紫の境界線
一
生まれたときから、私は人の魔力を吸ってしまう子だった。
それがどこで、誰に生まれたのかは覚えていない。
気づいたときには、森の小屋で魔女に育てられていた。
村では私は「魔女の弟子」として知られている。
近づく者の体調が悪くなるため、村人たちは自然と距離を置いた。
抱きあげられれば、腕の中の温もりから灯りが消えて、相手は青い顔でうずくまる。
頬に触れれば、笑みはほどけ、手のひらに冷えが降りる。
理由は分からない。ただ、触れれば奪ってしまうのだ。
昔のことは、途切れ途切れの記憶でしか残っていない。
生後五ヶ月ころだったと魔女は言う。雨の匂い。ぬかるむ土。喉の奥の金属の味。
そして、黒い外套の女が現れた記憶。濡れた髪をかきあげ、私を覗きこみ、低く言う。
「まあ。――困った子ね」
女は私を抱き上げた。私は反射的に吸ってしまう。女の中の光が、少しこちらに流れ込む。
なのに、女は眉ひとつ動かさない。むしろ、胸にぎゅっと抱き寄せた。
「いいのよ。そういうあなただから」
女は自分を"魔女"と呼んだ。森の小屋に住み、薬を煎じ、本を読み、火をおこし、風に名前をつける人。
私はそこで育てられた。直接触らずに済む道具の使い方を教わり、素手ではなく布越しに抱きしめられ、毎晩、火のはぜる音を聞きながら眠った。
魔女は時々、紫の宝石のブローチを胸元につけた。
大きな、夜のように深い紫。銀の爪が四方から石を抱き、光をやわらげる。
それをつけている日は、彼女の周囲の空気がやけに静かで、私は彼女に手を伸ばしても相手の灯りをすぐには消してしまわずに済んだ。
「これは昔の魔法使いが作ったの。魔力の流れを落ち着かせるもの。世界にひとつだけ」
魔女は笑った。笑うと、瞳に温かな光が宿る。
「あなたには、まだ早いかな」
早い、という言葉に、いつか届く未来があることを知った。
私は、その未来を手帳の最後のページに、小さく描いた。
紫の石に、銀の爪。4つの爪のうち一本が、ほんの少しだけ短いところまで。
季節は巡り、背は伸び、届かなかった棚にも手が伸びるようになった。
十三歳になった今も、吸ってしまう体質は変わらない。魔女以外と長くいられない性質も。
私はたまに小屋の窓辺で、遠くの村道を眺めた。人が二人並んで歩いているのを見ると、羨ましくて胸が苦しくなった。
「触れずとも寄り添える方法はいくらでもあるわ」
魔女は私の後ろから言い、そっと肩に布を掛ける。
「触れずとも心は通じるもの。あなたはそのことを教えてくれる存在よ」
その声は、冷え切った私の心を、暖炉の火のように温めてくれた。
二
ある日、魔女はいつになく静かだった。
朝から煎じた薬を小瓶に分け、棚のものを点検し、書きつけをまとめて紐で綴じた。
昼には私の髪を梳き、夜には暖炉の前で小さな杯をふたつ用意した。
「薬の味見。あなたの舌で確かめてほしいの」
魔女は微笑む。紫のブローチは、今日は着けていない。
私は首を傾げながら、杯を受け取った。
琥珀色の液体。甘いような、鉄の匂いが潜むような、遠い味。
舌にのせた瞬間、身体の芯で何かが目覚めたような感じがした。
まるで、長い間眠っていた渇きが、急に叫び声を上げるように。
「どう?」
「少し、苦い……でも、嫌いじゃない」
「よかった。あなたには、そうだろうと思ったの」
暖炉の火が、木の天板の、杯を置いてできた跡を照らす。
私はいつもより早く眠気に襲われ、椅子にもたれかかった。
魔女の指先が額に触れる。布越しの、いつもの温度。
そのまま、私は落ちるように眠った。
目を開けたとき、夜だった。
暖炉は赤いすすを抱いて、白い息をしている。
横を見ると、魔女がいた。ベッドの端に腰を下ろし、こちらに寄りかかるように、静かに。
「ねえ……起きて……?」
呼んでも動かない。
手のひらに触れたくなる衝動を、私は布で包んだ指でどうにか押さえる。
