旅立ちの日に
この作品は、ある「歌」を聴いているときに思いついたものです。
いじめを受けている人がこの世にどれほどいるのか、想像しながら書きました。
両親は仕事で家を空けており、兄弟は妹一人。
自分は「必要とされていない存在」だと勘違いする主人公は、自殺してから、自分は「必要とされている存在」であることに気付きます。
自分は、これほどまでに家族に愛されているのだ、と───。
私の側で、誰かが旅立つようなことがあれば。
私は彼の願いを一つかなえる。
彼女の願いを一つかなえる。
たった一つ。
唯一、かなえられないのは、「生きたい」、その願いだけ……。
いつも、一人だった。
同じことが繰り返されて。
ずっと耐えてきたが、やはり人には限界というものが必ずある。それが、今なのだろう。もう、終わりにしようと思っていた。遺書も、文字数は少ないが、確かに書いて机の引き出しにいれた。もう、この机と向かい合うことはないのか、と思いながら。
明日の放課後、誰も居なくなった学校の、屋上から飛び降りて……。
朝。季節は冬に入った頃で、それでも、布団から出るとものすごく寒い。暗くなるのも早くなり、今日あたりからは六時ごろになると、もう外は真っ暗になるらしい。
たまたま見た天気予報を思い出しながら、しぶしぶベッドを降りる。
起きると、まず、机の引き出しにしまっておいた遺書を取り出し、机の上に置いた。
親は、自分の部屋に入ることはほとんどないので、遺書は、学校に行っている間、見つかることはないだろう。といっても、仕事でいないのだが。もう一人、妹である『正美』がいるが、小学四年生で今日は学校へ行くことになっているので心配はない。
と、遺書が発見されないことを確認する。心配がなくなると、現在自殺を考えている中学二年の少年───岡崎 正弘は、階段をゆっくりとおりていった。その隣を、正美が急いで駆け下りていく。
階段をおりれば、広々としたリビングに出る。キッチンとの一体型で、料理ができればすぐに、リビング中央にあるテーブルへと運ぶことができる。
大きな窓からは日が差し込み、リビングを明るく照らしてくれている。その正面には、テーブルを挟んで三十七インチの液晶テレビがある。これは、父が奮発して買ったお気に入りのテレビだと、母が言っていた。正美が、そのテレビのリモコンで電源を入れ、いつも見ている『は・スタ』にチャンネルを変えた。
テーブルには、いつも通りのあたたかいハムエッグが皿に乗っていた。湯気が、いつもと何一つ変わらない塩コショウの臭いを鼻へ運んでくる。その皿の隣には、置手紙があり、やはりそれもいつもと同じだった。父も母も仕事で朝早く家を空ける。帰ってくるのは、いつも深夜で正弘も正美もベッドの中だ。内容はいつも違うものの、決まって文末には『今日も遅くなります』と描かれている。だが、今日は少し違っていた。『帰るのは明日になります』となっている。稀にあることなので、気にせず手紙から目を離した。
正美は忙しなくテーブルの椅子へと座り、置いてあったフォークでハムエッグを突っついた。
正弘も、椅子へ着こうとしたが、一つの考えが頭をよぎった。今日、全てがおわるのに、食事なんて取ってどうするんだ? 最後の晩餐とでも思えばいい。それだけで、疑問を制した。
食事中、正美と口を利くことはほとんど無かった。食事中ではなくても、いつも話なんてしたことはなかったが。
いつも、正美が先に家を出る。その後を、正弘が追う形となっているので、のんびりとしながら家を出る。できれば、遅く、遅刻ギリギリの時間で学校に着くようにしている。少しでも、いじめられる時間を短くするために……。
いつから、いじめられるようになったのだろう?
