ストカ男 2
ストカ男2
お粗末なことに、ベソン男爵はライムジーアのことだけでなく、その家臣たちのことも記憶していなかった。
男爵の頭の中にはもはや、ザフィーリにどう躾を行うか、それしかなくなっている。
なので、酒宴であるにしても、それがいかに盛り上がっていようと、通常あり得えない時間を過ぎたと同時に家臣たちは行動を起こしていた。
男爵よりは頭の働く執事が余計なことはしてくれるなと家臣たちにあてがった部屋を外から施錠したのだが、残念なことに行動を止める役には立たなかった。
ライムジーアの家臣たちが行動を起こしたのは確かに夜遅い時間だったが、行動するための準備を始めたのはザフィーリとライムジーアが部屋を出るのと同時だったからだ。
男爵側の者たちは、ライムジーアと家臣にとってこれは突然の災厄だ、そう考えていたのだろうが、こちらは災厄があると知っていてまたは期待してここに来た。
その差がはっきりと出た。
ベソン男爵家の者たちは知らなかった。
この時すでに、中に入れた者を逃がすまいと固く閉じた門扉のすぐそばで、衛兵たちが猿轡をはめられ、簀巻きになっているという事実を。
その職務を今やライムジーアの守役が代行していることを。
とっくの昔に部屋から出ていたザフィーリの部下たちが、見張りや巡回の兵とすり替わっていたことを。
そして、気付かなかった。
邸内を当たり前の顔で歩くメイドの一人が、ライムジーアのメイドであることに。
なにより、爬虫類の男が床下に入り込んでいたことに。
騒ぎにならないようにと見かけた人間を片っ端から当身を当てて眠らせていたことに。
男爵家の使用人たちは、あっけないほど楽に眠らせることができた。
警護の兵も含めてだ。
シャルディには片目どころか両目とも塞がっていたとしても、楽に片付く仕事だった。
彼等にまったく仕事への意欲と、主人への忠誠心がなかったためだ。
だが、男爵が金で雇ったらしい傭兵の一団は、簡単にとはいかなかった。
「・・・!」
皇子たちの居場所を探して、邸内を影のように進んでいたシャルディが足を止めた。
右から撃ち込まれた刀身を、身体と手首を同時に捻って手甲ではじき返す。鉄同士が擦れあう音が響き渡り、火花が舞う。
鉄の臭いが辺りに散り、シャルディはくしゃみを堪える顔になった。
それでも、次の一撃を繰り出したのはシャルディだ。
音もなく引き抜かれた短いが刃幅の広い短剣が閃いて敵の剣を打ちつけ、相手の手から叩き落した。
うろたえたところに短剣の柄がみぞおちに撃ち込まれ、その兵士は声もたてずに崩れ落ちた。
傭兵の身体を、使われていないらしい部屋に引きずり込んでおいて、シャルディはさらに奥へ歩を進めた。
兵士に変装することや持ち物を根こそぎ剥ぐことも考えたが体つきが違うし、着替えているところを襲撃されることほど間抜けなことはない。
それに・・・。
「ランドリークじゃあるめぇし、追剥のまねなんかできるかよ」
持ち物をはぎ取るという発想をしたこと自体が不本意だ、とシャルディは爬虫類の顔でできる限りに顔をしかめた。
いずれ必ず発見されるであろうから、わずかに稼いだ時間を有効に生かすべきだった。
シャルディは俊足をとばして邸内をかけた。
爬虫類の足は、強い爪を持っているにもかかわらず、音を立てることなく油断ならない戦士を移動させてくれる。
二人目の傭兵は、廊下の曲がり角を曲がった向こうにいた。
匂いと体温を感じた。
たくさんの人間の血を吸ったらしい剣の、錆びの臭いが存在を教えてくれている。
シャルディは身を低くして上体をほとんど床に付けんばかりにした。
傭兵が出てくるタイミングに合わせて素早く飛び出すと、相手の足元をすり抜けて身を起こし、続いて手刀を首筋に叩きつけた。床に叩き伏せた傭兵の顔を引き上げて問う。
「ライムジーア皇子とザフィーリはどこにいる?」
「し、知るか」
その答えに対して、シャルディは問い直すことをしなかった。
幅広の短剣を兵士の顎の下に当て、手首を捻った。
兵士の喉に赤い輪ができて、細い血の線が宙に弾けた。
無駄な破壊は一切せずに、首の皮だけを切り裂いて見せたのだ。
「俺に現役のときみたいな拷問をさせないでくれないか?」
はったりだ。
だが、傭兵はリザードマンの黄色い片目に射すくめられていた。
短い喘ぎを漏らすと、かろうじて片手を持ち上げて指を下に向けた。
「床下を北に進め」
短い言葉だが、一度床下に潜ったシャルディにはピンときた。
「ああ、そういうことか」
