翠の川
赤い道を左方向へ、10分ほど歩いたところでアキトは疲れはじめた。振り返ると白鳥と椿の家はもう見えない。道は丘を下っていた。
「何くそ」
声を出して自分の老いた足を歩かせる。
「こなくそ」
さらに10分ほど歩いたところで赤い道は終わった。地面は灰色に替わり、いつ道がなくなるかと不安に襲われはじめる。
しかし老人は真っ直ぐ前を向き、歯を食いしばり、目を輝かせた。
「椿が待っているんだ」
誰も通った跡がなかった。
背の高い草が道の上を覆いはじめる。
アキトは足下を確認しながら前へ進んだ。道は確かに続いていた。草に消されかかりながらも、左右と色の違う灰色の上を、外れないように気をつけながら、どれぐらい経ったかもわからなくなった頃、彼は完全に草の海の中に包まれていた。足を止めると沈んでしまい、戻って来られなくなるような気がして、彼は歩き続けた。
「俺が行かなければ」
アキトは重たい草を掻き分けながら、踏ん張った。
「俺が行かなければ……。椿が飢え死にしてしまうだろうが!」
気がつくと背の高い草に葦が混ざりはじめた。
葦があるということは……。アキトは止まりかかっていた歩みを早める。
葦の隙間から光が見えた。それを横に払う。
彼は草の海を抜けた。
目の前に、椿が言った通り、川があった。流れのゆるやかな、豊かに水を湛える、翠色の川だった。
アキトは大きく息を吐くと、椅子のような形になっている岩に座り込んだ。
「フウーッ……」
疲れたので横になった。横になると椅子のような岩がベッドのように形を変え、気持ちがよくなった。
今、スマホを持っていたなら間違いなくトランプゲームのアプリを開き、2時間はそこでダラダラとしていただろう。ショッピングモールのベンチでいつもそうしているように。
しかしスマホはなく、彼を堕落させようと誘惑して来るものも何もなかった。アキトは疲れて眠たくなって来た。
「何をしとるんだ、俺は!」
自分の頬を殴り飛ばし、頭を何度もブルブルと振ると、立ち上がった。
「どこかに小舟がある筈だ。探せ」
そう呟きながら辺りを見回したが、そんなものは見当たらない。
川は鮮やかな翠色を浮かべ、しかし翠色が強すぎて川面から下はまったく見えない。まるで鏡のようにアキトの姿を映している。その姿は必死に生きようとしていた。
幅の広さからすると結構な深さがありそうだ。
「どこだ」
アキトはきょろきょろと頭を動かしながら、歩きはじめた。
「どこにあるんだ」
探して歩いていると、葦の茂ったところにそれを見つけた。
ウルトラマンのような銀色の、丸っこい小型の潜水艇のような形をした小舟がそこに隠れていた。
アキトはてっきり木で作られた昔ながらの渡し船のようなものを想像していたので、意表をつかれた。結構カッコよくて、これに乗るのかと思うと少しワクワクしてしまった。
側面につけられたレバーを握るとハッチが持ち上がった。黄色っぽい合革の2人乗り用シートが現れる。
乗り込むと操縦桿に見覚えがあった。グレーにABC、XYZと6つのボタンが並び、上側に青いボタンが2つ、中央にはスタートボタンらしきものがついている。セガサターンのコントローラーだった。
これはついている、とアキトは嬉しくなる。彼にとって世界一のコントローラーだ。スト2をするにもアーケードの筐体についているレバー式のものよりも、これのほうがしっくり来る。『ガロウ伝説special』の超必殺技でも、このコントローラーならアキトは入力し損ねることはなかった。
てっきり櫓とか楷を漕いで慣れない操作方法に悪戦苦闘しなければならないと思っていたので、このコントローラーは彼を喜ばせた。
ハッチを閉めると試しにスタートボタンを押してみる。スクリューが動き出すような音が後方で鳴りはじめた。
Aボタンで加速、Bボタンで減速。円盤型のキーを左右に傾けると船が方向を変えた。上下に傾けると船首が下がったり上がったりする。どうやら減速中に船首を上げると急ブレーキがかけられるようだった。
何の役にも立たないと親兄弟から言われ、自分でもそう思っていた長年のゲーム経験が役に立つ日が来た。アキトは有頂天になりながら船を発進させた。
窓は小さいが外の様子はよく見えた。
左右は切り立った崖になりはじめ、人間が通れるような陸地はほぼなくなった。
『なるほどな』と、アキトは思う。『これは船でないと無理だ』
天気はよく、川面の翠がキラキラとゆらめいていた。
スクリューの音は心地よく、速度はゆったりで、波も立てずに船は進んだ。
船の形が形なら遊覧船気分だったろうが、狭いところに身を縮めているので、どちらかといえば隠密行動をしている特殊工作員になったような気分だった。
「白い生き物がいると言ってたな」
しかし今のところ生き物は何も見えない。
「そいつにぶつからないよう、気をつけなきゃな」
前方で川が湾曲していた。
そこへ近づいた時、前方からそれがゆっくりと姿を現すのが見えた。
「うお!」と、アキトは思わず声を上げた。
何に似ているか、と問うなら間違いなくそれは巨大な首長竜であった。
しかし決定的に違うのは、そいつは顔に穴が空いていた。
「なるほど……。椿が言い表せないわけだ」
アキトはそいつに目を見瞠きながら、緊張した声で呟いた。
「これはまるで……」
巨大な成人男性の、上まで皮を被った男根に似ていた。
日本人のそれではなく、アメリカン・ポルノで見たことがある白人男性のそれだった。
川の中にある腹の部分は見えない。おそらくは4本のひれのような手足で泳いでいるのだろう。背中と長い首だけを水上に出し、水に濡れてはいない筈なのに真っ白な皮膚が粘膜のようにヌラヌラしていた。
そいつの横を通る時、アキトは口をぽかんと開けて目を真っ白にした。
前へ視線を戻し、息を呑む。
もう一匹、すぐ目の前にいた。
その後ろから次々と、白い首長竜のようなものがやって来る。