今思い出しても意味の無いことを、いつの間にか無意識に脳の中へめぐらせていた。
それは、昨年───正弘が中学へ入学したときのことだった。家の事情で、小学校の友人のほとんどが通う中学校には行けなかった。それも、親がいつも家を空けていることから創造はできていたのだが。
入学式で見た顔は、当たり前のように知らぬものばかりで、話し声も絶えなかった。おそらく、彼らは全員顔見知り、あるいは小学校からの友人なのだろう。一人ぼっちなのは、自分だけなのか……。
授業開始の日から、いつも孤独だった。休み時間になっては、友人を作ろうと努力もせずに図書室へ行き、本をあさった。図書室は、日当たりのいい場所で、図書委員担当の教師も人の良さそうな雰囲気だった。
だが、その数日後のこと。
「おい、お前、いつも一人だよなぁ?」
話しかけてきたのは、違うクラスの同級生である、名前は確か松村 誠二だったか。いつも、仲間を二人ほど連れて校内を歩き回っているらしい。誰かが話しているのが聞こえただけだったのだが。
その彼が、今、自分に話しかけている。寒気が、背筋を素早く通り抜けた。
「友達いないんじゃねぇの?」
嘲弄し、それにつれて二人の仲間もともに笑う。
それもつかの間、
「訊いてんだから、返事位しろよ」
淡々とした声に、再び寒気が走った。少し、自分の体がおびえていることに気が付き始めた。図書の教師はいない。
「は、はぃ……」
返事を返せと言われたから、返事を返したまでのこと。なのに、誠二という人物にはそういったやり取りは通じないようだった。
「お前、気にいらねぇヤツだな」
その言葉を聞いてからだった。自分は、毎日のように暴言を浴びせられ、机には落書き……。
頭を左右に振り、正気を取り戻す。今、そんなことを振り返っても仕方が無い。それに、記憶の中だけにはとどまらない『現実』というものが、今、この場で起ころうとしているのだから。
目の前の学校の校舎には、大きな時計が備わっており、登校しゆく生徒達の『遅刻』を知らせる『門番』のような存在だった。その『門番』を確認し、今日も遅刻ギリギリの時間帯で下駄箱へと向かった。
下駄箱には、多くの生徒が駆け込み乗車のように飛び込んでくる。それを見守るようにして、太陽が皆を照らしている。
そんなものにも気を止めずに、白い運動靴を脱ぐと上履きを手に取り、足を入れかけた、その時。中に光るものを見つけ、逆さにしてみた。
チリン、と、幼いような音を立てて地面に落ちたのは、押しピン。
ハァ、と浅いため息を付き、上履き再び履きなおした。
これは、誠二による気まぐれなイタズラだ。今となっては、もう完全にいじめと認識しているが。太陽が雲に隠れずに居てくれたおかげで、一応自分の足は助かった。といっても、今日で終わる命だから『生きている実感』を味わっておくのも悪くはなかったのかもしれない。
十五段にも満たない階段を上がり、教室へ入った。
自分の席へ着き、腰を下ろす。窓際の席なので、日光が当たり、気持ちが良い。つらい毎日の中で、唯一と言って良いほどの『助け』となる場所でもある。
『助け』となる席のとなりには、空席がある。教師に対してなんと言ったのかは知らないが、自分を嫌っているのだろう、誰も座わっては居ない。
ふと、机に目をやると、やはりまたいつもの落書きが存在していた。しぶしぶ、消しゴムで強く擦る。たまに、油性ペンで書かれていたこともあった。最後まで消えなかったものが教師に見つかったことがあるが、誰が書いたのかを正直に発言した後の、誠二の仕打ちを想像すれば、口が裂けてもいえなかった。
落書きを消し終えた頃に、授業開始のベルが鳴ってくれた。授業といっても、まずは日直による『朝学活』という今日の予定を告知するものがある。教師も教室へと入り、その『朝学活』が終わるのを待っていた。
そして終了後、必ず教師の話がある。
「今日は、転校生が来ています。入って」
唐突に告げられ、前日にもそんなことは一言も言っていなかった。
教室がどよめき、生徒が入ってくると、一気に静まり返る。その単純さが、少しうらやましかった。
入ってきたのは、短髪の、顔立ちがすっきりとした少女だった。身長は、自分よりも少し高いくらいで、制服の上からも体も細いようだ、というのが見て取れた。
「……です、よろしくお願いします」
細く、美しい声。
刹那、疑問が生まれた。あやうく、美しい声にかき消されるところであった。自己紹介での名前。聞き取れなかった。いや、聞こえなかった。クラス中の生徒を見回したが、ただ睨まれただけで、不審に思っている様子は全く無かった。自分だけなのか、それともただ聞き逃しただけなのか……。
ふと、気が付けば。
「正弘くんの隣が空いてるから、そこに座ってくれる?」
短く返事をし、その『美少女』は自分の隣に舞い降りた。
一応、名前を聞いておこうか?
