蛇ィ―
蛇ィー
標的は城の最上階。
わかりやすい。
ライムジーアは見張りを務めていた兵士たちも呼び寄せ、全員で城を上り始めた。
バラバラになったら、逃げるときに誰かを置き去りにしてしまうような気がしたからだ。
もちろん、万一そうなったときにはフィアンサの下で手伝うようにとは指示をした。それでも、できれば離れ離れにはしたくない。
「上にはどうやって上りますか?」
ザフィーリが聞いてくるが、答えたのはフファルだ。
いつのまにか先頭に立って進んでいたのだ。
「階段を上るんだよ」
「監視がいるでしょう?」
声を落しつつもザフィーリがツッコむ。
「もういない」
呟くように答えたフファルの脇の下に、薄汚れた頭が挟まっていた。ゴキリ、という不気味な音がして、その頭と持ち主は静かに床へと落ちた。
階段を昇り詰めると、鉄の閂に鎖と錠のついた門が行く手をどっしりと阻んでいた。
「不用心だねぇ」
見た目は物々しいが、錠は外れたまま放置されていた。
押すとカチッと音を立て、普通に開く。
「罠ということはありませんか?」
シャハラルが心配そうな声を出した。手はしっかりと剣の柄を握っている。
「城の中に入るには門を通らなくてはならない・・・過去の歴史を知らない想像力の欠如した人間ならそう信じて疑わないってことだろうね」
鼻で笑って、ライムジーアはそう断じた。
穴が開いていることを完全に忘れていて、街の外から城の地下にもぐりこんでくるとは思いもしないのなら、警戒する気にならなくて当然というものだ。
まして、ここにいるのが『飲み物』を常習している中毒患者ばかりとなれば。
そのとき、どこか上の方で何かをこするような音がした。
階段の踊り場、わずかながら味方の兵士との間に隙間ができる瞬間を狙われたらしい。
反射的に頭上に目を向けた。
螺旋を描く階段の上の方から黒っぽい人影が飛び降りたかと思うと、猫かと思うような静かな身のこなしで目の前に着地した。
ライムジーアは剣に手をかけ、急いで相対した。
ここまで、全く役に立たない飾りだったが、ついに使う時が来たらしい。
「お前が一番弱そうだ」
その男は、よだれを垂らしながら落ちくぼんだ眼を可能な限り見開くと低い声で笑った。
「僕に近寄るのはやめた方がいい」
ライムジーアはシャルディに教わっていたように剣の先を低く構えて警告した。
「こういう刺激的な日がいつか来ると思っていたんだ」
男は剣には目もくれずに言った。
大きく広げた両手、わずかに屈めた腰、精神に異常を来したもの特有の目がギラギラと光っている。
ライムジーアは威嚇するように剣を振り回しながら、じりじりと後退った。
男が片側に飛び退くと、ライムジーアは本能的に剣の先で彼を追った。だが、男は目にもとまらぬ速さで身をかわし、素手で皇子の前腕を激しく打ち付けた。
ライムジーアの剣はあっという間もなく弾かれてどこかへ飛んでいった。
窮地に追い込まれたライムジーアだが、その顔には笑みがあった。
これだけやれれば充分だったから。
ザン!
