仲の良い姉妹
「――ところでお姉さま、三年前の獣人が死んだ件、あれ、犯人はお姉さまですよね?」
妹にそう指摘された姉は、しかし一切の動揺を見せず、それどころか優雅に紅茶のカップを傾けている。自分にとって動揺すべきはずだろう言葉を投げかけられたにも関わらず、まるで今日の天気の話題でも話されたかのような態度であった。
室内にいるのはたった二人。
姉と妹。
使用人は部屋の外に控えているだろう。けれども耳を澄ませて聞き耳を立てているような者がいないのは既に分かり切っている。
音を立てずにカップをソーサーへ戻した姉は、今しがた言われた言葉を本当に理解できているのか……? と疑いたくなるほどに綺麗な笑みを浮かべた。
それだけであれば、肯定とも否定ともとれる。
「あら、あの事件の犯人としての容疑ならとっくに晴れたはずよ?」
「そうですね。そうでしょうとも。でも、私のせいでお姉さまの手を汚してしまったのだ、とその事実は変わらない、変わらないのです……」
両手で顔を覆ってさめざめと泣く妹に、姉は困ったようにかすかに肩をすくめただけだった。
獣人種族に多く見られる番と呼ばれるもの。
運命の相手と言っても過言ではないその存在と出会うと途端獣人は狂おしいまでにその番と呼ばれる存在を求めてやまなくなる。――たとえ、つい今しがたまで愛を囁いていた恋人や伴侶がいたとしてもだ。
獣人同士で魂同士の結びつきでお互いに番である、とわかりあえるのであればいい。
だがしかし時には異種族にその番と呼ぶべき存在が現れた時は。
ただひたすらに修羅場であった。
番と呼ぶべき相手に別の恋人や伴侶がいたならば、獣人はその相手を宿命の敵とみなす。
番を手に入れるために、手段を選ばない事もあった。
ただ番を連れ去るだけなら可愛い方だ。
しかし、時として番が恋人や伴侶と認めている相手を殺害する事もあった。
どう足掻いても修羅場である。
目の前で愛する存在を殺された相手が、いくらお前は俺の番なのだと愛を乞うてきたとして、その存在に目を向ける事などあるはずもない。そこにあるのはただひたすらに憎しみである。
最愛の恋人。最愛の妻。最愛の夫。時として番を連れ去るのに邪魔だと判断されて番の子ですら、己の子ではないという理由で殺害する獣人もいたのだ。
大切な家族を殺されて、それでもなおその殺人犯を愛せるか。
まともな神経をしていたら到底無理だろう。
獣人同士であれば別に種族間の事だし勝手にしてな、と放置することもできたけれど、それが他種族にまで及ぶとなれば他人事ではない。
ある日大好きな人と一緒に出掛けて楽しい気分でいるところに、いきなり獣人がやってきて、
「あぁ、会いたかった運命の番よ!」
なんて言い出した挙句、その隣にいる者を邪魔者だと判断して殺されでもしてみろ。
お前にとっては運命だろうとこっちは今日が初対面、そんな相手に自分の好きな相手――恋人でなくとも家族や友人を害されたら。
笑い話にもならないのだ。
単なる悪夢である。
だからこそ、異種族たちはその傍迷惑な番とやらについて研究する事となった。だってある日いきなり貴方が番なのですね! なんて言われてみろ。そっちは魂とか本能で理解しているというが、こちらはそうではないのだ。話の通じないストーカーに監禁されるくらいには怖い。
勿論、全部が全部悲劇になるわけでもない。
異種族であっても番として結ばれ幸せな人生を送った者もいる。
ただ、人というのは誰かの幸せな話よりも不幸な話の方がより広まりやすい。だからこそ、人間種族は殊更番というものを警戒していた。
友人として接するなら悪い人ではないんだろうなぁ、と思える獣人も、ひとたび番を前にすれば理性の箍が外れ本能むき出し。例えば腹をすかせた野良犬が威嚇めいた鳴き声を発するのも中々に恐ろしいものがあるけれど、獣人のそれは野良犬の比ではない。
長年の研究結果によって、魂で判別しているというよりは個人の遺伝による匂いが関連している、と判明している。獣人は総じて鼻が鋭い。嗅覚が人間の何十倍、下手をすれば何百倍もあるのだ。普段は意図的に感覚を落としているようなのだが、そこにちょっとでも己の遺伝子が反応する番のフェロモンを感じ取ればあっという間にリミッターが解除され、野に飢えた獣を放つも同然となってしまう。
