赤い道
「この子に名前をつけてあげましょう」
椿が言った、鼬に食わせた食物繊維を優しく吐き出させながら。
「連れて行くの?」
アキトは少しびっくりする。
「ま、魔物なんだろう? そいつ」
「魔物はみんな、元はただの動物なの。呪いをかけられて、人間を食べるようになっているのよ」
「呪い?」
「うん。そうなんだって、兄さまが言ってた。私はよく知らないんだけど……」
「でもそいつ……人間を食ったんじゃないの?」
「そうだ、夏彦にしよう!」
椿は抱っこした鼬と見つめ合いながら、嬉しそうに言った。
「もうすぐ夏が来るから……。なっくん。これからお前のこと、なっくんって呼ぶね」
なっくんも嬉しそうに椿の顔を見つめた。
「ま、まぁ、いいけど……」
アキトはぽりぽりと頬を掻いた。
「それより椿。人が町からいなくなってしまったんだ。どういうことだろう?」
「大丈夫よ」
椿は安心させるように笑う。
「私がいるでしょ?」
「う……。うん」
「バスも動かないの?」
「そうみたいだ。車が1台も走ってない」
「春の丘に帰らなきゃ。兄さまがどうなったのか、心配だわ」
「そうだな。でも、どうやって?」
「歩くしかないわ」
「どのぐらい距離あるんだっけ?」
「20kmちょっとよ。アキト、歩ける?」
歩けるか? と言われても歩くしかなかった。椿を1人で帰らせるわけにもいかない。
春が終わろうとしていることを示すようにハナミズキの花が汚く黒ずみ、溶けたようにぶら下がっていた。
アキトと椿は並んで赤い道を歩きながら、黙っていた。
やはり誰もいなかった。
やがて民家は疎らになり、山道に入る頃には日が落ちはじめた。
「民家のあるところまで戻ろう」
アキトが言った。
「途中で夜になるよ。どこか中に入れるところを探そう」
椿は頑なに頭を振った。
「急ぐもの」
「真っ暗になったら何も見えないよ。この先は街頭なんてひとつもなかったろ」
「兄さまが心配だから」
「椿が死んじゃったら元も子もないだろ。今日はここで寝て、明日の夜明けに出発しよう」
椿はすねたように座り込んでしまった。
なっくんがその膝の上に飛び乗って休む。
「じゃあ、とりあえず」
アキトは半分折れた。
「明かりになるものがないか、探そう」
古い木造の民家だった。1950年代のものだとすれば築100年だ。それぐらいは経っていそうにあちらこちらの壁が剥げている。
人が最近まで生活していた匂いはあったが、誰もいなかった。母屋に入ろうとしたが無理だった。
納屋の鍵が開いていた。中へ入ってみると自転車があった。しかしチェーンまで錆だらけで、これを漕ぐのは歩くよりもしんどそうだった。
「ロウソクがあるよ」
棚の上を探っていた椿が言った。
「懐中電灯はないのか」
アキトがダメ出しをする。
「ロウソクをほら、これで囲えば」
椿はそう言って空のペットボトルに入れて見せる。
「風が吹いても消えないよ」
「うーん」
アキトは不安そうに考え込む。
「とりあえず、ちょっと休まない?」
「そんな暇はないわ」
「焦ったって仕方ないよ」
「人生は短いのよ」
「14歳が言う台詞じゃないな」
アキトは笑う。
疲れたのか、椿は側にあった何かの機械の上に座ると、アキトの顔をじっと見つめた。そして、聞いた。
「人生って、短くないの?」
アキトは懐中電灯を探しながら、微笑んだ。
「人生は長かったよ、10代ぐらいまではね。それから70歳まではあっという間だった」
「どうして?」
椿は首をひねる。
「子供の頃は密度が高かったからかな。時間の密度がね。大人になってからはスカスカだ。間にあるものが疎らだったから、ここまで来るのも早かった」
「若いと初めて知ることが多いから、時間の密度が高いのかなぁ?」
「あぁ……。そうかもね。ここに来てからそう言えば時間が経つのがゆっくりだ」
「精神年齢とかも関係ある?」
「それはないな」
そう言ってアキトは苦笑した。
「精神年齢で言えば俺なんか下手すりゃ椿より幼いからな」
話しながら懐中電灯を探していたアキトの手が止まる。牛肉の大和煮の缶詰めがあった。念のため賞味期限を確認すると、缶の底に1980年3月と書いてあった。
「こりゃたぶん賞味期限じゃなくて、製造年月日だな。俺と同い年の缶詰めか」
「70年も前のなの?」
椿は缶詰めを見には来ずに、機械の上から聞いた。
「うん。70年前の3月だから、ちょうど俺と同い年だ」
「3月生まれなの?」
「3月5日だ」
「私、4月10日」
「同じ魚座……かな?」
アキトは自信なさそうに言った。
「ううん。牡羊座」
「そっか」
「それ」
椿が缶詰めを指差した。
「食べてみる?」
「缶切りがないよ」
