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拾壱、綻び

 戸板が揺れる音に目が冴えて、絲はついに起き上がった。

 家人を起こさぬように足を忍ばせて、そっと戸外へ顔を覗かせる。

 空にはいつの間にか雲がかかり、風が強い早さでそれを押し流していく。するすると走り去る細長い雲に気が急いて、胸にもどかしさが飛来する。


「……いと」

「紅丸?」

 気づくと足元に紅丸がすがりついていた。

 腰を落とし、顔を合わせる。

「どうしたの? 一人で出てきたの?」

「さたひこ、いないの」

「厠へ行ったのではないの?」

「ずっといないの」

「……ずっと?」

「出ていってしまったようであるな」

 ひょいと顔を出した白旺はくおうが言い、紅丸はぎゅっと眉を寄せた。

「ねえ、白旺。どういうことなの?」

「この俺様が推察するに、あの神使は任を終えて戻ったのではないか?」

「任を、終えて?」

「にゃーがいうの、ほんと?」

「にゃーではないと言うとろうが!」

「あくおーの、ほんと?」

「は・く・お・う。きちんと呼べ、小豆丸めが」


 足元で騒ぐあやかしの会話が耳を通り抜け、絲は混乱した。

 たしかに佐田彦は、仕事に来たのだと言っていた。刻限が定められているとは聞いていないが、鬼とやらの所在が特定できて、悪い気配とやらを収めることができたのであれば、もう現世へ留まる意味はないかもしれない。

