証拠が拒むとき Rとt検定、そして証明の限界 ― 日本語訳
保管状態は材料を変えるのか
本章では、統計ソフトウェアRおよびStudentのt検定に関する補論の日本語訳を掲載します。
桜子が行ったのは、誰かを論破するための分析ではありません。
問いは単純です。
材料の保管状態は、粉末特性や不良率に影響しているのか。
その仮説を検証するために、
•層別(Stratification)
•二標本t検定
•p値による有意性判断
という、推測統計の基本手法が用いられました。
統計は結論を断言する道具ではありません。
仮説の範囲を限定する道具です。
差があるように見えることと、
統計的に主要因と判断できることは同じではありません。
本章では、
データが何を示し、何を示さなかったのかに注目してください。
物語は動いていますが、
この章で行われているのは対立ではなく検証です。
1. 統計ソフトウェア「R」とは何か
データに語らせるための言語
Rは、統計計算とデータ可視化に特化したプログラミング言語および解析環境です。
研究者や技術者、データサイエンティストによって広く利用されています。
役割:
構造化されたデータを処理し、統計検定や回帰分析を実行し、箱ひげ図や回帰線といった視覚的出力に変換します。
なぜRなのか:
Rは解析手順をすべてコードとして記録します。
科学において重要な「再現性(同じ手順で同じ結果が得られること)」を担保できるため、信頼性の高い統計解析ツールの一つとされています。
桜子と西野が求めたのは、感情的な勝利ではありません。
手順として説明可能な結果でした。
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2. ウィリアム・シーリー・ゴセット
小標本と工場の現実
作中で使用されたt検定は、20世紀初頭にギネス醸造所で働いていた化学者ウィリアム・シーリー・ゴセットによって開発されました。
当時、統計は大量データを前提とするものだと考えられていました。
しかし実際の工場では、毎回膨大なサンプルを取ることは現実的ではありません。
ゴセットは、母分散が未知である状況下でも、小標本から母平均を推定できる方法を考案しました。
会社の規則により本名で論文を発表できなかったため、彼は「Student」という筆名を使用しました。
そのため今日でも「Studentのt検定」と呼ばれています。
統計は、学問のためだけに生まれたのではありません。
工場の現実から生まれたのです。
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3. 物語との接続
仮説検証の限界
桜子はRとt検定を用いて、保管条件が不良急増の主要因であるかどうかを検証しました。
彼女が行ったのは、
•層別によるバイアス低減
•二標本t検定による平均差の検証
です。
Rにコードを書く行為は、彼女にとって一種の防壁でした。
印象や圧力ではなく、手順に基づく判断を行うための空間です。
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「p = 0.28」の意味
Rのコンソールに表示された
p-value = 0.28
という結果は、「差が存在しない」と宣言するものではありません。
それは、
観測されたデータとサンプルサイズのもとでは、
有意水準5%で差があると断定するだけの証拠が不足している、
という意味です。
統計的には「帰無仮説を棄却できない」という結論になります。
これは慎重な結論です。
完全否定ではない。
しかし主要因と認定することもできない。
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結論
仮説の境界線
桜子たちは、保管方法の不備に原因があると信じたかった。
方法の誤りであれば、是正できるからです。
しかし統計が示したのは、
保管条件だけでは、現在の不良急増を十分に説明できない、
という境界でした。
データは彼女を裏切ったのではありません。
仮説の外縁を描いただけです。
原因は否定されたのではなく、
まだ特定されていない。
構造は、彼女が引いた線よりも大きかったのです。
強制される学習か、使える技術か
本章で扱った内容は、
•QC検定2級
•統計検定2級
で学習する範囲に相当します。
職場でこれらの資格取得を「やらされている」と感じている人もいるかもしれません。
しかし、少し視点を変えてみてください。
層別、t検定、p値の解釈。
これらは会社のための知識である前に、
自分の判断を守るための技術です。
現場では、
•「なんとなくお前のせいだ」
•「前からそうしている」
•「経験上こうだ」
という言葉が飛び交います。
統計を理解している人は、そこで一度立ち止まることができます。
本当に差があるのか。
それは偶然ではないのか。
主要因と言えるのか。
「有意差がない」という結論は失敗ではありません。
根拠のない断定を防ぐ力です。
もし今、資格取得を強制されている立場にあるなら、
それを単なる義務で終わらせる必要はありません。
一度身につければ、その知識は会社のものではなく、
あなた自身のものになります。
統計は武器ではありません。
しかし、自分を守るための境界線を引く道具にはなります。
曖昧な空気や、声の大きさに流されないために。
それは静かですが、確実な力です。




