THREAD AND RESPONSE
瞼を開くと、暗闇が飛び込んで来た。起き抜けの頭で「まだ夜中だったのかしらん」と考えたのも束の間、すぐに何かがおかしいと違和感を覚えた。というのも私は電気を点けたままにしないと眠れない派で、いつも照明器具の類は全てキラキラに点けたまま眠るのだ。おかげで月々の電気代がかさんで貧乏苦学生の私は四苦八苦しているのだが、そればっかりは仕方がない。
何せ暗闇の中だとおばけが出て来ても気付けないからね。
ここで改めて周囲を見渡してみる。
黒。黒。黒。黒。黒。
一面に広がる黒。
墨汁をそのままぶちまけたかのような黒。
自分の手足すら黒に塗り潰される、この上なく純粋な真っ暗闇。
ここに私が大好きな光が入り込む余地はありそうもない。
私はあまりの恐怖に『いやー』だとか、『きゃー』だとか、感情のおもむくままに叫びそうになったが、そこでふと「これってもしかして誘拐じゃあないの?」という疑念が脳裏をよぎり、続いて「もしここで音を立てたりしたら誘拐犯を刺激しちゃわないかしら?」という懸念を抱き、すんでの所で叫ぶのをやめて、代わりに履いていた靴を脱ぎ、振りかぶって全力投球したら壁に当たってドギャンとド派手な音を立てた。ちなみに私は小学生の頃から草野球チームのピッチャーをしていたので肩には自信があるのだ。
しーん、という静寂が辺りを包み込む。
静けさが逆に怖くてしばらくその場でガクブル震えていたが、どうやら何も起きそうもないと悟った私は意を決して、暗闇の中を移動することにした。
先刻靴を投げた時の感触から、奥行きが広い部屋であることが予想された。
少なくとも半分以上がガラクタで埋め尽くされた四畳半の私の部屋よりは広い。ここが私の部屋ではないことだけは間違いなさそうだ。
そうして「ここに引っ越せたらなー」などと考えながら歩いていると、何かにつまずいた。手にとったところ私をこけさせたのは、さっき投球した私の靴であることが分かった。どうやら壁際に辿り着いたらしい。
私は壁にペタペタと手を当てて、出口を探し求めたが、扉も窓も見つからなかった。その代わりに途中で暗視カメラのような手触りのものを見つけたがそれは念入りに踏みつけて壊しておく。そして部屋の四方を大方調べ尽くし「ああ、やっぱり私は捕らわれの籠の鳥なんだわ」と諦めかけた所で壁際の天井から『糸』が垂れ下がっていることに気付いた。
えいやっ、と糸を引いて見たところ、糸がびっくりしたかのように震えた。私もまた驚いて、思わず強めに糸を引っ張ったら、もうやめてくれと言わんばかりにピンと糸が張られた。
「もしかして向こうにも人がいるの?」
ピン、と糸が蠕動した。
「あなたも一人なの?」
ピン
「じゃああなたもここに連れてこられたの?」
ピン
「それとも、私をここに連れて来た誘拐犯さんだったりするの?」
ピン、ピン
「それは"違う"ということ?」
ピン
どうやら糸が一回引っ張られるのは『YES』、二回引っ張るのは『NO』という意味らしかった。
「あれ、でもどうしてわざわざ糸を引っ張るの? 私の声は聞こえているんでしょ?」
ピン
「ならあなたも声を出せばいいのに、もしかして声を出せないの?」
ピン
どうやら糸の向こう側はこちら側とはまた違った状況のようだった。私は視界がない代わりに声を出せる状態で放置されていたのに、向こうは声を出せない状態で監禁されているらしい。
向こう側の状況を詳しく説明して貰いたいところだが、"YES"か"NO"以外の意思の疎通が出来ない以上、それは難しそうだった。
「そうなると、何を話したらいいか困るわね……」
ピン
「……さっき私が起きた時の靴のアレ、驚かせちゃったかな」
ピン
「ごめんなさい、寝ぼけてて。情けないことしちゃった」
……。
「まあその後転けた方が情けなかったでしょうけど」
ピン。
「あら、あなたって結構毒舌なのね」
ピン。ピン。
どうやら思っていた以上に、糸一つでもコミュニケーションは取れるらしい。
私は何だか不思議な気持ちになった。
「……私ね。ここに来る直前、男の子とお酒を飲んでたの」
ピン。
「もしかして相槌打ってくれてるの?」
ピン。
「ありがと。……さて問題です。その男の子とは私の彼氏でしょうか? それともただの友達だと思う?」
