春子
アキトは一晩中起きていた。
椿の身体を暖めてやりながら、太ももを見つめながら、思い出していた。
春子のことをだ。
初めて彼女に会ったのは54年前、16歳の時だった。
彼女は同い年で、高校二年の春に四国から転校して来た。
涼風春子と自己紹介した。
キツネ顔で、飾り気がなく、土佐の海で育った天然美少女だった。
泳ぎが上手で、海の魚に詳しく、スポーツも万能で、アキトに太極拳を教えてくれた。
仲良くなったきっかけはアキトが教科書にマンガを描いているのを偶然後ろから見られたことだった。
「上手だね!」と目を輝かせて話しかけられた。
それからアキトのマンガを読みに部屋に遊びに来るようになり、青春の薫りが二人の間に漂いはじめた。
その頃のアキトはいじめられていた。
クラスの血の気の余った連中は毛色の変わった大人しい生徒を選び、自分らの力を楽しむように音楽室へ呼び出しては一方的な暴力をくわえて遊んでいた。
アキトは悔しかった。
最初は抵抗した、大きな声を出したりして。
だが一方的に力で負けることを知らされると、それからは抵抗しようとしても足が震え、何も出来なくなった。
「お前が遅刻ばっかりするから教育してやってんだぞ」
「お前がしっかりするように鍛えてやってんだ、感謝しろ」
色々と理由をでっち上げては殴り、彼らはいい気分になっていた。
春子は毎朝、城山公園で太極拳のトレーニングをしていた。
ある朝からそこにアキトが加わるようになった。
二人は別方向からランニングで来て出会い、笑顔で手を振り合うと、背中を合わせて柔軟体操をした。
段持ちの春子に型を教わり、手合わせもしてもらい、アキトはどんどん強くなって行った。
しかしアキトはいじめられ続けた。
現実には春子はいなかったからだ。
女子からは憐れみの目で見られるだけの、何も喋らない不思議男子だった彼は、ぶっちゃけキモがられていた。
彼女などは当然出来ず、出来るとも思わず、現実世界のことは早くから諦めていた。
自分の妄想の中に涼風春子という恋人を作り出し、いつでも彼女に慰めてもらっていた。
浮気もした。プロのマンガ家の描く美少女に。
美少女はアキトの夢の中に登場し、春子と喧嘩になるかと思いきや仲良くやっていた。
何もかもアキトの思い通りだったのだ。
春子との付き合いは高校を卒業しても続き、今までずっと続いていた。
その間、春子は何度も変わって行った。
アキトの理想の彼女であることはずっと変わらず、アキトの理想のほうが変わって行ったのだった。
確か最初は黒髪の少女だった筈だ。それが最近では生まれつき茶色い髪に変わっていた。
確か最初は年をとらない永遠の17歳だった筈だ。それが最近ではその日の気分で40歳過ぎになったり、14歳の中学生になったりしている。
ムカつくことがあると、いつもアキトは春子に習った太極拳で復讐をした。
しかし現実には何もしなかった。
すべての幸せな時間はアキトの妄想の中で流れた。
自分自身で作り出した妄想の中で、あるいはマンガやアニメやゲームのキャラクターに自分を重ねることで。
しかしそれに疲れてしまった。
椿の瞼が揺れ、口がむにゃ? と動いた。
アキトの胸に手をついて身を起こす。膝の上で丸くなって寝ていたなっくんもシャキッと体を伸ばした。
「ん……。おはよう、アキト」
目をこすりながら、あくびをしながら椿はまだ眠たそうな声を出した。
そしてはっと何かに気づいたようにガラス窓の外を見る。太陽の位置から大体の時間を知ろうとしたようだ。
「6時ぐらいかな。すぐに出発しよう」
「よく眠れた?」
アキトは聞いたが、その実よく知っていた。ずっと見ていたので。
「うん。アキトは?」
「よく眠れたよ」
赤い目をして、言った。
もちろん本当は一睡もしていない。
目を瞑ると椿が消えてしまいそうで怖かった。




