七、玉藻前
艶やかな着物姿の女が一人、歩いている。頭に差した簪がしゃらりと音を立て、晒された細い首筋は、どこまでも白い。
道行く男たちはあっけにとられ、立ち止まり、呆然とする。
恐ろしいほどの美貌であるにもかかわらず――いや、だからこそ、おいそれと声をかけられぬ雰囲気を醸し出していた。
それは、太陽が中天に差しかかるにはまだ早い、昼四つ(午前十時)の頃であった。
◇◆◇
賀根町の長屋に住む者に独り者が多いのは、差配の辰五郎が「金のない若い奴らを支援してやろう」という心意気によるものであるが、妻帯者がいないわけではない。
男衆が寄り集まるように、女衆もまた寄り集まり、立ち話に興じる。彼女たちの圧力はなかなかに強く、絲は常に押され気味である。
幼い頃よりの知り合いであるが故、まこと遠慮というものがない。
佐田彦という若い男を絲が世話しているため、一体どういう仲なのかと問われることも、しばしばである。
母や姉といえる年齢の女たちに、やいのやいのと興味深げにされるけれど、絲としては答えようがない。佐田彦は「神使」なのだ。神様にお仕えしている奉公人であり、常世の民でもある。「いい仲」になど、なろうはずもない。
否定すればするほどに皆の興味を引くため、最近は適度に流すことを覚えた絲である。
佐田彦の部屋へ行く回数を減らせば良いことではあるのだが、紅丸のことがあった。
人ではない存在だとしても、手放しで己を慕ってくれる小さな子供の姿をしたモノを、放り出すのはなんとも忍びない。
一方の佐田彦はといえば、男衆に囲まれる。こちらの方はより下世話でありもっと直接的だ。年かさの者にとって絲は娘や妹のようなものであるらしく、心配で仕方がないらしい。
兄の直太郎がいささか頼りないものだから、その苦労を背負う絲への同情が強いのかと思えば、それだけではない節もある。
あまり事情に立ち入るのもよくはないだろうと思いつつも、佐田彦は胸に引っかかるものを感じていた。
通りへ出ようと木戸に手をかけた元吉は、目の前に立つ人影に気づき、その姿を認めて硬直した。
そこに居たのは、麗しい女であった。
匂い立つような色香を漂わせ、どこぞの遊女ような艶姿に目を奪われる。
立っているだけで絵になる女は、元吉を見るとうっすらと笑みを浮かべた。真横に引いた紅をちろりと舐める舌に、男はぞくりと背筋を震わせる。
「もし。こちらに、佐田彦という御方がいらっしゃると聞いたのだけれど?」
「ふあ? さ、さたひ、こ?」
「ええ。五尺六寸(百七十センチ)ほどの、大柄な御方なのだけれど、ご存知ない?」
「知って、おり、まする」
「そう、よかった。案内を頼めるかしら?」
ほころぶような笑みを浮かべ、女は元吉の肩に手を置く。
長屋に不似合いな声に気づいた住人らが、いつの間にかすずなりになっており、女の仕草にどよめきが起こる。その反応に満足そうな笑みを浮かべた女は、群れの中に目的の人物を見出し、笑みと共に声をかけた。
「佐田彦様、ご機嫌麗しゅう」
「おまえ、何故ここに……」
「ひどい御方。こちらへ出てきておきながら、顔も見せないだなんて……」
「顔見せなど、べつによいではないか」
「まあ、わたくしに会いたくなかったとでもおっしゃいますの?」
なんて、ひどい御方――と、顔を覆う女に、佐田彦は周囲から突き刺さるような視線を浴びた。
「ちょいと旦那。どういうことだい?」
「あんた、お絲ちゃんってもんがありながら、なんてことを」
「佐田彦殿、あのような美女と、一体どこでお知り合いになったんだ」
「袖にするにゃーもったいねえな」
「ちょっと待ってくれ。俺は別に――」
佐田彦の弁には耳も貸さず、住人らの口は止まらない。
「なんだい、どうにも進展がないと思ったら、旦那にはすでに良いい人がいたってことかい?」