けれど、近づけば分かる。
彼女の中の灯りが、どこにもないことが。
胸の奥が、ガラスのように割れた。
私は呟いた。「私が奪った」
記憶はだんだん戻ってくる。杯の味。眠りの重さ。
私の体内には、いま、どうしようもないほどの魔力が渦を巻いている。
彼女の灯りと似た匂いをして、熱を持ち、出口を探して暴れる。
「いやだ」
声は震え、喉が裂けるほどの叫びになった。
「いやだ、死なないで、お願い……!」
私は自分の身体の栓を抜くように、魔力を放り出した。
床板の隙間が鳴り、窓ガラスが呻き、夜の森がうねる。
世界が歪んで、私の中の渦が外に絵の具のようにぶちまけられる。
――それで、終わるはずだった。
奪い続けた分を放って、私は空っぽになって、静かになるはずだった。
その奔流の真ん中に、ひとつの影が踏み込んできた。
カラスに導かれるように現れた影は、腕を広げ、私の放った光を受け止め、それを逆に吸い込むように、闇に溶かしていく。
荒れ狂う灯りが、影の胸に吸い寄せられ、夜明け前の海みたいな沈み方をした。
「間に合った」
「間に合った?何が間に合ったっていうの?」
「私は彼女を殺してしまった」
私の喉からこぼれた言葉は、自分でも驚くほど幼かった。
「なぜ、死なせてくれないの」
「困る」
影――少年は淡々と告げた。
「君が死んだら、僕の婚約者がいなくなる」
私は言葉を失う。
少年は一歩近づき、床にひざまずいて、魔女の瞼をそっと閉じた。
その仕草が余りにも静かで、私の荒れた呼吸の音だけが部屋に残る。
彼の肩に、鳥の影が止まった。
黒いカラス。両脚にそれぞれ細い革の筒が括りつけられている。
少年は片方を外し、中の小さな巻紙を取り出した。
「君の両親への連絡だ」
そしてもう一方の筒を外し、私に差し出す。
「こちらは、魔女から君への最期の言葉」
三
「子どものころ、両親が話すのを聞いた。君の家と、うちの家は昔からの付き合いだって。でも、君が生まれるまでは、ただの冗談だった」
レオンは窓の外を見た。
森が青くなる。
「君が生まれて、君の体質が分かってから、話は変わった。君は触れれば奪う。僕は近づけば傷つける。どちらも、普通の人間にとっては毒だ。――だから、両家は、冗談だった婚約を本気にすることにした」
毒と毒が、正しく相殺するかもしれない。
彼は苦く笑った。「ずいぶん乱暴な考えですけどね」
「じゃあ、どうして私はさらわれたの」
声に自分の荒さが混じる。
「魔女は私を連れ去って、育てて、そして――」
「その人は、まず君を連れ去った」
レオンは懐から、薄い紙束を取り出す。古びたインクの匂い。
「君の両親は混乱した。でも数日後、魔女から手紙が届いた。それから長い間やりとりが続いて、僕の家族も含めて話し合いをしたんだ」
「君が眠っているあいだに読むつもりだったが、先に見せよう」
一枚目には、整った筆跡で次のように書かれていた。
――この子をいずれ返す。時が来れば、黒いカラスが導くだろう。
――そのとき、彼女は深い悲しみを知る。家族が支えてほしい。
――返す証に、紫のブローチを彼へ渡す。あれは彼のためにもなる。
――私の魔力が完全に消えたとき、カラスが知らせに来る。
「……ブローチ?」
私は胸元に手をやった。
冷たさが布越しに指の腹に伝わる。
紫の石。銀の爪。きっと魔女がつけたものだ。
「魔女は言った。君を無事に返せたら、そのブローチは僕に渡される、と」
レオンは私の目を真正面から見た。
彼の瞳には、夜の残り火と、朝の気配の両方が燃えている。
「でも、彼女は返せなかった」
レオンの声は重かった。
私は呟いた。
「返す前に、私が――」
「違う」
レオンの声音は硬くなった。
「彼女は最初から、君に自分の魔力を吸わせるつもりだった。君が無意識に吸うことを知っていたからだ」
レオンは一息ついた。