正気を失うレベルで狂うようなものだというのに、獣人たちはそれをおかしいとも思っていない。むしろ運命の番を見つける事こそが至上の幸福であると信じて疑ってすらいなかった。
そんな相手と添い遂げられたら。
ある意味で、恋に恋する夢から醒めない幼子のようではあるけれど、獣人からすれば運命の番を見つけ添い遂げる事は人生においての誉れでもあった。だからこそ、未だに獣人たちの多くは番を求めて各地を彷徨うのだ。
運命の人を見つける、と言い換えれば人間やそれ以外の種族も気持ちはわからないでもない。とはいえ、それはお互い合意の上でやってほしいというのが本音である。
まさか自分が運命の番に選ばれるとは思っていないけれど……と前置いた上で、近年開発された自らのフェロモンを抑える香水というのはそのせいだろうか、よく売れた。
勿論、どんな相手であっても運命だっていうなら受け入れるとも! という豪快な者も中にはいた。それ以前に相手もいないしどうせなら運命って事で自分を選んでくれるなら……というなんとも消極的な者も。そういった相手はその香水を使う事もない。
香水を使うのは基本的に自分に既に恋人や伴侶がいる者たちだ。
今付き合っている相手を捨ててでも運命の番だという獣人と添い遂げたい、というのであればまだしも、大半の者はそうでもなかったので。
さて、そんな中姉――マリアベルは友人であるアイシア王女に茶会に誘われ王宮へと赴いていた。
そしてそこで出会ってしまったのである。
たまたま外交にやってきた獣人たちの国からの一団。その中に、己を運命の番だなどと言い出す獣人と。
「もうあれから三年も経つのね……もっと昔の話だと思っていたわ」
「そんな、お姉さま……」
正直あの時は油断していたと言ってもいい。
獣人と会う機会がそもそもマリアベルにはほとんどなかった。だからこそ、別に香水でフェロモンを抑える、なんてしなくても問題ないと――要は高を括っていたのだ。
幸運だったのはその時点でマリアベルに恋人や婚約者といった存在がすぐ近くにいなかった事だろう。もしその場に共にいたのであれば、咄嗟に理性を失っていた獣人によって相手が危険な状態に陥っていたに違いないのだから。
使節団の一人、名を確かガウェル、と言ったか。犬っぽい感じの獣人だった、とは覚えているが運命に出会ったガウェルと違いマリアベルの印象はその程度だった。
向こうは熱っぽく運命だと語っていたが、正直こちらは一切何の心にも響かなかったのだ。もし本当に運命であるならば、一方的に運命を感じるのではなく、こちらだってほんのりと運命を感じるような何かがあったっていいだろうに。
初対面なので性格は知らないが、顔と身分は悪くなかった。ただ、マリアベルの好みか、と聞かれればそうではなかった。そんな、髪の毛の先程の興味も持てない男。それがガウェルに対するマリアの評価だ。
運命の番を見つけた事で取り乱したガウェルの前で、マリアベルは落ち着いて一応持っていたフェロモンを抑える香水を噴射した。シュッシュッシュッシュ……と通常の倍どころじゃない量振りかける。香水、とはいえ匂いはほとんどしない。フェロモンに匂いがついているようではあるが、それだって人間の鼻では何もわからないくらいのものだ。それを抑える、というかほぼ消すようなものなのだから、香水というもののどちらかといえば消臭剤だとマリアベルは身も蓋もなく思っていた。
目の前でいきなり香水を浴びるように振りかけていくマリアベルにガウェルは最初何をしているのかわからずきょとんとしていたが、やがて薄れる番の匂いにようやく正気を取り戻したらしい。
そこで場を騒がせた謝罪をして、それで終わるはずだった。マリアベルの中では。
だがしかしガウェルからすればそれは始まりであったのだ。
運命は確かにいた。それを知ったのだ。匂いが抑制されたとはいえ、既に彼女がそうである、というのは判明している。今更無かったことになどできるはずもなかった。
