EP 3
深層の異変。姿を消した魔物たち
「ふわぁ……よく寝た。床の硬さも全然気にならなかったな」
翌朝。100均のフカフカな寝袋から這い出した僕は、大きく伸びをした。
LEDランタンの明かりのおかげで、洞窟特有の陰鬱さは全く感じない。朝食に100均の『インスタント豚汁』と『アルファ米』を平らげ、僕たちはすっかりピクニック気分のまま、下層へと続く巨大な石階段を下り始めた。
「昨日は魔物も少なかったですし、このままお宝まで一直線ですね、タロウさん!」
サリーが軽い足取りで階段を降りながら微笑む。
「ああ。賢者君のナビがあれば、迷うことも不意打ちを喰らうこともない。S級ダンジョンなんて楽勝――」
僕が笑いながらスマホの画面に目を落とした、その時だった。
「……あれ?」
マップに表示されていた無数の赤い光点(魔物の生体反応)が、下層エリアに足を踏み入れた途端、ふっと消滅したのだ。
バグか? と思い、画面をタップして再スキャンをかける。
『ピピッ。広域スキャン完了。……半径2キロメートル圏内に、通常の魔物(ゴブリン、オーク等)の生体反応ゼロ。異常な静寂を確認しました』
「生体反応が、ゼロ……?」
僕が呟いた瞬間。
ゴォォォォォ……。
下層の奥深くから、氷のように冷たく、ひどく淀んだ風が吹き上げてきた。
その風には、これまで嗅いできた土やカビの匂いではなく、濃密な『死』と『血』の匂いが混じっていた。
「……ッ!」
先頭を歩いていたライザが、ビクッと肩を震わせ、弾かれたように愛剣を鞘から引き抜いた。
「どうしたの、ライザ?」
「……タロウ、サリー。ふざけるのはここまでよ。気を引き締めなさい。……空気が、全く違うわ」
ライザの声は、かつてないほど低く、そして微かに震えていた。
いつもなら自信に満ち溢れている彼女の背中が、今は極度の緊張で強張っている。
「魔物が一匹もいないなんて、おかしいと思わない? 上層や中層にあれだけひしめいていたのに……下層には、ネズミ一匹の気配すらしないのよ」
ライザは油断なく周囲を睨みつけながら、ゆっくりと前進する。
「それって、モンスターがここには住んでないってことじゃ……」
「違うわ」
ライザが、鋭い声で僕の言葉を遮った。
「いないんじゃない。……『近づけない』のよ。野生の獣が、自分より遥かに上位の捕食者の縄張りに決して足を踏み入れないように。この下層全体が、たった一匹の『絶対的な強者』のテリトリー(領域)なんだわ……!」
その言葉に、僕とサリーは息を呑んだ。
S級ダンジョンに巣食う無数の魔物たちが、本能的な恐怖で近づくことすらできない存在。
それが、この道の奥で僕たちを待ち構えている。
「タロウさん……私、なんだか急に、息が苦しくなって……」
サリーが胸を押さえ、青ざめた顔で僕の袖をギュッと握りしめた。
彼女の持つ高い魔力が、空間そのものに満ち始めた異常なプレッシャー(瘴気)に反応しているのだ。
「大丈夫だ、サリー。僕がついてる」
僕は彼女の肩を抱き寄せ、スマホを強く握りしめた。
グランピング気分は完全に吹き飛んだ。
僕はスキル『100円ショップ』の検索リストを「レジャー」から「サバイバル・医療」へと切り替え、ガンドフが作ってくれた『必殺の爆発矢』を背中の矢筒にしっかりと確認した。
静寂に包まれた迷宮の底。
僕たちの足音だけが、不気味に響き渡る。
赤い光点が一つもないスマホのマップは、逆に『どこから何が出てくるか分からない』という根源的な恐怖を煽ってきた。
そして、どれくらい歩いた頃だろうか。
「……行き止まり、ね」
ライザが立ち止まった。
僕たちの目の前に、天井まで届くほどの巨大な『黒曜石の両開き扉』が立ちはだかっていた。
人工物ではない。まるで、ダンジョンそのものが『これ以上先へ進むな』と警告するかのように、岩壁が変異して形成された歪な扉だ。
ズズン……。
ズズン……。
扉の向こう側から、地鳴りのような低い音が、一定の間隔で響いてくる。
それは、巨大な『何か』の鼓動(心音)だった。
扉の隙間から漏れ出すプレッシャーだけで、肌がピリピリと粟立ち、本能が「今すぐここから逃げろ」と最大級の警鐘を鳴らしている。
「賢者君……この扉の向こうに、何がいる?」
僕は乾いた唇を舐めながら、スマホを扉に向けた。
『ピピッ。……エラー。対象の魔力量および生命エネルギーが、当AIの通常計測限界を突破。……個体識別を実行。神話級指定魔獣――【暴君ベヒーモス】の可能性が極めて高いです』
「ベヒーモス……!」
ライザが絶望的な声を漏らした。
大地を揺るがす四つ足の厄災。神話に語られる、鋼鉄の皮膚を持つ破壊の化身。
「引き返すか……?」
僕が問うと、ライザは剣の柄を両手で握り直し、サリーは杖を胸の前に構えて、二人同時に首を横に振った。
「ここまで来て、逃げる選択肢はないわ。私の剣が通用するか、試してみたい」
「私、もう震えません。タロウさんとライザちゃんは、私が絶対に守りますから……!」
その瞳には、強い覚悟の光が宿っていた。
そうだ、僕たちは三人で『冒険』に来たんだ。最強のマッスル自警団も、便利なAIの完全予測も、この扉の向こうでは役に立たない。
僕たちの命と絆だけが頼りだ。
「よし。……行くぞ」
僕が両手で黒曜石の扉を力一杯押し開けた瞬間。
重苦しい死闘の幕が、ついに切って落とされた。