シャルディはうなずき、傭兵のこめかみを靴先で蹴って気絶させると、再び床下にもぐりこんだ。
貴族の邸宅の地下に広がる地下迷宮、傭兵業で各地を渡り歩いたシャルディには目新しさの欠片もない遊び場だった。
足の裏に感じる床の踏みしめた時の感触、鼻につく臭気と、鱗を濡らす湿気でだいたいの広さと質が分る。
出口がいくつあるのかも。
「へったくそな迷宮だな」
口元を歪めて、シャルディは嗤った。
構造が単純だった。
駆け出しの建築家だって、もう少しましな図面を引くだろう。
邸宅の主が自分の趣味とセンスを押し付けたのだろうが、出来上がったのは役立たずだ。
「ああ、やっぱりそうなのか」
と、聞き覚えのある声がした。
シャルディは驚かなかった。
匂いがしたのだ。こんな地下室には似合わない、花の香水の匂いだ。シアが、たくさんの洗濯物を処理しつつ皇子の服にだけつけている匂い。
「おや、皇子にも退屈でしたか?」
「明かりがあれば、自力で出れたと思うよ」
ただし、出た瞬間に首を刎ねられたかもしれないが。
出口の近くまでなら、明かりがなくても行ける。
問題は、明かりなしで出口の仕掛けを見つけて開けることができるかどうかだ。
なにかしら罠があるかもしれないのに。
まぁ、だからこそ動かずに助けを待っていたのだが。
「私を躾けたいのなら、傷をつけるような罠はないのではありませんか?」
シャルディに手を引かれる皇子に、さらに手を引かれながらザフィーリは疑問を口にした。ちょっと非難の色が感じられる。
皇子にいろいろと言ってやりたいのだが、実際に言うとなると躊躇するので、別の言葉に思いをのせているのだ。
「そうかもね。ただ、ベソン男爵の好みの女性になるのに、腕や足がないことはあまりマイナスにならないのかもしれないよ?」
手や足だけを傷つける罠ならあるかもよ?
というわけだ。生きていて詩を読める目と口があればいいとなると、手足は邪魔とか言われかねない。
少なくとも、手が二本ともなければ肉を手掴みで食べることは永久にできなくなる。
「・・・吐き気がします」
「そうかい? でも、ひとつ言っておくと、僕も手足がなくなってるくらいで女性を嫌いにはならないからね? 戦場で手や足を落しちゃっても、僕の前からいなくなったりしないでよ? ・・・えっと、これも吐き気がしちゃう?」
「・・・・・・いえ。命ある限り、お仕えします」
「うん」
嬉しげな声が暗黒の中で響いた。
暗闇はまだ続いている。
三人の歩長が緩くなり、言葉数が減った。
異様な臭気が、行く手から漂ってきている。
躊躇いつつも、出口はこの先にあるはずで、十数個目の曲がり角を曲がった。
臭気の正体がそこにあった。
この状況を作るのに必要だったのだろう明かりが、天井付近から射しているので、嫌が応にもそれが目に入ってくる。
ザフィーリが両手で口を抑えたのは、悲鳴と嘔吐感の双方を抑制するためだ。
ライムジーアも、不快感を堪えるのに努力が必要だった。
彼等の前には、かつて死体だったものが蓄積されていた。
高い湿気のために新しい死体は腐汁のようなものに覆われ、食い散らされた肉や骨の向こうで、ネズミの群れが突然の侵入者たちに敵意の鳴き声を放ってくる。
この一年か二年余りで行われたのだろう悪行の証拠がそこにはあった。
「何者の死体でしょうか?」
ようやく心臓の鼓動を整えたザフィーリが、言葉を吐き出した。
「そうだな・・・なんでもありだな」
一人、さほど気分を害した風でもないシャルディが小さく首を傾げた。実に爬虫類っぽい動きだ。
ついでに、死体だったものの山を横目に、再び闇の中へと歩みを進めている。
「なんでも?」
言い方に引っかかってライムジーアが聞く。
「農民に流しの商人、役人に傭兵・・・貴族もいそうだな」
「な、なんでわかるんだ?」
「服ですよ。腐ったにしても、夜会用のドレスがつぎだらけのチュニックにはなりゃしねぇですからね」
ああ、なるほど。
それはそうだな、と納得した。
納得したところで、ライムジーアが立ち止まる。
どうかしましたか? とザフィーリが聞く時間はなかった。
鞘走りの音がかすかに聞こえたかと思うと、頭上で刃物が肉に突き刺さる音が聞こえたのだ。そして、ぶしゅぷしゅと空気の漏れる音も。
「咽喉か口を裂いちゃったみたいだね。たぶん、天井の隙間からこっちを見ていたんだろう・・・盗み聞きの方かな?」
この暗さでは、明るい外にいる男爵にもこちらの様子は見えないはずだ。暗視能力でもあればともかく。
だから、床板に顔を押し付けんばかりに身をかがめていたのだろう。床に這っていたのかもしれない。どっちだろうとかまわないが。