「あの、さっき聞き取れなかったんだけど、名前、教えてくれる?」
少し、遠慮がちに訊いてみた。後ろの席の生徒が視線を送ってくる。
「……よ」
やはり、聞こえなかった。聞き取れなかった。いや、喋っていなかった。確かに、彼女の唇は言葉を発したかのように可憐に動いていた。しかし、今、確信を得た。喋っていない。
「何?」
疑問に思い、考えていたが、いつの間にか見つめていたようだ。冷たい声で問われた。
簡単に「なんでもない、ごめん」と返すと、「そう」と感情のこもっていない言葉で返される。
結局、彼女の名前は知らぬまま、放課後がやってきた。
部活は、今日は休みで、丁度良かった。心に決心していたことを実行する時間でもあるんだ、と、自分で自分に言い聞かせた。
階段をゆくりと上って行き、屋上へと向かう。屋上へと近づくにつれて、自分の足取りが重くなっていくのが分かった。気付けば、膝が小刻みに揺れているではないか。考えるだけなら簡単なことだが、いざとなっては恐怖してしまう。しかし、これを誠二にされる事と比べれば、まだいいのかもしれない。痛みを感じるとしても、それは一瞬で、自分は気付かないのかもしれない。気を失って、感じないのかもしれない。どちらにしろ、その一瞬の後には何も無い『真っ白』があるのだ。誠二も、いじめもない、『きれい』な世界に、行くことができるのだ。
そう考えただけで、少し足は軽くなったような気がした。
屋上に着けば、あとは全ての部活が終わった後の、生徒が一人としていない時間。だが、それは既に日が沈んだ後のこと。
時間が、余る。
あまり屋上には来たことが無いので、ほとんどは見覚えの無いもの。といっても、大して数も無い、貯水タンクのような大きい箱ひとつくらいだが。地面は、黒く変色したコンクリートでできており、その汚れが月日を経た証となっている。
色々なことを考えていても、時間は経つ。自らを落ち着かせていた先ほどの考えが、時間がたつにつれてどんどん薄れていく。本当に、大丈夫なのか。この高さで、終わることができるのか。失敗すれば、激しい痛みと共に白い建物の中で過ごさなければならなくなる。痛みがなくなったとしても、後遺症で、自分が自分でなくなってしまう可能性もある。いじめが無い場所へいけるとしても、それとは違う『苦しみ』と共に生き続けなければならなくなる。それから後、逃れるために再び自殺を図ったとしても、その『後遺症』のトラウマで、できるかどうか……。
深く考え込んでいくうちに、どんどん日が沈んでいく。まるで、それと比例しているように、死と、死の失敗への恐怖が心の中に勢力を伸ばしてきた。
あんなにつらかったのに、そのつらさと分かれることができるのに、「怖い」。
すっかり日は沈み、辺りは闇に支配された。屋上から運動場を眺めていると、一匹の野良猫の光る目が、瞬間、こちらを睨んだように見えた。それが、同級生の生徒の目と同じように見える。
怖い。全てが怖い。自分以外の全ての人間、いや、全ての生き物が自分を軽蔑していると思えてきた。全身を闇が包み込んでいる。まるで、自分が悪霊に取り付かれたかのように、自然に足が前へと進んでいった。追い風が吹いている。その音が、自分を「早く落としてしまおう」と聞こえる。
刹那。
自分は宙を舞った。空を、飛んだ。背に、白い翼が生えたかのように。全てから開放されたかのように。しかし、それは本当に『刹那』であり、それは『一瞬』。
白い翼は『ろう』で固められた『偽者』の翼だ。故に、地上に落とされた。自分に、自由や幸せは、あってはならないのか───。
「死ぬことが、本当に『自由』だと、『幸せ』だと思っているの?」
聞こえてきた言葉は、本当に、天使だと思った。しかし、それは、思い出してみればあの不思議な『転校生』の声だった。
「え……」
かすれた声。返事をしたつもりだったが、自分でも確認できないほど、小さな声になっていた。気付くと、自分の目に、涙が流れていた。どうして? 自由になれた、はずなのに……。
「それは、自分が、本当に『死ぬことが自由』だと思っていないから」
考えが読まれているようだった。考えたことが、全て口を滑らかに通して相手に伝えているような。
「あなた、未だ死んでない」
その言葉を、疑った。確かに、自分は屋上から飛び降りた。そして、地面に落ちた。だが、よく考えた見れば、自分はこうして彼女と話をしている。視界は、はっきりとしており、ぼやけてなどいない。それに、血の溜まりには落ちてはないではないか。
足に力をいれ、立ってみる。めまいも起こさない。どうして……?