 だが、なにも黙って出ていくことはないのではないか。

 胸の中を、どろりとしたものが渦巻く。

 地に大きな影が落ち、見上げると、助六が立っている。

 どことなく困ったような面持ちをした大男は、泣いている紅丸を担ぎ上げると、空いた方の手で白旺の首根っこを掴んで持ち上げた。


「すまんな。騒がせた」

「助六さま。二人が言ったことは本当なのですか? 旦那は――佐田彦さまは、常世へお帰りになったのですか?」

「稲荷の様子を見に行っておるだけだ」

「あの、稲荷ですか?」

 意外な答えを聞いたように目を丸くする絲に、助六は頷く。

「あそこはもともと鬼門が近くにあったことから建てられた稲荷でな。時が経つにつれてまつる者も少なくなってしまったせいで、歪みがきている」

「たしかに、どことなく不穏な雰囲気はありますが」

「おまえさんはよくまいるのだろう?」

「今の私があるのは、あの稲荷神社のおかげですから」

「だから、澱みを祓いに行ったのさ」


 なんということのない返答。されど、絲の胸には言いようのない不安が飛来する。

 何かが、違うのだ。

 じわりと胸の内に広がる不穏な気配を抱えながら、口を開く。


「……それで、助六さまはどうなされたのですか?」

「――おまえさんは、人にしておくには惜しい勘の良さだな」

 と、助六の影が大きくなった。月を背に、まるで大岩のようにこちらを圧倒し、絲は一歩、後ろへと下がる。

 ざり、と小石を踏む音が耳に届く。

 この男もまた『あやかし』なのだと、今更のように気づいて、絲は唾を呑みこんだ。

 目前の影が揺れ、そこからぴょいと小さな塊が飛んでくる。

 くるりと回転したそれは、絲の肩へと落ちた。びくりと身体を震わせたが、さらりとした毛が頬をかすめたことで、それが何であるのか気づく。


「おい貴様、絲へ何かをなすというのであれば、この俺様が相手をしてやろう! 夜半であろうと、雷を呼ぶなど造作もないことなのだからな!」

「雲から墜ちた雷獣のくせに、よくもまあ偉そうに」

「違うわっ。俺様はここを守護しているのである!」

「待って白旺」

 毛を逆立てる肩口の雷獣を制止して、絲は助六へ向き直る。ぐいと顎を上げ、顔とおぼしき位置を睨み付けると、ゆっくりと下へ視線を流していく。

 足元へ到達した後、絲は改めて影に語る。

「助六さま。私にも手伝わせてくださいませ」

「人の分際で、常世の事情に干渉すると?」

「鬼は人に憑くもの。ならば、人こそが役に立てるのではないのですか?」

「斬られても良いと?」

「あら、私、縫い物は得意なのですよ? 糸ですから」

 口の端を吊り上げて無理に笑みを浮かべると、影の持つ威圧が消えた。あれほど大きかった形がしぼみ、見知った人影へと変じる。

「なんとまあ、無茶を言うものだ」

「ですが、助六さまとて、様子がおかしいと思ったからこそ、このような時間に出ておいでだったのでしょう?」

「そうだな。だが、俺はあいつに、ここに居ろと言われてしまったからな。不用意には動けんのだ」

「そうなの、ですか?」

「あいつの力は、言霊だ。強いが、時折自分も縛ってしまう。そうなると厄介だ」

「わかりました」



 ◇◆◇



 厚めの綿入羽織を着た絲は、足早に稲荷神社へと向かう。

 その前を先導するように走るのは、白旺だ。

 ぐずる紅丸は助六に託したが、白旺だけは頑として同行を譲らなかった。一人で行くよりは安心だと、助六にも諭されては、連れていくしかない。

 手元に灯りもない中、白旺の二又尾を目印に、絲は稲荷神社へ向けて足を急がせる。

 理由の付けられない衝動がある。

 分からないけれど、不安なのだ。

 絲は己の直感を信じている。

 だからきっと、佐田彦の身に何かがあったに違いないのだ。


 稲荷まであと一町(約百メートル)ほどまで来る頃になると、明らかに異質な空気が漂ってきた。

 冬だというのに、なにやら生温かな風が肌に触れる。

 温かといっても春のそれではなく、梅雨時期の湿り気を帯びた、肌にまとわりつくような、ねっとりとしたもの。ぬめりのある手で肌を捕まれた心地がし、絲は不快気に顔をしかめた。

「嫌な気配であるな」

「白旺、これってなにかしら?」

「良くないモノであるのはわかるのである」

 白旺は足を止め、絲を振り返る。

「絲、やはり行くのはやめた方が――」

「ありがとう。でもね、ここまで来て帰る方が、よっぽど心地が悪いわよ。帰るのは、佐田彦さまにそう言われた時よ」

「けっ、神使の野郎。俺様の絲にいらぬ心配をさせよって」

「あら、白旺だって佐田彦さまのことを案じてくれているじゃない。紅丸のことだってそうだわ」

「ち、違うのである! 小豆丸なぞは、べそべそと泣き止まぬから、仕方がなく相手をしてやったまでなのである」

 尾をばさばさと振り回す雷獣を抱き上げて、胸に抱える。

「一緒に行ってくれるかしら?」

「ふん、俺はいと気高き雷獣であるぞ! そして、おまえが仕えるべき主なのである! つまり、おまえが俺様に付いてくるのである!」


 白旺が胸を張った時、周囲一体に絶叫が響き渡った。

 生い茂った草と、背の高い木々が、その音圧で揺れる。

 絲は道を逸れ、膝丈の草むらを掻き分けて、林の向こうを目指した。

 顔の高さにある枝を手で払いのける。

 小さな痛みが手の甲を滑る。

 羽織の袖がひどく邪魔で、苛立ちまぎれに脱ぎ捨てた。

 袷の袖口が枝に引っ掛かり、力任せに引き千切る。

 声が、悲鳴が、耳に突き刺さる。

 そこに。すぐそこに、あの方がいる。

 木々の切れ間に躍り出て、絲は叫んだ。


「佐田彦さまっ!」


 充血した目で、平素よりも黒ずんだ肌で、息も絶え絶えとなった佐田彦が亡霊のように立っている。

 落ち窪んだ眼がこちらを見出だす。

 雲が切れ、月が顔を出す。

 月光が荒れた神社を照らし、男の眼が薄気味悪く光った。

 袷着物は乱れ、胸元辺りは焦げたように色が変わっている。仕立て直した山葵わさび色の着物は、佐田彦にはとてもよく似合っていて、本人も気に入ったと照れくさそうに笑っていた。

