私とAir Pods
この世の全ては信頼によって組み上がっていると表現しても過言ではない。友達と遊ぶにしても、待ち合わせに友人が来るのか? 恋人と過ごすにしても、相手は浮気していないか? 仕事をするにしても、給料は支払われるのか? デリバリーを注文するにも、きちんと届くのか? 果ては自販機にお金を入れたら、飲み物が買えるのか? これら全てを疑い続ける人はそんなにいないだろう。自販機が信用ならないからと、飲み物を買う前に一旦お札や小銭の認識システムに異常はないか、飲み物の在庫が入っているか、その飲み物がお金を入れボタンを押した後落下してくる機構に損傷はないか、これをいちいち確かめる人はいない。人々が何気なく過ごす日々にはこれほどにも信頼があふれているのだ。つまり、信じる事は素晴らしい事。自己以外の存在を信じ、身を任せ、こうして世の中は回っている。だからこそ私は人を信じているし、これからもそうしたい。そうしたいと思っていたのだが。
一人の青年が、駅員室にやってきた。彼が窓をノックすると、私はそこを開いて彼の望みを確認する。そして彼は言った。
「最近左のAir Podsの落とし物ありませんでした!? それ多分僕のなんですよね!」
私の、人を信じる心は揺らいでしまった。
Air Pods、それはご存知の通りブルートゥースの接続による、左右が独立した小型イヤホン。うちのような乗り換えの多い駅で駅員として働いていると、この落とし物は嫌でも大量に目にするようになる。通勤中は音楽を聴く人が多く、そしてこのような形式のイヤホンが大流行りしているとなると、当然の結果である。とはいえ落とし物を預かるのはこちらの仕事で、それを面倒には感じたりはしない。しかし問題は別にある。このAir Pods、見た目による判別が全くつかないのだ…。
私はこう伝えるしかなかった。
「うーん、そう言われても…」
全く回答になっていないのは自覚がある。だからといって「ハイそうですか貴方のモノですねお渡ししますもう落とさないで下さいね」なんて答えるわけにはいかない。
青年は明らかに動揺していた。
「えぇ、いやまじっすか? 届いてないですか、Air Podsの落とし物。絶対この駅だと思うんだけど…、最近買った新しいやつなのになぁ」
いや、届いてはいるんだ。しかも何個も。問題は持ち主の落とし物を結びつける要素が全く見つからないという点なのだよ。
ただこの青年を無下に突き放すわけにもいかない。とりあえずは、僅かな手がかりを探していこう。
「えっと、とりあえず君の名前だけ確認していい?」
「はい、羅是津煌佐兵衛です」
「え? ラ、ラゼツコウサヘイ?」
「そうです!」
聞き間違いかと思ったのは、どうやら間違いだった。とてつもなく珍しい名前だ、本当の名前なのだろうか…。いや人の名前を疑うのはおかしな話だ、彼の名前はこれに違いはない。
「ラゼツはどう書くの」
「ラは羅生門のラで是は是非の是、津は大津市の津です」
「えーっと、ラが…」
一文字一文字確認していると背後から後輩の若い子が声をかけてきた。
「…ごめんね、これに名前書いておいて」
私が振り返ると、後輩は腕を組んでいた。
「え、渡しちゃうんですか?」
青年に聞こえない程度の小声で後輩は言ってきた。
「先輩は知らないでしょうけど、落とし物のAir Podsって結構問題になってるんですよ。これって別に、左右バラバラに独立してるし買った時のペアじゃないといけない訳じゃないんです。だから片方だけ街中で拾ってそれを転売する輩もいるみたいですよ」
そうだったのか。これはそう簡単に渡すわけにもいかないかもな…。
ただ、羅是津君を疑わしい目で見て拒絶するつもりもない。信頼に足る情報があれば問題なくAir Podsは彼のもとに返そう。
例えば財布ならどうだ? この場合、色や形状などの特徴が一致すればほぼ問題はない。「黒の二つ折り」なんかでも、そこは中身を言い当てたりすれば完璧な証拠だ。
例えば携帯電話ならどうだ? スマートフォン本体はほぼ同じでも、カバーで個性が現れる人もいる。更には待受画面、あるいはパスコードの番号が言い当てられれば完璧な証拠だ。
ではAir Podsは? ………。いや、何もない。二つ折りの左のAir Podsなんて存在しない。左のAir Podsの待受画面はどこにもない。
今度はアプローチを変えてみよう。例えば携帯電話では、その中入っている電話番号を言い当てられても信用に足りうる。つまりは情報的な部分を考えるのだ。
「…後輩くん、例えばAir Podsに、登録番号みたいなのがあって最初に決めた携帯電話でしか繋げられないなんて事はあるかい?」
「ないですね。どのケータイでも、どのAir Podsに繋げられます」
「…だったら、Air Podsに登録されている、シリアルナンバーがあったりするかな」
「それはありますね。確かケータイとBluetoothで接続すれば確認できます」
「おお、それなら証拠になりそうだ」
「自分のAir Podsのシリアルナンバー覚えてる人なんていないですよ」
「確かに」
「……Air Podsに名前書いてたりしないかな」
「そんな人いないですよ。てゆーか、書いてたら一発でわかりますし」
「確かに」
…しかも名前は、羅是津煌佐兵衛だ。あの小さいイヤホンに書けるとは全く思えない。
「後輩くん、君はAir Podsを持っていたりするのかな?」
「まぁ、古いやつなら」
「何か判別のアイデアはある?」
「無いです。僕は無理だと思います」
我々は無力だった。
信頼するしない、という話であっても彼が転売目的でここに来たのかどうか判別ができない。我々の判断を伝えると、青年は残念そうに帰っていった。彼には申し訳ないことをしてしまったな…。
そういえば昔、ガスの検針員と称して住居に立ち入る事件が多発していた。怖い事件とも思ったが、その時同時に考えたのが、本物の検針員が「自身が偽物ではない」と社員としての存在を証明するのはほぼ不可能ではないか、という事である。検針員の制服も偽物を似せて作れなくも無いだろうし、名刺も街中の印刷所で作成が可能だ。そして社員証のデザインなんて巷には出回っていないだろうし、適当にそれっぽく作れば騙せるかもしれない。どれだけ証拠を提示しても、用意周到な偽物と思われてしまってはどうしようもない。だからこそ、結局のところ信じるか信じないかを自分自身で判断しなければならないのだ。ちなみに私はこの問題を神の不在証明ならぬ、ガスの存在証明と呼称している。
どの道こちらが疑ってしまうと、Air Podsは彼のものと証明できなくなってゆくのだ。
私は改めて認識した、他者は疑ってかかってはならなず基本的に信頼していかなければならない、と。
駅に集められた落とし物は、7日間ここで保管されたのち警察署に届けられる。青年のものも含んでいたかもしれない幾つものAir Podsは、警察署に届けられた。
程なくして、後輩のイヤホンは新しくなっていた。
…………………………………いや、私は他者は疑ってかからないと決めたのだ。