未練の管理人
初投稿です(言ってみたかっただけ)。
生き物は死ぬと、必ずここへ来ます。
「こんにちは。ようこそ、ここは審議の間・日本第十五支部です」
「えー、おま……じゃなくて、あなたは死にました」
「私たちは管理人といいます。よろしくお願いします!」
それで、あなたの未練は?
この状況を何て言うんでしたっけ。ああ、そうでした。カオスです。混沌です。
もっと詳しくするならば、悲しみで打ち震える彼をマーさんが宥めすかしたところ、ヤーさんの鋭い一言が彼にクリーンヒットしました。まさに阿鼻叫喚。あれがわざとじゃないなんて、私は信じません。
今までの苦労が全て水の泡になったマーさんは、凄みを効かせた笑顔で、静かにヤーさんの爪先を擦り潰しました。マーさんが今日履いているのは、数ある赤いピンヒールの中でも、攻撃性に特化した彼女のお気に入りでしたから、あっという間にヤーさんの爪先はぺったんこです。
私たち管理人には、痛覚というものは存在しません。まあ、元死人ですから。なので、爪先は平べったくなっても、痛みは感じません。ですが、目の前で自分の足が無残な状態になっていくのを見て、平然とはしていられません。痛覚は感じなくとも、記録は残ります。その証拠に、ヤーさんの顔は青ざめています。生前にあった痛みの記録が引き出されたのでしょう。
私はヤーさんと違って、すごくスッキリとした気持ちになりました。
「いい気味です。いつも意地悪なことばっかりするから、バチが当たったんです」
「おう、何か言ったか? 最近、どうも耳の調子が良くなくてなぁ。上手く聞えないんだわ。もう一度、はっきりと、大きな声で、言ってみな?」
「ヤーさんは素晴らしい先輩だなと言いました」
ヤーさんは無言で私の頭に手を乗せました。私はその腕を掴み、外しにかかります。そこから始まるのは無言の攻防だけです。
ヤーさんの腕は鋼鉄のように硬く、路上に捨てられたガムのように私の頭にベッタリとへばり付いています。負けじとそれを剥がす手に力を込めましたが、一向に剥がれる気配がありません。
「誰が、おっさんが路上に捨てて、幾人もの人間に踏み潰されたガムだってぇ?」
「もしかして、全部口から出ていましたか? でも、私はそこまで言っていませんよ! つまり、ヤーさん自身がそう認識していたってことでは……ギブギブギブ! すみませんでしたぁ! ヤーさんはガムじゃないです! 尊敬する先輩です! なのに、悪口言ってすみませんでした!」
「そうかそうか。正直に話してくれてありがとう」
ヤーさんは格好にそぐわない穏やかな笑みを浮かべました。
「……あ、じゃあ、謝ったことですし、この腕離してください。……ってさっきよりも力込めるのは何でなんですか! 私、ちゃんと謝ったし、ヤーさんも許すみたいな雰囲気出ていたじゃないですか!」
「それはそれ、これはこれだ」
ヤーさんの腕は離れません。その上、捻りを入れてくるようになりました! やめてください! 私の毛根をいじめないで! 痛覚がないからといって心が痛まないわけではないんですよ!?
「ヤーさん、ハーさん。戯れ合ってないで、早く手伝ってちょうだい」
「異議ありです! どこをどう見たら戯れ合うっていうことになるんですか!? これはどう見てもパワハラですよ! パ ワ ハ ラ」
三人の中で一番背が低い私は、少しでも彼らの視界に入るようにと背伸びして訴えました。この意見を曲げることは永遠にありません。永遠に!
「あのねえ、今はそんなことより、大事なことがあるでしょう?」
マーさんは呆れ顔でこちらを見てから、彼に優しく話しかけました。『そんなこと』と言われたのはショックですが、今は審査の途中でした。
ヤーさんはというと、涼しげな顔をしてマーさんの斜め後ろに立っていました。なんという変わり身の速さ。事を大きくしたのはヤーさんなのに。後輩の滑らせた口など流せば良いだけなのに、いちいち反応するなんて子供のやることです。つまり、ヤーさんは子供ということです。
一人納得して頷いていると、ヤーさんがくるりと振り向き、じっと私の目を見つめます。
な、何でしょうか? もしかして、また無意識に言ってしまっていたとか!?