当然の疑問に、頭をひねった。
「私は、人であって、人ではない。死者の願いを、なんでも、叶えてあげるの。ただし、『生きたい』という願いだけは、叶えられないけど」
意味が分からない。まず、知りたいのは、『どうして今自分が生きているのか』ということだが、まず心を落ち着かせてみようとした。だが、やはり自分の心臓の鼓動が緩まることは無かった。それが、まず自分が生きているという確信につながったのだが。
「説明なんてしているヒマはないの。あなたの願いは」
「急に訊かれても、分からないよ。今、頭がパニックになって……」
整理しようとしているが、つくはずもなく、パニック状態に陥ってしまう。
まず、自分は飛び降り、それでも死なずに、転校生と話していて、その転校生が人間ではなくて……。
気付いた。
つまり、転校生である彼女は……、天使!?
はっ、と顔を上げ、彼女の顔をまじまじと見た。しかし、天使という概念の姿は全く見受けられない。しわ一つ無い制服をキチっと着ており、翼もなく、全体的に見ればやはりただの美少女でしかない。果たして、彼女はどういった存在なのか。
「願いは、訊かなくても分かってる。制限時間は、明日の終わり、つまり0時までということね。分かったら、早く家に帰って」
彼女は、最後にそれだけを言い残し立ち去って行った。
「僕の願いって、何だろう……?」
帰り道、通学カバンを左手に提げ、ひたすら考えていた。自分の生活、『最後の願い』というものを。欲しい物も無ければ、何かしたいこともない。思い残すことは、ほとんど無いはずなのに。
家の前まで来ると、既にリビングの窓からは照明の明かりが漏れていた。
鍵は開いており、ドアを開けると妹の正美が飛び出してきた。
「おかえり、お兄ちゃん! 遅かったね、何かあったの?」
心配そうな顔でみつめる正美に、身長の差を気にさせないようゆっくりと屈み、頭をそっとなでてやった。
「大丈夫だよ、何も無かったから」
「よかった」と安心すると、正美はすぐにリビングに戻っていった。相変わらず、しっかりとした妹だな、と思う。一人でも、怖がらずに留守番できていたことが、少しがっかりだったような気もするが。だが、まさか妹に心配されるとは、思ってみもなかったことだ。少し、嬉しいと思えた。
靴を脱ぐと、二階にある部屋へ行った。
制服を脱ぎ、ハンガーに懸けると、すぐに私服へと着替え、リビング兼キッチンへと駆け下りた。いつも、両親の帰りが遅くなる。そのため、夕食は正弘が作っていた。
今、思い直せば、自分が死ねば、正美に対してはこの場面で迷惑がかかるな……。
キッチンに行き、エプロンもせずに流し台で手を洗うと、フライパンに手を延ばした。ガスコンロの火を点け、油をひき、ウインナーを冷蔵庫から取り出して焼いた。それと、手作りのドレッシングをレタスにかけたものでいいだろう。そう思ったのも、今朝、正美が残していった朝食のハムエッグが残っており、もったいないということから冷蔵庫に保存してあったからだ。嫌がることもないだろうし、たとえ嫌がったとしても、『もったいないから』の一言で素直になるのが正美の性格である。そもそも、嫌なら残さなければ良い話なのだが。
「いただきます」
相変わらず、話の無い食事だ。正美は、テレビのリモコンを側において離さない。度々おかずを口に運んでは、テレビに目をやる。暖かい米は、まるでおかずに睨まれてビクビクしているかのようになっている。毎回、正美はおかずを全て食べ終えてから、米を食べる。毎回残すので、正弘が全て胃に収めている。
いつもと何変わらぬ習慣を終え、正弘は自室へと戻っていった。
机の前に座り、今朝と位置は全く変わっていない遺書を手に取った。しばらく見つめていると、ガチャリ、とドアの開く音がした。見れば、正美が立っているではないか。
何だか、こんな雰囲気はホラーな感じがするのだが、そのようなものは正美の表情を見てすぐに吹き飛んだ。
「どうしたんだ?」
サッと、手に持っていた遺書を引き出しの中へしまいこんだ。
「下、誰もいないから、怖くて」
どうして、こんな日に限って妹にこんなことを言われるのか。
今日から、六時をすぎると外は真っ暗になる。窓の外を見れば、既に太陽が月と役目を交代し終えていた。
暗い場所が苦手だったんだ、と、心の中でひっそりと思い出した。正弘が帰宅するまでの間、留守番をしていた正美は、決して『怖く』なかったわけではないはずなのだ。すっかり会話がなくなってしまってからは、そんなことは脳の一番奥に追いやられていたようだ。多少、罪悪感に襲われた。