「だから、最後の薬を与えた。眠りの間に、君の魔力への渇望を強くするために。君が目覚めたとき、君の中には彼女の魔力があり、彼女は死んでいた」
言葉はそこで止まる。
止められない重さが、ふたりの間に落ちて、床の木目に染みこんだ。
「彼女は不死だった」
レオンは続ける。
「長い間生き続けて、疲れ果てていた。君のような子を探していたんだ。君に吸われることで、ようやく安らかに眠れる。そう考えて、両親から君を引き取った」
私は顔を上げる。
炎の音のない暖炉。積まれた薪。積んだのは自分だ。
昨日と同じものが、今日は別の意味を持つ。
「でも、両親は君を想っていた。触れられないからといって、想いがなくなるわけではない」
レオンは紙束の最後の一枚を置いた。そこには短い行だけがあった。
――あの子が罪に押し潰されそうになったら、代わりに抱えてやってほしい。
私はブローチを握りしめた。
石の冷たさは変わらない。けれど、その下にあるはずの、見えないものの温度が変わった気がした。
「君が放とうとした魔力を、僕が受け止めた」
レオンは言う。
「君は奪う。僕は溢れる。どちらも、ひとりでは人を傷つける。でも、合わせれば、釣り合う」
「でも、計算で決めたわけじゃない」
彼はわずかに笑う。
「婚約者、という言葉を出したのは、半分は家の事情だ。残りの半分は、僕個人の希望ですよ」
「希望?」
「君が、ここにいること」
四
昼になり、空気は澄んだ。
森はよく晴れた日の匂いを吐き、家の梁には細い陽がかかった。
私たちは、魔女の身体を森の奥に運んだ。
この辺りは根が深い。土は柔らかく、湿り気があり、手のひらで押すと沈む。
私の指先は震えていた。吸わないように、触れないように、布越しに力を入れる。
「手伝うよ」
レオンがくわを持つ。
彼が近づくと、空気の密度が変わる。昔の私なら、そこでくらくらした。
けれど今、胸元のブローチが微かに震えて、熱を吸い上げ、平らにする。
「それは、君のためのものだ」
レオンの視線が、私の胸元に落ちる。
「彼女はそれを僕に渡すつもりだった。でも、僕は君が身につけている方がいいと思う」
「でも、あなたにも必要でしょう。あなたの魔力は……」
「制御に道具を必要とするほど、僕は未熟ではありませんよ」
彼は冗談めかして片目をつぶった。
「そして、君はまだ若い」
私は首を横に振った。
「これは、私の戒め。私が殺した人の証。外すことはできない」
「なら、半分だけ譲ってもらおう」
レオンは土の上に膝をつき、私の前で手を差し出した。
「君が抱えて苦しいとき、半分は僕が持つ。君が眠るとき、半分は僕が見張る。君が罪だと言うなら、半分は僕が引き受ける」
「罪は、分けられるの」
「痛みは、分けられる」
彼の声は、なぜだか、魔女の声に似ていた。
「彼女の遺言にも、そう書いてあったろう?」
黒いカラスが枝にとまり、低く鳴いた。
土は埋められ、石が置かれ、花が一本、風に揺れた。
私は手を合わせ、額を土に近づけ、目を閉じた。
――ありがとう。
――ひどい人。
――それでも、ありがとう。
言葉は声にならない。けれど、胸の内で丸まって、体の中心から外へ、静かに溶けていった。
小屋に戻ると、机の上に巻紙がひとつ残っていた。
封はされていない。私の名前が、魔女の筆跡で書かれている。
震える指で開くと、短い文章が現れた。
――あなたは奪うのではなく、受け止めているのだと、いつか分かる日が来る。
――それまで、紫を身につけていなさい。
――紫は、赤と青の境。怒りと冷静のあいだ。生と死のあいだ。
――あなたの歩く道は、いつも境にある。境は恐ろしく、同時に美しい。
――境を渡るとき、手を取る者が現れたなら、離してはいけない。
私はブローチを持ち上げ、光に透かした。
石の奥で、夕暮れの色が揺れた。
境界の色。魔女の残したもの。