「なぜ、おわかりになったのですか?」
気配を感じることもできなかったザフィーリが沈んだ声で聞いた。
親衛隊長たる自分よりも先に、守る相手の皇子が敵に気付くようでは、親衛隊長の能力が不足していることになる。
話にならない。
危機感で震えるザフィーリに、リザードマンが簡単なことだとばかりに笑い声を上げて彼女を引っ張った。
一歩前に出たザフィーリの顔にほのかな灯りが当たった。
天井の一部に隙間ができて、線状の光が漏れている。
「迷宮の何たるかを知らない愚か者らしい失敗、だね」
ライムジーアの遠慮のない笑い声が、暗鬱たる迷宮を吹き抜けていった。
「この高さなら、手を伸ばせば届きそうだ。・・・と、やはり届きやがる。ちょいとお待ちくだせぇや。いっちょ、うえに上ってみますんで」
落とした相手を殺さずに苦しめるのが目的らしい迷宮は、天井が低かったらしい。シャルディが言うと同時に天井に手を伸ばした。
「ああ、なんだ。隠し階段がある。どうやら出口・・・いや、男爵様専用の入り口といったところですね」
ガコンッと結構な音がしたかと思うと、大量の光りとともに階段が下りてきた。
登っていくと、そこは寝室で、ベソン男爵家最後の当主が鼻から短剣の柄を生やして息絶えていた。
「すいやせんね」
「ん? なにがだい?」
「殺しちまわない方がよかったんじゃありませんか?」
気遣わし気なシャルディに、ライムジーアは微笑んで見せた。
死臭のせいで笑顔は少し歪んだが、それはどうでもいい。
「殺したこと自体に大した問題はないよ」
帝国貴族の死。
通常であれば、そこそこの大事件である。
ベソン男爵家所領と境を接している貴族たちにとっては、おのれの領地を増やす好機になるかもしれない。
または、勲功多き騎士階級の者にとっては、爵位を得る好機でもある。
大事件だ。
だが、民衆にとってはどうでもいいことだったし、領地を接しておらず、すでに爵位を持つ大貴族にとっても、たいして意味がない。
せいぜいが夜な夜な繰り広げられる社交界という名の魔窟で、笑い話のネタになる程度の話だ。
そこそこのニュースでしかない。
社交界を開くことがなく、たいして才能もないひきこもりの、貴族の子女に恋文を送りつけまくるストーカー男の死は、何十人かの乙女に安堵を与えただけのこととして葬られるはずだ。
ただ、その死に帝位継承権18位のライムジーア・エン・カイラドルが関わっているとなると少しばかり事情が変わってくる。
「僕のせいで、というのが少し問題視されそうだけどね」
そうは言いつつ、ライムジーアはあまり深刻そうには見えなかった。
「なにか、手を考えておいでなのですか?」
ライムジーアは答えず、すっと扉を開ける。
男爵家の執事が、跪いていた。
死刑執行を待つ罪人のように。
コホン、乾いた咳を一つしてから、ライムジーアは執事のそばまで歩み寄った。
「ベソン男爵閣下には、過分のもてなしを受けた。いずれ帝都に帰りしときは、男爵の慈愛を世間の者に伝えようと思う」
「・・・は?」
執事は土気色の顔で、ライムジーアを見上げた。
「ただ、残念なことに・・・ベソン男爵は部屋にこもって、帝国史に残る一大恋愛ロマン譚を執筆中のよし。五年から十年は部屋から出てきてくださらないのではないかな?」
わかるだろう? と、ライムジーアが笑みを浮かべて手を差し出した。
悪魔の契約である。
つまり、ベソン・セーノ・ブルスト男爵は死んでなどいない。
生きている。
だが、その情熱の燃え盛る炎に誘われるまま書斎に籠った男爵は、寝食を忘れて壮大なる物語の執筆を行っており、完成するまでは相手が誰であろうとお会いにはならぬであろう。
そういうことだ。
「さ・・・さようでございますな。男爵様のご気性なれば、そうでございましょう。御本の完成したる暁には、盛大なる祝賀会が開かれましょうゆえ。そのときには是非に、ご参加くださいますよう」
意味を理解した執事が、震えながらもしっかりと返答した。
ライムジーアの手を借りて立ち上がる。
「そのときはいの一番に駆けつけよう」
固い約束をして、ライムジーアはザフィーリとシャルディを振り返った。
二人とも、呆れ果てた、という顔で頭を振っていた。
ベソン男爵邸には結局二晩逗留した。
存分に食べて飲んで寝たのだ。
最後には親愛なるアルティーシア母上様に、『控えめな苦情』の手紙を出してもらうよう執事に念を押してから出立した。
僕は行く先々で嫌われている方が、あの方の御意に叶うだろう。