第六章
ゴミを処理したルナの次の仕事はアイリス姫の下着を洗濯場に持っていくことだ。
デイミアンとの会話に少し時間を割いたせいで、彼女が内心立てていた予定が狂っている、足を速めた理由だ。
「そこのあなた」とそんなルナが呼び止められたのは、アイリス姫の私室の近くだった。
「はい」と振り向いたルナは衝撃に固まる。
常に被り続けている笑顔が消えかけ、緊張と驚愕の電気が全身に流れた。
そこにいたのは二人の30代後半くらいの夫人で、ルナが探している一人だった。
一人は、上等な服を着た女性だ。顔の中心に特徴的な高い鷲鼻があり、頬はこけ、神経質そうな印象だ。
そしてもう一人……ルナに声をかけたのは、豪奢な衣服を纏った……イルムヒルデ夫人だ。
ルナの心臓が駆け出し、体中の血がざわざわと鳴る。耳の奥にはきーんと鳴る何かがあり、彼女は奥歯を強く噛みしめた。
イルムヒルデ夫人。
現在のエリディス王国の王、コーリーニアス王の后であり、王妃という立場ながら政治にも頻繁に首を突っ込み、時に施策を変更させる女傑だ。
だが彼女の最大の武器は多産であることで、第五王女アイリス姫も含め、彼女には六人もの子どもがいる。
一人の王子と五人の姫だ。
ルナが教えられた所に寄れば、イルムヒルデ夫人は姫たちを周辺の有力国の貴族や王族と婚姻させ、エリディス王国の勢力強化を図っているらしい。
ルナは知らず、眼鏡に隠された目を細める。
イルムヒルデ夫人は今年三十八歳だ。
容姿は確かにそのくらいだが、厚い化粧で少し誤魔化されている。
かつては評判の美姫であった名残は確かに見て取れ、この歳にしては精気に満ちた顔色をしていた。
ルナは一瞬迷った。
──イルムヒルデ夫人がいる!
彼女は本来ならエンディミオン宮殿には滅多にいない。
どういう趣向か、エンディミオン市からは離れた田舎に、カリュケー宮を建て、そこで生活している。
若い貴族の男が、カリュケー宮に良く来訪するらしいが、ゴシップの域を出ない戯れ言だ。
問題は、今が好機ではないか、とのことだ。
イルムヒルデ夫人を殺す。
それは王太子ウィルフレッド殺害と同レベルの、最優先事項だ。
何せエリディス王国は当初、アルカンド王国への侵攻に消極的だった。
だがウィルフレッド王子とイルムヒルデ夫人の強力な後押しがあったらしく、アルカンド王国との戦が起こった原因の人物の一人と、断じれる。
そして……アルカンド王国のアレクシス王子……は……。
ルナの手が簪の針に伸びかける。
だが熱された本能を、微かな理性が止めた。
──ここで殺せるのはイルムヒルデ夫人だけだ。
ルナは何人も数えている。
エリディス王国の王族は勿論、英雄裁判に関わったもの全て。全てを殺すつもりなのだ。
その為に侍女として潜り込んだ。
その為にアイリス姫の下で働いている。
ここで仕掛ければ確かにイルムヒルデ夫人は殺せる。だがそれ以外は絶望的になる。
デイミアンとサイモンも失望するだろう。
ルナは全ての精神力を総動員して、殺意を抑えた。
「あなた」対し、イルムヒルデ夫人は眉根を寄せる。
「……わたくしの事を知らないの?」
ルナは慌てて横にのけ、道を空ける。
「そう……わたくしの顔は知っているみたいね。あまりに驚くのは分かるけれど、侍女ならば、自分より上の身分のものと出会うことも覚悟しておきなさい」
「はい、申し訳ありません」
声が震えないように苦心して、ルナは答えた。
「その服装、アイリスの侍女ね? アイリスはどこ? 部屋にいないわ」
「アイリス様なら西のサルーンにいらっしゃいます」
そこにはピアノがあり、アイリス姫はアレットとベラに唆されて、ダンスの会を開いていた。
「これなのよ」
苛立たしげにイルムヒルデ夫人が、傍らの女性に言う。
「まあ、これは大変だわ。私の役割が分かりました」
「分かってくれるかしら? カミラ」
「はい、後は全て私にお任せ下さい、ヘロイーゼ様」
ヘロイーゼ……ルナは聞き逃さない。イルムヒルデ夫人の名前だ。
となるとイルムヒルデ夫人の傍らの痩せた女性は、彼女とかなり親しいのだろうか。
イルムヒルデ夫人ともう一人の女性は、もうルナには用はないのだろう歩を進め出す。
ルナは大きく息を吐きかけた。
それで内心の葛藤にけりを付けたかったのだ。
だが……。
「あなた」
数歩進んだイルムヒルデ夫人が、振り返る。
「見ない顔ね? いつからアイリスに仕えているの?」
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