消失
頭の薄い社員はVRマシン『ドリームクエスト』の電源を切ると、上司へ報告に上がって行った。
取り残された老人『棺桶』の中でモゴモゴと喉仏を動かす。
苦しそうに眉間に皺を寄せながら、弱々しい声で呟いた。
「……椿は……どこだ?」
アキトは驚いていた。
自分が必殺技『昇天拳』を打った途端、目の前のヤクザ達が煙のように消えてしまった。
それだけではない。
『中村カンパニー』の事務所が霧に包まれたように消えて行く。
足下の床も消えてなくなった。
雲の上に立たされたように茫然とすると、アキトは思い出したように叫んだ。
「ま……待て貴様ら! 椿は……どこだ!?」
事務所は消えてしまった。振り返るとしかし入口はそこにまだあった。
急いで出ると、階段を降りるまでもなくすぐに外の景色が広がっていた。
外の建物は何も変わっていなかった。
道路もある。
しかし賑やかさが消えていた。
人が、1人も、いない。
「椿!」
アキトは歩き出し、何度もそう叫んだ。
反響する壁はあるのに声は綿に吸われるように響かなかった。
もっと遠くへ飛ばそうと声を張り上げるが、間近でかき消されてしまう。
バス停に行ってみたが、時刻表が消えていた。
動いている車は1台もない。
そのすぐ近くにホテルがあった。
椿がいるかもしれないと入ってみると、入った途端に中は何もない真っ白な空間になってしまった。
「どうなってしまったんだ……!」
老人は急いで外へ飛び出すと、愕然と呟いた。
「俺は世界に1人、取り残されたのか……?」
とぼとぼと町を歩いていると、見覚えのある店があった。椿と一緒に入った蕎麦屋だった。
中を覗くとあの時のおばさんがテーブルを拭いているのが見えた。
喜びの声を上げて中に入ると消えた。おばさんも、テーブルも。何もかも。
アキトは顔を掻きむしると大きく悲鳴を上げ、また外へ飛び出した。
小さな橋を渡る時、見下ろすと小さな川が流れていた。
すべてが時を止めてしまったような世界で川は動いていた。汚れた緑色に景色を映し、時計の秒針くらいの速度で流れていた。
橋の上からしょぼくれた老人が見下ろしている。
じっと睨めっこをしていると、どこかで音がした。
砂の上を何かを引きずるような音だった。
アキトはそれを追いかけてやって来た。
城山公園の入口だ。その奥の、松林の向こうから音は聞こえる。
「誰かいますか?」
アキトが両手で筒を作って声を響かせると、その音は止まった。
「誰かいるんですね?」
息を弾ませ、松の間を縫って向こう側へ進む。
「椿?」
期待を込めて松林を抜けると、荒い砂を敷き詰めた広場のような場所があり、石垣の下にさっきの川が流れていた。
そこに龍のような大きさの、象牙色の毛並みの鼬が低く身構えていた。アキトを見るなり長い体を伸ばし、襲いかかって来る。
腰を抜かして後ろへひっくり返ると、鼬は鉄格子に引っ掛かるように松の木に頭を挟む。ふしゅるふしゅると激しい息を吐きながらアキトの肉を求めて首を振る。大きく開いた口の中にピンク色の肉と鋭く巨大な牙が見えた。
「ま……魔物だ!」
アキトが松林の中を逃げ出すと鼬はその上を駆けた。松の疎らになっているところへ上から長い首を突っ込み、怒り狂ったような目をギロリと向けて来る。
アキトがへたり込むと逞しい爪で地面を掘り出した。松の木が一纏めに薙ぎ倒され、林が物凄い勢いで裸にされて行く。
「ひっ……ひいっ!」
シャアッ、と威嚇する声を立てて巨大な鼬の狂暴な顔がすぐ目の前にあった。前脚の肉球を振り上げたかと思うと、鉄骨が降る勢いでそれが圧し潰しにかかって来る。昇天拳を打つ暇もなかった。
アキトを踏み潰す寸前、地面から松の若木が伸びた。それはめきめきと音を立てて大きくなり、鼬の脚を受け止め、跳ね退けた。
「アキト!」
椿が松の陰から現れ、駆けて来た。
「椿!」
アキトは涙と洟で顔をびちょびちょにしながら叫んだ。
「松葉!」
椿がそう叫ぶと、松の木の針葉樹が一斉に鼬のほうを向き、発射された。
ちょうど大きく開けていたその口の中に松葉の大量連射が丸太ん棒のようになって入り込む。
「やめてくれ!」
鼬は泣くように声を上げた。
「鼬に食物繊維は毒だ! 消化できないんだ!」
「じゃあ人間を食べるのをやめなさい」
椿は厳しい目で命令をする。
「だって人間は僕らの食べ物だ!」
鼬はさらに泣いた。
「人間を食べちゃいけないなら何を食べろって言うんだ! ひどい!」
「これを食べなさい」
椿はそう言うとお皿を取り出し、そこにフェレットフードをカラカラと入れてやる。
「あなた達のために人間が作ったものよ。食べられては困るものをあなた達が食べないようにね」
そう言って椿が腕に触れると鼬の身体はみるみる縮み、椿よりもずっと小さくなった。
足下で可愛くフードをカリカリと食べ出したのを見て、椿はほっとしたように笑う。
アキトは繰り出そうとしていた昇天拳の構えをやめ、椿に駆け寄った。
「椿! よかった! 逃げ出して来たんだね?」
「おかしいわ」
椿は足下でフードを貪り食う鼬を見ながら、呟いた。
「あれほど大きな魔物が通ったのなら、離れていても兄さまは気づく筈……」
「どうしたの? どういうこと?」
「兄さまに何かあったのよ」
椿は空を仰いだ。灰色のカラスの群れが音もなく飛んでいるのを睨む。
「きっとあの丘に兄さまがいないのよ。魔物が際限なく町に入り込んで来るわ!」