布が肉と一緒に切り裂かれる音が響く。
音もなく崩れ落ちる男の陰から、少し息を乱したザフィーリが現れた。振り下ろしたばかりの剣が少し震えている。
「皇子様! ご無事ですか?!」
顔面蒼白になって、叫ぶように聞いてくる。
「もちろんだよ。君が間に合わないほどの窮地には立たないから心配するな」
後ろから付いてきている兵士が、飛んでいった剣を手渡してくれるのに会釈を返しながら、皇子は信頼する近衛隊長にそう答えた。
階段は階が上がるごとに広くなっていった。
最後の戦場ということなのか、身分の高い者は狭い階段を上ってはならない決まりでもあるのか、理由は知るすべもないがゴールが近いのは確実に判断できた。
「一番上の階の入り口には二人の護衛がいるはずだ。デセスが自分が何者かもわからないほど壊れていなければ。または護衛するべき者が役目を忘れていなければ」
「では不意を襲いましょう」
ザフィーリが小声で言った。
「その必要はないよ。護衛が自分の役目を覚えているなら、君たちは充分な距離まで近づくことができる。ただ、速やかに静かに済ませてくれ」
皇子は懐に手を入れるとすべすべした表面の青白い、丸みを帯びた石を取り出した。
それからザフィーリとシャハラルをすぐ後ろに従えて、他の兵士たちはその場に残るよう合図して、最後の階段を上り始めた。
わずかにカーブした階段を上っていくと、やがて前方に光が見えてきた。
精巧に作られたオイルランプが四つ、扉の左右上下に左右対称に吊るされて、壁と扉、そして護衛の兵士とを照らしていた。
人工物がすべて、シンメトリーを形作っているというのに、護衛はあまりにも歪だった。
右側は長身で、軽装。
左側は小柄で、重装備だ。
「世界で並ぶものなき美しい方に近づこうとするおまえたちは何者だ?」
長身の方が、剣の柄に手をかけて尋ねた。
厳かに聞こえるよう努力したらしいが、見事に失敗している。
「女王陛下より賜りし証がここに」
皇子はもったいぶって答え、先ほどの石を両手で掲げた。
ナーガ族の女王に下賜される伝統ある石だった。
この儀礼は、たとえ追放された元女王でも変えてはいないはずだ。
ビボラ・フェアーテ女王のときには、あんなだったから結局使いどころがなかったが、ここでは使えるだろう。
「こちらに参れ」
「いと気高き女王陛下の恩名に感謝します」
ライムジーアはザフィーリとシャハラルを両脇に従え、堂々と階段を上がりながら、声高に言った。
階段を上がりきると、護衛の前で立ち止まった。
「女王陛下に献上の品を」
ザフィーリに対し、なにかを促すようなしぐさをして、皇子は一歩引いた。
護衛の一人が、なにかを受け取ろうと手を伸ばした。その瞬間、ザフィーリが下から拳でその腕を殴りつけた。もう一方の手で驚愕している相手の喉元を締め上げる。
もう一人の護衛はすかさず剣の柄に手をかけたが、シャハラルが針のように尖った細長い短剣の先を右の脇腹に突き刺した途端、うーっと呻いて身体を二つに折った。
いかに重装備でも、間接まで鉄で覆われてはいないのだ。
女騎士は恐ろしい集中力で短剣の柄を捻り、先端を護衛戦士の体に深く食い込ませた。
ついに刃が心臓に達すると、護衛はブルブルッと体を震わせ、ゴボゴボと長い息を漏らして床に崩れ落ちた。
その間に、ザフィーリの方も細い体のどこにそんな力がと思わせる握力の中で、最初の護衛の首の骨が耳障りな音を立てて二つに折れた。
護衛の足はしばらく床の上をヒクヒクと掻いていたが、やがて力尽きたと見えてグニャリとなった。
「少々手間取りました」
ザフィーリはそう言って護衛の体を下に落とした。
「さてと、あまり気の進まない仕事だけど、それだけにやらないわけにもいない。さっさと終わらせて、旅に戻るとしよう」
命を狙われ続ける旅も、命を奪うこと前提の仕事よりはましだ。
