家庭の匂い
気がつくと地面よりも柔らかい布団に寝かされていた。
トントントンと包丁がまな板を打つ音が隣の部屋から聞こえる。
温かい湯気の匂いが鼻腔をくすぐり安心させる。
もう40年以上も味わったことのなかった、家族のいる気配に老人は目を開けた。
『ここは……何処だ』
狭い古民家のような作りだった。
畳に木の天井、土壁。
色の濃い木製の引き戸は開け放たれ、窓の障子に春の陽射しが透けている。
こちらに背を向けて、白い着物に真っ白な髪の男が、低い机に向かって何やら書き物をしていた。
老人は恐る恐る起き上がると、その背中に声をかけた。
「あの……」
「おっ? 起きたかい!」
男は振り向いた。
白い髪に白い服のせいか、やたらと肌の黄色く見える若い男だった。若い、といっても老人視点で、おそらくは二十代後半といったところか。
高い声が軽薄そうで、気さくで馴れ馴れしいが、座る姿勢の良さには真面目さが感じられた。
「爺さん、野っ原で倒れてて、死にそうだったんだぜ?」
男は笑い飛ばすように、言った。
「それを妹が見つけて俺に知らせてな、いやぁ爺さん、運がよかったぜ」
「そうなんですか」
老人はあまり有難くなさそうに頭を下げた。
「それはありがとう」
「なんだい? もしかして死にたかったのかい?」
男は笑顔のまま、言った。
「あんなところで死んだら間違いなく地獄行きだ。やめといたほうがいい」
老人は自分の身体を点検するように見ていた。
あれだけ腐り、眼球からは花が咲いていたというのに、何ともなく綺麗だ。醜い皺や老人斑は元々だ。
「ここは……何処です?」
もしかして自分は本当は死に、もう天国にいるのではないかと思い、老人は聞いた。
「ここは春の国だ。その辺境だがね」
白い男は言った。
「俺の名は白鳥。物書き兼、戦士だ」
「戦士?」
老人は隣の部屋で包丁の音が止むのを聞きながら言った。
「何と戦うんです?」
「この辺は魔物が多いんでね」
白鳥は答えた。
「中央の町にそいつらが入り込まないよう、俺がここで食い止めてるのさ」
その時、隣の部屋を仕切っている襖が軽快な音を立てて開いた。
ハナカイドウのように目に眩しい赤いおかっぱの髪の少女が顔を覗かせ、部屋に入って来た。
「おじいさん、目が覚めたのね?」
彼女は老人の顔を見ると、大人しそうな、しかし明るい笑顔を浮かべた。
老人は少女の顔を見ると、思わず声を上げた。
「春子?」
「ハルコじゃねーよ。俺の妹の椿だ」
白鳥が言った。
「こいつが倒れてる爺さんを見つけたんだぜ」
「似ているのかしら、私?」
椿は両頬に手を当て、少し紅くなったのを隠した。
「おじいさんの知り合いの、ハルコってひとに?」
「あ……ごめん」
老人はそう言って、恥じるように顔を伏せた。
「似てるけど……人違いだ」