二日目
青空を背に、目に優しい橙色の実を見上げた。
手招きをすると吸い寄せられるように枝が垂れ下がり、少女の手が果実をもいだ。
枇杷だった。
無言で一つ、アキトに手渡すと、少女の口が歯を出して皮を剥いた果肉に噛りつき、遅れて唇が果汁にしゃぶりついた。
久々に口にする食べ物にアキトもむしゃぶりつく。ほっとするような優しい感覚が、食道を熱くなって落ちて行く。
椿はまたふたつ、枇杷の実を取るとアキトに一つ手渡し、自分はまだ食べきっていない最初の一つをちゅうちゅうと貪った。片手に自慢げに持ち上げている取ったばかりの可愛い橙色の小さな実が少女によく似合った。
裏庭の水道の蛇口をひねってみると、飲み水が出た。交替で手で掬って飲み、枇杷の果汁を洗い流すと、すすいだペットボトルに水を汲んだ。
椿が「行こう」と言い、2人は歩き出した。
「行こう」と椿は言ったのだった。
「帰ろう」ではなかった。
それがなぜだかアキトにはしっくりした。
歩き出すとすぐに山道に入る。まだ朝は肌寒かったが、歩いているうちに汗ばんで来た。
暫く行くと小さなお地蔵さまが6体並んで道の脇におり、椿が屈み込んで1体ずつ丁寧に手を合わせて拝んだ。
木が高くなって来て、大きな隧道のように陽光を閉ざしはじめた。隙間から漏れる日射しで椿の顔が暗くなったり明るくなったりを繰り返す。
アキトがそれをじっと見ていても、椿は興味がないように地面ばかり見ていた。
黙って歩きながら、アキトは考えていた。椿はやはり春子ではないのだろうか、と。
春子は赤い髪ではないし、和服は夏祭りの時の浴衣ぐらいしか着たことはないし、山菜について詳しくなどはない。
でもやはり似ていた。キツネ顔だ。唇は薄く、しかし真ん中あたりが前に突き出していて、立体感があり、啄んでみたくなる。
こちらの気持ちをわかっていながら興味のないフリをしているところもそっくりに思えた。
「君は本当は春子なんじゃないのか?」
アキトは思わず聞いてみた。
きょとんとした顔で椿は振り向き、答えた。
「喋ると疲れるよ。黙って歩こう」
太陽が真上になった。
「お腹すいた」と言って、椿が突然、道脇に生えていた背の高い草をむしった。スコップのような変な形をした葉の草だ。皮を剥き、食べはじめた。
「うげぇ。まずい」
そう言って舌を出した。
「へ、変なものを食べてはいけないよ!」
アキトが手に持ったペットボトルの水を勧める。
「イタドリだよ。食べられるんだけど……さすがに育ち過ぎちゃってる」
「これが……食べられるの?」
アキトはただの草にしか見えないそれを見つめる。
「うん。若芽なら生で食べられるし、よくジャムにするよ」
アキトは一本むしって、皮を剥き、噛ってみる。
「ぺっ! ぺっ! 苦酸っぱい!」
「お腹すいた」
「ちょっと休もうか」
アキトは木陰に岩を見つけて座る。
椿も追いかけるようにイタチと一緒について来て、隣に座った。
少女の掌に水が注がれた。それを白い鼬のなっくんがペロペロとピンク色の舌を出して舐める。
椿は懐からフェレットフードを出すと、なっくんに手から食べさせる。
「それ、どうしたの?」
「たまたま持ってたの」
「イタチの餌を? たまたま?」
「何かおかしい?」
椿が怒ったような顔をしたのでアキトは疑問を引っ込めた。
椿がフェレットフードを一つ、口に入れてかりりと噛った。
「うまい?」
アキトが聞くと、椿は一つくれた。
口に放り込み、噛ってみる。味がなく、肉の段ボール紙のようだ。
「もっといる?」と椿が聞く。
「いらない」とアキトは答えた。
赤い道はまっすぐ続いていた。
アキトはその先を見る。道は暫く上がり、下りはじめるところで消えていた。
どれぐらい歩いただろうか? アキトは頭の中で計算をはじめる。
4時間以上は歩いた。時速3kmだとして、12kmぐらいだろうか。家まで20kmちょっとだと言ってたから、半分を過ぎたぐらいかな。
ノンストップで歩けば夕方には着けるが、たびたび休憩していてはまた夜になってしまう。
「乗り物が欲しいな」
アキトは椿に言った。
「なっくんをもう一度大きくして、背中に乗せてもらうことは出来ないだろうか」
「イタチがまっすぐ歩くと思わないほうがいいわ」
椿はつまらなそうに言った。
「穴を掘るのが好きだし、繁みを見つけたら入りたがるのよ」
「しかし……夜になってしまう」
隣の椿を見る。明らかに疲れていた。
アキトはペットボトルの水を飲み、椿にも渡した。間接キスとかはどうでもよくなっていた。
椿はそれをちびちびと飲み、蓋を閉めると、言った。
「今、私達、生きてるよね?」
アキトは答えた。
「壮絶にね」
道の赤色がだんだんと茶色に見えて来た。周囲の景色も投げ槍な色になって行く。