「ど、どうかしましたか?」
「……別に。何でもない」
珍しく物静かなヤーさんは慣れません。こっちも調子が狂います。
マーさんが咳払いをして、こちらをチラリと見ます。「余計なことしない!」と目が言っています。原因はヤーさんなのに、私が悪いみたいな雰囲気出ていません?
唇を尖らせつつ、私は彼の方へ意識を向けました。そこにあるのは、野球ボール程の浮遊する球体。彼が最初に来た時にあったチェック模様はすっかりなくなり、模様の下に隠れていた淡い黄色が覗いています。
「申し訳ありません。うるさくしてしまって……」
「いやいや、構いませんよ。話も聞いてくれたし」
「本当にお恥ずかしい限りで……。さて、そろそろ、よろしいですか?」
「……本当に、全て忘れてしまうんですか」
彼は忘れられるのが怖いようです。でも、生き物は忘れ続けるものなので、仕方がありません。
「はい。しかし、私たちは忘れません」
マーさんがそう言うと、彼は笑うかのように震え、白の扉へと滑り込んで行きました。
◆
管理人とは、簡単に言ってしまえば、お悩み相談所のことです。しかし、『死者限定の』が頭に付きます。生き物は死ぬと身体から魂が抜け、審議の間に辿り着くのです。
魂は総じて野球ボール程の大きさで、不思議なことに意思疎通ができます。だから、管理人がいるのでしょう。
そうしてやってきた死者には必ず大なり小なりの未練があります。その未練が完全に無くならないと、次のステップには進めません。次のステップが何なのかはよく知りません。マーさんが「知らなくていいのよ」と言っていたので、あまり深く考えたことがありません。
管理人は死者の未練が模様として見ることができます。そして、それを癒すのが私たちの役目です。そのことを私たちは『解く』と呼んでいます。未練が多かったり、重いものだったりすると、模様は複雑で濃いものになります。そうなると、解くのにも一苦労です。
私は最近、管理人になった新米です。他の二人からはハーさんと呼ばれています。皆さんも、ぜひそう呼んでください。
基本的に、管理人は同じ種族の魂しか扱うことができません。さらに人間は数が多いので、国籍で分かれているそうです。私たちの生前の記憶は消去されていますが、私を含めヤーさんとマーさんは日本人だそうです。なので、私たちが担当しているのは日本の審議の間です。日本だけでも六十以上の支部があり、私たちは第十五支部を担当しています。
ヤーさんは髪を金髪に染め、耳にもピアスがジャラジャラ付いています。文献で読んだ通りの『ヤンキー』と呼ばれる人たちとまるっきり同じで、初めて会った時は思わず叫んでしまいました。
「夜露死苦とか言ったことありますか?」と聞いたところ、凄まじい眼付きでアイアンクローをされました。さらに叫びました。あの反応は言ったことがありますよね。
マーさんは日本第十五支部のリーダーで、頼れるお姉さんです。ビシッと決めたパンツスーツに赤いピンヒールが特徴的の、とびっきりの美人です。ヤーさんが苦手にしていますが、私は大好きです。ですが、怒ると怖いので注意が必要です。
「あ、終わりの時間ですね」
どこからともなく鐘の音が響いてきました。これが鳴るのは一日二回。始まりと終わりの時間を知らせています。審議の間と呼ばれる私たちの職場は意外と広いですが、鐘の音はどこにいても聞こえてくる便利な代物です。
はっきり言って、私たちに休息は必要ありません。必要なのは死者たちです。死者たちは私たちと違って脆弱なので、ワンステップを超えるだけでもとても疲れるらしいです。
「はぁー。やっと終わった。疲れたな」
「何言っているんですか、ヤーさん。私たちが疲れるなんてありえませんよ」
「別にいいだろう。実際そうじゃなくても疲れた気分なんだから」
「ヤーさんが日頃から何事にもやる気がないから、疲れることなんてありませんよ!」
「ああ? お前、先輩に向かってどんな口聞いてんだよ。絞めるぞ」
「ひぃぃいい! た、助けてくださいー!」
「はいはい、やっぱり戯れ合ってるじゃない。じゃあ、私は報告に行ってく──え?」
逃亡に失敗し、襟首を掴まれている私を見て、マーさんが呆れたように言うと、審議の間の奥にある休憩スペースへ足を向けた、その時でした。