「お絲は、可愛いっちゃー可愛いんだが、色香ってもんに欠けるしな」
「あの娘も十七歳、それなりの年だし、やっと相手が見つかったかと安心していたんだけどねえ」
「あれかねえ。お絲ちゃんはやっぱり、まだあの御方を好いているのかい?」
「加賀屋の若旦那かい?」
「あそこはこの前、娘が生まれたところだろう」
「いやあ、大店の旦那にでもなりゃ、妾の一人でも囲えるってもんだろ」
「お妾さんねえ……。お絲ちゃんは、そういう柄じゃあないと思うけど?」
眉根を寄せた火消し屋の女房に対し、今度は植木屋の親父が口を開く。
「じゃあ、あっち。ほれ、茶屋の倅」
「兵衛かい? ありゃー、そういうんじゃないよ」
「似合いだとは思うんだけどねえ」
「気心も知れてるしなあ」
「でもあっちは跡取り息子だろ、お絲が嫁に行っちまったら、団子屋はどうなるんでい」
「直太郎がもうちっとしっかりしてくれりゃあねえ」
やいのやいのと盛り上がっては溜息をつく住人らを横目に、女はくすりと笑って佐田彦へ向かう。
「佐田彦、あんた、こんなところに住んでいるのかい?」
「――こんな、などと言うな」
「おや、おまえさんにしては珍しい。人間嫌いは直ったのかい?」
「どうだっていいだろう」
佐田彦が顔を背け、女は笑う。
「大体、この騒ぎはおまえのせいではないか、玉藻」
「顔を見に来たんじゃないか」
「やりようは色々とあるだろうが。わざとらしく騒ぎたておって」
睨みつけると、玉藻と呼ばれた女は艶やかに笑う。
玉藻前。
妖狐の化身であり、常世の国における、馴染みのあやかしである。
傾城の美女ともいうべき美貌を兼ね備えており、本人もそれを承知しているのだから始末が悪い。時折、現世へとやってきては男を手玉に取り、身銭を巻き上げているせいか、今もこうして小綺麗にしている。
どんな美女であろうとも、佐田彦にとって玉藻は、幼い頃から容貌の変わらぬ『あやかし』だ。そういった思いを抱いたことは、一度もない。
玉藻もまたそれをわかっていて、こうして佐田彦を揶揄うのが常である。
この始末をどうつけてくれようかと佐田彦が思案していたところ、声が割り入った。
「一体、なんの騒ぎなの?」
「……お絲」
店の裏から顔を出した絲は、手拭いを脇に抱えている。井戸を使うために出てきたのだろう。足元には笊を抱えた紅丸がおり、目を丸くして佐田彦の方を見ていた。
「お絲ちゃん大変だよ。ほれ、そこの人。佐田彦さんの、いい人らしいんだよ」
「まあ、お絲。気にするな。男は他にもおるでな」
口々に声をかけられた絲は、状況についていくことができないのか、眉を寄せている。そんな娘を眺める佐田彦の顔を見た玉藻は、意地の悪そうな笑みを浮かべ、絲へと近づいた。
「ご機嫌よう、お嬢ちゃん」
「……はあ、どうも」
「あんたが佐田彦様のお世話をしてくれているんだって?」
頭の先から足の先まで。舐めるように一瞥した玉藻は、最後にもう一度絲の顔へ目をやると、くすりと笑う。
その目つきは存分に挑発を含んだものであり、絲は怯んだ。
「玉藻、おまえな――」
「おや、庇いだてするのかい?」
「とりあえず、場所を移しませんか?」
佐田彦が玉藻を諌めようと口を開いた時、絲がそう提案する。
ここでは埒があかぬと思っていた佐田彦は同意し、玉藻も肩を竦めて頷いた。
「それで、どうするのかしら、お嬢ちゃん?」
「その前に片付けておくことがありますので、少し待っていただけますか?」
言うと絲は、がらりと扉を開く。
「野次馬根性もいい加減にしなさいよね。これ以上聞き耳を立てるようなら、今後いっさい、繕い物は請け負いませんからね!」
「それは困るな」
「倍の銭をいただくわよ」
「そんな殺生な」
「だったら散る!」
佐田彦が絲の背後から外を覗くと、長屋の住人たちがぞろぞろと去っていく後ろ姿が見えた。
