四、小豆洗い
子を連れて戻り、路地から裏店へと入る。そちらから店の勝手口を開けると、いつも使っている道具を手に取り、井戸の前へと赴いた。
その場所には佐田彦とあの子供が待っており、なにやら話をしているようだった。
子供の背丈は三尺(九十センチ)ほどで、佐田彦がしゃがみこんだとしても、背丈を丸めねばならぬほど小さい。なんとも不思議な取り合わせだった。
「待たせてごめんなさいね。さあ、はじめましょうか」
「……うん」
桶から盥へ水を移し、張った水の中へ小豆を入れた笊を浸ける。左手で笊を押さえ、右手で軽く掻き回すようにして洗っていく。
子供は大きな瞳をさらに開き、食い入るようにして、絲の手先に集中している。盥の傍へと座り込み、じいと手の動きを目で追う。
その様子に笑みを漏らし、絲は手の動きを少し緩めた。
「お米を研いだことはある?」
問うと、子供はふるふると首を振った。目は絲の手を見据えたままだ。
「お米はね、もっと力を入れてざかざか洗ったりもするんだけど、小豆は違うのね。こうやって、ゆっくりでもいいんだよ」
「ゆっくりでいい?」
「ぐるぐる早くかき混ぜるよりは、こうやった方が、汚れを綺麗に落とせるなあって、私は思ってるよ。やってみる?」
「うん」
子供が小さな手を笊の中へと投じ、絲は両手で笊を支え持った。
小さな手が円を描く。
「指を広げて、指の間を粒が通るようにしてごらんなさい?」
絲が告げると、子供は真剣な面持ちで頷くが、やがて眉を下げる。どうやら思ったようにはいかないらしい。
「……うまく、できない」
「そうねえ。じゃあね、まるーく動かすのではなくて、横にしてみましょう」
「よこ?」
「熊手ってわかるかしら? 手の形みたいになっている道具よ」
「わかる」
「お手々をあんな感じに開いて」
「こう?」
「そう。そうしてね――」
ぷっくりとした手首を取ると、小豆の山を鋤くように、動かしてやる。
ころころとした感触が指の間をすり抜けたのだろう。子供は瞠目し、絲を見上げた。
「指の間、通った?」
「とおった」
「じゃあ、もう一度やってみようか」
「じぶんでやる」
「そっか。じゃあ、やってごらん?」
先ほどよりは力強く頷くと、子供は真剣な面持ちで、砂を掻くように、小豆を浚い始めた。
二人の様子を一歩引いた場所で、佐田彦は眺めていた。
絲は無邪気に接しているが、あれはおそらくは『あやかし』だ。
あのような小さな子供が一人きりで座っているにもかかわらず、誰も気に止めなかったのは、そのせいなのだ。あれは、人の目に映るものではない。
ならばなぜ、絲はあれに気づいたのか――
佐田彦よりも先に子供の姿を捉えたのは、絲である。
通り沿いに座り込んでいたわけでもなく、川縁へと降りた先、離れた場所にいたにもかかわらず見つけ、そして声をかけた。
わからん――と、佐田彦は嘆息する。
だが、稲荷神社で自分を見つけたように、絲は人ならざる者を見る力があるのかもしれない。
亥之助は絲を『勘が良い』と言っていた。知覚に秀でているのであれば、今日のことも理解が及ぶ。
現世にも、陰陽道という体系があるが、佐田彦自身は明るくない。そちらの方面にかぶれた知り合いがいる程度のことである。
いずれにせよ、あの子供。まだ小さく、生まれて間もないあやかしであろうと思われる。こちらの問いかけにも、はっきりとした回答がなかったことから、見た目通りの知性しか持ち合わせていないと考えていい。
「もうそろそろ大丈夫じゃないかな」
「いいの?」
「綺麗に洗えたね。水を切って、少し乾かしておこうか。袋を分けてあげるから、それに入れて持って帰ろうね」
「かえる?」
「送ってあげるから、あとで住まいを教えてね」
「かえるの?」
不思議そうに首を傾げる童に、絲は微笑みを浮かべる。
「あとでね。まずは、少し休もうか。お手々つめたくなっちゃったでしょう。お汁粉食べよう」
「おしるこ?」
「食べたことない?」
「たべたことない」
「小豆を煮込んで作るのよ。甘くて美味しいわよ」
「あずき、あまいの?」