「や、ヤーさん。さっきの鐘の音って、もしかして幻聴だったんでしょうか」
「んなわけあるか。お前は俺の耳がおかしくなったとでもいうのかよ」
「何でいつも私の言葉を皮肉として捉えるんですか! 私はただ確認したかっただけですよ! だって、おかしいですよね?」
──鐘が鳴ったのに、扉が開くなんて。
私の言葉静かな部屋に反響しながら響きます。ヤーさんを見上げると、険しい顔をして扉から入ってきた魂を睨んでいます。こんなヤーさんを私は見たことがありません。
多分マーさんもヤーさんと同じ顔をしています。顔は見えませんが、後ろから冷気が漂っていますから。
審議の間と外を繋ぐものは二つだけです。一つは、未練を解き終えた魂が次のステップへ進む『白の扉』。
そしてもう一つは、未練を抱えた魂が来る『黒の扉』。通常、どちらの扉も終わりの鐘が鳴ったら開くことはありません。絶対に、ないはずでした。
今、目の前には開いた状態の黒の扉があります。一体、何が起きているのでしょうか。私には検討もつきません。
「残業代は出るのか?」
「出ないに決まっているでしょ! お給料もらったって何も買うものなんてないじゃないの!」
マーさんはいつの間にかそばに来ていて、ヤーさんの頭を叩きました。
「おい。これはパワハラじゃねえのか」
「パワハラではありません。教育的指導です」
私は素早く言い返しました。加害者は、何を言ったって虚言にしか聞こえないのですよ。
「それをパワハラって言うんだろ」
「いいえー。違いますー。勉強足りないんじゃありませんか?」
「この野郎ぉ……」
「ヤーさん、ハーさん。そんなところで乳繰り合ってないで、早く来なさい」
「遺憾です! 誠に遺憾です! 戯れ合うよりもひどくなっています! 即刻発言の撤回を申告します!」
私は地団駄を踏み、鼻息荒く言いましたが、あっさりと一蹴されてしまいました。
「却下します。あと、さっきハーさんがヤーさんに言ったのも、パワハラに入るのよ」
「……え?」
「ぶはははは! 豪快なブーメランだな!」
ヤーさんは爆笑しながら、私の頭をバンバンと叩きます。それに合わせてヤーさんの首からぶら下がったシルバーネックレスがジャラジャラと音を立てて、それすらも私を馬鹿にしているように思えます。
「ちょっと! これ以上背が低くなったらどうしてくれるんですか!?」
「さあなー。試してみるか?」
「ヤーさん。もう十分笑ったでしょう。解くわよ」
「マーさん……!」
もっとバシッと言ってやってください!! 私は悲しいです!
「へいへい」
打ちひしがれる私を余所に、ヤーさんは私の頭から手を退かして、マーさんの隣に並びました…すると、さっきまで緩んでいた顔がスッと引き締まり、さっきまで爆笑していたヤンキーは跡形もなく消え去っています。
こう言うところは先輩として尊敬できるんですけどねえ。それ以外がちょっと、ねえ……。
「ハーさんよ、あとでちょっと俺と話そうか」
「え? 私にはヤーさんと話すことなんて何もありませんよ?」
「ハーさん、全部口から出ていたわよ。大人しく腹括りなさい」
「嘘ですよね?」
「楽しみだなあ」
そう言って笑うヤーさんは、怒ったマーさんと同じくらい恐ろしかったです。
◆
予想外の事態に動転していた私たちは、何とか落ち着きを取り戻し、ひとまず、魂と話してみるというところに落ち着きました。
その魂の色は濃い模様ですっかり隠されていて、見ることはできません。そこまではこれまで見てきたケースでもありましたが、模様までわからないということは初めてです。マーさんたちも見たことがないそうです。
私たちの不安がうつったのか、魂も不安そうにゆらゆらしています。その魂は、しばらく左右に揺れていると、私の近く──そうはいっても、十分に距離はありますが──でピタッと静止しました。
「は、遥!? あなた、遥よね! どうしてこんなところに……」
「私のことですか?」
「おい、ハーさん。こいつのこと知ってんのか」
「いいえ。私の記憶は消去されていますから。ヤーさんもそうですよね? だから、今の私は彼女を知りません」
彼女は生前の私と知り合いだったのでしょうか。自分の知らない自分を知られているというのは、少しモヤモヤします。
