ストカ男 1
ストカ男 1
翌朝、野営を畳んでいるうちから暗鬱とした村々とは離れられるという予感に身が震えた。
空気すらも変わったような気がする。
街道を進み始めると、それが真実であることを目の当たりにした。
平野が広がっている。
ごつごつした荒れ地と、ぬかるみしかなかった先の領地とはまさに雲泥の差があった。見渡す限り草が波打っている大草原で、うねりのない場所はところどころしかない。
黄色く乾燥した草を撫でつけていく風は身を切るように冷たく、道すがら上空に黒っぽい雲がかすめ飛んでいく。
「この辺りから、ベソン・セーノ・ブルスト男爵の所領に入ります」
窓の外に目を向けたシアが、小声で報告した。
・・・誰だっけ?
考えて・・・考えて・・・・・・思い出した。
口元が皮肉っぽく歪むのが意識できた。
シアが少し咎めるような視線を向けてくる。
「ザフィーリ!」
騎馬で少し先を進んでいた親衛隊長が馬車の横に馬を寄せてきた。
「・・・なんですか、皇子様?」
半目のザフィーリが警戒の滲む口調で聞いてくる。
「男爵に挨拶に行かないか?」
「・・・必要とは思えませんが?」
常にない硬い返事が返ってくる。
予想した通りの反応で、つい意地の悪い笑みが浮かびそうになった。
ベソン・セーノ・ブルスト男爵というのは、ザフィーリに求婚している貴族なのだ。再三にわたりてひどく振られているのだが、日に三通は恋文を送りつけてくる。
あくまでも噂だが、ザフィーリが乗った馬の糞をすら食べるほどの偏執ぶりと聞く。
前世の言い方に直せば、どこに出しても恥ずかしくない完璧なストーカー男だ。裁判所から接近を禁じられる判決がすぐに出るか、即刻精神科病棟に隔離されるレベルの。
ザフィーリが嫌悪するのも当然だろう。
他の貴族からの評判はと言えば、芸術家的な気質の所有者である。というものだった。
この、『芸術家的な気質の所有者』というのが、男爵の実態を実にうまく表している。
あくまでも気質がであって、それは才能の存在を意味していないのだ。
その事実から、ベソン男爵自身は視線を逸らして、自分に芸術の才能があると信じ込もうと努めた。
詩を書き、戯曲を書き、庭園を設計し、フルートを演奏し、油絵と水彩画を描いた。
ことごとく、ものにならなかった。
どの分野においても、他者の才能を貶すことだけに長じていたのだ。
こうして、ついにベソン男爵は事実に直面せざるを得なくなった。
彼には、芸術のどのような分野においても、他者の感性を刺激するだけの創造を成しえるセンスがなかった。
あったのは、充分な権力と富だ。
その両者を活用する才覚があれば、多くの創造的な才能を保護育成し、芸術の理解者としての名声を後世に残すことができたかもしれないが、彼にはそれすらもなかった。
最近では陰湿な嫉妬から若い芽を枯らせ、折り取ることに情熱を傾ける有様だった。
そのため、芸術界からも社交界からも相手にされなくなっている。
そのせいかどうかは知らないが、かつては一国の王女で、今や日陰者の皇子の親衛隊長に身をやつしている―――ベソン男爵の私見ではそうであるらしい―――ザフィーリをことのほか好ましいものと考えているようなのだ。
「だがな、考えてみてくれ。今までは城の中に居たから手紙で済んでいたが、こうして外に出たからには。直接会いに来るとか、力ずくで奪おうとか考えないとは言い切れないだろ? もちろん、それが君自身にだけ向くのなら、君に実害はないだろうけど。僕に向けられたら?」
「?!」
「僕を殺せば君を自由にできる、とか考えたら・・・どうなる?」
その可能性は充分にある。
「・・・ご挨拶をすれば、その危険がなくなるとお考えなのですか?」