20kmちょっとと言えばハーフマラソンぐらいの距離だ。男子の平均タイムが2時間ぐらいだったかな、とアキトは思い出す。
もう歩き出して7時間ぐらいだろうか。なぜこんなに遅いんだ? まだまだ家に着く様子はない。
「お腹すいた!」
椿がふざけてなっくんのお腹に噛みついた。
なっくんは平和な顔で、されるがままになっている。
「なんか食べられる山菜とかはないの?」
アキトもペコペコのお腹を押さえながら聞いた。
「生で食べられる山菜は滅多にないよ。偶然見つけられたらいいけど、探すだけ体力のムダ」
「そうか……」
なっくんの顔がキッと険しくなった。目の上端をまっすぐにし、口を結んで2人の後ろを見る。
シャアッ! と威嚇の声を上げる。
何だろうと2人が振り向くと、そこに巨大な黒牛がいた。
魔物だ。
それは蜃気楼のように突然、現れた。
2人は恐怖よりも期待に囚われ、言葉を交わした。
「牛だ……。生で食べられるんじゃないか?」
「うん……。牛刺……。無理っぽかったらどうにか火を起こして焼こう」
黒牛は鼻から赤い息を吐き、2人に強烈な食欲を向けている。
椿も口から白い息を吐き、強烈な食欲に囚われて目を輝かせた。
「なっくん!」
椿が叫ぶとなっくんの身体がみるみる巨大化する。
小さな猛獣は自分よりも大きな獲物を睨みつけると飛びかかり、素早く弧を描いて背中に噛みついた。
きりもみ回転をくわえると黒牛が叫び声を上げる。
「ぼはあぁぁあ!」
「ミズナラパンチ!」
椿がそう叫ぶと、穏やかな姿を見せていた傍らのミズナラが太い枝を振り上げて黒牛にパンチをかます。
「どんぐり弾!」
続けて椿は叫んだが、何も起きなかった。
「しまった! どんぐりは秋だ!」
しかし背中から前に回り込んだなっくんの牙が喉に刺さり、黒牛の巨体はその場に倒れ込んだ。
アキトは昇天拳の構えをとったまま、ずっと成り行きを見守っていた。
黒牛の喉笛を食いちぎると、なっくんはすぐに今度はアキトに襲いかかった。
「なっくん、ダメ!」
アキトは慌てたが、なんとか横に転がり、攻撃をかわせた。
「やめなさい、なっくん!」
椿の言葉になっくんは切なそうな声を天に響かせる。
「だって、コイツ、うまそうなんだ。牛なんかよりずっとうまそうなんだよ! 食べずにいられない!」
「じゃあ、ハウス!」
椿がそう命令しながらフェレットフードを出すと、みるみるなっくんは縮み、ただの小さな白イタチに戻った。
「まだアキトのこと食べたい?」
椿が聞くと、なっくんは何も言わずにフェレットフードの匂いを嗅ぎ、「これよりもっと欲しいものがあるんだけどな」という風に、面倒臭そうに首を左右に振った。
きりもみ式で火を起こした。
岩肌に這っていた茶色いツタを集合させ、細いわりに柔軟性充分のそいつらを極限まで捩り、木の棒を持たせる。椿が命じるとプロペラを回すゴムのような勢いでツタが捩じ戻り、また反対側に極限まで捩れる。それを繰り返すうちに木の棒を当てていた干からびた枝から煙が上がり、遂には小さな火が起こった。
準備していた乾いた草で火を大きくし、薪に移すと立派な焚き火が出来上がる。
「塩が欲しいねぇ」
そう言いながらアキトは牛焼肉の塊を貪った。
飢えていた上、久方ぶりの肉だというのに、椿の作る山菜料理が恋しくなった。
「お腹が満たされればいいでしょ」
椿は食欲を剥き出しにして肉を食いちぎる。
なっくんは倒れた黒牛から直接肉を噛り取っている。
「なんでこうなってしまったんだろう」
アキトは無理やり肉を噛みしめながら、呟く。
「急に人が消えた。店の中には何もなくなった」
「何か異変が起こったのよ」
椿は答えた。
「何か、神様がスイッチを切ってしまうような、何かが」
赤い道脇の下に小川が流れていた。椿はペットボトルの水を飲み干すと、言った。
「後であそこで水を汲もう」
アキトが小川のほうを見ると、向こうのほうから緑色の人間のようなものが3体、じっと立ってこちらを見つめていた。
「カゲロウだ。彼ら、助けてくれないのかな」
アキトがそう言うと、椿は「何をバカなことを」とでも言いたげに肉を食い続けていた。
カゲロウの1体がその身を包む薄緑色の翅を広げ、少しだけ浮き上がった。
すぐに重力に負け、地面に舞い戻る。
その時、彼の周辺にキラキラと煌めく何かが撒き散らされた。
少し暗くなってきた空気を細かく光が染めて、クリスマスのイルミネーションのようだった。
「飛ぶ練習をしているのかな」
「暗くなってきたね」
椿が絶望するように呟いた。
「今日は野宿する?」
アキトが聞いた。
「せっかく焚き火起こしたしね。ここで寝よう」
「明日の朝食は……アレか」
そう言いながらアキトが黒牛を見ると、焚き火と夕焼けに挟まれて、巨大な牛の目玉がこちらを見たまま固まっていた。
そこから涙のような油が垂れて、赤い道の上にギラつく染みを作っていた。