「何を言っているのよ! あんた、まだあたしのこと妬んでいるのね。言っておくけど、あれはあたしじゃなくて、あんたが悪いのよ」
「生前の私はあなたに対して何かしてしまったのですか?」
「なっ……。ふざけないでよ! 馬鹿にするのもいい加減にして!」
「馬鹿にするも何も──」
「一旦そこまでにしましょうか。ハーさん、少し落ち着きましょうか。あなたも」
傍観していたマーさんが間に割って入り、にこりと微笑みを浮かべました。
「すみません……」
「ふんっ」
私はすぐさま謝り、彼女はまだ怒っています。
「なあ、お前はこいつの知り合いなのか?」
「ヤーさん、どうしてそんなことを彼女に聞くんですか?」
「うるせえ」
「うるさくないです。もう私たちは管理人なんですよ? ヤーさんは私の過去を知って何になるんですか」
「それは……」
「相変わらず、冷たい女ね。だから、彼もあなたじゃなくてあたしを選んだのよ」
彼女がそう言って声高に笑いました。その笑い声を聞くと、ある映像が脳裏に浮かびました。
女性二人が一人の男性を挟んで言い合っている光景です。女性の一人は私でした。もう一人の女性は男性の腕にしなだれかかり、私に艶然と微笑んでいます。
そこには、私に対する優越感が滲み出ていました。男性は私に申し訳なさそうにしながらも、どこか満足気です。私はその場を去りました。
場面が変わり、私は見晴らしの良い所に佇んでいます。今の私なら浮かれて叫んでいるところでしたが、生前の私はそうではありませんでした。顔を歪ませ、何事かを呟き、そして──
時間にしては一瞬だったのでしょう。彼女は相変わらず球体を震わせて笑っています。
「──あなたが、生前の私とどんな関係であったとしても、今の私は管理人という役目を背負っています。それは、今の私にとって、何よりも誇らしいことです」
「あら、負け惜しみ? そんな綺麗事、よく言えるわね。ああ、今でも鮮明に覚えているわ。あんたがあたしに男を取られたって知った時の、あの顔。最高だったわ。そうそう、あんたが死んだ後、彼とあの崖に行ったのよ。すごく綺麗な場所だったわねえ。最期にあの景色見られてむしろラッキーだったんじゃない?」
彼女はそう言って球体は激しく揺らしました。体があれば、腹を抱えて笑っているでしょう。
彼女の言葉にヤーさんとマーさんは生前の私の最期を悟り、今にも彼女に飛びかかりそうです。それを食い止めているのは、管理人であるという矜持です。
私たちは何があっても、魂を傷つけることは許されません。傷ついた魂はいくら修復しようとしても、無垢な魂にはなれないからです。管理人は穢れた魂を無垢なものに還すことが役目です。
「ねえ、何とか言ってみなさいよ!」
彼女は、幸せな人生を送ったのでしょうか。きっと、そうではないのでしょう。おそらく私が原因で、周囲から非難を浴びたはずです。だから、死後に会った恨みの根源にこれ幸いと攻撃している。
そんな風に冷静に判断している自分を知り、私は、本当に自分は人間ではなく、管理人という存在になってしまったのだと感じました。
「魂の管理人はどんな魂であろうと、愛さずにはいられない。これは、管理人になってマーさんと顔合わせをした時に言われた言葉です。管理人はどの魂よりも深く、近く魂に寄り添い、未練を解く。そうすると、自然とその魂が愛しい我が子のような存在になる。たとえ、束の間の交流だったとしても、魂は等しく管理人の子供なのだと。言われた時も、今までもそんな感覚は私にはありませんでした。ですが、今なら、誰よりも私に近しかった貴女となら、わかる気がします」
「な、何を──」
「私たちはお互いに、友とも仇とも呼び合う関係だったのでしょう。生憎、記憶は消去されているので貴女の発言を元に推測した構図にはなりますが……。しかし、今の私は『遥』ではなくて『管理人のハーさん』です。管理人は魂を導くのが仕事。ならば、仕事をするまでです」
彼女の魂は相変わらず真っ黒なままです。よくよく目を凝らしてみると、細かい模様が複雑に絡まっているようにも見えなくもないです。その模様は生きているかのように自ら動き、彼女の魂を絞め上げています。魂を傷つけられると、痛みはありませんが、少しずつ消耗していき、最終的には消滅してしまいます。