「死体は嫁を捜し歩いたりしないよ」
「っ?!」
ムンクの『叫び』美少女版。
そんなタイトルの絵が描けそうな顔をザフィーリは見せ、僕をまじまじと見つめた。
「厩の掃除ついでに、浴室のカビ取りもしていこう」
本音を言えば、誰であれ僕たちの行き先を探り出しそうな輩がいては困るのだ。
わざわざ行き先を変えてまで会いに行こうとは思わないが、幸か不幸か、領内に入ったというのなら寄ったついでに片付けておこうと思うのは自然な流れだ。
「よろしいのですか?」
「男爵は僕ほど警戒されてはいないけど、僕以上の嫌われ者だ。死んだと聞いて、清々したと乾杯する者は大勢いるだろうけど、犯人をなんとしても見付けだして罪を問え! という者は少ないんじゃないかと思うよ」
「それは、そうでしょうが・・・」
ザフィーリがこれ見よがしに溜息をついた。
「わかりました。ご挨拶に参りましょう」
ライムジーアは声を立てて笑った。
「そんなにふくれないで、あくまで礼儀上のことさ。出された料理を食べて一晩泊めてもらうだけのことだよ」
・・・向こうが紳士であればね。
心の中で付け加えて、ライムジーアは自分の読みがどんな結末を迎えるかに思いを馳せた。おそらく、前世も今世も含めて人生で初めて人を殺すことになるだろう。
でも、それがどうかしたか?
僕はきっと生きていくだけでたくさんの人を殺すことになる。
殺した人間の血に首まで沈んで生きることになるだろう、その最初の一滴がベソン・セーノ・ブルスト男爵だったら、どうだというのか。
たいした問題ではない。
道を少し逸れた一行はその日の夕刻、ベソン・セーノ・ブルスト男爵邸の客になった。
男爵が狂喜して出迎えてくれた。
男爵邸は壮大な門構えをしていた。縦と横がもう一回り大きければ、皇帝宮の正門より豪勢なものと誰もが言うだろう。つまり、大きさでかろうじて負けてはいるが、豪勢さでは皇帝宮にも勝る。
もっとも、他の貴族たちに言わせれば豪勢に『見える』だけのガラクタ、そう呼ばれているそうだが。
門が開かれ、騎馬と馬車の群れは館の内に招じ入れられた。
邸宅の敷地内だというのに正面に針葉樹の林がある。園路は緩やかな弧を描いていて続いていて馬車が進むにつれて、移り行く視界が邸宅の偉容を浮かび上がらせた。
褐色の砂岩で築かれた三階建ての建物で、やたらとステンドグラスが目立つ。
・・・たとえポケットに入るとしても、この建物はいらないな。
どちらかというと寒色系が好みの僕としては、この邸宅には興味が湧かなかった。
男爵は赤紫を基調とした配色の服と、無駄な羽のせいで重そうな羽帽子とをまとって、ザフィーリを、ついででライムジーアを迎えた。
宴席が設けられたが、見事なほどにザフィーリに媚びたものになっていた。
料理がほぼすべて女性好みのきらびやかで甘いものだったし、何よりザフィーリが必死に怒鳴るのを我慢して、全身の筋肉で舌を抑制して、席順を間違えていることを指摘しなかったら上座にザフィーリを、ライムジーアを従者の席に座らせるところだった。
それどころか、もう少しで宴席に招くのさえ忘れるところだった。
ギリギリでそれは皇族への非礼と気が付いた執事が呼びに来なければ、本当に忘れられていただろう。そんなだから、他の者は一人たりとも呼ばれていない。
シアすら扉の前で門前払いを食らって、ここにいない。
ザフィーリには特別にあつらえたらしい青い色のドレスまで用意されていたが、ライムジーアにはぞんざいな会釈しかなかった。そこまでして歓心を引こうとする男爵には悪いが、ライムジーアの見るところ二人にはどうしようもない隔たりがあるように見えた。
まず、会話が成り立たない。
全く噛み合わない。
