拾、鬼
佐田彦が常世へ渡ったのは、十歳の頃。
人である者が、神使となったことについて、随分とやっかみを受けた。
宇迦之御魂神は、天照大御神に連なる高貴な身の上であった為、「人」である佐田彦が仕えていることを良く思わない輩が後を絶たなかったのである。
神でも嫉妬するのだな、と。
佐田彦は薄く嗤う。
人も神も変わらない。
名も知れぬような小さな神ではあるが、人である佐田彦よりは力も強く、放たれる言葉は、かつて己を追い詰めた人間たちと大差がなく、心を蝕んでいく。
「佐田彦、ぬし、大丈夫であるか?」
「なにも変わりませぬ」
神々に貶められ、さりとて宇迦にそれらを伝えるのは、なにやら告口のようで躊躇われ、佐田彦はただ口をつぐむ。
澱みは堆積し、汚泥となって、重く心を沈めていく。
病んだ心は鬼を呼ぶという。
それを実感したのは、すでにそれに囚われた時だった。
常世と黄泉の境界にあるのが、豊葦原中国――、佐田彦が最初に足を踏み入れた、あの黄金色の葦原である。
神でも死者でもない佐田彦は、その境界世界へとよく赴いた。
黄泉の使者たる「悪鬼」に会ったのは、いつものように豊葦原へと逃げて来た時だ。
澱んだ心を抱えて蹲っていた頭の中で、ぼそりと声がした。
無理をせずともよいではないか。
なにをしても、どうせ認めてはくれないのだ。
私は鬼の子だから。
人の世にもおられず、神の世にも居場所はない。
私には、鬼の血が混じっているから。
ならば、鬼の国へ行けばよい――
どくり、心の臓が大きく音を立てた。
鬼。
鬼の子。
母の、叫ぶような声が蘇る。
おまえのせいで、と罵る声。
足元からひたひたと、冷たい何かが這い上がってくる。
見下ろすと、地から生える干乾びた手が見えた。
ひい、と悲鳴が漏れて立ち上がる。
しかし、地に縫い留められたように、掴まれた足は動かない。
それどころか、じわじわと泥の中へ沈んでいくのである。
鬼。
おまえは鬼だ。
地の底から声がする。
もう一本、手が増えた。
腹を空かし、なんでも喰らう。
忍び込み、飯を掠め取る卑しい生き物。
供えられた米すら臆さず喰らう鬼。
餓鬼
見下ろした先に、炭のような細い足が見えた。
己の足だった。
黒く細く煤けた、干乾びた足。
次いで、両の手を見下ろす。
地を蠢く無数の手と同じ、干乾びた手が見えた。
いつの間にか襤褸の衣を身に纏い、己からこぼれおちた黒い靄が地を黒く染めていく。
澱みに触れた黄金色の葦は枯れ果て、周囲から色が抜けていく。
空が、灰色へ染まっていく。
太陽の光が白く、ただの色へと変じていく。
地は闇へ染まり、湿り気を帯びた泥へと姿を変えていく。
ずぶり、ずぶりと、少しずつ足の先から消えていく。
身体は冷え、心までも凍りついたように、なにも感じない。
このまま身を任せたら、どれほど楽なのだろう。
今やこの泥こそが、安寧の場所に感じられた。
この中にこそ、温もりがある。
浸ってしまえばいい。
黄泉へ行けば、たくさんの鬼がいる。
仲間がいる。
そうだ。仲間だ。
だって俺は、餓鬼なのだから。
笑みが漏れた。
開いた口の端から、一筋の涎が垂れ、闇に光る。
喰いたい。
ならば、喰らえばよい。
常世の全てを喰らってしまえばよい。
俺を見下し、せせら笑う奴らなぞ、知ったことではない。
足を踏み出した。
泥が跳ね、ぴちゃりと音を立てる。
ゆるりと周囲へ目を転じる。
俺はどこから来たのだったか。
稲荷の神がいる場所は、どこであったか。
あそこへ行けば、常世の全てをまかなう飯がある。
胸に歓喜が湧き起こる。
初めてこの地に足を踏み入れた時に喰った飯を思い出し、臓腑が蠢いた。
否、最初に喰ったのは、生の米であった。
稲荷の祠で、米粒を喰った。
そのことを不愉快に思い出した時、目の前に祠が見えた。
壊してしまおうと、思った。
あのような祠は必要ない。
近づいた時、良い香りがした。
遥か昔、父と呼ぶ男と共に住んでいた屋敷で、嗅いだことのある匂い。
膳の上に並んだ汁椀。
湯気を立てる、味噌汁の香り。
子の口に合うようにと、小さく作られた握り飯。
己のためにと配膳された、温かな飯。
と、幻のように脳裏に描いたそれが、忽然と祠の前に現れた。
竹皮の上に無造作に置かれた、どこかいびつな小さな握り飯と、竹筒に注がれた味噌汁。
ぐるりと腹が鳴った。
黒く干乾びた手で筒を掴み、味噌汁を啜った。