この時、正弘は、『自分が必要とされている存在』だということには、まだ気付かないでいた。
翌朝。
「ハックションッ!」
起き上がると、少し熱っぽかった。母を呼び、体温計で体温を測ってみると、どうやら熱があった。この程度のものなら、夜まで寝ていればすっかりよくなる。だが、正弘は、元々体が弱く、小学校の頃からよく風邪を引く子供だった。
昨日、教室でさえ寒いものを、屋上でずっと立ちすくんでいたのだ。それが、悪かったらしい。幸い、正美には移らなかったようだ。
母は心配し、仕事を休む、と言ってくれた。父は、母に任せてためらいがちになりながらも仕事へ出かけて行ったようだ。正美も、チラっと部屋を訪れ、学校へ行ったようだ。
こうして、母と共にいるのは、何年ぶりだろうか。こうして、まともに顔も見たことは無かった。
部屋のベッドで寝ている間、母はできるだけ仕事をしよう、とノートパソコンを取り出し、正弘の机の前へと行った。パソコンは最新型のようで、パッと見ただけでは、通常の大学ノートと見間違えるほどだ。
正弘はそこでハッと気付いた。引き出しには、遺書が入っている。今見つかってしまえば、大変なことになるに違いない。
だが、母の様子を見てみれば、どうやらパソコンに保存されている書類を処理するのにかなり集中しているようだ。これなら、必要も無いか。
安心し、驚いて起こしてしまった体をまた寝かせた。
しばらくして、大分熱も引いたようだ。
母も、パソコンのウィンドウズをシャットダウンさせ、ひとまず休憩に入るようだ。椅子から立ち上がり、小さく背伸びをする。その顔からは、かなりの疲労が見て取れるが、どんな仕事をしてそこまでにいたるのかは、分からなかった。両親のしている仕事すら、知らないのだから。おそらく、それは正美も同じだろう。
母は体温計を取り出し、正弘の体温を計った。
「大分、熱も引いたようね。もう、おきても大丈夫なんじゃない?」
優しく声をかけてくれる母に、どうしてか、急に言葉が口をついて出た。
「お母さん、もし、僕が死んだら、どうする?」
自分でも、どうしてそんなことを質問してしまったのか、分からない。
母は、少しの間ぽかんとした顔をしていたが、やがて優しい表情に変えて言った。
「悲しむに、決まってるじゃない」
ただ、それだけ。
「何で?」
「だって、正弘はお母さんとお父さんの大切な子供じゃない。正美も、あなたを必要としてるでしょう?」
ただ、無言だった。
「お腹、空いてるでしょう? 昼食にしましょう」
母は、笑顔で階段を下りていった。階段を踏みしめる音が、何だか切なく感じた。
おそらく、学校では自分が休むことを喜んでいる生徒がほとんどだろう。
午後六時ごろ。熱も引いたことで、少し散歩をしたい衝動に駆られた。
家の側にある、通学では通らない川原を暗闇の中歩いた。川のせせらぎに耳を傾け、視界を覆いつくす、清らかで、闇に溶け込んだ色の水は正弘の心の奥を表しているかのようだった。
耳と目では、それらに触れているようだが、頭の中ではあの『転校生』の言葉について考えていた。
彼女は、死者の、『死に際』の願いを叶えなえることができるらしい。『生きたい』という願い以外。そして、自分は自分の願いに気付いていないらしい。
それについて、考えにふけった。
思い当たる点は、いくつかある。自分は、『必要とされること』を望んでいたのかもしれない。しかし、それは『いじめ』により生まれた感情。もとより、叶うはずの無いものだった。そしていつしか、それは次第に消えていった。正弘が『いじめ』に苦しんでいることを、家族は知らない。教師も知らない。悩みを打ち明けることもできたが、教師に言い、それが生徒達に伝わる。そうなれば、再び誠二にこっぴどくやられる。家族に相談するにしても、両親は仕事でいないわけだし、休みも年に七日ほどしかない。妹に相談するのも、おかしい話である。もし、この年に七日しかない日が近くても、心配をかけたくないという理由もあり、なかなか言い出せないに決まっている。
しばらくしゃがんで川を眺めていると、それほど離れていない場所から美しい歌声が聞こえてきた。それは、いつかの小学校卒業式で歌った、「旅立ちの日に」だった。丁度、そこは一番の盛り上がりの部分の歌詞で、その声は、何処か物寂しいものだった。