それだというのに男爵は気が付かないらしく、音楽や芝居の話題が一段落して宴が男爵にとっては佳境に入ると、熱っぽく語り始めた。
「そなたには淑やかで貞淑な妻、そしていずれは賢く優しい母親になってほしいものだ」
天井を仰いだライムジーアは盛大に溜息をついて、もう男爵のことは放置して食事に集中することにした。
もう少し面白い展開を期待していたのだ。
二人が激しく言い合ってくれるのを。
だが無駄だと悟らざるを得なかった。
「無理です、それは」
同感と見えて、ザフィーリは冷淡に返した。
「人には向き不向きがあります。私にはそのような役をこなすことはできません。十年前に声をかけてくださっていれば、あるいはそのようなものにもなれたかもしれませんが、今となっては不可能です」
食卓の中央に置かれた鳥のもも肉に手を伸ばすと骨の部分に葉野菜を巻いて掴んで、そのままかぶりついた。
口の端にタレが付くが構うことなく、舌で舐めとる。肉を食いちぎっては咀嚼し、再びタレを舌で拭う。
ベソン男爵は舌の動きを見るたびに、おぞましげに身を震わせた。
なんのことはない食事の風景が、貴族様にはとんでもなく下品に見えるらしい。
かつて、同じような場面で肉を取り合ったこともある皇子が、自分と同じことをしながら面白そうにしているのがザフィーリに奇妙な安心感を与えた。
同じ目線で話ができる相手だ、と。
やはり、自分とこの貴族とは相容れぬのだと。
「か、かつては一国の姫でもあった女性が、肉を手づかみで食べるなどと・・・・」
「私には触手などという便利なものはついていません。ものを食べようと思えば手を使うしかありますまい?」
「ナイフやフォークがあるではないか! 小さく切って、一口ずつ食べればよいことだ」
「そんなことをしていては肉が冷めて硬くなります。かぶりつくのはせっかくの馳走、おいしくいただくのが礼儀と思うてのこと。男爵様にはどのような不満がおありなのでしょうか?」
「私が完璧な女を欲しているからだ」
これだけは明快に、男爵は断言して見せた。
「私は、ザフィーリ姫、貴女をこの国で最も美しく優雅で上品な貴婦人に育てて差し上げる使命を、運命の女神に与えられたのだ」
「無駄な使命感は本人には浪費だし、周囲には損害にしかなりません。この国には適した年齢の女性が二千万はいるはずでございます。私などを選ばずとも、いくらでもお望みの女性はおりましょうに」
貴族の妻になれるのなら、男爵の趣味に付き合ってもいいと思う女性だって二、三百人はいるだろう。
「これほど言うてもだめか」
ベソン男爵は落胆の色をあらわにした。
「帝国貴族の一人たるこの私が、これほど心を込めて愛しているというのに」
「願い下げです!」
ザフィーリはとうとう大声を上げた。
「あなたの一方的な愛とやらを受け容れるくらいなら生涯、男と無縁でいる方を選びます。あなたと私では、生物としては同種でも、生きている世界が違うのです」
ザフィーリが口にした世界とは、もちろん異世界のことではないし、地位や身分ということでもない。いわば、文系か理系か、はたまたスポーツか、というようなことの極端な差だった。
男爵の好みは、詩や絵画、舞踏といった文科系の女性であり、ザフィーリの性質は馬や剣、ぶとうはぶとうでも武闘の方に傾いている。
至上の愛とやらを満喫したいなら、同じように恍惚として美辞麗句を紡ぐ女性としていればいい。なにも好き好んで真逆の世界にいるザフィーリを対象とすることはない。
迷惑きわまる。
そういう意味だ。
ベソンの頬が歪んだ。
奇怪な歪み方だ。
変化は突然だった。
ザフィーリの足元の床が口を開いたのだ。
蒼いドレスが、大きな花のように開いて、床下に落とされた。