ライムジーアは大きく息を吸い込むと、鉄のドアの取っ手に手をかけた。
そして、押し開いた。
扉の向こうは、人の住むべき部屋ではなかった。
煙混じりの赤い光に包まれ、納骨堂のような異臭が充満している。
それもそのはず、その部屋はこの世の恐怖のほぼ半分でうずもれていた。
部屋の中央には拷問台が据えられ、壁際には鞭と大小さまざまな木の棒がかかっている。
壁に近いテーブルの上には、ピカピカの鋼でできた残酷な道具の数々が整然と並べられていた。
かぎ針、鋭く尖った大釘、そして鋸のような刃を付けた恐ろし気な道具。その刃の隙間には、まだ骨と肉の破片が少し残っている。
奥に進むにつれ、血の臭いが濃くなった。
「元女王がまともでないのは確定だな」
フィアンサが殺そうとするわけだ、とライムジーアは頭を振った。
『飲み物』以外のモノにも、若さと美貌を求めた結果だろうと思えたからだ。
前世世界でも、中世には若さと美貌を得ようと若い娘の生き血に身を浸した伯爵夫人がいたという。
胸がむかつくのを堪えて奥へと進む。
急いだおかげか、奥のドアにはすぐに辿り着いた。
どうやらここが終点らしい、気が付いたのはドアに無造作に取り付けられた双頭の蛇の紋章のおかげだ。
代々のナーガ族女王が使うことになっている紋章。
追放されたデセス・ベランサにはその資格がないのだが、資格を失ったと認めていないのだろう。
認めるだけの理性も、知性もなくしているだけとも言えるが。
皇子がドアを押し開けた。
ドアの向こうの部屋にはなんの飾りもなく、がらんとした印象を与えた。
石の床に絨毯はなく、暗闇を見渡す丸窓にもカーテンは見えなかった。
壁から突き出した燭台の上で炎を上げている蝋燭もきわめて簡素で、部屋の中央に据えられているテーブルも何の変哲もないものだった。
そのテーブルの向こうに、人影があった。
こちらに背中を向けて立っている。
テーブルの陰になっているので、下半身は見えないが、上半身は間違いなく女だ。
光りが透けるほど薄い布を緩やかに羽織っただけの出で立ちのために、豊かな乳房がシルエットでもそうと知れるだけの存在感を放っている。
「ずいぶんと待ったわ」
その女は振り向きもせずに言った。聞き取りにくい声だった。
帝国語だが、ときおりシューシューという音が混ざるのだ。
それがナーガ語の罵りの言葉だとは、皇子以外には理解できないものだった。
「どこかで殺されてしまったのではないかと心配し始めていたのよ」
「何度かちょっとしたことで足止めされたものでね。あまり長く待たせたのでないといいけど」
「わたしには気を紛らわせるのに適した趣味が多いから、それは心配いらないわ。ほんの何人か余計にバラバラにしただけ」
クククッ、と笑い声を上げて、デセス・ベランサは振り返って皇子の顔を見た。
彼女の髪は、煤けた白色で、かなり長かった。顔は綺麗で肌も張りがあるが、瞳は牛乳を流し込んだのかと思うほど白く濁っていた。
唇は異様に赤く、死人のような白い肌の上ではおどろおどろしいとしか見えなかった。
そして、視界に入ってきた蛇の下半身は、まるで固まった血のような赤黒いものとなっていた。本物の血がこびりついているのかと疑うほどのものだったが、そうではなかった。
なにかの理由で変色したようだ。
もともとの色がどんなだったかはわからないが、通常あり得る色だとは思えない不気味さを醸し出している。
「あまりいい趣味とは思わないけどね」
残念そうに頭を振る、ライムジーア。
「共通の趣味がないか探さないといけないようね」
しゅるり、蛇の体が床をこすった。
一気に間合いを詰めてくるデセス。
そのとき、皇子の右横をもうひとつの人影が通り過ぎた。
デセスは脇腹を激しく蹴りつけられ、うめき声を漏らした。
一端は倒れたものの、素早く床を転がると、すぐに立ち上がった。
蛇の体をくねらせ、目の前の宙で両手をゆっくりと動かした。