ピン、ピン
「はは、どっちかわかんないや。……正解はただの友達でした。まあ、男女二人きりで飲むなんて恋仲だと思われても仕方がないのだけどね」
ピン
「……うん。でも私はそんな風には思わなかった。ただの気の合う友達くらいに考えてた。でも相手は違ったみたい」
ピン
「そりゃそうだってことかしら? 確かに私ももっと早く感づいていてもよかったのでしょうけど……告白されたのよ」
ピン
「もちろん断ったわ。私は少なくともまだその男の子のことが好きではなかったから」
ピン、ピン
「あなたは気がなくても試しに付き合ってみる派なのかな。でも私は違う。きちんと好きになってからじゃないと付き合えない派なの」
ピン
「でも告白された直後って、好意そのものは嬉しいというか……何といえばいいのかしら、"そういう気分"になってしまうものよね。恋に恋する、に近いのかな」
ピン
「あなたも、なんだ」
ピン
「……ねぇ、つりばし効果って知ってる?」
……ピン
「不思議だよね。顔も名前も知らない。お互いのことがまだ分からない。きちんと話したことすらない。ただこうやって糸を伝って意思の疎通をしているだけなのに……だからこそ、なのかな。私、あなたのこと嫌いじゃないわ」
…………ピン。
「……ああ、やっぱり——」
「——そう仕向けるために、私を誘拐したんだ?」
糸が震えた。
それはまるで隠し事がバレてしまった幼い子供を連想させる振動だった。
……ピン、ピン。
あくまで否定するつもりらしい。
「理由が知りたい?」
ピン
「簡単な話よ。最後の記憶が"あなた"とお酒を飲んでいた記憶なのだから、真っ先に"あなた"を疑うのは当然でしょ。私のお酒に一服盛って、私が酔い潰れた所でここに運ぶ。これが出来るのはあなたしかいないんだから」
……ピン、ピンピンピンピンピンピンッ!
「不服なの?」
ピン!
「それはそうよね。仮に誘拐犯さんが私とお酒を飲んでいた"彼"だったとしても、"彼"と"あなた"が同一人物か否かまでは、本来私には分からないはずだものね」
……ピン。
糸越しに困惑が伝わって来る。
本当に私が確固たる確信を得ているのか、それともただ"カマ"をかけているだけなのか、測りかねているらしい。
「まず不審に思ったのはあなたが『話せない』という点」
……。
「最初はさして不思議に思わなかったわ」
……。
「あなたはガムテープで口を塞がれているのかもしれないし、猿轡のようなものを嵌められているのかもしれない。何にせよ、人の口を塞ぐというのはそう難しくはない」
……。
「誘拐犯が、被害者の口を塞ぐのは自然よね。だって騒がれて助けを呼ばれたら困るもの」
ピンッ。
しばらく沈黙を貫いていた糸が震えた。
彼は意外とひょうきんな所がある。
「でも不自然なのは、そこまでしておきながら、犯人が私の口を塞がなかったこと。そしてあなたに『糸を介して私と意思の疎通をはかる自由』を与えたこと」
……。
「私が助けを呼べる状態で放置した以上、あなたの口を塞ぐ意味はない。私から視界を奪う理由も分からない」
……。
「でもね、"あなた"が"彼"と同一人物だと考えれば全て説明がつくの」
ピ、ピンッ。
また糸が震えた。
これは"YES"や"NO"というより、彼のこぼれ落ちた感情の震えがそのまま糸を伝って伝わってきたといった感じだった
「あなたは声を出せないのではなく出さなかった。何故なら声を出した途端私に"あなた"が"彼"と同一人物であることがバレてしまうから」
……。
「私から視界を奪った理由も分かりやすい。それは私を精神的に不安定にするため」
……。
「さながら地獄に垂らされた蜘蛛の糸ってところかしら。私は物理的にも精神的にもこの細い糸と、その先にいるあなたに縋るしかない」
……。
「さっきはつり橋効果といったけど、どちらかというとストックホルム症候群よね?あなたがやりたかったのは」
ストックホルム症候群。
誘拐事件や監禁事件などの被害者が犯人と長い時間を共にすることにより、犯人に過度の連帯感や好意的な感情を抱く現象。
分かりやすくいえば『洗脳』である
私は危うく洗脳されてあばばる所だったのだ。
ピ、ピン!ピピピン!ピン!