「マーさん、ヤーさん。これは私がやるべき仕事です。それはわかっていますが、少し手を貸してくれませんか?」
「……断ったところで諦めるような奴じゃねえだろ、お前は」
「逆に言われなかったら勝手に手を出してたわよ。だって、貴女は私たちの可愛い後輩なんですもの」
二人は彼女の両隣にそれぞれ立ち、彼女を手で囲みます。行き場のなくなった彼女は、酷く狼狽していました。
「な、何なの? 早くあたしを帰してよ!」
「死者の行き着く場所はただ一つ。わかりますよね?」
「──ッ! うるさいッ!」
彼女はすでに死んでいます。戻ることはできません。彼女に残されているのは、次のステップへ進むという選択肢だけです。
彼女の目の前に立ち、手をかざします。
「おい、目は閉じるな。ちゃんと見ろ。手元が狂ったらお前もこいつも取り返しのつかないこといなる」
「分かりました。……では、始めましょうか」
解くという作業の内容はたったの二つです。何の模様か特定すること、そして模様を消すことです。模様を見分けるのは簡単なのですが、問題はその後です。
「見る限り、これは、蔦ですかね……」
「どれどれ? あー、こりゃまたぐちゃぐちゃに絡まってるな。相当未練があるから難しいぞ」
「ヤーさん、不必要にヤーさんを煽らないでちょうだい。……大丈夫よ、ハーさん。今までだって、一緒にやってきたじゃない」
小馬鹿にしたような笑みを浮かべたヤーさんに、マーさんは蹴りを喰らわすと、私を安心させるように笑かけました。すぐに復活したヤーさんも、私の顔を見て一回頷きました。
「じゃあ、解きます。……大丈夫です。私が責任持って解きますから」
再び手をかざし、彼女に笑いかけます。彼女はあれ以来反応はありませんが、構わずに続けます。絡まる蔦を指でなぞるようにして解いていく。これは、管理人見習いの時に、必ずマスターしなければならない技法の一つです。しかし、この技法をもってしてでも解けないことがあります。その時には魂が抱える未練を洗いざらい話してもらう必要があります。
無事に全体をなぞり終えましたが、当然、模様は消えません。しかも、まだ半分も残っています。こんなに濃いのは初めてです。
「やっぱりしぶといわね。大丈夫かしら。手助けした方が……」
「ハーさんならやれる。俺たちにできるのは、それを信じることだけだ」
「……そうね」
緊張から噴き出た汗を拭い、その場に座ります。未練を聞くのは大抵長丁場になるので、楽な姿勢がおすすめです。
見習い時代に覚えた文章は、今まで流れ作業のように言っていましたが、今回は噛み締めるように伝えます。
「もう五時を過ぎてしまったので、こんばんはですね。ここは、審議の間・日本第十五支部です。あなたはお亡くなりになられました。私は、管理人です。よろしくお願いします。──あなたの未練を、聞かせてください」
彼女はしばらく黙ったままでした。私もマーさんもヤーさんも何も言いませんでした。私たちは疲れることはないので、それでも構いませんが、彼女はいくら未練が大きいといっても、一般的な魂と変わりはありません。休息が必要です。しかし、未練を解かない限り安らぎは得られません。
「すでに知っているとは思いますが、今の私は貴女のことを何一つ知りません。それは、貴女にとってとても頭にくることだったと思います。意地を張る気持ちもわかるつもりでいます。ですが、このままだと、貴女の魂はどんどん削られて最終的には跡形もなく消えてしまいます。私は管理人としてそのような状態にさせてしまうわけにはいきません。……少しずつで良いので、私に話してはくれませんか?」
これは、私の嘘偽りのない本心と真実です。……多少、脚色は加えていますが、見逃してくれる程度の些細なものです。これで話さなかったら、見習い時に習った「ナキオトシ」と呼ばれる必殺技法を繰り出すしかありません。これはとても高度な技法で、成功する確率は、なんとたったの十パーセントなんです。新米のペーペーである私にこれができるかどうかは、限りなくゼロに近いと言っても良いでしょう。ですが、私は今、ここれ不可能を可能に変えて見せましょう! さあ、こい!
