スピード
まだ学校には着いていなかった。
次の赤信号で停まると助手席のドアが開き、2人の女子高生は1人ずつ車を降りて行った。
「おい?」と言いかけて老人は黙っていた。自分を監視するような2人の目がなくなり、安心していた。
すぐに後部席のドアを開けて入って来たのでまた身を固くする。ルームミラーで見ていると、彼女らはドアを閉め、シートの中央で絡まるように互いの体を抱き締め合い、助手席にいた時と同じ格好で鏡をじっと見つめて来た。
姉妹だろうと思える。顔の作りによく似ているところが多い。しかし背丈と顔の長さが似ていない。
どちらの少女も春子であるとは思えなかった。キツネ顔でないし、どちらの子にも好感が持てない。
鏡越しに2人にじっと見つめられながら、老人は信号が青に変わると居心地悪そうに車を発進させた。
さっきルームミラーを見た時、自分の目の周りが見えた。
今回は若返りしていなかった。
しかしいつもの自分の顔ではなかったように思う。
見れば服装もいつもの自分のだらしなく汚いこだわりのないものではなかった。普段着ではあるものの、映画の中にこのまま出ても恥ずかしくない格好をしている。
『俺は何を見ているんだ?』
老人は思った。
『夢の中であることは間違いないのに……』
楽しくなかった。
あの職員の言葉を思い出す。
── 夢を利用した、まったく新しいVRマシンです。
── 好きな夢を見られます。辛い現実を忘れ、甘美な世界にお遊びください。
さすがに商品化前の未完成マシンだ。過去2回とも失敗だった。今回もこれは失敗だろう。楽しくない上に若返ってもいない。
老人は溜め息を吐いた。
学校に着いた。
老人が住む町の、いつも前を通りかかる場所に、いつも見ている通りの高校の門があった。
木の陰で世界が穏やかに薄暗くなる。
「着いたよ」
老人が振り返ると、女子高生二人は目を開けて眠るようにじっとしていた。
「降りるんじゃないの?」
老人が聞くと、背の高いほうの子が首を横に振る。
暫く車内に静寂が漂い、老人はいっそう気まずくなった。なんだか悪いことをしている気分だった。
彼女らは自分が本当にこれから車を返しに行くのか疑っているのだろうか。だから学校へ行かなければならないのに降りない。俺がちゃんと元の場所に車を停め、降りて行くまでを見届けたがっているのだろうか。
「じゃあ……」
老人は疲れたように項垂れると、言った。
「スーパーに戻るよ?」
確か最初の場所は老人がいつも利用しているスーパーマーケットの駐車場だった。
老人は車をUターンさせると、そちらの方向へ走らせはじめる。
『急げ』
そんな声が頭の中に聞こえる。
『急がなければ』と、自分でも思った。
しかし何処へ行くのかもわからない。
老人の運転する車は広い国道に出ると、スピードを上げた。
後部座席の女子高生が口を開いた。
「ほら」
「ほら」
ルームミラーで見ると2人はこちらを見ながら笑っていた。粘着質な、意地の悪そうな笑顔だ。
「急いでるんだ」
老人がそう言うと、少女達はさらに笑いを強くした。瞳が見えなくなるほど目を細め、口を左右いっぱいに、裂けるほどに開く。
「ほら」
「ね」
同時に開いた口で違うことを言うと、2人の笑顔が消えた。『しまった』というように。
憮然としたように視線を落とした一瞬後、4つの目がまた同時にルームミラーの中から老人を捕らえる。
老人はさらにアクセルを踏んだ。後部座席の2人を振り切ろうというように。
車体にGがかかり、女子高生2人の身体がバックシートに押しつけられる。
「消えろ」
老人は口の中で叫んだ。
「お前ら消えていなくなれ!」
汗が髪の薄い頭頂部から落ちてきて、鼻の横を通って口の中に入った。
2人はまた笑いはじめ、詰るようにこちらを指差してきた。
「信じられないって言ったでしょう!」
「信じられないって言ったでしょう!」
「うるさい!」
老人は怒鳴った。
「お前ら一体、何なんだ!?」
彼女達はずっと虚空を見ているか老人を見ているかで、一度も互いの姿を見なかった。気をつけて見ないようにしている様子さえあった。
スピードメーターを見ると280km/h出ている。
周囲の景色は流星のように後ろへ尾を引いて飛び、道路はまったく見えなくなっていた。
目の前に2人の女子高生が飛び出してきた。肩を抱き合い、馬鹿にするようにこちらを見て笑顔を浮かべながら。
「うわああああ!」
老人は仰け反り、身体を硬くして絶叫したが、ブレーキは踏めなかった。そのまま突進して行くと、ぶつかる瞬間に煙のように消えた。
後部座席の2人が甲高い同じ声を上げて長々と笑う。
老人は呻き、右手脇の赤い非常ボタンを押そうとするが、Gに身体が縛りつけられ、動かない。
スピードメーターの数字は500km/hを超えた。
まだまだどんどん上がり続けている。
自分の声とは思えない叫び声が口から出た。
すると遥か前方から両掌を上に向けて掬うように構え、上目遣いでこちらを睨みながら、見知らぬ西洋人の年老いた男の巨大な顔が迫ってきた。
それはあっという間に近づいてくると大きく口を開け、車ごと老人を呑み込んだ。
目を開けると景色が変わっていた。高く乾いた空が近くにある。
ゆっくりゴトゴトと動いている。老人が慌てて見回すと、どうやらトロッコに乗っているらしかった。
岩山の上だ。写真でしか見たことのないような、見渡す限り岩だらけの壮大な景色だった。高く切り立った岩山が林立しており、自分がいるのもそんな山のひとつの頂上らしい。トロッコはゆっくりと、切り立った崖に向かって進んでいた。
慌てて飛び降りようとすると腰を縛りつけられていた。振り返ると自分を先頭に、トロッコは後ろに長く繋がっている。やはり2人の女子高生はそこにいた。直ぐ後ろのトロッコに乗っていて、絶望するような表情で目を見開き、自分を見ている。
老人は『棺桶』の非常停止ボタンを探した。必死で手で探る。しかしそこにあるのはつるんとしたトロッコの内側の木の壁ばかりで、どこにもボタンらしき突起はない。
「助けてくれ!」
老人が悲鳴を上げると、女子高生2人は最期を見届けようというように抱き合い、さらに目を見開く。
「やめてくれ! やめて!」
叫んだ老人は女子高生2人の後ろにもう1人、2つ後ろのトロッコに人が立っていることにようやく気づく。
白いローブに身を包み、杖をつきながらもまっすぐ姿勢よく立っている、西洋人の老人だった。
「急げと言っただろう」
嗜めるように、その老人は吹き替えのような日本語で言った。
「えっ?」
「誰?」
女子高生が違うことを言いながら、揃わない動きで振り返る。
振り返る時に一瞬、2人の目が合った。
西洋人の姿を認めると、2人は『しまった』というように長々と顔を見合わせ、そのまま石になってしまった。
「急ぐんだ!」
西洋人がそう言い、杖をドンと鳴らすと、トロッコが加速しはじめる。
崖の縁からだらんと直角にぶら下がると、後ろから石化した女子高生の塊が、頭の上を追い越して落下して行った。
遥か眼下の何もない谷へ向かい、『しまった』という表情で顔を見合わせたまま、落ちて行く。
それを追いかけるように、トロッコは岩の崩れるような音を立てながら、凄まじいスピードで落ちて行った。