谷
谷
翌朝、彼等は早いうちに動き始めた。おかげで、昼頃までには山岳地帯へと達していた。
山を一つ越え、頂から下を見下ろせば、鬱蒼とした低木広葉樹やシダ植物の群生が見えてくる。
ナーガ族の領域は、そのあたり一帯だ。
帝国との約定では、この頂から北が帝国、南がナーガ族の『谷』となる。
谷は空気の動きというものが全くなかった。まるで、なにもかもが突然湯気の立ち込める淀みに沈んだかのようだ。
すさまじい湿気のせいで、水中にいるような気さえする。
そんな場所だ。
何もしなくても肌が濡れる不快感は筆舌に尽くしがたいものがある。ただ、一ついいところを上げるなら、そのまとわりつくような湿気のせいか、人の肌に針を刺すことで知られるある種の羽虫が見当たらない点をあげることができる。
そのかわり、黒い塊、ヒルがどこからでも落ちてくるので警戒が必要ではある。
頂にはちょうどいい広さの平らな空き地があった。
たぶん、『谷』へ行く者は皆、ここで一休みしているのだろう。
「今夜はここで休んで、『谷』には明日の朝下りることにしよう。敵対することはないはずだけど、時に度の過ぎた悪戯をすることがある。過敏な反応は慎むように」
ザフィーリとフファルを見つめて注意をし、シャハラルとリューリにも視線を送った。
二人の行動をちゃんと見張っておけ、との意味を込めて。
「過敏な反応?」
頭を傾げてフファル。リューリもわからないという顔をしている。
「例えば、暗がりで後ろを取られたからといっていきなり息の根を止めたりはするな。殴りつける程度にしておけ。ということだよ」
「ああ、なるほど。わかった」
具体的に言ってやって、ようやくわかってもらえた。
早めの夕食を食べ、テントにもぐりこむ。
前触れらしきものは何もなかった。
ライムジーアは不意に背後から腕を掴まれ、湿った布で口と鼻をぴったりふさがれた。
必死にもがいたが、押さえつけている手は恐ろしく強かった。
その布は変な臭いがした。
うんざりするほど甘くて、濃厚な匂い。
しだいに目がくらみ、もがこうにも力が入らなくなってきた。
めまいに押し流される前に、僕はなんとか最後の力を振り絞ったが、やがて深い闇の底に落ちていった。
・・・こうきたか。
・・・ザフィーリたちが暴発しませんように。
切に願ったところで、僕は意識を手放した。
そこは長い廊下のようなところだった。
しっかりとした敷石と、半ば腐り始めたような木製の壁。
いま僕の目にはその敷石が並ぶ床がはっきりと見えていた。
三人の男が、僕の顔を下に向けさせたまま運んでいるところらしい。
頭が首のあたりで縦に揺れたり横に揺れたりで、すぐに気分が悪くなった。
口はカラカラに乾き、男たちが顔に押し当てたあの布にしみこんでいた、例の濃厚で甘い匂いがまだしぶとく残っていた。
僕は顔を上げ、辺りの様子を見ようとした。
「起きたぜ」
一方の腕を持っていた男が言った。
「やっと起きたか」
別の男がブツブツと言った。
「ヴルム、お前はこいつの顔に布を長く当てすぎたんだよ」
「自分が何をやっているかぐらいわかってるよ。そいつを降ろせ」
はじめの男が言った。
床に降ろされると、敷石の冷たさが心地よかった。
身体が熱を持っているのかもしれない。
「立てるか?」
ヴルムがライムジーアに訊いた。
彼もランドリークのような頭をしていた。ところどころに短い毛が生えかけているのを見ると、天然ではなく、まめに剃っているわけでもなさそうだ。
頬には大きな傷があり、紐付きのローブは汚れてシミが付いている。
「立つんだ」
ヴルムは非難まじりの声で命令した。
床に転がっているライムジーアを、足でつついた。
ライムジーアは立ち上がろうともがいた。
膝がガクガク震え、壁に手をついてやっと身体を支えた。
木の壁はじめじめと湿っていて、カビのようなものがびっしり生えていた。
「連れてこい」
ヴルムは他の者に命令した。
命じられた者たちはライムジーアの腕を掴み、半ば引きずり、半ば持ち上げるようにして頬傷の男の後ろから湿った廊下を進んでいった。
その廊下を抜けると、部屋というより屋根付きの広場といった感じのする、丸天井に覆われた場所に出た。
彫刻を施した巨大な柱が、そびえるようなその天井を支えている。
頭上から下がっている長い鎖の先に、あるいは柱の途中にある細やかな棚の上に、小さなオイルランプが点在している。
それらからは独特の臭いが放たれていたが、ライムジーアは意識してその臭気を吸わないよう努力した。
色とりどりのローブを着た男たちが呆けたような感じであちこちに動き回っている様子が、なにかしら乱雑な雰囲気を醸し出していた。
「おまえ」
ヴルムはとろんとした目つきのぽってり太った若者を呼びつけた。
「宦官頭のシュッペにお探しの小僧を連れて来たと伝えてこい」
「自分で言えばいいだろ」
若者は笛のような声で言った。
「お前のような奴に命令される覚えはない」
ヴルムは太った若者の横っ面をピシャッと打った。