使節団は長期間滞在するわけでもなかったが、ガウェルだけはどうにか滞在期間を延ばせないかと陳情していた。滞在期間中に何とかしてマリアベルを嫁として国へ連れ帰りたいガウェルは、マリアベルを口説き落とす気満々であった。
一度国へ戻ってそれからまたこの国へ、となると許可が下りるまでに時間がかかりすぎる。それでなくとも過去に獣人たちが各国で起こしてしまった番関連の事件事故は多い。
もしまたこの国に来る頃にマリアベルが他の誰かと婚約を結んでいたら。
それどころか自分以外の誰かを夫にしていたら。
もしそうなっていたらガウェルは正気でいられる自信がなかった。
無理矢理連れ帰りたくはあるが、昔そのせいで一国の姫を攫った事件があったので今ではそれをやったら一発アウトの処刑である。とはいえ、バレずに、そして捕まらなければ処刑などされようもない。
各国の法で定められているとはいえ、法の拘束力は強いとは言えなかった。
それでも、ある程度身分のある獣人からすれば無理はできないのでこの時のマリアベルはある意味で命拾いしたのだが。もしガウェルが何の身分も持ち合わせていない単なる獣人の一人であったなら、今頃はどうなっていたかなど、言うまでもない。
個人だけの滞在は認められなかった。
その代わり、王からはとても申し訳なさそうに使節団が滞在している間は毎日王宮へ参じるように、とマリアベルは命じられてしまった。
使節団が滞在していようとも、マリアベルが王宮へ足を運ぶ事がなければガウェルと出くわす事はない。しかしそうなると、運命の番を求めたガウェルは仕事の合間を縫って街中へ繰り出しマリアベルを探すだろう。休憩時間だけ、などと公私の区別がつけばいいが、運命の番に関する事になると獣人の大半は頭のねじが飛ぶ個体が多い。下手をするとマリアベルを見つけるまで街中を彷徨い続け、そのうち外ではなく建物の中を探し始め、下手をすれば他人の住居に不法侵入だ。
獣人にとって運命の番は特別な存在であるが故に、獣人たちの国では番を探すためであればある程度の事は不問とされるが、他国ではそうもいかない。
自国と同じノリでやらかされるわけにはいかないのだ。無関係の民が巻き添えを食らう可能性を考えた末の、血を吐くような王の頼みをマリアベルは断れなかった。
命令、という形ではあったが実際は懇願である。
マリアベルとしても王女アイシアの愛する家族でもある父、という認識と確かに無関係の人たちを大勢巻き込むかもしれないと考えれば断れなかった部分もある。
そんなの知らないわ、で放置した結果大勢が巻き込まれたなどとなれば、被害に遭った者たちの恨みは獣人はそうだがそれを何の対処もせず放置したマリアベルへ向けられるだろう。
外聞を考えれば、流石に放置はできなかった。
限られた時間とはいえ、それでも会える。
そうする事でガウェルの動きは制限された。
その限られた時間内でどうにかガウェルはマリアベルを口説き落とそうとした。言葉を並べ立てるだけではない。今は動きが制限されているが、望むことがあれば自分にできる限り叶えてみせるとも。
だが、マリアベルは頷くことはなかった。
そもそもタイミングも悪かった。
マリアベルの友人は王女アイシアだけではない。他にもいる。
その中の一人は獣人に告白され、自分が運命の番なのだと思っていた。
ところがある日、外からやってきた旅人とすれ違った友人の番だと思っていた獣人はその旅人を熱烈に口説き落としたのである。
貴方こそが運命の番だ! と。
友人は勿論「どういう事……!?」と問うた。自分は運命の番ではなかったのか。
それに対してほんの少し前まで熱っぽく自分を見つめていたはずの獣人は、それが嘘だったように冷めた目を向け、
「きみとの関係は何かの間違いだったんだ」
とだけ言ってそれ以降、その獣人の目には旅人しか映っていなかったのである。
後に友人は、
「思い返せば確かに告白された時に運命とか言われなかったけど。でも、相手が獣人なら番なのかなって思うでしょ? 私に対して彼、とても優しかったし情熱的だったもの。でも、それでも私は運命の番じゃなかったのね……」
なんて言っていた。
その時のしょんぼり具合は見ているマリアベルも心配になる程だ。
