第八章
洗濯場に行き、洗濯物を預けてアイリス姫の私室へと戻ってきたルナは、扉の前で慌てた様子のマリアに迎えられた。
「大変よルナ! アイリス様が!」
「どうしたの?」
実はイルムヒルデ夫人との邂逅で精神的に疲労していたルナだが、何事もないようにマリアに尋ねる。
「当然王妃様がやって来て……」
ルナはちらりとアイリス姫の私室の扉を見る。
何か声が漏れる。
どうやらサルーンから、無理矢理部屋に連れ戻されたらしい。
「アイリス様、酷く怒ってらっしゃったわ」
と、激しい怒鳴り声と大きな音がアイリス姫の私室から漏れ出す。
呼吸を止めるマリアに構わず、ルナは「失礼致します」と、部屋の扉を開く。
酷い光景だった。
アイリス姫が自室の本やらを、先程であった痩せた女性に投げつけている。
アレッタやベラは部屋の隅で怯え身を寄せ合い、イルムヒルデ夫人は冷ややかな目で、暴れる娘へ視線を向けていた。
「うるさいっ! あなたなんかの言うことは聞かないわ!」
アイリス姫は激しく怒っていて、顔を赤くしヒステリックに女性へ怒鳴る。
「いい加減にしなさい、アイリス!」
イルムヒルデ夫人は一喝し、アイリス姫の動きを止めた。
「無茶な勉強時間を設けられるのは、今まであなたが遊んでいたからよ」
そして痩せた鷲鼻の女性を示し、
「ブッフバルト夫人はわたくしが幼い頃に、わたくしの侍女をしていた方よ。今後は彼女にあなたの教育を任せます。身分に関係なく、ブッフバルト夫人に従いなさい」
「でもお母様! 私フィレント語なんて出来ないわ! 今はプロシア語を学んでいるの!」
それは確かだ。
アイリス姫は歌の一件以来、プロシア語を熱心に習い始めている。
「聞きなさい、アイリス」
イルムヒルデ夫人の口調は、金属のように冷ややかだ。
「あなたももうすぐどこかの王族に嫁ぐ身なのよ。あなたはわたくしの生まれたプロシアへ、と考えていたけど、オルタルナの王族にあなたにちょうど良い方がいるの。オルタルナ人に嫁ぐなら、フィレント語は必要なのよ」
「え」とアイリス姫の動きが止まる。
ルナは彼女の瞳が揺れているのが分かった。
アイリス姫は怯えている。
恋も出来ない自分の運命に、だ。
「ブッフバルト夫人はわたくしの語学の先生でもあったの。だから全てを任せれば大丈夫だわ。良い、ブッフバルト夫人の言うことは絶対、それは王族のあなたでもよ」
「でも……お母様」
だがイルムヒルデ夫人は、これ以上の娘との会話は無駄と判断したようだ。
「お母様!」と呼ぶアイリス姫を無視し、彼女に背を向け、部屋から出て行った。
さっとルナは道から退いて頭を垂れるが、彼女の前を通る際、イルムヒルデ夫人の瞳がちらりと動き、あの視線で確認しくる。
今のルナにはどうでも良かった。
「良いですかアイリス様」
ブッフバルト夫人は一つ咳払いをすると、アイリス姫に言い含めるように口を開く。
「王妃様はいつでもアイリス様のことをお考えです。今度のことでも、アイリス様なら大丈夫と判断なされたのです。どうかその信頼にお答え下さい」
見え見えの懐柔策だ。
案の定、アイリス姫は一ミリの感銘も受けなかったようだ。
「さあ」とブッフバルト夫人の手がアイリス姫の方に近づくと、ぴしゃりとそれを彼女は弾く。
「触らないで! あなたなんかには従わない」
一瞬、ブッフバルト夫人のこめかみに浮く血管が、蠢いた。
「……結構です。ならば私なりのやり方をするまでです」
ブッフバルト夫人は大きく頷き、床に散らばる本やらを指さす。
「アイリス様、これらを拾って下さい……拾いなさい」
口調が厳粛で神経質な女教師のものとなった。
「いやよっ!」
アイリス姫はまだ机の上にある本を、ブッフバルト夫人に投げつけた。
ブッフバルト夫人に対し、完全拒否の立場を貫いている。
「わかりました。では使わせて頂きます」
ブッフバルト夫人は無表情になると、コンパスのように半回転し、部屋から出て行く。
「う、ううう」
アイリス姫は机に突っ伏し泣き出し、マリアを含む侍女達は、呆然と突っ立つことしか出来ずにいる。