立ち上がって声をたどり、視線を上げた。そこには、あの『転校生』が両手を後ろに繋いで小股に歩いてこちらへと向かってきていた。あの、冷静な雰囲気からは感じられないような姿だった。
ふと、歌声が止む。こちらに気付いたようだ。ゆっくりと近づいてき、口を開いた。
「自分の願いに、気付いた?」
以前の話の続きだろう。
暗闇の中、二人を照らしてくれているのは、背後の狭い道路を走る車のライトだけ。
「分からないよ。多分、今日の終わりまで」
少し、カッコつけてみた。ポケットに手を入れて、少し空を見上げる形になっている。小学校の時に、仲の良かった女子の前で同じ事をした。ただ、笑いにからかわれただけになっただけだが。今となっては、それが良い思い出になってしまっている。
「そう。でも、それは『具体的なもの』でしょう? 願いの内容には、もう気付いているハズだけど」
まるで、何でも知っている『神』のように、言葉をスラスラと出してくる。
彼女の言うとおり、自分は既に『願いの内容』には気付いている。
「家族に、言わないといけないよね。でも、中々言い出せなくいて」
気まずい雰囲気になっている。彼女は、どう感じているのか分からないが。
「もう、あと五時間ほどしかないわよ?」
「うん、時間が無いのは分かってる。今、決心がついたよ」
力強く言った、つもりだった。だが、少し嗚咽が漏れてきた。
「それと、訊いておきたいんだけど。僕、死んでるんだよね? あの時、君は僕に『生きてる』って、言ったけど」
唐突に、訊いた。薄々、気付いていた。ただ、願いを叶えることだけが彼女のすべきことなのだろう。
「……、そうよ。私は、死者の願いを叶えるの。叶えるためには、死者に『自分は生きている』と、思い込ませなければならない。死んでいるはずなのに自分は現実世界で動いている、ということだけでパニックになるのに、『死んでいる』なんて言ったら、余計に混乱するでしょう? だって、見た目に傷一つ見当たらないんだから」
「じゃぁ、僕の心臓があの時動いていたのも、思い込ませるために?」
「そうよ。今、自分の胸に手を当ててみて。終わる時間が近いから、もう動いていないはずだから」
言われ、恐る恐る手を左胸に当てた。確かに、動いていない。
自分に、『完全』なる『死』が近づいているのだ。
「もう、いい? これ以上、あなたの邪魔をしたら私が願いを叶えてあている意味がなくなっちゃうから」
『転校生』は、返事も聞かずに去っていった。ただ、取り残された正弘は、親にどう説明すればいいか、ひたすらに考えた。
すっかり日も落ち、寒さと、月に少し照らされる闇が外を支配した。
帰ったのは、七時を回った頃だった。
母と正美は、自分を心配してくれていた様子だそれもまた、嬉しかった。学校ではいじめられていた身、ここでは自分は『必要とされる存在』になることができるのだから。
父はいないが、母と正美、そして正弘。家族水入らずの夕食。めずらしく、正美はテレビを点けずにいた。楽しく会話を交わしながら、笑顔の耐えない夕食になった。こんなことは初めてだった。いや、初めてではない。こんなことが全く無かった故に、『初めて』という感覚に襲われただけだ。今まで、勘違いをしていた。自分は、どうしてこんなにも不幸なのだろうか、と。今思えば、それは単なる思い込みで、自分をふさぎこんでしまっていただけだった。両親はいなくても、ちゃんと家には正美という、大切な家族がいた。会話をしようと思えば、できたはずだ。どうして、しようとしなかったのだろう。学校でも、友達を作ろうと思えば何人だって作ることができたはずだ。ただ、自分は行動力が無かっただけなのかもしれない。努力もしないで、挙句の果てには自殺……。
そう、自分は自殺してしまった。こんなに、楽しい食事を囲むことができたのに。自分は、あと数時間で終わってしまう。母や妹、父は、そのことは何も知らない。また、家族との生活が、日々が続くと思っているのだ。胸が苦しい。堅く、乾いた何かで縛り付けられている、そんな気がした。
自分は、全てを家族に打ち明けなければならない。自分は、もう、死んでしまっているのだ、と───。
この、動かない心臓こそが、何よりの証拠になってくれるだろう。
だが、なるべく、今は不自然な行動は見せないようにしよう。これが、死後最も最大の『思い出』になるのだろうから……。