勝手に勘違いしてのぼせ上ったのであればまだしも、確かに人間から運命の番である実感などあるはずもない。獣人から告白されて、それこそ大事にされていれば運命の番だからかな? と思うのも無理からぬ事であった。
それに、何年か前に運命の番を見つけた獣人が相手を手に入れるために、すでに結婚していた相手の伴侶を殺したという事件もマリアベルにとっては記憶に新しかった。
運命の番。
それだけ聞けばなんともロマンティックな響きであるが、マリアベルにはとてもそうは思えなかった。
蛮行の免罪符にしか思えなくなってしまったのだ。
故にマリアベルのガウェルに対する第一印象は最悪であった。正直関わりたくもない。
私は貴方を愛する事、生涯有り得ませんわ。
そう告げれば、ガウェルはそれでも構わないと言い切った。今はそうかもしれない、けれど、必ず振り向かせてみせるから! と。愛も情も忠誠も、全てきみのために! とまるで恋人と言うよりは唯一の主君に対するかのような態度で接してきたガウェルは、一応は紳士的であった。
限られた時間、決められた場所でしか会えない運命の番。
彼女を射止めるためには、まずは信頼を得なければならない。だからこそ、真摯に。誠実に。
けれどもそろそろ時間だからと立ち去ろうとしたマリアベルとの別れはやはり名残惜しいのか、あと少しだけ……と懇願する事もあった。
これが、マリアベル以外であったなら絆されたかもしれない。けれどもマリアベルの心は一切動かなかった。
「ごめんなさいね、この後、アレンとの約束がありますの」
冷ややかに告げて去っていくマリアベルを、ガウェルがどんな目で見ていたかなんて。
振り向かずともマリアベルにはよくわかった。
アレン……?
と剣呑さを含んだ呟きはマリアベルの耳にも届いた。
愛しい愛しい番の口から出た名。友人のものであれば――いや、友人であっても異性であれば彼女に近づく雄など到底許せるものではない。家族であればまだ……と無理矢理己を納得させようとしていたガウェルであったが、もしそうでなければ。
きっと自分はそのアレンという男の存在を許せそうになかった。
その後もマリアベルの口からは度々アレンの名が出るようになった。
アレンはマリアベルにとって一体どんな存在なのか、と探るように聞かれた事もあった。
その時にマリアベルはにこりと天使のような微笑を浮かべてこたえたのだ。
とても大切な方よ、と。
自分にとっての一番。人生の支え。アレンがいるから今の私がいるの。これからもずっと一緒にいられたら。
そんな、ガウェルからすれば自分にこそその言葉を向けてほしいといったものが、全て見た事のないアレンとやらに向けられている。
その目に嫉妬の炎が渦巻いているのを、マリアベルはわかった上で放置していた。
マリアベルが王宮から去ったあと、ガウェルはマリアベルと関わりのある人物へマリアベルと親しい間柄のアレンという人物について情報を集めるようになった。
けれども、誰もが口を噤む。いや、一応ふわっとした情報は落とすのだ。けれども歯に物が詰まったような、はっきりしない情報が多い。
はっきりと伝えれば、きっとガウェルがアレンを殺しに行くだろうというのがわかる程、その時点で既にガウェルの目には激しい憎悪が渦巻いていた。
ガウェルにとってマリアベルは運命の番で、何者もその代わりになれないものだ。けれどもマリアベルにとっての運命は自分ではない。いや、運命の番なのだから本来の運命はガウェルのはずなのに、マリアベルは獣人でないからこそ魂の根底を揺さぶられるような震えがくるような感覚を知らない。そのせいで、運命ですらない相手を運命だと勘違いしている。
間違いは、正さなくてはならない。
過ちを犯しているマリアベルを、救わなければ。
運命の番が絡むと暴走しがちな思考は、いっそ狂信的ですらあった。
ガウェルにとって最期の日は、その後すぐに訪れた。
待ち合わせて語らうための部屋に足を運べば、まだマリアベルは来ていないようだった。
だがしかし、番の匂いが濃厚で間違いなくマリアベルがいるとわかる。
隠れている。
そうとわかった途端、ガウェルの心は微笑ましいもので一杯になった。