アキトは苦笑した。
「あっても開けるのが怖い。70年ものの缶詰めはさすがに……ね」
「お腹すいた……」
「うん」
そう言いながらアキトがなっくんをじっと見ると、椿は守るように抱きしめた。
そこにあったマッチでロウソクに火を点けた。缶詰めの上に蝋を垂らし、固定する。
もう大分暗くなっていた納屋の真ん中が明るくなった。
「さて」
アキトがぽつりと言った。
「どうやって寝ようか」
布団代わりになるようなものはなかった。
棚の上は狭く、とてもこんなところには寝転べない。
「座って眠るしかないね」
ロウソクの火に照らされた椿の顔が諦めたように笑う。
アキトは木箱の上に座った。上に藁が敷いてあり、少しは居心地もいい。
椿の座っている機械は古いコンプレッサーか何かのようで、鉄の上に直に座っているのが冷たそうだった。
夏が近いとは言え、夜は冷えるだろう。
「そこ、寒くない?」
「寒い」
椿は素直に頷いた。
「でも、なっくんがいるから」
白い鼬を抱き、あったかそうに頬擦りする。
「場所、替わろうか」
アキトが提案すると、椿は首を横に振りながら立ち上がった。歩いて来ると、木箱に並んで腰掛けた。
横にずれてやると椿も横に動き、腰が強く押しつけられた。
『俺はこの子のおじいちゃん……、おじいちゃん』
椿の頭が腕に凭れかかって来た。鼬を撫でるたび、その動きがくすぐったく伝わって来る。
『この子は俺のことを男と思ってない。おじいちゃんだと思ってるんだ。だからこんなに遠慮なくぴったりと……』
アキトは気づかれないよう生唾を飲み込むと、膝を組んだ。
「4月生まれってことは……中2になったばっかりか」
気を紛らわすため、椿に話しかけた。
椿は答えなかった。
「そ、そう言えば学校は……春休み?」
「学校なんか行く必要ないって……」
椿は子供の声で答えた。
「誰かに言われたの? お兄ちゃん?」
「おじいちゃんに」
「おじいちゃんがいるのか。どこに住んでるの?」
椿は腕に頭をつけたまま、首を横に振った。
「わかんない」
「え。行方不明なのか?」
「遠い、遠いところにいるの」
「そうか……。会えなくて寂しいね?」
椿は腕を擦りながら頷いた。
「椿のおじいちゃん……ってことは、僕と同じぐらいの歳かな」
「アキトよりずっとずっと年上だよ」
「え」
アキトは冗談だと思い、笑った。
「100歳? 200歳?」
「もっとかな」
「それは凄い」
「だってアキト。下手したら私より幼いぐらいだって言ったでしょ」
「ああ」
アキトは一本取られたと思い、声を出して笑った。
「精神年齢の話か」
「私も永遠の14歳になりたいな」
「ダメだよ。大人にならなきゃ」
「大人ってつまらなくない?」
「それはなり方次第かな」
「大人になっても山菜採り、出来る?」
「そりゃあ、出来るよ」
「楽しい気持ちで?」
「そりゃあ、椿次第だよ」
「じゃあ、私は新しい大人になろう」
「新しい大人?」
「なるべきフツーの大人がどんなのでも関係なく、私は私の大人になるの。いつまでも山菜採りを楽しんで、あの丘を自然のままに愛して……」
「うん。いいと思うよ」
アキトは微笑んだ。
「ずっと死ぬまで優しい椿のままでいられるね」
そう言うと髪を撫でてやった。
「アキトも。よかったね」
椿は撫でられながら顔を上げ、真ん丸い目で見つめて来た。
「何が?」
「フツーの大人にならなくて。心は子供のままなんでしょう?」
そう言われ、アキトはたじろいだ。
「い……いや、マンガばっかり読んで、ゲームばっかりしてただけだよ。そのせいで頼りない出来損ないのジジイになっちまっただけさ」
「いいと思うよ」
椿は腕に抱きついて来た。
「私、アキトのこと好きだよ」
「いや……」
アキトは固まり、しどろもどろになる。
「俺は……」
汚ならしい欲望が胸の奥から涌き出て来ているのをアキトは必死で隠した。
告白してしまいたかった。
今、このアホなジジイは、ジジイのくせに君に欲情しているんだよ、と。
君を押し倒して、その綺麗な着物を剥ぎ取って、君が泣いてもお構い無しに、自分の欲望だけを満たしたいと思っているんだよ、と。
それが出来ないのは単に自分が傷つきたくないからなんだよ、と。
なっくんはもう眠っていた。椿の膝の上で無邪気に、前脚をびっくんびっくんと痙攣させながら、フガフガと口を動かしながら。
椿も眠ったようで、腕に抱きついた手が緩み、寝息を立てはじめた。
アキトは眠れなかった。
椿の身体を背中から抱き締めると、暖めてやった。
はだけた着物から覗く椿の白い太ももを、思春期の少年のようにずっと見ていた。
朝までずっと、そうしていた。