一瞬糸が動揺したかのように震えた後、激しく震えた。
どうやら彼は異議ありと言いたいらしい。
「そうね。今のはあくまで私の想像。ひょっとすると、あなたの口を封じたのも、私の視界を封じたのも、愉快犯の気まぐれかもしれない」
ピ、ピン……。
糸が安心したように、一回震えた。
なんて分かりやすいのだろう。
彼はひょっとすると、思っていた以上にひどく純粋な男の子なのかもしれない。
「でもあなたは一つ、間違いを犯した」
ピ、ピン!?
『な、なんだってー!?』
直訳するとこんな感じだろうか。
もう何もいうまい。
「わたしが『……さっき私が起きた時の靴のアレ、驚かせちゃったかな』と言った時、あなたはすんなりと肯定した」
……ピン?
『え、それの何がまずかったの?』
振動の強弱だけで彼の言いたいことが分かるようになって来た。
それが何だかおかしくて、つい笑いをこぼしてしまう。
「確かに私は起きた直後に靴を壁に向かって投げた。その結果大きな音が出てあなたを驚かせたかもしれない」
ピィ〜ン。ピピン
『あー、確かにあれは驚いたよ。君は何を考えてたんだい?』
「でも『私が起きた直後に』『靴を投げて』大きな音がしたことは、あなたには分からないはず。だってこの部屋は真っ暗で何も見えないし、そもそもあなたは隣の部屋にいるのだから。なら『さっき私が起きた時の靴のアレ』じゃ、本当ならあなたには意味が伝わらないはずなのよ」
ピッ——!
『しまっ——!』
「私が起きた直後に靴を投げたことを知り得る唯一の人物。それはこの部屋に暗視カメラを設置した——犯人のあなたよ」
しんっ——
静寂が、場を支配した。
何も聞こえない。
何も見えない。
さっきまで糸越しに感じていた彼の存在を感じ取れない。
目の前にあるのは暗闇。
確かなのは掌に握りしめた糸の感触だけ。
それなのに。
糸は、何の反応も示さない。
………………。
…………。
……。
ピン
「……そう。認めるんだ、全部」
ピン。
「そうね。パッと目につく範囲の携帯通信機器なんかも取り上げられてるし。あなたから見れば、私は絶対絶命ってわけね」
ピン。
「……もしかして、これから私に酷いことをするつもり?」
ピン、と糸が引っ張られた。
それは、死刑宣告に等しい。
私は息を大きく吸って、"彼"がいるであろう天井を見上げ——思い切り地団駄を踏んだ。
パァン、と乾いた音が轟いた。
それは銃声にとてもよく似ていた。
続いて何かが倒れた音がした。
人が脱力して床に倒れた伏したら、丁度このくらいの音がするだろう。
「そう、でも残念でした」
『大丈夫ですかお嬢』『助けに来ましたぜお嬢』『一人暮らしなんかするからですよお嬢』
天井付近から聞き慣れた声が聞こえてくる。
私は少しばかり安堵して、暗闇の中で頬を緩めた。
彼らは私の救援信号を聞きつけ駆けつけ——そして私の突撃の合図でもって彼を狙撃した私の部下である。
正確に言えば私の部下ではなく、実家にいる私のパパの部下なのだが、語ると長くなる上にここでは関係ないので割愛。
そしていつの間に救援信号なんて発していたのかといえば、それは私がこの部屋で起きるのとほぼ同時。靴を投げた瞬間である。
私の靴の中には、緊急用の発信機が入っていて、それは一定以上の衝撃を与えることで作動し、実家の部下へと位置情報を発信する。
その状態で更にもう一度強い衝撃が加えると、『突撃』の合図になるのだ。
天井が開いた。
部下に引きあげてもらい上にあがると、見知った男の子が、頭から血を流して倒れていた。
彼の薬指には、血の色と同じ真っ赤な赤い糸が巻かれている。
……なるほど、暗闇で糸の色なんて見えなかったけど、中々に洒落がきいている。
先ほどのやりとりでわかったことだが、彼は可愛げがあって素直だ。
正直言って、嫌いじゃない。
——なんだ、これなら試しに付き合ってみても良かったかもしれない。
なんて、愉快なことを考えてしまう。
どうやら私をその気にさせるという彼の目論見は、見事成功したらしい。
だから私は、部屋を出る前に、すでに冷たくなった彼に向かってお別れの言葉を告げることにした。
「そもそも何故私が"暗視カメラ"なんて物騒なものの手触りを知っていたのか、あなたはもっと気にするべきだったのよ。そうすれば——」
——違う結果になっていたとは思わない?
そう言って、赤い糸をピンと引っ張ってみる。
糸はもう何の反応も示すことなく、するりと彼の指から抜け落ちた。