獣人相手にかくれんぼだなんて。
そんなのすぐにわかるというのに。あぁ、なんて愚かで可愛らしいのか。
王宮内の一室。応接室として使われるようになったそこに隠れられそうな場所というのはそう多くはない。
これがプライベートルームであれば、隠れる場所ももう少しあったであろう。けれどもこの室内で、人間が隠れられそうな場所は――
「マリアベル、そんなところに隠れていたってすぐにわかるよ。一体どうやって隠れたんだ……ッ!?」
ごぽ、とガウェルの口から血が吐き出される。何が起きたかすぐにわからなかった。
「マ、マリ……ア……」
室内の装飾の一つとして飾られていた甲冑鎧に縋りつくようにして、ガウェルが崩れ落ちる。
何が起きたかわからない。けれど、この中にいるだろうマリアベルは無事だろうか。もし無事じゃないのなら。運命の番だ。守らなければ。
「マリ、ァ……」
原因がわからないが、それでも中にいるだろうマリアベルを脅威から守ろうとして、ガウェルは甲冑鎧を抱き込むようにして――そのまま倒れた。
ガシャン、という音がそこまで大きくならなかったのは、最期の最期でガウェルが自らの身体を下にしたからだろう。だが、倒れたと同時に鎧が手にしていた武器がガウェル目掛けて押し付けられる。
本来ならば、単なる置物の甲冑鎧が持つ武器は危険のないように刃が潰されている事がほとんどだ。だがしかし、王宮にある置物はそうではなかった。
それは万が一城内に賊が侵入した場合、咄嗟に武器が無い時にそこから使うためでもある。飾りだと思ったら実践武器であった、という事実に隙を作る賊がいないわけでもない。
大抵の甲冑鎧にセットで存在している武器は見た目こそ立派だが本物の武器として扱うには殺傷力が低く、それでいて重く作られている。だからこそその常識が先行して本物の武器であるとは思われない。
だがそれは賊であれば有効なのであって、使節団の一員としてやってきたガウェルにとってはそれがトドメとなりえてしまった。
長く苦しむ事なく息絶えたのは、果たしてガウェルにとって幸せな事だったのかはわからない。
――その後、室内から響いたマリアベルの悲鳴によって事件は発覚した。
当初、疑いの目はマリアベルへ向けられた。
運命の番であるというガウェルに対し、マリアベルの態度はそっけないものであったのも疑いの目が向く原因の一つであった。しかしガウェルの死んだ状況は、甲冑鎧が手にしていた武器によるものであるとはいえ、それは鎧が手にしたまま。鎧ごと倒れてガウェルが下敷きになっているが、鎧があったのは壁に近い位置だ。後ろに回り込んでマリアベルが鎧を押して倒しそれがガウェルを潰した、とするには無理のある状況であった。
それ以前に甲冑の重さはかなりのものだ。マリアベルの手で押した程度ではビクともしない。
一体どうしてこんな状況に……と使節団の一人が困惑したように呟けば、マリアベルは泣きそうな声を押し殺して答えた。
「殺そうと、したんだと思います」
殺す、という穏やかではない言葉にその場に集まっていた者たちの眉がぴくりと動く。
「ご存じの通り、私とガウェル様は運命の番として彼が滞在している間、一応の逢瀬をしておりました。とはいえ、私はお断りしていましたが。
生まれも育ちも異なる身。共通の話題も然程なく、だからこそ話題が偏るのはある意味で仕方のない事でした。私は私の大切な人の事を話したのです。ですがガウェル様は……」
「そういえばアレンという者について聞かれたな」
ぽつり、その場にいた一人が漏らす。
「はい、私の家族です」
家族、という言葉にかすかに動揺したのは使節団の獣人たちだ。
ガウェルの話しぶりではまるでマリアベルの恋人のような言い方だった。
「運命の番というのであれば、私を嫁に向こうへつれていくのであれば、家族の理解も必要です。獣人同士なら運命の番であればそういうもの、とお互い認識するでしょう。でも人間はそうじゃないんです。
今まで育ってきた家族が急に離れ離れになるなんて事になれば……
だからせめて、ガウェル様には私の家族も大切にしてほしい、そう思ってお話したのに。
運命の番以外はどうでもいいのでしょうか?