諦めが良いのは、絲の脅しが効いているからなのであろうか。長屋における絲の存在は、存外に高いのだと佐田彦は知る。
「ねえ、旦那」
「なんだ」
「あの綺麗な方は、どういうあやかしなの?」
問われ、驚いたのは佐田彦だけではなかったらしく、玉藻もまた瞠目する。
そんな二人の様子に、絲は呆れたように肩を落とした。
「旦那のお知り合いだもの。人ではないとわかるわよ。それに、紅丸のことも見えていたようだし」
「紅丸というのかい? その小さなあやかしは」
「…………」
「どうした、紅丸」
「……や、なの」
佐田彦の足にしがみつき、隠れようとする紅丸に、玉藻は笑う。
「おや、嫌われちまったかね」
「紅丸。きちんとご挨拶なさい」
絲に諭され、渋々ながらも佐田彦の足から顔を出す。そして、小さな声で呟いた。
「……こんにちは」
「はいよ、こんにちは。可愛らしいなりだねえ。それに、良い衣を着ているじゃないか」
「……いと、つくってくれた」
「おや、そうかい。あんた、いい腕してるね」
「それは、どうも」
「手を見せとくれ」
「はあ……」
玉藻の言葉に揶揄いの色はなく、絲はすんなりと頷き、乞われるがままに手のひらを向ける。
その手を取り、しげしげと眺めると、玉藻は柔らかな笑みを見せた。
「あんた、名は絲といったかい?」
「はい」
「名に相応しい手だ。あんたの手は、良いものを紡ぐ。見えぬモノも縫い、繋ぐ。いっそ、あやかし専門の針子にでもなった方が稼げるんじゃないか? 私が雇いたいぐらいだよ」
「ありがたい御話ですが、団子屋との兼業を認めてくださる呉服屋で、世話になっておりますので」
「時間なんて気にしやしないよ。あやかしの生きる世は、現世とは流れが異なるのだから」
「今の私は、紅丸と、佐田彦さまの着物で、手いっぱいですよ」
「おや、残念。手が空いたら言っておくれ。そこに隠れているイタチより、あたしを優先させとくれ」
「ぴい!」
天井付近より、悲鳴があがる。
姿を見ぬと思えば、こそりと隠れていたらしい白旺が、小さな頭を覗かせた。
「佐田彦、あんな弱い雷獣を眷属にしているのかい?」
「別に眷属になぞしておらん。勝手に居ついておるだけだ」
「けんぞく?」
絲の疑問に玉藻が答える。
「稲光というだろう? 雷は、稲に縁づいているんだよ。穀物神である、稲荷神とも縁があるというわけさ」
「か、雷は、神の鳴らす神聖なる――」
「二又程度の尾しかないくせに、随分と偉そうなイタチだねえ」
「イ、イタチではない、俺はいと気高き雷獣様だっ」
「喰ってやろうか」
「ぴいぃ」
「玉藻、あまり脅すな」
佐田彦が止めに入り、玉藻は可笑しげに笑う。己以外のものに気を配る佐田彦なぞ、ついぞ見たことがない。
人の身でありながら常世へ迷い込み、そのまま御使いとなった男は、人に紛れて暮らすうちに、多少なりとも変わったらしい。
「佐田彦。挨拶には行ったのかい?」
「なんの挨拶だ」
「この小さな神見習いのことだよ。大御神様はご覧になっているだろうが、こちらから出向くことも大事だよ。挨拶もなしじゃ、宇迦が拗ねるよ」
◇◆◇
手水舎もないような寂れた稲荷神社に、佐田彦は紅丸を伴って訪れていた。玉藻の神気にあてられたのか、すっかり弱ってしまった白旺が絲を放さなかったこともあり、二人のみだ。
もっとも、ただの人間である絲がいたとしても、意味はなかったことだろう。
あやかしへの耐性がある彼女であれば、神の声を聞くことも適ったかもしれないが、それはあまりにも負担が大きい。
「ぱんぱんする?」
「そうだな」
二礼二拍手一礼。
小さな身体が、稲荷神への礼を表す姿を目の端に捉えながら、佐田彦もまた胸中で来訪を告げる。
と、冬だというのに温かな風が吹き、周囲から音が消失する。
澄んだ気が満ち、脳天から爪の先へ通り抜ける感覚。