怪我がなかったのは反射的に身を丸めたのと、穴の底に厚く布が敷き詰められていたからだ。この穴は閉じ込めるためのもので、傷つけるのが目的というわけではないのだろう。
「ベソン男爵、どういうことですか、これは?」
頭上の四角い穴に向かって、ザフィーリは鋭い怒りの声を発した。
穴の淵から、ベソン男爵の顔がのぞく。
「まことに美しい。人形の美ではなく、生気に満ちた美しさだ。私の手にその身を委ねていただけるなら、もっと輝かせてあげられる。野に置くのは惜しい」
「私は自分が立派な戦利品だとは思いませんし、女性に対する男性の好みもちゃんと理解できたことはありません。が、どう言い逃れたところで今あなたがなさろうとしている不名誉な所業を正当化することはできますまい?」
体勢を立て直しつつ、痛烈な問いをザフィーリは投げ上げた。
上方からは嘲笑を含んだ声が落とされてきたが、そこには陶酔の粒子が多分に含まれていた。
「美しき神像を厨子に納め、貴重な磁器を箱にしまうは美術家の嗜み。不名誉なことではない。これもすべて純粋なる愛ゆえだ。このような形で表現するしかない私の苦しみを、どうか察してくれ」
どこまでも主観的な愛を、ほざくのは当人の自由だ。
それを受容する義務など、ザフィーリにはない。
「そのようなものが愛でなどあるものか」
言うより早く、ザフィーリの手が小さなものを投げ上げた。
ベソン男爵の顔にそれが命中した。
わっ、と異様な叫びが発せられたが、飛んだものは鳥のもも肉についていた骨だった。
実害と言えば、わずかな痛みがあっただけのはずなのだが、ベソン男爵は目を抑えて床に転がった。
慌てて執事やメイドが助け起こしたが、笑いを堪えている気配を感じ取って男爵は恥辱で真っ赤になった。
「どこまで野蛮なのだ。こうなれば意地でも作法を教えてやる。それまで穴からは出れぬと思え」
独創性のない捨て台詞が吐かれ、蓋が閉ざされた。
暗黒が辺りを支配する。
「んー。なかなか凝った趣向だよね」
と、不意に声をかけられてザフィーリは飛びあがった。
飛び上がると同時に声の主に思い当たり、全身から血の気が引いた。
「お、皇子、様?」
「うん。一緒に落とされたんだよ。元々僕の座ってたとこに君を座らせるつもりでいたみたいだし、あと、僕の存在は完全に忘れ去られているらしいし、ね」
そういえば、とザフィーリの顔からさらに血の気が引いた。
この暗さでは誰にも見えないだろうが。
「も、申し訳ありません!」
これも見えはしないのだが、ザフィーリは背中が見えるほどの角度で頭を下げた。
「あー、いいからいいから。男爵に挨拶しようと言ったのは僕なんだし、ザフィーリに責任はないよ」
やっぱり見えはしないが、ライムジーアは片手をひらひらさせた。
「ですが・・・」
「心配しなくていい。こうなる可能性はもとから予想していた。・・・まあ、さすがに床下にこんな仕掛けがあるとは思っていなかったけどね。何かされるのは予想できた。シャルディたちが何とかしてくれるさ」
全然見えないが、肩をすくめたライムジーアはゆっくりとザフィーリに近づいた。
そっと伸ばした手が、ザフィーリの肩に触れる。
「あ、ここか」
そこを起点にして、ザフィーリの位置を知ったライムジーアはくるりと回ってザフィーリと背中合わせに立った。
「こうすれば寒くないだろ? 少なくとも背中は温かい。それに立っているのも楽だ」
夏ではあるが、地下は底冷えがした。
ライムジーアにはそれほどではないが、背中ががら空きのドレスを着ているザフィーリには少々こたえるだろう。
互いの背中を温め合い、支え合いながら、二人は待つことにした。
来ると知っている。仲間の救援を。