ザフィーリは長剣を剣帯ごと外して手近のテーブルに置くと、腰を低く構えて、デセスと同じように両手を大きく広げた。
無手の相手に剣を使うのは、プライドが許さないのかもしれない。
デセスはニヤリと笑った。
「気高いことだね。皇子の近衛隊長様は」
「あなた程度、剣の錆にするまでもないということです」
デセスはザフィーリの顔めがけて素早く手を動かしたが、女騎士は軽々とそれをかわした。元女王はフッフッと笑い、優雅、と評したくなるようなゆっくりとした動きで左右に身体をゆすった。
そこから、不意に両手を伸ばして突進してきた。
突進というより飛んだ、というべきかもしれない。蛇ならではの跳躍が行われたのだ。
だが、ザフィーリは脇に一歩寄ってそれをかわし、デセスの背中のど真ん中を激しく打ち付けた。
デセスは再び呻き声をあげ、大量のよだれを床にぶちまけた。それでも、蛇の体ならではの動きでザァーッと後退り、安全な所へ逃げ延びた。
「槍がなくても、なかなか強いじゃないか」
元女王はしぶしぶ認めた。
「それはどうも。あなたももう少し本気を出していいですよ。手加減なんてせずにね」
ザフィーリは意地の悪い笑みを浮かべて、デセスを煽った。
目まぐるしく手を動かしながら、デセスが前進してくる。
ライムジーアは二人が円を描きながら牽制するさまを、ハラハラしながら見守った。
ふたたびデセスが一足飛びにとびかかってきたが、ザフィーリはその下にするりと滑り込んだ。
二人は同時にくるっと回転して立ち上がった。立ち上がるが早いか、ザフィーリはデセスの頭のてっぺんを左手で打ち付けた。
デセスはその一撃によろめいたものの、床の上を滑って逃げる際にザフィーリの膝をうまく払っていった。
「お前の技は守ってばかりだな、お姫様」
頭を振って今の衝撃を覚ましながら、デセスが耳障りな声で言った。
「親衛隊長です。だいいちに優先すべき仕事は、皇子を守ることです」
今度はザフィーリの目に指を突っ込もうとデセスが突撃してきたが、ザフィーリは巧みにそれを避けると、間髪を入れずに相手の鳩尾に一撃を加えた。
デセスは倒れながら蛇の体を振って、ザフィーリの足をすくった。
二人は床の上を転げまわると、再びぱっと起き上がって目まぐるしく手を振り回した。
その動きの素早さときたら、ライムジーアには目で追うことすら叶わないものだった。
二人の戦いは永遠に続くかと思われるものだったが、終わりは突然訪れた。
それはあまりに単純で些細なミスだった。
デセスは拳でザフィーリの顔面を素早く突いた。軽いジャブだ。それでザフィーリの態勢が少しでも崩れればめっけもの、そんな攻撃。
だが、そのジャブは理想より卵の殻にヒビを入れるぶんくらい強く、羊皮紙一枚か二枚分深追いし過ぎていたのだ。
ザフィーリは両手をさっと振り上げて敵の手首をつかむと、上に向けて思いっきり捻じり上げた。そして、両足を巻き付けて蛇の体を封じると、デセスとともにその場に倒れた。
デセスはバランスを失い、そのまま前に突っ込むかに見えた。その瞬間、ザフィーリはぐんと脚を伸ばし、相手の体重をうまく利用して身体を持ち上げると、そのまま前に押し出した。
折り悪く、そこには明り取りの窓があった。
もちろん、ザフィーリは確認していただろうが。
前世世界のビルに使われている嵌め殺しの窓ではない。耐久性よりも装飾的な意味合いが強い窓は卵の殻よりも脆かった。
ほとんど抵抗らしい抵抗も示さずに砕け散る。その瞬間、デセスは押し殺したような悲鳴を上げて必死に窓枠を掴もうとした。
だが、彼女の体は腕の力に対して重すぎたし、勢いがありすぎた。あえなく窓の外に投げ出され、真っ逆さまに落ちていった。
胸の悪くなるような悲鳴が尾を引くように小さくなっていき――ドンというくぐもった音が聞こえてきた。