番の家族に疎まれようとも番さえいればそれでいいと?
いえ、それ以前に、番を手に入れるために番の家族を殺そうとする、というのが獣人の流儀なのですか!?」
「なんと……では、この状況は……」
「ガウェル様は、アレンを殺そうとしていました。アレンさえいなければ、私が諦めると思ったのかもしれません。でも、大切な家族を殺されて、どうしてその殺した相手と番えるなんて思うのです!? 貴方たちは運命の番に自分の家族を殺されても、番だから、で赦せるのですか!?
アレンは私にとってたった一人の大切な家族なのに!?」
ガウェルがアレンに対して憎悪を抱いていたというのは、使節団の仲間たちからすればよくわかっていた。
番についてる悪い虫くらいに思う者も中にはいた。
だが、それが番の家族、それもたった一人の、となれば話は違ってくる。
確かに運命の番は獣人たちからすれば大切なもの。
しかしだからといって家族がどうでもいいというわけではないのだ。
獣人たちは仲間との絆を大切にする種でもある。勿論、動物として表に出ている部分によって表現の差はあれど家族とは獣人たちの多くが恐らく最初に属する群れの一つだ。
その大切な相手を害する相手は敵であり、守るために立ち向かうのは当然の事でもあった。
「私と同じじゃなくてもいい。でも、私の次に私のたった一人の私の大切な家族を、ガウェル様も大切にしてくださるのであれば。私は……私は……ッ」
そこまで言うとマリアベルは両手で顔を覆ってうっ、うっ、と嗚咽を漏らす。
運命の番が絡むと冷静さを失う獣人は確かに多く存在している。
だが、現場の状況とマリアベルの証言で分かったことは。
アレンをマリアベルの家族ではなく恋人か何かと勘違いしたガウェルの、暴走した結果であった。
城の甲冑鎧の置物の武器が実物である、というのは国は違えどよくある話なので使節団もその点については責める事もない。
使節団の者たちは、マリアベルの言葉に嘘があるようには思えなかった。鼻が利く獣人たちは人間たちの感情の機微を匂いで判断する事も多い。
たった一人の家族を殺すと言われ、マリアベルはガウェルの事をどう思ったのだろう。
もし、マリアベルの家族もガウェルが大事にしてくれるというのであれば、最後まで口にしてはいないけれどマリアベルはガウェルと番う事を決めたのではないか。
そう思えば思う程、暴走したガウェルの自業自得のように思えた。
ガウェルも城で働く身であったので、甲冑鎧の武器が実物である事は知っていた。だからこそ、咄嗟に武器を手にしようとして鎧に近づき武器を取ろうとした。けれど、冷静さを失っていたガウェルはその武器を取る際に鎧のバランスを崩してしまい鎧が倒れ――咄嗟の事ですぐさま対応できなかったのかもしれない。普段であれば鎧を押しとどめるなりできただろう。けれども武器を手にした状態で鎧が倒れれば片手で押し戻すわけにもいかず、武器を手放すつもりもなく、そうしてほんの一瞬の対処を迷った結果が自滅だ。
最初はマリアベルが何かをしたのかとも思っていたが蓋を開ければ悲しいまでの自爆である。むしろ運命の番と言うものを本能で理解できない人間種族のマリアベルはわざわざガウェルに付き合って時間をつくってくれていたのに、唯一の家族を殺すとまで言われたのだ。殺されはしていないけれど、それでもそれはこの場にマリアベルの家族でもあるアレンがいなかったから。いたのであればきっと無事では済まなかった。
「マリアベル嬢、私が言えた義理ではないのだが。
ガウェルにかわり此度の非礼を詫びたい」
であれば。
使節団を纏めていたリーダーは重々しい口調でそう告げる他なかったのである。
「でも、あれ、お姉さまが殺したのでしょう?」
「そうよ。それが何?」
三年前の思い出を紅茶片手に語らって、マリアベルは悪びれた様子もなく言ってのけた。
「どうして? と聞いてもいいかしら?」
「だってあいつ、貴方を殺すと言わんばかりの態度だったもの。たった一人の可愛い可愛い妹を良く思わない男に、どうして私がなびかねばならないの?