慣れた気配ではあるが、何故かひどく懐かしい心持ちがした。
「佐田彦」
声がした。
常世における佐田彦の養い手でもある、宇迦之御魂神の声であった。
天を見上げ、紅丸がきょろりと視線を巡らせる。
「宇迦之御魂神。お目通りが遅くなりましたが、新たな穀物神です。……紅丸、挨拶せよ」
「あいさつ?」
「意のままに」
「いのまま?」
「ひとまず、名を名乗れ」
「なまえ?」
佐田彦の言葉を返すだけの紅丸に、宇迦之御魂神の声が笑いを含んだ。
「良いよ。幼き神、そちの名は?」
「べにまる」
「左様か」
「いとがね、なまえくれたの。これもね、つくってくれたの」
「その衣か?」
「うん」
紅丸のあけすけな物言いに、佐田彦は肝が冷える。
「紅丸よ、我らの下へ来るか?」
「どこいくの?」
「常世にて修行を成せば、神気もはように溜まろう。つまりは、早く神になれるということじゃ」
理解が及ばない顔をした紅丸に、宇迦は告げる。
すると、紅丸は返した。
「いともいっしょ?」
「人を連れては行けぬな」
「……じゃあ、や。いかない」
「紅丸。これはとても良い誘いだ。穀物神の導きは、小豆の神として、これ以上ないものだ」
「やだ。ぼくかえる」
「紅丸……」
「いっしょがいいの。いとと、さたひこと、いっしょ!」
叫ぶ紅丸の声に、力場が歪む。
穴の開いた袋のように、満たされていた気が抜け、冬の冷気と入れ替わっていく。
そして、元の稲荷神社へ引き戻される。
遠く、宇迦の声が聞こえた。
「佐田彦。おまえに任せよう」
「しかし、俺では――」
「今のままで良い。それは十分に育っておるではないか」
下ろした手に小さなぬくもりが触れる。
佐田彦の指を、紅丸の小さな手が握りしめる。
沸かした湯に触れたような、温もりを超えた熱が指から伝わり、身体中を巡っていく。
「かえる……」
「……わかった。帰ろう、紅丸」
紅丸の消えそうな呟きに、佐田彦はその頭をそっと撫でた。
行きとはまるで違う様子でとぼとぼと歩く紅丸に合わせ、佐田彦はゆっくりと歩を進める。神社からずっと手は離されることもなく、絶えない温もりに心が落ち着かない。
ゆっくりと歩く佐田彦の前から、一組の親子がやって来る。
幼い子と、その父親なのだろう。父は子を肩車し、父の頭へ手をやった子が楽しげに笑っている。
佐田彦には、親子というものがよくわからない。
父と思っていた男がいなくなったのは五つの時で、父上と伸ばした手が振り払われたことが強く心に残っているのみである。
すれ違った親子を見送ると、繋がれた手にわずか抵抗が生まれる。見下ろすと、紅丸が親子を声もなく見つめており、立ち止まって動かない。
「紅丸」
「…………」
「――乗るか、紅丸」
佐田彦が問うと、紅丸が見上げた。
目を大きく開き、じっと己を見つめている童の脇に手を差し入れ、肩へ担ぎ上げ、歩きはじめる。
「たかいっ」
「そうか。怖いか?」
「こわくないよ」
佐田彦の髪を掴み、足をばたつかせる。引きつる頭部と、足の当たる胸元に痛みはあれど、地へ降ろしたいとは感じなかった。
賀根町長屋の表店が見える頃、頭上で紅丸が「いと!」と声を上げた。
「おりる」
「わかったから、少しおとなしくしておれ」
蠢く足を取り押さえて屈むと、紅丸が一目散に走っていく。
その先には小豆色の小袖に前掛けをした絲がおり、しゃがみこんで紅丸を迎えた。
頭を撫で、頬に手をやる仕草を遠くから見つめる。
どこかへ置き忘れてきた郷愁が押し寄せ、佐田彦を絡め取った。
いつも遠くで見つめ、求め――。
けれど、決して得られることのなかった光景。
やがて立ち上がり、こちらを見た娘が笑みを浮かべた。
「旦那、おかえりなさい」
言葉に出来ない何かを抱え、佐田彦は一歩ずつ、絲と紅丸へ向かい、進みはじめた。