 ここぞという大事な一番に着ようと言っていたそれを纏っていることに、絲は、こんな時だというのに泣きたくなる。


「……ゼ」

 佐田彦のなりをしたモノから、枯れた声が漏れる。

 がっしりとした体躯の男が、ゆっくりとこちらへ近づいてくるが、絲は動くことができず、拳を握りしめる。先ほど枝にかすめた手の甲が、じくじくと痛みを主張した。

 ざっと上から何かが飛来し、佐田彦の顔へと張り付いた。

「絲、なにをしておるか!」

「はく、おう」

「これを助けるのではなかったのか! それ以前に、おいこら、貴様! 鬼を封じに来て、自ら鬼と化すとは何事であるかっ、とんだ腑抜け野郎なのである!」

 くぐもった声をあげる佐田彦に、白旺は声を張り上げた。

「俺様の臣下たる絲が、貴様を助けたいというから来てやったのである。神使というのであれば、もう少し気概というものを見せぬか! 俺様が――」

 言葉の途中で身体を捕まれ、白旺の小さな身体が空を舞う。勢いのままどこか遠く、高い木の向こうへと消えた。

 しかし、白旺が飛んだ軌跡を描くように、黒い何かが。空中に筆で描いたような黒い霧のような何かが漂い、それらが佐田彦の元へと向かおうとしているところを、男の手が制した。

「……糞、あのイタチ。言いたいように言いおってからに」

 唾と共に吐き捨て、黒霧を拳で握りこむその声は、絲が知る男の声そのもので、震える声で問いかけた。

「だ、旦那……?」

「お絲。離れておってくれ。悪鬼を送り返す。身の内へ封じ、俺ごと黄泉へと考えておったのだが――」

「そんなのは駄目よっ」

 咄嗟に口を突いて出た絲の言葉に、佐田彦は少し黙り、苦々しく顔を歪めた。

「……ああ。俺もそう思う。だが、そう思う心は欲にまみれており、また鬼を呼ぶだろう」

「生きたいと願ってなにが悪いのよっ」

「お絲……?」

「前から思っていたけれど、それは旦那の悪いところだわ。諦めては駄目なのよ。誰かにまさりたい、なにかを手に入れたいと願うことは悪ではないわ。欲なんて、誰しもが持っているの。私だって欲まみれよ。兄さんなんて、その筆頭じゃないの」

 付け加えるように出た直太郎の名に、佐田彦の顔がゆるむ。

「旦那だって同じよ。羨ましくたって、なにかを望んだって、いいじゃない。どうしてそれが悪いのよっ。神様はやっぱりいけずだわ。人をお認めにならないなんて」

 人は欲深く、誰かを羨み、妬み、恨み、心を病む。鬼をび、鬼と化す。いずれ修羅へと進む。

 それを正すのが常世からの導きで、佐田彦に課せられた役割だ。

 しかし、絲は違うと言う。

 悪いことではないのだと、言う。

 ぞろりと掌中しょうちゅうの黒い瘴気が蠢き、囁いた。


 あの娘も申しておるではないか。

 我の存在は、悪ではないのだ、と。

 このまま現世ここへ留まれば、あの娘と共に居られる。

 おまえの望みはそれであろう?