「このままだと固いけれど、お水で煮込んだら柔らかくなって、美味しくなるの」
絲にとっては身近な食べ物で、小豆を洗うことは子供の時分によくやったことだ。そうして洗ったものを使って、両親はお菓子を作ってくれた。
その時、とても誇らしかったことを覚えている。
「あずき、おいしい?」
「美味しいよー。ねえ、旦那も食べるでしょう?」
「そうだな、馳走になろう。お絲、俺の部屋へ行こう」
「準備をして、持っていくわね。坊やも待っててね」
この小さな童が、かつての自分のように、胸を躍らせてくれることを願い、道具を取るため家へ向かった。
「お絲、どこに行ってたんだい?」
「佐田彦の旦那と買い物。あのお方の衣、寸足らずなんだもの」
「そういや、そうだったねえ」
からからと松は笑い、絲の抱えた鍋を見る。
「なんだい、そりゃ」
「お汁粉を作ろうと思って。小豆を少し、持って行ってもかまわないでしょう?」
「好きにおし。くずれた餅があるから、それも持っていきな」
「ありがとう、母さん」
「佐田彦さんは、あんたの作る飯が、随分と気に入ったようだねえ」
「そ、それはあのお方が、いつも腹を空かしているからだわっ」
「いいじゃないか。飯を旨そうに食らう人、私は好きだね」
「私だって、悪いとは言っていないもの……」
ぼそぼそと声をこもらせる娘に、松はひとつ助言をすることにした。
「胃の腑を掴むのはいいことだよ。私はそれで、亥之助さんの虜になったんだからね」
「……男女が逆だわ、母さん」
父はこんな母のどこに惚れたのだろう。
絲は時折、両親の馴れ初めを信じがたく思う。
母の視線から逃げるようにお勝手から外へ出ると、佐田彦の部屋へと向かう。
扉の前には先ほどの小豆が置かれていた。笊に入ったそれを一度揺り動かして、絲は満足げに頷く。
そして扉越しに声をかけ、中へ入ると、童と佐田彦が対面で見つめあっているところだった。
「……何をしているの、二人で」
「こいつ、やなの」
「誰がこいつだ。口を慎め、小僧」
「ちょっと旦那。こんな小さな坊やに、なんて口の利き方よ」
「形は小さいが、こいつは『あやかし』だ」
「あやかし?」
憮然とした顔をした佐田彦の弁に、絲は驚く。
「あやかしって、人を化かしたり祟ったり襲ったりもする、あれのこと?」
「ぼくちがう」
「違わん」
「ちがうもん」
「小豆洗いと呼ばれるものがいる。俺も実際に会ったことはないが、それではないかと思う」
「それっていったいどんな『あやかし』なの?」
「まあ、小豆を洗うのではないか?」
「たしかに洗ってはいたけれど、だからそれがいったいなんなの?」
土間から上がり、子供の傍に膝をついた絲が問いかける。あやかしの子供は、そんな絲にすがりつくように袖を握る。
「なに、と言われてもな」
「害がないのであれば、かまわないじゃない。ねえ、坊や」
「ぼく、ちがうの」
「何が違うの?」
「わるいことしない。いやなことしないのに、だめっていうの」
「おい小僧」
再び始まった言い合いに、絲は声をあげる。
「あーもう、喧嘩しないの」
「喧嘩?」
「これが喧嘩でなくて、いったいなんなのよ、もう。今からお汁粉を作るから。旦那はこれ」
「なんだ、これは」
「餅。七輪で焼いておいてね」
「……ふむ」
「出来上がるまでに、ちゃんと仲直りするのよ?」
言いきると、絲は土間へ降りて、竈へ向かう。
佐田彦と小豆洗いは、七輪を挟んで向かい合った。
絲はすごいと佐田彦は思う。
あやかしだと判っても、接し方は何も変わらない。己が神使だと告げたあともそうだった。
この小さな『あやかし』のことも、見た目通りの『子供』と同じに捉えているのだろう。
改めて、目前のあやかしを見る。
生まれてさほど経っていないのか、神気も少ない。邪気などあろうはずもなく、見てくれだけなら本当のただの童だった。
ひとつ息を吐いて、佐田彦は告げる。
「べつにおまえを退治するだとか、封じるだとか、そんなことを考えているわけではないから安心しろ」
「けされない?」
「人に仇なす存在ではないのだろう?」
「ぼく、わからない」
虚ろな色を漂わせながら、童はこちらを見上げている。
