天国
老人は花咲く一面の野原に仰向けになっていた。
いつからそうしていたのかは覚えていない。
「そうか」
ゆっくりと、老人は理解した。
「俺は……死んだんだな」
虹色の蝶が舞ってきて、目の前で笑うように飛び回ると、何処かへ行った。
老人は深呼吸をすると、すべてを諦めた。
春子に逢うことも、失われた青春を仮想現実の中で取り戻すことも、生にこだわることも。
諦めると気持ちが楽になった。
もう何も考えず、ここで花のひとつになれる気がした。
ここが何処だかわからないが、天国だと思うことにした。
もう、自分を監視する2人の女子高生もいない。
もう、自分に命令する年老いたあの西洋人もいない。
もう、トロッコに乗って落下した時のあの恐怖もない。
自由になったのだと感じた。
寝転がった背中のほうから土と同化して行く。
花を触る手の感覚が薄れて行く。見ると腐って骨が剥き出しになり、虫がたかっていた。
左の眼球を破ってピンク色の可愛い花が咲くのが見える。
気持ちがよかった。
すべては穏やかだった。
冬の朝に布団の中で春を感じているような。
抜け出したくない退廃がそこにあった。
「これが春か」
顔の皮膚が剥がれ行く中、辛うじて残っている口で、老人は呟いた。
「これぞ春だ。新しい命が芽吹き、死体の腐りはじめる季節だ」
すると草花を散らす足音が聞こえた。
「大丈夫ですか?」と、大変なものを見つけてしまったような少女の声がした。
あぁ……。
邪魔してくれるな……。
気持ちよいのだ……。
「大丈夫ですか!?」
老人の上から覗き込んだ少女はのどかな陽光を背に、その顔は影を帯びていた。その目には強烈な生の色が浮かんで揺れ、その表情は必死だった。