 血の管へと侵入してくる気配に、佐田彦は再び念を込めた。


 ――黙れ。


 握り潰すように力を込める。

 爪が食い込み、ぽたりと滴る血が、足元の石を赤く染める。

 瘴気が、逃れようと暴れるが、語気を強めてさらに縛る。

 ぬるい淀んだ風が周囲を取り巻き、黒い気配へと集まっていく。

 同時に気配が濃くなり、握りしめた拳が震えた。

 鬼が瘴気を取り込んでいるのか。

 佐田彦は視線を巡らせる。

 どこかに、ほころびがあるはずだ。

 かつてこの地を滅びへと導いた鬼門。

 封じたはずのそれが、開きかけている。


「旦那?」

「お絲、気を強く持て。どこぞに、綻びがある」

「ほころび?」

「悪鬼の気配が濃くなった。負の気を呼び寄せておるということは、封印が解けたのだ」

「つまり、封じ直せば、鬼は弱くなるのね」

「少なくとも、今ここにいる鬼の気は弱まる」

 取り込むべき気配が無くなってしまえば、これ以上強くなることもなく、抑え込めるはずなのだ。

 そのためには、壊れた結界を修復する必要がある。

 だが、悪鬼を抑えながら、封印を施すのは困難だろう。

 助六を長屋へ留めたのは早計だったやもしれぬと、佐田彦は己の失策を悔やんだ。紅丸や絲を思って留守を任せたが、こんなことになるのであれば、同行させれば良かったかもしれない。あの男ならば、結界のほころびを見つけて封を成すことが、出来たであろうに。

 視界の端に祠が映る。

 今となっては、よくもあんな小さな祠に身体が収まったものだと思う。

「結界というのは、どんなものなの?」

 ふと、絲が問うた。

 目を転じると、泣くことを我慢しているような面持ちの絲が、こちらを見つめている。

「目に見えてわかるものなの? どうすれば塞ぐことができるの? 石を積み上げるの? それとも、紙や布をあてるの?」

「お絲……」


 人の目に映るものではない。

 石や布でどうにかなるものでもない。

 布をあてるという考えが、なんとも絲らしいが、着物を縫うようにいくものではないのだ。

 そう言おうとして、何かが引っ掛かった。

 あやかしが見えた絲。

 玉藻は言った。

 見えぬモノも縫い、繋ぐことが出来る良い手だ、と。

 ならば。

 糸の名を持つ、絲ならば。

 それすらも縫うことが出来るのではないだろうか。


「お絲。縫え」

「え?」

「おまえならば、きっと出来る。糸の束を持って、赤子のおまえはここへおったのだろう? おまえの手には糸がある。その糸で家族との縁を繋いだのだ」

 両の手を見下ろす絲に、さらに告げる。

「そうしたいという強い気があれば、それは再び糸となり、その手に現れる。それは空間を縫うことができる、強い糸だ」

「そ、そんなのは無理だわ。だって、糸なんて、どこにも――」

「ある。おまえがいつも持っている針。そこには透明で、長い糸が付いておる」


 佐田彦の言葉に、絲は右手を見つめた。人差し指と親指。ふたつで摘まんだ鋼のぬい針があるのだと、目を凝らす。

 指に慣れた細い感触が生まれた。

 ある。

 針があるのだ。

 ならば糸だ。

 透明な糸。

 駄目だ。それでは見えない。

 見えなければ縫えない。

 布に合った色が良い。

 暗闇に合った、ぬばたまのような美しい糸。

 では結界とはなんだろう。

 分からない。

 ならば、考え方を変えれば良い。

 佐田彦は「縫える」と言った。

 縫い物。

 衣だ。

 美しい黒き御衣おころも

 ああ、とても素敵だ。

 手で触れることが畏れ多いと感じるほど、質の高い反物。

 それに針を刺すことが出来たとしたら、なんと素晴らしいことだろう。

 金糸や銀糸で刺繍を施せば、さらに美しさを増すだろう。

 想像すると、胸が震えた。


 目蓋を閉じ、深く呼吸をして、開く。

 闇が、幾重にも連なった反物となって、周囲一帯を取り囲んでいた。

 とてつもなく大きな一枚布。

 鋏を入れることが躊躇われる。

 つと、裂け目が見えた。

 刃物で切り裂かれたような、二尺(六十センチ)ほどの裂け目が、風にはためいている。

 なんと不粋な。

 眉を潜めた絲の耳に、声が聞こえた。


「縫え、絲」


 そうだ。

 縫い合わせよう。

 この糸で。




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