ザフィーリは立ち上がり、一度だけ窓枠の向こうを覗き見ると、ライムジーアのところへ戻ってきた。
「ザフィーリ!」
ライムジーアは心底ほっとして信頼する親衛隊長の肩に手を置いた。
「すごかったよ」
「少々手間取りました」
ザフィーリは再び剣帯を身につけながら、淡々と言った。
「蛇の体は、空を飛ぶのには向いていないようです」
「そのようだな。飛ぶ方法を思いつくには時間もなかっただろうし」
チラリと窓のなくなった窓枠に目を向け、皇子はすぐに気持ちを切り替えた。
「さ、長居は無用だ。すぐにフィアンサが言っていたデセス信奉者の半分が、僕たちを殺そうと殺到してくるぞ」
言いながら、すでにライムジーアは来た道を戻り始めていた。
その先にシャハラルが立って先導していく。
ザフィーリも急いで続いた。
そして、皇子の背中に声をかけた。
「申し訳ありません」
「ん? なにが?」
速足で歩きながら、問う。
「彼女を城の外に投げるべきではありませんでした。城内のあの部屋で斬り捨てておけば、敵は城内にいる者だけで済んだでしょうに。外に投げてしまったので、城の外の者に事態を知られるのが早くなります」
自分のプライドのために、皇子を危険にさらしてしまったと考えたらしい。
ある意味正しい。
彼女の言うとおり、あの部屋で斬り捨てて扉の前で護衛する役目の兵の詰め所を急襲して交代要員も殺してしまえば、少なくとも夜までは誰もデセスの死を知らずに済んだであろうから。
だが、城の外に投げ捨ててしまったことで、そうはいかなくなった。
すぐにもデセスの死は街中の知ることとなるだろう。この街に人が何人残っていて、そのうちの何割がデセスの敵を討とうと考えるかはわからないが、初動が遅れれば遅れるほど逃げやすくなるのは当然だ。
そういう意味では、ザフィーリの考えは正しい。なぜ、その考えがデセスとの死闘を始める前に出なかったかと、叱責してもいいくらいだ。
だが・・・。
「いや、これでよかったんだよ」
「慰めでしたら――」
「違う!」
皇子は立ち止って振り返った。
「さっき聞いていたはずだ。いずれ、フィアンサも僕の傘下に入れる。そのとき、彼女の従える手勢の中にデセスの信奉者が残っているのは困るんだ。デセスの死が広まるのが早ければ、少しでもそういうところのある奴は僕を追いかけてくるだろう。そうすれば、フィアンサの苦労が減る。結果的には僕も助かる」
わかるか?
ライムジーアがじっとザフィーリの目を見つめる。
ザフィーリがのろのろと頷いた。
「よし。では仕事をしろ。親衛隊長の一番に優先すべき仕事は何だっけ?」
歩きだしながら言葉を投げる。
「皇子様をお守りすることです」
力強い声が返ってきた。
ライムジーアとその家臣たちは、今や全速で城を降りていた。
先頭はフファルだ。どこかで拾った片手剣を二本、両手でつかんで敵が顔を見せるやどこかしら切り刻んでいく。
その後ろに続くのはシャハラルだ。こちらは常に佩いてる長剣を駆使してフファルをかろうじて避けた敵に確実な一撃をお見舞いしている。
もちろん、二人とも脚を止めることはない。
「正門から出よう。万が一にもあんな穴蔵で挟み撃ちなんてぞっとしない」
来るときに通った地下道を思い出して、ライムジーアは叫んだ。
「同感!」
フファルが楽しげに答えて、階段を飛び降りた。
すぐにいくつもの悲鳴と肉の落ちる音が聞こえてくる。
ライムジーアがそこを通り過ぎるときには、屋内であるにもかかわらず道がぬかるんでいた。
正門は、ちょうど開くところだった。
デセス・ベランサの死の報は内側よりもむしろ外側の方で広がっているようで、殺気ばしった連中がらんらんと輝く目とダラダラと垂れるよだれで、皇子たちの一行を迎えようとしている。
そんなものに頓着するフファルではない。
嬉々として飛び込んでいく。
フファルが右、シャハラルは左に。
五十人の兵士も半分に分かれて左右に斬り込む。