色を――明確な感情を伴わない声に、佐田彦は苦い気持ちを抱きながら、告げた。
「存在意義は、これから己で作ればよい」
「いぎ?」
「今のおまえは、ただのあやかしだ。徳を積めば、いつか神にもなれよう」
「かみさま?」
「さしずめ、小豆の神か?」
「とくってなに?」
「平たくいえば、良い行いだ。人の為になることをする。誰かに喜ばれて、感謝される。そういった善行を積めば、神気が溜まる。まあ、ゆっくりとやればよい。先は長いのだからな」
「うん」
「あら、仲直りは済んだの?」
湯気の立つ鍋を持って、思いのほか早く絲が上がってくる。
ある程度の準備は済ませてあったのだろう。店から持ち込んだ椀を膳の上に置き、甘い香りが漂う汁粉を注いだ。
「さあ、どうぞ」
先に子供の前に供されると、小豆洗いは大きく目を開いて、粒の混じった汁に見入っている。
「これ、なあに?」
「お汁粉だよ。小豆を煮込んで作るの」
「これ、あずきなの?」
「さっき洗った物とは違うけどね。これは、うちで作っているやつを、ちょっとばかし貰ってきたの」
「商売品ではないのか?」
「母さんに許可は貰ったもの。餅だって、売り物にならないやつだから、平気なの」
「つくってるの?」
「そう。私のおうちね、団子屋さんなんだよ。大福餅も売っているし、今の時期はお汁粉だって作るの。だから、小豆はいっぱいあるのよ」
「あずき、たくさんあらう?」
絲の言葉に、小豆洗いは勇んで問うた。
なんのことやらわからないまま、絲は頷く。
「そうね。普通の家よりは、たくさんかなあ」
「ぼく、おてつだいする!」
嬉々として声をあげ、椀を取り上げる。
鼻を膨らませ、その匂いを嗅ぐと、とろけそうな笑みを浮かべた。
「どういうことなの?」
「妖怪・小豆洗いは、小豆の神様になるため、修行を積むということだ」
「小豆の神様なんてものがいるの?」
「神はどこにでもおるものだ」
「とくをつむんだよ」
童が声をあげる。
「……とく?」
「善行だな。人を助け、感謝されれば、神として崇められていく」
佐田彦が言い添え、絲は首を傾げながらも頷いた。
「――つまり、私は、ありがとうって言えばいいのね?」
「ついでに、こうして汁粉でも食べさせてやれば、それが供物となろう」
「手伝ってもらって、お礼をする。そんな当たり前のことでいいのなら」
「いっぱいあらうよ」
「じゃあ、お願いしようかな」
「うん!」
椀を持ったまま歩きまわる小豆洗いに、絲は「お食事の時は、きちんと座らなきゃ駄目よ」と、小さな手から汁粉を取り上げる。
届かない位置に持ち上げられた椀に向かい背伸びをする姿は、まるで神様らしくはないけれど、悪くはないと佐田彦は感じた。
「そういえば、名前はなんていうの?」
「名か」
「なまえ、ない」
当たり前の顔をして、あやかしは言った。
「それはとても不便ね。小豆洗いなんて、言いにくいわ」
「そういう問題ではないと思うが……」
「いと、つけて」
「私が呼び名をつけても、かまわないものなの?」
「いとがいい」
絲が困ったようにこちらを見たため、佐田彦は頷いた。
本人が望んでいるのであれば、おそらく別の名は受け入れられることはない。
「そうねえ……」
緋色の衣をまとった姿をしばし眺めていた絲は、やがて微笑み、子供の視線に合わせてしゃがむ。
「紅丸はどうかしら?」
「べにまる」
「嫌ならば、変えてもかまわないわ」
「ぼくのなまえ……。……べにまる。なまえ……」
何度も確かめるように口にし、絲と佐田彦を交互に見やる。
佐田彦はその肩に手を置き、告げた。
「汝、今この時より小豆の神として生き、恵みを与えるべく、精進に励むがよい」
「めぐみをあたえる?」
「おまえが高位の神になれば、良い小豆が実り、そうして旨い汁粉が喰えるということだ」
「お汁粉に限定するのはどうなのかしら」
「これほど旨そうなもの、他になかろう。早く、俺にも喰わせてくれ」
「ぼくもたべる。いと、かえして」
競うように汁粉を平らげる佐田彦の姿は、小さな子供と大差がないように思え、絲は笑った。