「叩いたな!」
若者は口に手をやりながら泣き叫んだ。
「唇から血が出たじゃないか。そら!」
彼は掌を開いて血を見せた。
「言われた通りにしないなら、おまえのぷよぷよした喉を掻き切るぞ」
ヴルムは低い感情のない声で言った。
「わかったよ、お前が言ったことを伝えればいいんだろ」
「さっさとしろ。行ったら、俺たちが女王様の探していた小僧を見つけたということをちゃんと伝えるんだぞ」
丸々と太った若者は大急ぎで走り去った。
「宦官のやつらめ!」
ライムジーアの腕を掴んでいた男の一人が、吐き捨てるように言った。
それでようやく、ライムジーアはここにいるのが宦官――男性器を切り落とした役人――であることを思い出した。
・・・そう言えば、そんな伝統があったな。
ナーガ族に仕える人間の役人は去勢されるのが常なのだ。
男性器を切り落とすと聞くと、なにかの罪科か拷問のように思えてしまうが、少なくともここでは名誉なこととされているので、無理やり切られたとか騙されたとかいう者はいない。皆、望んでやっていることだ。
望む気持ちは理解不能だが、嫌々でないのなら同情する必要はないだろう。
「あいつらにはあいつらなりの使い道があるからな」
もう一人が下品な笑い声を上げた。
・・・声が高いままになるんだったか。
前世世界でもヨーロッパで実際に行われていたことだ。
少年コーラスの声を維持するために、去勢するというようなことが。
たぶん、この男が言ったのとは意味が違うだろうけど。
「その小僧を連れてこい。シュッペは待たされるのが嫌いなんだ」
ヴルムが怒鳴った。
彼は、ライムジーアを掴んでいる男たちの前に立って、二本の柱に挟まれた薄暗い場所を歩き始めた。
しばらく進んで、おもむろに立ち止まった。
「そこをどけ」
闇の中に横たわっているなにかに向かって命じた。
その影は、しぶしぶと言いたげな様子で動いた。
そこでようやく、それが一抱えもあるような胴回りをした大蛇であることに気付くことができた。
奇妙なことに、少しホッとした。
「あっちで仲間と一緒に居ろ」
ヴルムはその蛇に怒鳴った。
彼が差した薄暗い隅には大きな塊があって、くねくねと波打っていた。
かなりの数の蛇が重なり合って山を作ったものらしい。
通路をふさいでいた蛇は、ヴルムに向かってチロチロと舌を出したあと、その薄暗い隅の方にするすると移動していった。
「ヴルム、お前いつか絶対に噛まれるぞ」
仲間の一人が警告した。
「あいつらは命令されるのを何よりも嫌がるからな」
ヴルムは涼しい顔で肩をすくめ、歩き続けた。
「シュッペが会うとさ」
廊下を進んでいくと、先ほどの肥満した若い宦官が戻ってきて、意地悪く言った。
「お前に殴られたと言っておいたからな。蛇たちは俺の味方なんだ」
「それはよかったな」
ヴルムはそう言うと、ドアを押し開いた。
「シュッペ」
甲高い声で叫んだ。
「とっとと入れ」
低い、シューシューと息が漏れているような声が、応えた。
ヴルムが部屋に入っいく。
「お前はもう行っていいぞ」
ライムジーアを掴んでいた男の片割れが若い宦官に言った。
肥満した宦官はフンと鼻を鳴らした。
「俺はシュッペに行けと言われたところに行くんだよ」
「そして、シュッペが口笛を鳴らせばどこにいても飛んでくるんだろ」
「それは俺とシュッペの問題だ、あんたとは関係ない」
小馬鹿にした顔で吐き捨てて、宦官の若者は去っていった。
途中、蛇山に寄って中に腕を差し入れていた。
本当に蛇は彼の味方のようだ。
「そいつを中に入れろ」
ヴルムがイライラした口調で命令した。
二人の男はライムジーアを部屋の中に押し込んだ。
「俺たちはここで待つよ」
片方の男がそわそわと言った。
ヴルムは耳障りな声で笑いながら、足でドアを閉じ、テーブルの前にライムジーアを押しやった。その上に置かれたオイルランプが、真っ暗な部屋にかろうじて明かりをもたらしている。
テーブルには死んで一か月たった魚のような目をした風船――そうとしか見えない真丸な体の男――が座っていて、一方の手でつるつるの頭を撫でていた。
愚痴を呟いているのか、たんに癖なのか、口からは絶えずシューシューと息を漏らしている。
つられて、ライムジーアまでがシューシューと音を立てた。
「シュッペ、今すぐ金をもらいたいんだが」
ヴルムが、いい加減うんざりだ、とばかりに声を高くした。
「・・・・・・ああ」
シュッペは、その声に煩わしそうな顔をした。
「ほらよ」
テーブルの下から小袋を取り出して放り投げる。
ヴルムはそれをひったくるかのような勢いでひっつかんで、顔を入れそうなほど念入りに金貨を数えた。
その間、シュッペとライムジーアはシューシューを続けている。
「確かに」
金貨が約定通りの枚数、ちゃんと入っていることを確認すると、ヴルムは挨拶もなしで部屋を出て行った。
シュッペもライムジーアも、彼に礼儀などというものは期待していなかったので、目も向けずに出て行かせた。