口の中に温かな液体が流れ込む。
喉を通り、胃の腑へ到達し、そこから四方八方へと何かが広がっていく。
冷えきった身体に、温もりが戻った。
握り飯を喰らった。
ごくりと呑み込む度に、力が戻った。
細い手足に、肉がついた。
啜り、喰らうごとに、肌の色を取り戻し、衣が再生されていく。
ぽたりと地に落ちたのは、涎ではなく、涙だった。
「佐田彦」
声が聞こえた。
「はよう戻っておいで、佐田彦」
だけど、俺は餓鬼だから――
頭を振る佐田彦を慈しむように、温かな手が背に添えられる。
「誰が鬼なものか。おまえは、わたしの神使ではないか」
「宇迦、さま」
名を口に乗せた刹那、佐田彦は葦原に居た。
周囲は黄金色に輝き、空はどこまでも青く澄み渡り、柔らかく温かな陽射しが降り注ぐ。
呆然と見渡す佐田彦に、宇迦は微笑んだ。
「よくぞ留まった」
「とどまる?」
「餓鬼道へと落ちず、よく戻ってきた」
「そうなの、ですか……?」
「まったく。そのように悪い気を溜めこむ前に、なぜ告げぬのか。おまえは優しい子だね」
「やさ、しい?」
それは違うと、頭を振る。
だって自分は鬼の子供だ。
「それは違うよ、佐田彦。おまえは、人の子だ」
「ですが、皆が言うておりました。母上とて、俺の父親は異形の者だと」
「異形ではなく、異人だね。船に乗って、海の向こうからやってきた、異国の者だよ」
「いこく?」
「おまえは人だ。鬼ではない。けれど、だからこそ、そうやって鬼に憑かれることがあるんだ」
「あの、黒いモノ?」
「おまえを追い詰めた人らも、それらに囚われたのだろう」
「宇迦さまが、助けてくださったのですね」
佐田彦が言うと、宇迦は小さく笑って、否定した。
「ですが、あの汁と飯は――」
「葦原は、どの時代とも繋がっている。あれは、いずれかの時から届いた、誰かからの供物。おまえの求めと、相手の心が繋がったのだろうね。今のおまえは、とても良い気に満ちている。ねえ、佐田彦。人を許すことは出来ぬかもしれないが、その温かな供物を与えてくれたのもまた、人なのだということを、忘れないでおくれ」
人は愚かだ。
神使として、現世に鬼を狩りにいくたびに思う。
異国の血を引く佐田彦の相貌は異質で、鬼が憑いた男より、自分の方を「悪鬼」と見なす民に、嫌気がさすこともしばしばだった。
けれど、そんな時。
心に澱みを溜めこみ、葦原へ足を踏み入れた時、いつもあの「供物」が現れた。
まるで、佐田彦の成長に合わせるかのように、握り飯の形は整えられていき、味噌汁も味わい深くなっていく。
同じ者からの供物である可能性など低いはずなのに、何故かこれは「あの供物」だと、信じられた。
人である自分を、自ら鬼へと落とさずに済んでいたのは、あの供物のおかげだった。
お狐様、あのね――
供物と共に聞こえる気がするあの声が、佐田彦はとても好きだった。
軽やかで、鈴の音のようなあの声が、たまらなく愛おしかった。
◇◆◇
羨ましい。
妬ましい。
紅丸ばかりが、救われる。
鬼の囁きに、佐田彦は抗う。
違う。
そんなふうには思っていない。
違わぬ。
あれを見ると、いつもいつも苦しいではないか。
焦がれてばかりおるではないか。
せせら笑う「内なる声」に、身体は冷えていく。
鬼が、四肢を奪っていく。
心の臓から流れる血の管を通り、身体中へ浸透していく。
黒く冷たい気が指先にまで到達した時、不意に温もりを思い出した。
この指を握った、小さな手。
「こいつ、きらい」
そう言った小さなあやかしは、己の部屋に住み着いた。
同じ飯を喰らい、同じ部屋で寝た。
「さたひこ」
そう呼ぶようになったのは、いつからだったのだろう。
自分を救った娘を「いと」と呼んで慕うように、いつしかこちらの名も呼ぶようになった。
娘がおらずとも、話をするようになった。
読み書きがしたいと乞われ、教えるようになった。
作り置かれたおかずを火鉢で焦がし、共に怒られた。
飯の時、はじめは娘の隣に座っていたけれど、今は己の隣に座っている。
あぐらをかいた上に収まり、草紙を広げて読み聞かせる。
触れる温度に戸惑い、けれど決して不快ではない。
名を呼ばれ、寄り添い、添い寝をし、手を繋ぎ、抱き上げ、乞われ、知らず笑みがこぼれ、姿を見ぬと案じ、娘といる姿に安堵する。
幼き頃、板塀の隙間から覗いた世界。
親と子の触れ合い。
求め、けれど得られなかったもの。
羨ましいのだろう?