闘志を燃やす私をヤーさんとマーさんは真面目な顔で見守ってくれています。……あ、違いました。馬鹿を見る目と孫を見る顔です。どちらがそうなのかは、今は放っておきましょう。
彼女は私の迫真に迫る、と思いたいスピーチに心を打たれたのか(私の見たところ、この説が有力です)、彼女は話し始めました。過去の私との思い出を。
◆
生前の私と彼女は高校で会いました。
「あたしとあんたは似た物同士で、あたしはあんたが必要だったし、あんたも同じだと思ってた」
しかし、生前の私はそうではありませんでした。
「あんたが死んでから数十年は経つけど、あんたのあの顔がずっとこびり付いて離れないわ。あの、クソッタレな男と腕を組んで、『私、幸せのど真ん中にいます』って顔が」
彼女は必死に考えました。私と彼女がまた、お互いを必要とする日々を取り戻すには、どうしたら良いのか。
「意外とすぐに良い案が思いついたのよ。これなら、あんたとまた一緒になれるって確信してた」
しかし、蓋を開けてみたら、待ち構えていたのは予想もしていなかった結末で、もう後戻りは許されませんでした。
「あたしにもあんたにも関わったことのない奴が、あたしに向かって言ったのよ。『何であんなことをしたんだ。君には別の道もあったはずだ』ってね。──冗談じゃない。何も知らない奴が偉そうに説教垂れて、世論の代表者にでもなったつもりだったんでしょうね。自分は間違ってない。おかしいのはお前だって顔にはっきり書いてあったわ。そこまで行くと、もう笑えてくるのよ」
世の中というのは多数決です。結局は多い方に傾いてしまいます。その方が楽ですから。
「そういうことを言ってくる奴は他にも沢山いたわ。その度に思うの。あたしはやっぱり間違ってなかったって」
生前の私はどうしたら良かったのでしょうか。彼女の仮初の楽園で暮らすべきだったでしょうか。きっと違います。それは楽園ではなく、呆気なく崩れてしまう砂上の城です。
「え? ああ、あの男? 知らないわよ。あんたが死んでから、あたし以上にバッシングを受けてたのはアレよ。あんなクズでも罪悪感はあったのかしら? いや、世間体と自分の見栄だけを気にする奴だったから、怖くなって逃げたんでしょうね。つくづくちっさい男。ねえ、何であんたはあんな奴を選んだの? あたしがいれば充分だったじゃない」
当時の私は本当に何をしていたんでしょうか。何を考えていたんでしょうか。記憶が消された今、それを知る機会はありません。私に残っているのは感覚の記録だけです。管理人になって後悔したことはなかったつもりなんですけど、初めて自分の過去を知りたいと思いました。
「死ぬ直前に、思い出したことがあるの。何だと思う? あんたと初めて話した時のことよ。あの時、あんたはノートを拾ってくれたでしょう? あれ、わざと落としたのよ。あんたとどうしても話したくてね。お人好しのあんたはすぐ拾ってくれた」
彼女の魂を蝕んでいた未練はすっかりなくなり、血と見紛うほどに赤い色が自ら光を発しています。
「ねえ、遥。あたし、あんたに酷いことしたけど、謝らないわ。だから、遥もあたしを許さないで」
私は生前の私ではありませんが、彼女に代わってその約束を守ることにしました。管理人は一度覚えたことは絶対に忘れません。そういう風にできているんです。
◆
「なあ、あの女に魂の色、血みたいだったな」
「いいえ」
ヤーさんがポツリと呟いた言葉に無意識で否定した。
「じゃあ何だよ」
「──柘榴石です」
「……変わらない愛、か。あの女にピッタリじゃねえか」
ガーネットとも呼ばれるその宝石は、周囲をも巻き込んで燃え上がるほど情熱的な彼女を表すにはふさわしいと思いました。でも、彼女はこう言うでしょう。「もっと高級な宝石の方があたしに似合うのよ」と。
「はい、ピッタリです」
私はゆっくりと目を閉じて祈りました。
◆
たとえ、大地震が頻繁に起きたとしても、私たちの仕事は終わることはありません。むしろ、激化するでしょう。