一度部屋へ戻り、机の上に鉛筆と消しゴムを取り出した。引き出しから、遺書を取り出し───。
冷酷にも、時間は容赦なく進んでいく。まるで、家族との絆をいち早く断ち切らんとする非道な神のように。
既に、残り四十分を切っている。すっかり湯冷めした体は、死者のように冷え切っていた。正美は、明日も学校があるのでベッドの中だ。
リビング兼キッチンを、目に焼き付けるような形で見渡した。三十七インチの液晶テレビが、悲しい目でこちらを見ているように思えた。
母は、キッチンで明日の朝食を作ってくれている。また、正弘と正美が『食べてくれる』と信じて。
僕は、もう食べられないんだ。お母さんの料理は。
心の中で、悲しく叫んだ。そうして、何度も、何度も謝った。本人には届くはずも無いが、何度も、何度も。
時間が無い。もう、言わないと。でも、言えない。とても言えない。母が、どんなに悲しむのか。想像を、瞬間的にめぐらせた。
結果は、最後に涙。
国語の時間、昔の物語に『竹取物語』というものがる。その最後に、最愛の家族との別れのシーン。『血の涙』を流す。まさに、今、それが再現されようとしているのだ。
迷っているヒマはない。今にも、涙が溢れそうになった。だが、時間が無いのだ。どうして、こんな時間まで躊躇していたのか、自分をしかった。
意を決し、母を呼んだ。
「お母さん」
ゆっくりと振り向いた、その優しい顔。しわは多少よっているものの、やはり愛しい母である。
「何?」
涙が、とうとうこらえきれなくなり、頬を流れた。
どうしたの、と母がエプロンをつけたまま駆け寄ってきた。その表情は、本当に自分を心配してくれているのだと確信できるものだった。
「お母さん、ごめん、ごめん……」
余計に、涙が流れてきた。もう、こらえられない。こらえることなど、不可能なのだ。
「だから、どうしたの?」
嗚咽が激しすぎて、言葉が出ない。時間が、無いのに。死んだ人が、大切な人に別れの言葉を伝えられるなんてことは、とても幸せなことなのである。この一度しか、チャンスは無い。
「お母さん、僕、学校でいじめられてたんだ」
「え……?」
母は、驚き、目を見開いた。信じられない、という表情。母は深呼吸をし、自分を落ち着かせている様子。
「どうして、早く言ってくれなかったの?」
当然の質問に、正弘はこらえて言った。
「お母さん、いつも、いなかったから……。もしいても、心配かけたくないって、思ったから……」
母は、言葉を失っていた。そして、正弘を思い切り、離さんとばかりにきつく抱きしめた。
「ごめんね、正弘。お母さん、いつも仕事ばかりで、正弘のこと、全然考えてなかった」
謝ってくれた。本当に、謝らなければならないのは自分の方なのに。そして、再び意を決した。言わなければならない、本当の事実を。
自分は、死んでいるのだ、と。
「お母さん、僕の方だよ、謝らないといけないのは。僕、自殺したんだ」
しばらく、母は絶句しているようだった。しかし、すぐに我を取り戻したように表情を明るくする。明らかに、冗談を言っているようにしか聞こえなかったようだ。
「何言ってるのよ、だってあなたはここに……」
母の言葉をさえぎるようにして、正弘は母の手を取り、自分の左胸に当てた。
「分かる? 僕の心臓は、もう動いていないんだよ! 僕は、もう死んだんだ!」
思わず、叫んでしまっていた。顔が、自然とうつむいた。
信じてくれているのか、いないのか。だが、次の言葉で真相は明らかになった。
「お母さんのせいね? お母さんが、正弘の側に、いなかったから」
心臓の鼓動が、全く感じられないことを、母は分かってしまった。どんなに言葉を重ねても、心臓が『止まっている』事実は受け止めるしかない。心臓が止まれば、人は死んでしまう。たとえ、ペースメーカーを入れたとしても、今の正弘は状況が違いすぎる。たとえ付けることが可能だとしても、タイムリミットをすぎてしまえば何の意味もなくなるのだから。
母が、自分に責任を押し付けている。違うよ、悪いのは僕なんだ……。
「お母さんは、悪くないんだ。僕が、勝手に『自分は誰にも必要とされていない』って、思い込んだからなんだ」
母は、黙って聞いている。言うのが、つらくなってきた。
「でも、気付いたんだ。僕は、家族に愛されているんだって。みんなに、必要とされているんだって。どんなにいじめられて、傷ついても、家族は僕の味方なんだって。でも……、でも、気付くのが遅すぎたみたいなんだ」
