者が見つけた。


 乳白色と、翡翠色。


 どちらも、温かかった。


 陰陽寮はその二つを、帝都の中心にある蔵に並べて保管した。記録には「妖気消滅、陰陽師石動皓夜、任務中行方不明」とだけ記された。


 誰も、玉響のことは知らなかった。


 ただ、蔵の番をする老人だけが、満月の夜に二つの玉がかすかに光り、小さな音を立てるのを知っていた。


 玉と玉が触れ合う、透き通った音。


 たまゆら——ほんのわずかな、しかし確かな時間。


 千年後も、またその音は鳴るだろう。


 帝都が変わっても、時代が変わっても、二つの玉は並んで、静かに、その時を待っている。

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