ひたり、背中から覆いかぶさる気配に、拳を握る。
違う。
己が得られなかった物を甘受する紅丸を、羨んでいるのではない。
与えたいのだ。
己が欲した物を。
親に疎まれ、冷たく、孤独に縛られていた小さな子供に。
かつて、宇迦が救ってくれたように。
あの供物が。
あの声が。
己を救ってくれたように。
紅丸に、与えたかったのだ。
「……そうか、あの親は、このような気持ちだったのだな」
手を取り、歩いていた親子。
子に向ける眼差し。
そこに潜む感情。
小さき者を、守りたいと思う気持ち。
「父も、母も、俺のことを好いては、いなかったのだな……」
虚しさが湧き上がったが、そこに痛みはなかった。
ああ、やはりそうだったのだな、と。ただ、ずっと漂っていた思いに決着がついただけだった。
そのしこりが取れたことで、急に心が軽くなるのを感じた。
佐田彦は念を込め、符を掲げて、呪を唱える。
去ね、悪しき者よ。
じくりと、身を焦がす熱が生まれる。
それと同時に、鬼が再びこちらを惑わせる。
他者を羨む気持ちはもっとあろうに。
呉服屋へ赴いたのは、気になったからであろう?
菊一さんと親しげに呼ばれる男が、羨ましい。
長屋の皆が噂する、似合いの男とは、どんな輩であろうか。
兵衛と気安く呼んで、親しげに接する姿。
その声を、
その眼差しを、
向けられる相手が羨ましい。
声も、眼差しも、あたたかで柔らかなそのすべてを。
受け止めることができるのであれば、どれほどの喜びであろうか。
湿地のようにどんよりとした、粘り気を伴った感情が己を絡め取る。
おぞましい、欲望。
それらを自覚した途端、周囲は再び闇へと染まった。
鬼の囁きが木霊する。
ああ、妬ましい。
このような黒い気を宿す己は、やはり鬼なのだ。
人ではなく、神でもない。
どちらにも留まれない。
本当の居場所は、そこにはない。
堕ちてしまえば、楽になれる――
しかし、そうなってしまえば、もう二度と会えなくなるのではないか。
なんだかんだと付き合ってくれる、助六に。
育ち始めた小さな神、紅丸に。
見知らぬ己を受け入れてくれた、長屋の住人に。
なにくれと世話を焼いてくれる、絲に。
それはならぬ、と頭のどこかで声がした。
大きくなる鬼の声に負けぬほどの熱量で、己の本能が叫んだ。
人は愚かで、
それは己も同じで。
けれど、人は、それだけの存在ではないのだと。
信じさせてくれたのは、絲や、その周囲の人々で。
大切な人を危険に晒すわけにはいかぬ。
大切な人
その言葉が浮かび上がった時、鬼が嗤い、けれど佐田彦もまた笑った。
俺は人だ。
神でもなく、鬼でもなく。
誰かを大切に思える――、好きだと思える「人」なのだ。
去ぬのなら、共に黄泉へと堕ちようではないか、鬼よ。
袂へ手をやり、符の束を掴む。
死なばもろとも、だ。
己の胸へ突きつけた符は熱さを増し、身を焦がさんばかりの熱量と化し、痛みに声が漏れる。
己の喉を介して響き渡る、鬼の絶叫。
「佐田彦さまっ!」
耳慣れた女の声が聞こえたのは、その時だった。