レオンは窓辺に立ち、外を眺めている。
彼の背中は、ひとりで背負うには大きすぎるほどの影を落としていた。
けれど、その影の端は、私の足元にもかかって、形を変えていた。
「ねえ」
私は声をかけた。
「あなたは、ブローチを欲しいと言った。どうして?」
「君が、それで僕のことを思い出すから」
レオンは振り向かなかった。
「道具としてではなく、しるしとして。君が孤独に傾いたとき、胸元の重さを確かめれば、ここに戻ってくるだろう?」
「勝手すぎる」
「君に残されたものは、勝手な理屈ばかりだよ」
彼は窓から離れ、机に指で円を描く。
「それでも歩くなら、どれかひとつくらい、君の勝手で選びな」
私は笑ってしまった。
笑う、という行為がまだ自分の体に残っていたことに、少し驚いた。
笑いながら、胸元のブローチを外す。
縫い付けた革紐から石を抜き、机の上に置く。
レオンは目を瞬き、私を見た。
「半分」
私は言った。
「半分は、あなたのもの。……ただし、持ち歩くのは私。あなたが必要なときは、いつでも触れていい」
「慎重だね」
「あなたの魔力は溢れる。私の魔力は吸う。どちらも、急に変えたら、きっと上手くいかない」
レオンは微笑んだ。
「その通りだ。少しずつ、だね」
彼の指先が、ブローチの縁に触れた。
その瞬間、紫の石の奥で、微かな光が揺れた。
まるで、どこか遠いところで小さな鐘が鳴ったような、気配。
私の中の渦は静まり、彼の周囲の風は穏やかに落ち着いた。
日の傾き始めた窓の外を、黒い影が横切った。
カラスがひと鳴きして、森の深い方へ飛び去る。
夜は、もうこわくない。
夜の向こうに、朝がついてくることを、私は知っている。
「レオン」
私は名を呼んだ。
声は思ったよりも澄んでいた。
「私、また誰かの灯りを奪ってしまうかもしれない」
「そのときは、僕が灯す」
「私、自分のことを許せないままかもしれない」
「そのときは、僕が許す」
「あなたは、自分のことを許してるの」
レオンは少し黙って、それから肩をすくめた。
「たぶん、許すことと、諦めることのあいだに立っている。君と同じような場所さ」
私はブローチを握り、胸元に戻した。
紫が肌に触れ、冷たさが、心臓の鼓動のリズムに合わせてやわらいでいく。
「じゃあ、行こう」
私が言うと、レオンは驚いたように目を見開き、すぐに表情を整えた。
「どこへ」
「森の外。村道。あなたの家。私の家。――私の、境界の外」
レオンは頷いた。
「分かった。道は長い」
「いいわ。長い方が、きっと、いい」
扉を開ける。
森の空気が流れこみ、埃の匂いと混じって、胸の奥の重さを少し軽くする。
私は一度だけ振り返り、暖炉と、椅子と、ベッドと、机と、窓を見た。
ここに残されたものは、もう動き出している。
形見は胸元にある。
罪は半分になった。
外へ出ると、光が紫の石に降りかかり、石はそれを受け止めてから、やわらかく返した。
私はその光を見つめ、深く息を吸った。
世界は相変わらず、触れれば奪うようにできている。
けれど、同じだけ、触れれば受け止めるようにもできている。
「行こう、レオン」
「うん」
歩き始めて数歩、レオンが振り返った。
「そういえば、君には名前があるのかな」
私は少し驚いた。
「名前?魔女は、いつも『あなた』としか呼ばなかった」
「君の両親が考えた名前があるんだ。その名前で呼んでも良いか?」
私の胸が温かくなった。
「教えて」
「クラリス。君の名前はクラリスだ」
私は微笑んだ。
「クラリス...良い響きね。その名前で呼んで」
ふたりの影が並ぶ。
境界線は、私たちの足の少し先で、細く輝いていた。
それをまたぐたびに、ブローチが小さく音を立て、私の胸の奥で、誰かの笑い声がしたような気がした。
私は歩く。
奪うことも、受け止めることも、同じ手でできるように。
紫を胸に、朝へ向かって。