そう。気付くのが、遅すぎた。もう一日、自殺を遅らせていれば。自分は風邪を引き、母が看病してくれて、そして楽しい食卓を囲み、自分に生きる気力が芽生えたのに。どうして、どうしてどうして……。
今度は、自分を責めた。母の気持ちよりも、もっと。もっと責めた。それは、自分の『自殺』したことに対するものに加え、自分を信頼し、必要としてくれていた家族を『裏切ってしまった』ことだ。
涙が、止まらなくなった。そして、母も、涙を流していた。そして、さっきよりも強く、抱きしめてくれた。
「だから、だからあの時、お母さんに聞いたのね?」
今にもつぶれそうな声で、母は尋ねた。
「ごめん、ごめん……」
ただ、謝ることしかできなかった。
今、自分の『願い』が明確に分かったような気がする。死に際に叶えたい、と思った願いが。自分は、家族が恋しかったのだ。最後に、誰かの温かみを感じ、本当の幸せを手に入れ、そして終わりたかった。
心の中で、『旅立ちの日に』が流れた。この曲は、タイトル通りに、別れを歌った曲だと思う。それが、より一層、別れをつらくさせている。まるで、天使が『早くおいで』と手招きをしているようにも思えた。
時間が、もう無い。この日の終了まで、残り十分を切った。もう、別れなくてはならない。
執拗に、『別れたくない』という感情が体を支配しようとした。やっと、気付くことができたのに。自分は、必要とされている、と気付くことができたのに。今になって、自殺をひどく後悔する。もっと、他に方法があったじゃないか。まだ、中学校生活を乗り越えて、新しい、苦しみのない未来があったのに。自分で、その未来を絶ってしまった。
だが、それでも、人生は終焉を迎えなくてはいけない。
今思えば、気付くことができたのは、『願い』を叶えてくれたあの転校生のおかげなのかもしれない。彼女のおかげで、今、こうして母に別れを告げることができる。
「お母さん、ごめんね。もう、お母さんのおいしい料理が食べられなくなるの、残念だよ」
寂しく、言った。
母は、無言でうなずいた。さきほど、母の作っていた料理の臭いが、鼻を刺激した。空腹は感じない。感じることが、できないのだと思う。死者に食事は必要ないのか、それとも夕食を取ったからなのか。詳細には、分からなかった。
別れを惜しんでいると、背後から、幼い声が聞こえてきた。
正美だ。
「あれ、お兄ちゃん、何処かへ行くの……?」
寝ぼけているらしく、現状を把握できていないようだ。
今は、まだそれで良いと思う。小学生低学年の子に、死はまだ難しすぎるのではないか、と考えているから。
「そうだよ。お兄ちゃん、しばらくの間、旅に出るんだ」
冗談めかして言うと、「気をつけてね」と、部屋へと戻っていった。何のために起きたのか、理由は気になったが、それもすぐに忘れることだろう。
「また、会えるよ、お母さん。泣かないでよ、泣かないで。次に会った時に、今度はお父さんも一緒に、食事をしよう? ね?」
母は、うなずくことしかできないようだった。
それは、いつのことなのか。
人は、決して死を克服することはできない。生は一瞬で、死は永遠。これは、これから何年経とうと、揺るぐことのない『理』なのだから。
そして、時間。
正弘の体が、徐々に薄れ、母の手が体をすり抜けた。
夢ではない。
「正弘……、正弘!」
母は、何度も、何度も名前を呼んだ。正弘も、お母さん、お母さん、と、呼び返した。
もう、ほとんど目で確認できないほど、薄くなった息子を見て、母はただ涙し、名を呼ぶことしかできなかった。
正弘も、その顔には『後悔』の色は無く、幸せそうな笑顔で、消えていった。
後日、校舎の玄関の前で、少年の遺体が見つかった。それは飛び降り自殺で、自宅からは遺書が見つかっている。その内容は、家族への感謝の気持ちを文にして表したもの、だったという……。
そうして、また一つ、自殺によって地球上の尊い命は消えていった。
だが、その『自殺』には、苦しみや悲しみの情は消え去っている。自分がどれだけ愛され、必要とされているのかを知り、一生を終えた。また、彼もその一人だっただけのこと……。
私の側で、また一人、旅立った。
願いは、叶えられた。
生きたい、という気持ちが生まれるのは、また、彼も同じだった。だが、彼は願わなかった。最後に、安心した微笑みで衝天していった。
最後に幸せで、良かったのだろう……。
旅立ちの日に
連載小説「旅立ちの日に-少女と恋心-」