管理人は、最低でも五十年の勤務が義務付けられています。しかし、大半の管理人はその倍以上もの年月の間「管理人」として働いています。最初は、不老になるから続けているのだと思っていました。今でもそう思っています。たった三年目の新米にそんな難しいことを考えさせる方がおかしいんです。私はそう思うことにして、ゆっくりと開く黒の扉を見つめます。
「おはようございます。ようこそ、ここは審議の間・日本第十五支部です。」
「えーっと、あなたは死にました」
初めて習った頃から変わらない台詞ですが、たまに噛んでしまうことがあります。前にやってしまった時には、ヤーさんは魂の前で笑い転げ、マーさんは涙目の私を慰めつつ、ヤーさんを殴り飛ばしてくれました。あの時は大変スカッとしましたが、そのあとのヤーさんは機嫌がなかなか治らず、とても面倒でした。
「私たちは管理人です。よろしくお願いしみゃす! ……あっ」
「おおっと? 今の聞いたか? ハーさんは管理人になって何年目だったかなあ。あ、三年目? えー、三年もたったらそんなちゃっちいミスなんてしねえよな。じゃあ、俺の目の前にいるのはハーさんじゃなくて、一体誰なんだろうな。マーさんは知ってるか?」
常に誰かを煽っていないと生きていけないヤーさんは、私の顔を覗き込み、期待するかのような目を向けています。ふつふつと沸き上がる怒りのままに怒鳴ろうとした時、横から顔を覗き込んでいたヤーさんが消えました。ヤーさんが元いた場所には、マーさんの赤いピンヒールとスーツに包まれた足が、回し蹴りをした状態で浮いていました。今回は蹴りでしたか。
「ヤーさん、ハーさんの反応がいいからって調子に乗らない」
マーさんは吹っ飛んだヤーさんに近づき、しゃがみ込みました。追い討ちですか! 何という鬼の所業! マーさんもっとやっちゃってください!!
「あんたねえ、限度ってものがあるでしょう。いつか永遠に話さなくなるかもしれないわよ? その時は自業自得ってことで沢山の嘲りを込めて笑ってあげるわよ。それと、ハーさんって超が付くほど鈍感じゃない。このままだと一生気付かないわよ。この前の時もそうだけど、見つめるだけじゃ伝わらないのよ。特にあんたは目つきが悪いんだから。どうすんのよ、ハーさんから『ヤーさんがたまに私のこと睨んでくるんですけど、私何かしちゃいましたかね?』って聞かれたら。私どう答えんのよ。『大丈夫よハーさん。ヤーさんは貴女のことが好きなだけだから』って言って済むような問題じゃないでしょ。もっと考えなさいよ」
「……うるせえな。そんぐらい、わかってるよ」
「じゃあ上手くやりなさいよ。小学校のガキじゃあるまいし」
何を話しているかは遠くて聞き取れませんが、多分マーさんが説教をしているのでしょう。追い討ちではなかったのが残念ですが、いい気味です。マーさん、もっとやっちゃってください。
◆
この状況を何というのか。そう、カオスだ。混沌だ。無法地帯だ。
いきなり死んだかと思えば、不健康そうな──死者に健康も不健康もないけど──おじさんにこの扉に入れと指示され、入ってみると、美女とヤンキーと女の子が立っていた。女の子が噛むと、揶揄うヤンキー。そんな彼を蹴飛ばす美女。そしてそれをニコニコと笑って眺める女の子。……あ、ようやく落ち着いたみたいだ。三人とも、何事もなかったように──ヤンキーはボロボロなままだった──私の目の前に並んだ。真ん中の美女が真っ赤な唇を引き上げて聞いてきた。
「あなたの未練は?」
ガーネットの宝石言葉は多々ありますが、「変わらない愛、一途な愛」という宝石言葉を採用しています。
独りでいる恐怖に苛まれ、自分を置いて幸せになろうとしている遥への嫉妬で狂ってしまった彼女は、遥を家族として愛していました。きっと今後の試練を乗り越えて生まれ変わっているはずです。
拙い文章でありましたが、お読みいただきありがとうございます。