椿に会いに
「何かあったんならすぐ俺に相談しろ、このバカ」
兄にそう言われ、アキトは頭を下げた。
「悪い。迷惑かけた」
「もう眠りの世界から戻って来ないと思ってたわ!」
怒りながら説教しながら、兄の目には涙が浮かんでいた。
「戻って来てくれて、本当によかった」
暫く会っていなかった兄は髪が真っ白になり、前に見た時は風船のように膨らんでいた体型がしぼみ、少し頼りなくなったようだった。
アキトは長い間顔も見せていなかったことを謝り、義姉と姪っ子達にも頭を下げながらも、ソワソワしていた。
「ところで俺、目覚めたからすぐに退院できるんだよな?」
アキトがそう聞くと、兄は怪訝そうな顔をする。
「別に責任ある仕事をしてるわけでもないだろ。ゆっくりしろよ。年寄りなんだから、しっかり検査もしてから動いたほうがいい」
「会わなければいけない人がいるんだ」
「誰のことだ?」
「夢の中で、会ったんだ」
アキトは真剣な顔で言った。
「守らなければいけない、守りたい人を見つけたんだ。早くしないと彼女は餓死してしまう!」
兄は一瞬、ぽかんとした表情を浮かべたが、すぐに物わかりのいい笑いを浮かべた。
「そうか。それなら急いだほうがいい。すぐに退院出来ないか、先生に聞いてみてやる」
妻と娘達がびっくりした顔で2人を交互に見た。
病室を出ると、2人の娘がすぐに聞いて来た。
「アキちゃん、変なこと言ってたけど、夢の中で会った人って、何のこと?」
兄は答えた。
「知らん」
「すぐに退院とかよしたほうがいいよ。ちゃんと検査してもらって……」
「あいつがへんなことを言うのはいつものことだ」
兄は言った。
「あいつは昔から好きなことしかしないヤツだった。止めてもムダだ。好きにさせろ」
「そんな、まるで見捨てるような言い方……」
「見捨ててるんじゃない」
兄はそう言うとため息を吐き、笑った。
「あいつのことをわかってるんだよ。兄弟だからな」
アキトは1人、簡易ベッドの上でブツブツと何やら呟いていた。
「よし……。覚えてる、覚えてるぞ」
ナースコールのボタンを押しながら、手を振り上げた。
「椿の病院名も、住所も! ようしションベンしたらスマホで検索だ!」
若い看護師が尿瓶を片手に入って来て、聞いた。
「どうしたの、おじいちゃん? おしっこ?」
「あ、うん。おしっこ」
次の日、アキトは退院した。
天気はよく晴れて、町の景色がキラキラと明るく笑っているように見えた。
アパートに帰って風呂に入り、髭も剃って自分を綺麗にすると、とっておきのTシャツとジーンズを穿き、滅多に履かない革靴を出した。
ユニクロで上着を買い、彼としては精一杯のお洒落をすると、電車に乗った。
椿の住む町までは電車で2時間の距離だった。近いものだと思っていたが、久々に乗る電車でアキトはへとへとにくたびれた。
立派な駅に着き、広い構内を歩くとさらにへとへとになった。
手土産にケーキを買い、花束を買う頃にはエネルギーがもうゼロになりかけていた。
それでも椿の入院する病院の建物を目の前にすると、まるでエリクサーでも飲んだかのように背筋が伸び、完全復活した。
大きな病院だった。真新しく清潔な印象のする白い壁の、歩き回るのが大変そうな病院だったが、アキトは顔に力を漲らせて呟いた。
「とても生き生きとした感じの病院だ。ここに椿がいるのか……」
受付にはメガネをかけて逆三角形の顔をした意地の悪そうなオバサンがいた。いつもなら怖がって話しかけたりは出来ないタイプの人だったが、アキトは勇気を出して尋ねた。
「あの……」
「はい」
女性は思った通り笑顔は浮かべなかったが、意外にも面倒臭そうではなく、丁寧な対応だった。
「こちらに入院されてる春山椿さんの病室は何号室でしょうか」
「少々お待ちくださいね」
表情は無愛想ながらも口調は丁寧な女性はてきぱきと調べ始めた。
面会時間は午前11時から午後8時。今は特に問題になっている感染症もない。ちなみにであるが、2020年に世界中を混乱に陥れたコロナウィルスは2021年の秋には騒動も収まり、問題は終息していた。
自分と椿の現実世界での邂逅を邪魔するものは何もないように思えた。椿が重篤患者のため面会が禁止されている可能性もないではなかったが、それならそうと彼女は言ってくれている筈だ。
暫く待っていると、受付の女性が言った。
「そのようなお名前の方は入院していらっしゃらないようですが……」
アキトはそう言われ、すぐに病院を退散しようとした。しかし思い止まり、病院名を改めて確認し、あるわけもないのに他に同じ名前の病院がないかを確認し、色々と食い下がり、それからようやく途方に暮れた。
『なぜだ』
アキトはケーキと花束を椅子の上に置き、腕組みをして考えた。
『俺は椿に騙されたのか?』
他人を騙すような子ではなかった。山菜採りと自然が大好きで、伸び伸びと手足をまっすぐにして笑い、こちらが傷つくようなことでもストレートに言って来るような、裏表のない女の子だ。少なくともアキトにはそう見えた。
何より自分と椿は結ばれた関係なのではなかったか。
それより何より、早く椿に会いに行かなければ、彼女はあの食料の調達元の消失した春の丘で餓死してしまう。
あれこれと考えを巡らしているうち、アキトはいつの間にか、あの狭くて暗い部屋にいた。
壁は頑丈な木で囲われていて、天井は高くて届かず、床は固くて隙間のない石で覆われていた。
出口といえるものといえば、入って来た扉1つだけだった。
『これを7回……。いや、もっと開け閉めすれば……』
同じ扉を7回開閉すれば景色が変わり、違う道が開ける──それは昔、攻略本で読んで知った攻略法だった。
インターネットの普及していた時代なら、金をかけずとも知り得たことだった。しかしあれは1990年代初めぐらいのゲームだ。
それはまだインターネットが普及していなかった時代だった。その言葉は既に広く知られていたが、自宅でネットに親しんでいた一般人などほぼいなかった。インターネットを『ネット』などと略す者など、いなかった。
そこに椿の言葉が重なって甦る。
── ねっと? ああ、インターネット。その言葉なら聞いたことある
何かに気づいたように、アキトは立ち上がった。そしてもう一度、受付のところへ行き、聞いた。
「あの。入院患者さんのカルテって、昔のものでも残ってるものですか?」
受付の女性は丁寧に答えた。
「以前は5年を過ぎたものは廃棄されておりましたが、問題とする声が多くて、今はコンピューターの中にかなり前のものまで残っておりますよ」
「1994年だ」
アキトは自分の思いついたことを確かめたくて、声に力を込めて聞いた。
「1994年に、春山椿という人がこの病院に入院していなかったか、調べてもらえませんか」
「お待ちください」
そう言うとメガネのオバサンは慣れた手つきでパソコンを操作し、すぐに結果を照会して知らせた。
「春山椿さん。ええ、1994年の12月まで当院に入院されていたようですね」
「それで……今はどこに?」
アクリル板の仕切りに顔を突っ込む勢いでアキトが聞くと、彼女は哀れむような目をこちらに向けて、言った。
「1994年の12月21日に急性リンパ白血病でお亡くなりになっておられます」




