椿の元へ
「あなたはこの人をご存じかしら?」
そう言って雅はアルバムのページをまためくった。
そこに写っている人物を見て、アキトはびっくりした。
肩上まで伸ばした髪は若いのに白髪の、そのためか肌のやたらと黄色く見える背の高い男が、笑顔の雅と椿に挟まれて、照れ臭そうな顔をして写っていた。
アキトは思わず声を上げた。
「はっくん!」
雅はまた嬉しそうに言った。
「そう。白鳥さまですよ」
そしてからかうように、
「あなたは仲良くしてくださったのね。『はっくん』だなんて」
「これは……白鳥は実在したんですか?」
「椿は内気な子でした」
雅はすぐには答えず、まずそう言った。
「でも、姉の私にだけは、何でも話してくれたんですのよ。あの子は小説を書くのも好きで、文才があったかどうかは私にはわかりませんけど、書いたものを私に見せてくれ、私も毎回楽しみにしていました」
アキトはどういう話の流れになるのかよくわからず、黙って雅の話を聞いていた。
「ここに写っているのは、今の私の夫の劉健です」
「ええ!?」
アキトはまた声を上げてしまった。
「その頃、もう私達は将来を誓い合った仲だったのですが、椿はたぶん、もしかしたら私以上に、劉のことを好きだったと思います。当時27歳だった劉は、14歳の椿のことを子供としか見ていませんでしたが……」
「なるほど。それで……」
「ええ。椿は劉をモデルにしたヒーローを自分の小説の中に登場させました。白鳥という名の、剣士を」
「それでその……」
アキトはドキドキした。
「椿の書いたその小説というのは……」
「ここにありますよ」
そう言うと雅は持って来ていた平べったい箱を開けた。
中には椿の遺品らしき葉書やアクセサリーが入っており、その一番下から数冊の大学ノートが出て来た。そのうち緑色の表紙の一冊を取ると、雅はアキトにそれを渡した。
「私達が登場する小説ですので、あの頃の思い出が詰まっています。夫も私も生きているうちは、絶対に捨てることなど出来ませんでした」
大学ノートは56年も前のものとはとても思えなかった。表紙には昨日ついたもののようにお茶か何かをこぼしたような染みがあり、開いてみると紙は多少隅が黄ばんでいるぐらいで、綺麗なものだった。
アキトはそれを流し読みして安心する。あの椿の夢の中で見たエロ小説とは違うものだった。
白鳥は無敵の剣士で、鉄をも両断する剣をふるい、彼が守る女性の名前は椿ではなく、お蝶と書いてあった。
小説にはもう1人、お春という名の少女が登場し、彼女も白鳥に何度も助けられるが、基本的には白鳥とお蝶の仲を数歩下がって見守るキャラとなっていた。
「これ……。白鳥がご主人で、お蝶というのは……」
「モデルは私だと椿は言っていました」
雅は懐かしそうに目を細め、頷いた。
「お春は、作者自身の投影ですね?」
「そうでしょうね」
雅はくすっと笑う。
「あの子は頑なに『違う』と言ってましたが」
もう1人、小説に頻繁に登場するキャラのことが気になり、アキトは雅に聞いてみた。
「この暗天魔という人物も、モデルが実在するんですか?」
「それはあの子のオリジナルキャラですね」
そんなキャラもいたな、と思い出したように雅は言った。
「もしかしたら私の知らないモデルが誰かいたのかもしれませんけど……。お春がムシャクシャした時に鬱憤をぶつけるために存在しているような、強そうな見た目をしている割にやられ専門キャラでしたわ」
なるほどあの夢の中で見た通りだな、と思いながら、アキトは疑問を口にした。
「それで……。椿を助けるための方法というのは……どういう?」
「あの子の夢の世界から人が消えてしまったのでしょ?」
「ええ」
アキトは顔を曇らせた。
「私と彼女を除いて、誰もいなくなりました。私は現実世界の彼女を救おうと、彼女の夢から出て来てしまいました。今、椿は世界にたった1人です」
「そんな筈はないわ」
「いえ。本当なんです」
アキトは申し訳なさそうに声を震わせた。
「私が……彼女の夢を乱してしまったばっかりに……」
「いいえ」
雅はもう一度、きっぱりと言い切った。
「そんな筈はないのです」
数十分の後、アキトは車の後部座席に乗っていた。助手席には雅、運転手は丸い顔の娘、3人でアキトが最初にこの町で訪ねたあの病院に向かっていた。
エレベーターで5階まで昇り、真っ白な廊下を進むと、目的地の病室はあった。
1人部屋で、入口の名札には『劉健』と書かれてあった。
『リアルはっくんか……』
アキトはもじもじしながら彼女らについて歩いていたが、病室の前に立つとさらにもじもじし出した。
『でも、あのはっくんは椿の見ていた夢で、今から会う人は単にはっくんのモデルになった人なんだよな。しかしなぜ雅さんは、俺にこの人を会わせようと……』
「あなた」
雅が病室のドアを横に開け、中に声を掛ける。
「気分はどう?」
するとしわがれた、しかし高くて軽薄そうな声が、それに答えた。
「頑張ってるよ。なかなか上手く行かねーけど、たぶんもう少しだ」
聞き覚えのある声だった。
アキトが雅の後ろから入って行くと、声の主がこちらを振り向いた。
髪は真っ白だったが、元々真っ白だったので一瞬、何も変わらないように見えた。しかしよく見れば顔中に深い皺の刻まれている、それはあの白鳥の年老いた姿だった。
白鳥はアキトを見て歯のない顔を笑わせると、親しげな声を掛けて来た。
「よぉ、あっくん」