ねぇ? アレンティシア」
たった一人の妹に向けてそう言ったマリアベルは、勿論わかっていてやった。
アレンティシア、と最初から呼んでいたならば。
きっとガウェルは勘違いなどしなかっただろう。
マリアベルはアレンの事を妹だなどとガウェルに一度も言っていない。
ただ、大切な人と告げただけ。
もっと踏み込んで関係性をきいてくれればこたえたかもしれないが、マリアベルの口から恋人やそれに近しい言葉を聞くのを避けた結果なのだろう。ガウェルはアレンについて踏み込んで聞いてくる事はなかった。そうして勝手に悪い方に想像を膨らませて、勝手に嫉妬していったのだ。
「それで? どういった方法を使ったの?」
当時、あの場にいた使節団の獣人たちや王宮で働いていた者たちが真相だと思っているものは、実際は間違いだ。
あの時、ガウェルは甲冑の中にマリアベルがいると思ったようだが実際は中に人なんていなかった。
マリアベルは部屋の別の場所に隠れて一部始終を見ていたのだ。
獣人なのだから匂いでわかる。
そうだろうとも。だからこそ獣人たちは自分の鼻に絶対の自信を持っている。
だが、フェロモンを抑制する香水があるのだから、その逆があってもおかしくはない。
ただそれを、率先して使う者がいないだけで。
「まず、私のフェロモンがたっぷり入った香水を甲冑に大量に吹きかけます。それだけであら不思議、鼻のとっても良い獣人さんは私がそこにいると思いこみます。そしてその香水に合わせて無臭の毒を混ぜておいたの。ただそれだけよ」
マリアベルからすれば甲冑が倒れてその武器がガウェルに致命傷を与えてくれたのは、ある意味で幸運であった。死因が一目でわかるからだ。
誰もガウェルが本当は毒で死んだなんて思わなかった。一目でわかる程に刃物が刺さっているのだ。深く、確かに。それを見て死んだ原因は別のものだ、などとその場でいう人物などいるだろうか?
刺さった場所が致命傷になりそうもない部分であればまだしも、首から胴体にかけてざっくりと切り傷ができているのだから、これで別の原因ですなんて言えるのは犯人くらいなものだろう。
「あいつが倒れた後で甲冑に解毒薬と合わせておいたフェロモン抑制の香水を吹きかけて匂いを消して、その後に悲鳴を上げて今しがた事件が起きたように思わせた。死体の処理だとかをしなくてもいいのだから、証拠を隠滅する時間なんてほんの五分もかからない。
ね? 簡単な事でしょう? あの場にあったのはガウェルの血の匂いくらいね。だから使節団の人たちもおかしいとまでは思わなかった」
これで血の匂いまできれいに消していたら不審がられただろうけれど。
「お姉さま、もしガウェルさんとやらが私の事も大切にすると言っていたら、本当に番ったのですか?」
「え、まさか。向こうが婿にくるならともかく、私を嫁にと向こうに連れて行こうとするようなこっちの意思を初っ端から無視するような奴に、誰がなびくと?」
「そうですわね。お姉さまが今日も元気にお姉さましていて私安心しました」
「当然でしょう? ここにはお父様が残した温室と、お母様が残したアトリエがあるのよ? 薬の調合も香水の調香も私の人生の生きがいなのに、この土地を離れるなんて考えられないわ。
この国が滅ぶならその時は私もこの土地に骨を埋めるつもりよ」
そもそもだ。
国王が国同士の繋がりを考えて政略結婚を言い出さなかったのは、マリアベルの立場上難しいものがあったからだ。これがただの貴族令嬢であったなら、マリアベルの意思を半ば無視するようにガウェルとの政略結婚が結ばれて遠い地へ嫁ぐことになっていただろう。そうした方が向こうの国に恩も売れるだろうし。
