EP 20
丸ごと玉ねぎの本格スパイスカレー。これぞ究極のスローライフ
『豚神屋』の熱狂から少し離れた、領主の館の厨房。
今日は自警団の訓練も休みで、館には久々に穏やかで静かな時間が流れていた。
コトコト、コトコト……。
厨房のコンロでは、大きなホーロー鍋が心地よい音を立てている。
そこから漂ってくるのは、クミン、コリアンダー、カルダモンといった、複雑で奥深い香辛料の香り。
かつて僕が皇帝の食欲不振を治すために使った「100均の固形カレールー」のジャンクな匂いとは違う、本格的なレストランから漂ってくるような芳醇なアロマだ。
「……くんくん。なんなんですかぁ、この香り……!」
厨房の扉からひょっこりと顔を出したのは、目を丸くしたサリーだった。彼女は鼻をヒクヒクさせながら、夢遊病者のように鍋へと引き寄せられてくる。
「……良い匂い♡」
その後ろからは、いつもの凛々しい騎士の顔を完全に崩し、頬を緩ませたライザが続いて入ってきた。強靭な肉体と精神を持つ彼女たちでさえ、このスパイスの暴力的な誘惑には抗えないらしい。
僕は木べらで鍋の底をゆっくりとかき混ぜながら、振り返って微笑んだ。
「本格カレーを作ろうかと思ってね」
「本格カレー……? 以前、タロウさんが作ってくれたあの茶色くてトロトロの美味しいお料理とは違うんですか?」
サリーが、コンロの上を覗き込もうと背伸びをする。
「うん。ルーを使わずに、スパイスをゼロから調合したんだ。もちろん、賢者君の『黄金比率の計算』と、100均の『小瓶スパイスシリーズ』をフル活用してね」
僕は鍋の中身を二人に見せた。
赤褐色の濃厚なカレースープ。
その中でゴロゴロと煮込まれているのは、一口大に切った『トライバード(三徳鳥)』のジューシーなモモ肉と……。
「タロウ、これは……玉ねぎ? 切らずに、そのまま丸ごと入っているの?」
ライザが驚いたように目をパチクリとさせた。
「そう。今日の主役は、この『丸ごと玉ねぎ』さ。弱火でじっくり、形が崩れるギリギリまで煮込んであるから、スプーンを入れただけでトロトロに溶けるはずだよ」
その時だった。
「ふぁぁぁ……太郎ちゃぁん、お腹空いたぁ……」
厨房の床をズルズルと這いずるようにして、エンジ色の芋ジャージを着た駄女神・ルチアナが現れた。
昨夜も夜遅くまでストゼロをキメていたのか、髪はボサボサで完全に限界ニートの顔をしている。
「お前は本当に、匂いを嗅ぎつける能力だけは神級だな……。ちょうど出来上がったところだ。みんな、食堂の席に着いてくれ」
僕は大きめの深皿に、ふっくらと炊き上げた『米麦草』をたっぷりとよそい、その横に赤褐色のスパイスカレーをなみなみと注いだ。
そして中央に、飴色に染まった『丸ごと玉ねぎ』を鎮座させる。
「さぁ、冷めないうちに召し上がれ」
テーブルに並べられた四つの皿。
サリー、ライザ、ルチアナは、ゴクリと生唾を飲み込んでから、一斉にスプーンを手に取った。
「いただきます!」
サリーがスプーンの先を、中央の丸ごと玉ねぎにそっと当てる。
すると、力を入れるまでもなく、玉ねぎはスゥッと花が開くように崩れ、中からトロトロに透き通った甘い果肉が姿を現した。
たっぷりのカレースープと玉ねぎ、そしてライスを一緒にすくい上げ、口へと運ぶ。
「…………ッ!! ぁぁぁっ……!」
サリーの瞳から、ポロリと一粒の涙がこぼれ落ちた。
「甘い……! 玉ねぎが、お口の中でクリームみたいに溶けちゃいました! その後に、色んなスパイスの香りが弾けて……なんだか、体がポカポカしてきますぅ……!」
「本当ね……お肉の旨味とスパイスの辛さを、この玉ねぎの強烈な甘みが優しく包み込んでいるわ。それにこのお米の甘さとも、信じられないくらい合う……!」
ライザも、普段の早食いとは打って変わって、一口一口を大切に、恍惚とした表情で味わっている。
「はもっ、むぐむぐ……んんん〜〜〜っ! 太郎! これ最高! ニンニクアブラマシマシも良いけど、こういう丁寧に作られたスパイスカレーは、また別のベクトルで脳内物質ドバドバ出るわね! おかわり! あとビール!」
ルチアナは瞬く間に皿を空にし、バンバンとテーブルを叩いて要求してきた。
「はいはい。ビールじゃなくて、今日はこっちの冷えた『ラッシー(100均の飲むヨーグルトで代用)』にしとけ」
僕はルチアナの前に白いグラスを置き、自分の分のカレーを一口食べた。
幾重にも重なるスパイスの香りと、玉ねぎの究極の甘み。
ラーメンのような暴力的な美味さではなく、体の芯から癒やされるような、深く、優しい味わいだった。
窓の外からは、今日も『豚神屋』に並ぶジロリアンたちの賑やかな声が遠く聞こえてくる。
領地は豊かになり、仲間たちは笑顔で僕の作った料理を食べている。
「……美味いな」
面倒な政治闘争も、命懸けの魔獣討伐もない。
大好きな料理を作り、気の置けない仲間たちと食卓を囲む。
僕がこの世界に降り立った時に望んだ、理想の『スローライフ』が、確かにここにはあった。
アルクス領の昼下がり。
スパイスの香りと笑い声に包まれながら、僕たちの騒がしくも平和な箱庭の物語は、これからもずっと続いていく。