数の上では敵が上、それでも質では味方がその実力をはるかに凌駕していた。
ものの数分で正門前にいた一団は沈黙した。
「さ、とっとと街を出よう。森に入れば僕たちが有利だ」
少なくとも街の中でゲリラ戦をするよりはいい。
彼等はともかく、一度城を出たあと城壁に沿って最初に通った穴のそばまで戻った。
馬を回収する必要があったのだ。そのあとは、森の中にうまく身を潜めて追っ手の様子に注意していた。
すぐにでも追っ手が出るだろうと思ったライムジーアたちだったが、その予想をデセス信奉者たちはことごとく裏切った。
てんでんばらばらに慌てふためき、捜索しようとする者たちの騎馬隊が右往左往しているのが見られた。
「連中は何をしたらいいのか全く分かっていないようです」
見張りに出ていたロロホルが報告した。
「思うに彼等は少しばかり混乱しているようだ」
ワンマン社長に引っ張られるだけだった新規事業所が、社長の急逝で倒産するようなものだ。
どこかの誰かの言っていたナンバー2不要論の理想形だったのだろうが、トップが不意に消えると下で働いていた者は統制を失ってグダグダになるという見本だ。
「暗くなるのを待って移動しよう。ランドリークは最後尾だ。適度に手掛かりをばらまいて、追っ手を引き付けてくれ。僕としては後を追ってきてもらわないと困る」
「お任せくだせいや」
ニヤニヤ笑って禿げの大男は請け負った。
こういうときの皇子には逆らわない方が『面白い』ことを彼の守役はよく心得ている。
「リューリはレルヒエを頼むよ」
手綱を持てないレルヒエのおもりは、リューリの仕事だった。
歳が近いからか、二人は今やすっかり仲良しだ。
「任せてっ!」
「馬に乗れるの、すごっ。だねー」
成長途中の胸を張ってリューリが張り切り、馬に乗って疾走するという新しい体験にレルヒエは目を輝かせた。
彼等はじっと待った。やがて空はすみれ色に変わり、一番星が現れたかと思うとはるか遠くで冷たく瞬き始めた。
捜索するデセス信奉者たちの松明の火が、あちこちに灯り始めた。
「さあ、行くとしようか」
ライムジーアが立ち上がりながら言った。
彼等はそっと馬を潜んでいた茂みから森へと進め、木立の中に紛れた。
一行はほんの一足で駆けよれる距離しか離れていないところを、松明を掲げて疾駆する敵騎兵の姿を見つけて何度か立ち止まった。
「バラバラにならないようにな」
一同が馬にまたがるのと同時にロロホルが言った。
「森を抜けて滅びた王国の領地から抜けるのにどれくらいかかるかな」
気遣わしげに辺りに顔を向けながら、ライムジーアが訊ねた。
「二日、と言いたいところですが、三日はかかるでしょうね」
ロロホルが残念そうに答えた、が、すぐに何かに気付いた顔をして言い直した。
「三夜というべきですかな。太陽が出てるときは適当な場所に隠れた方がいいでしょう。我々は彼らの仲間には到底見えませんからね」
「もっともだな」
だからこそ、いまも暗くなるのを待って移動しようとしているのだ。
一行はそっと馬の腹を蹴り、疲れさせることなく長い距離を進むことのできる、ゆるい駆け足で走らせた。
最初の危機は、その直後に訪れる。
松明を掲げたデセス信奉者の一団に出くわしたのだ。
暗がりに潜んでかわそうとしたのだが、なにを考えたのか彼等は突然こちらに向きを変えてやってきた。
逃げようとすれば見つかるのは確実。
攻めかかって全滅させるには少々規模の大きすぎる一団で、戦いに持ち込むのは得策でないように思える。
ライムジーアが、どうしたものかと思考を巡らせようとしたところで、ランドリークが前に出るのが見えた。
「そこにいるのは誰だ!?」
驚いている暇もなく、ランドリークは高飛車に言った。
「われわれはデセス様の城から来たものであります」
デセス信奉者のひとりがうやうやしげに答えた。