だが、マリアベルをこの国から出すには難しいからこそ、王は政略結婚などと言い出さず、ガウェルの求婚を当事者同士で……みたいな空気を濁すようなふりをして制限時間内での逢瀬だけにした。逢瀬、というかあれはガウェルがいかにマリアベルを説得できるか、という意図もあったように思えるが。
王も王女も知っていた。
ガウェルの求愛にも求婚にもマリアベルが頷く事がないことを。
マリアベルの両親は運命の番云々の巻き添えを食らい命を落としたようなもの。
恋愛ハッピー脳で周囲巻き込んでんじゃねぇぞ、というのがそもそもマリアベルの根底にある。
全ての獣人が悪いとは思っていない。ただ、友人としてはやっていけるだろうけれど、それが恋人だとか伴侶となれば話は別。その時点で交渉決裂さようなら、という状況になるだけだ。
それにかのフェロモン抑制香水はマリアベルの母が研究の末に生み出した物であり、毒は父が研究の途中で偶然作ってしまったものであった。味はどうだか知らないが、無臭のそれはうっかりその辺にぶちまければ大惨事をもたらす事確実である。
以前まで毒杯に用いられていた物から、新たに父が偶然開発した毒が毒杯に使われるようになった。
父は解毒薬を開発できなかったが、完成一歩手前だったのをマリアベルが完成させている。
父と母の才能を引き継いだマリアベルを、国がそう簡単に手放すはずがない。
アレンティシアもそうだ。
現状姉の助手を務めているが、薬草を育てる事に関して彼女の右に出るものはいない。
滅多に採取できない薬草の栽培を成功させたおかげで、一時期不足しがちだった薬は今では余裕をもって保管されている。
そのような才能を持った二人を、果たして誰が手放すというのか。
「ところでお姉さま」
「何かしら?」
「最近私に言い寄って来る面倒な方がいらっしゃるの。何かいい知恵はないかしら。
私にはアベルと言う大切な人がいると言っても引き下がってはくれないの。
それどころか決闘を申し込むなんて言い出すのよ。嫌だわ野蛮で」
片手を頬にあてて私困ってますのよ、といった表情を浮かべるアレンティシアであったが。
「流石私の妹ね。やってる事が私と一緒」
アレンティシアをアレンと呼んだのは意図的だ。男であると匂わせるつもりがなければ、ティシアだとかシアだとか他に呼びようはあった。
妹に関しては言い訳のしようもない。
マリアベルのアベル部分で男だと思わせている。
そんなつもりがなければ最初からマリアと呼んでいるだろう。つまり、妹にとって相手の冷静さを奪いつつどうにかしたい相手という事か……
ふむ、としばし考える。
「そうね、お茶をする機会はあって?」
「困ったことにね」
「遅効性の味のしない睡眠薬があるから、とりあえずそれを混ぜたものを飲ませてからの事故を狙いましょうか」
「まぁ、それはいいわね。毒じゃないからもしあとからバレても、疲れていたようだから休ませてあげようと思って……という言い訳で乗り切れそうだわ」
「それで、お相手はどこの馬の骨?」
「騎士団第三部隊の隊長さんよ」
「あぁ、裏で色々やってるっていう評判のよろしくない……なら、大丈夫ね。やらかしがバレてもそこまでのお咎めはないわ」
下手に国にとって重要な相手だと問題があるので念の為確認したが、その第三部隊の隊長さんとやらに関しては少し前にアイシア王女から色々と聞いている。
やらかしても問題の無い相手だ。
むしろやらかす事を推奨されるまでありそうなので、マリアベルはにこりと微笑んだ。
今日も姉妹は仲良しである。