まだ、こちらの様子が目に入る範囲にまで松明の灯りは届いていない。
「そんなことはわかっとる、この能無しめが。お前の所属はどこかと聞いておるんだ」
ランドリークはがなりたてた。
「第三十八小隊であります」
デセス信奉者はしゃちほこばって答えた。
「そうか。ともかく、さっさと松明を消せ。そんなものを目の前にちらつかせて、遠くが見渡せるとでも思うのか。かえって敵に居場所を知らせるだけだろうが。ばかめ!」
松明はただちに消された。
これでこちらの正体を見破られる危険はぐっと減った。
「お前たちは北を探せ」
ランドリークが命じた。
「この方面の捜索は我々が行う」
「ですが――」
「わたしの命令が聞けないというのか」
「いえ、ですが――」
「とっとと行け! 今すぐにだ!」
デセス信奉者たちは馬の向きを変えると暗闇の中に走り去った。
「すごっ」
「うわぁー、だねー」
リューリとレルヒエが声を漏らす。
「お見事です」
シャハラルも感心したように言った。
「なに、ごく初歩的なことさ」
ランドリークは肩をすくめて見せた。
「人は混乱に陥ると、命令されることを少しばかり喜ぶものだ。さて、わしらも行こうじゃないか」
長く、寒い、月のない夜を北西へ向かいながら、彼等はデセス信奉者たちの目をかすめて進み続けた。突発的な遭遇を警戒したため、歩みは当初の予想より遅くなったが、そのぶん敵の目を安全にかいくぐることができた。
その夜はたいした事件もなく過ぎていった。
大男は一行の足跡を示す様々な手掛かりを、夜が明けるまでばらまき続けていた。
「少しばかりやりすぎたかもしれんな」
彼は蹄に踏みにじられた砂地の上に、投げ落としたばかりの古靴を見下ろしながら気難しげに言った。
「なにを一人でブツブツ言っているのですか?」
たまたまその声が耳に入ったザフィーリが訊ねた。
「手掛かりのことさ。我々は連中に後を追わせようとしている。旧体制にしがみつくような者が、新たな体制の毒にならないよう引き離しておくために」
「皇子様が、そうするよう指示しました。それがどうかしましたか」
文句でもあるなら言ってみろ、とザフィーリの口調が硬くなった。
「少しあからさま過ぎたんじゃねぇかと思い始めてるのさ」
「あなたは変なところまで心配するんですね」
「そいつが俺の役目なんでね。皇子に長く仕えると、そうなっちまうのさ」
夏の終わり始めた空に、青みがかった灰色の夜明けの光が差し始めるころ、彼等は木立の中に程よい隠れ場所を見つけ出した。
ランドリーク、ロロホル、シャハラルの三人が天幕を広げ、木立と茂みでカモフラージュしながらぴんと張り巡らせた。
「ここでは火を起こさない方がよさそうですね」
シアが辺りを見回しながら無念そうに言った。
「煙が全く出ないようにするのは難しそうです」
ライムジーアは同意のしるしにうなずいた。
「そうだね。温かい食事がしたいところだけど、しばらくは我慢した方がよさそうだ」
シアは仕方なくパンとチーズだけの冷たい食事を配ると、皇子のためのコーヒーをどうにかして淹れられないかと頭をひねった。
だが、やはり無理だったと見えて皇子のための寝場所を整え始める。
次の日――いや、晩――の長旅に備えて丸一日を眠って過ごそうというのだ。
こういう場では、皇子も奴隷も関係ない。身分など意味を持たない。
シアが整えてくれた寝床に毛布にくるまって横になったライムジーアだが、腰のあたりに当たる石が気になって、眠りの途中で何度も目が覚めてしまった。
それでも、交代して見張りをする部下たちよりは十分に、ゆっくりと眠ったことは間違いない。
文句も弱音も吐きはしなかった。
自分の行動に何百何千という人々の命がかかっている。
背負った重荷が日々重くなっていくことに、どんなに不安を感じていたとしても。立ち止まってはいられない。
ついてきてくれる部下がいる限り。




